Phase 05 悪魔の誘惑
静寂が、辺りを包んでいる。
空を見上げると、黒い雲が満月を包み込もうとしていた。――悪いことの前触れじゃなければいいが。
善太郎は、とうの昔に中川智也の家へと入っていたようだ。玄関に彼の革靴が置いてある。
この状況下で向かうべき場所。それは言うまでもなく仏間である。
私は、和室――仏間――がある方へと向かう。
中川智也の家自体はシンプルな構造というか、90年代に建てられたよくある住宅だったので、仏間の場所は分かりやすかった。
廊下から、障子のある部屋が見える。そこが仏間なのだろう。
障子を引いて、仏間の中へと入っていく。確かに、仏壇には「中川智也だったモノ」の骨壺があった。
そして、仏壇の前に――儚げな女性が座っていた。女性は喪服を着ていて、中川智也の位牌に向かって手を合わせている。
私は、儚げな女性に向かって声をかけた。
「あなたが、長森知子に『水浦阿佐美殺し』を持ちかけたのね。――黒江弥沙さん」
黒江弥沙は、私の声に反応したのか――こちらを向いた。
「――どうして、それが分かったの?」
彼女の質問に、私は淡々と答えていく。
「簡単よ。あなたは俗に言う『同性愛者』で、SNSで知り合った水浦阿佐美に対して性的な感情を抱いていた。でも、そもそもの話――『女性が女性に対して性的な感情を抱くこと』は稀有な性的嗜好でしかない。それに、水浦阿佐美自体は普通の性的嗜好――つまり、男性に対して性的な感情を抱く人間だった。それで、嫉妬心に狂ったあなたは――長森知子を利用して水浦阿佐美の殺害を計画した」
「その通りよ。私は同性愛者で、子供の頃からいじめられていた。そんな中、私はスマホを買ってもらってすぐに――SNSを介して水浦阿佐美という友人と知り合った。付き合ううちに、ホテルで彼女と肌を合わせたこともあった。でも、水浦阿佐美は――普通の性的嗜好を持っていた。つまり、男性が好きだった。そのことが悲しくなった私は、水浦阿佐美を殺そうと思ったけど……私が直接殺害したら事態がややこしいことになる。だから、大学の先輩だった長森知子を利用して――彼女を殺害した。それの何が悪いの?」
「あなたがやっていることは――立派な犯罪よ。とはいえ、彼女の恋人まで殺害するのは間違っていると思う。いくらあなたが同性愛者だからといっても、中川智也からしてみればあなたは『赤の他人』でしかない。あなたに殺害されて、中川智也は『とばっちり』を喰らったことになる。多分、どこかで化けて出てくるでしょうね」
私がそう言ったところで、仏壇の灯りが明滅を繰り返し始めた。――やはり、「中川智也の祟り」だろうか。
明滅を繰り返す灯りを見ながら、私は話す。
「――私の友人が言っていたけど、『黒江弥沙』という名前って、もしかして『黒ミサ』から取られているんじゃないのかなって思って。だって、あなたがやっている行為はキリスト教でいうところの『黒ミサ』そのものじゃないの」
黒江弥沙は――私の考えに対して答えていく。
「そうよ。私は敬虔なキリスト教の家で生まれた。でも、心の中で『何かが違う』と感じていた。そして、その違和感が確信へと変わったのは中学生の頃だった。ある日の夜、私は母親がベッドの上で馬乗りになって蠢いているのを見た。その光景を見て、私は『新しい命を作っている』と思っていたけど、よく見ると――馬乗りになっていたのは父親なんかじゃなくて、『私と同じ性別の人間』だった」
「――つまり、黒江弥沙の母親も同性愛者だったと」
「その通りよ。母親は同性愛者という事実を周りに隠していて、結婚相手も男性を選んでいた。でも、やっぱり女性に対する性欲は抑えられなかった。だから、母親は同性愛者専門の性的サービスを使って夜な夜な家に女性を連れ込んで――性行為に耽けていた。それで、私は『そういう汚れた血の中で産まれた』と確信したのよ」
生々しい話をする中で、私は黒江弥沙に対してある疑問をぶつけた。
「今更そんなことを聞くのも野暮かもしれないけど、もしかして――あなた、長森知子と『肌を合わせたことがある』のでは?」
彼女は、私の質問に答えていく。
「そうよ。大学で長森先輩と知り合ってから、毎晩ホテルで肌を合わせていた。裸になって、花弁を擦り合わせて、舌を舐め合う。――気持ちよかったわ」
私は、常に男っぽい格好を好んでいて、華奢な見た目に合わせて髪もショートに切り揃えている。故に周りから男性に間違えられることがあるが、心の中では「私の恋愛対象は男性」ということを自覚している。でも、同じ女性として――黒江弥沙という女性は狂っている!
***
狂気が人を突き動かすとはよく言うが、気付いたときには私は黒江弥沙に服を脱がされ、あられもない姿になっていた。
「――ふふふ。あなた、いい躰を持っているね。その低い声、華奢な躰、白い肌。自傷行為の傷痕が気になるけど、むしろその傷痕は『あなた』という存在を形作っているわね。そういえば、名前を聞いていなかったわね。教えてちょうだい」
躰をまさぐられる中で、私は黒江弥沙に対して自分の名前を名乗った。
「私は――広瀬彩香よ。一応、小説家として活動しているわ」
「ふーん、中々面白い職業に就いているわね」
そう言って、黒江弥沙は私の乳房と股間に触れた。敏感な部分を触られた以上、私は喘ぎ声のようなモノを出すしかない。
「――っ」
「その声、色っぽいわね。――もっと色っぽくしてあげるわ」
このまま、私は黒江弥沙という悪魔に心と躰を犯されてしまうのか。こんな姿、善太郎に見られたら――恥ずかしいよ。
そんな事を思っているときだった。――障子の引く音がした。
「――オウ、お楽しみ中のところ申し訳ないが、宴はそこまでだぜ?」
私はとっさの判断で――椅子の横に積まれていた赤い毛布を身にまとった。
その姿を見て、善太郎は――笑った。
「ハハハ、お前――生ハムメロンみてぇだな!」
生ハムメロン? ああ、毛布の色が生ハムなのね。――いや、そんなことを考えている場合じゃない。
私は善太郎と話をする。
「明智くん、どこ行ってたの? あなたの革靴が置いてあるのは見たけどさ」
「その説明は後だ。お前、『オレが言うべきセリフを全部話した』って顔をしているけど――まさか、黒江弥沙に全部話したのか?」
「とっくの昔に話したわよ。それがどうしたの?」
「――いや、何でもねぇ。ただ、手間が省けただけだ」
「そうなのね。――じゃあ、後は明智くんに託して良いかしら?」
「オウ、任せとけ!」
そう言って、私は会話の主導権を善太郎に譲った。そして、彼が話している間に――私は黒江弥沙に脱がされたモノを着直すことにした。下着とトレーナー、そしてカーゴパンツだけで良かったと思う。
***
監禁現場で菱田沙織のアウディを待っている間、私は善太郎とある話をしていた。
「――ところで、どうして明智くんは『黒江弥沙が黒幕』だって気付いたのよ」
「宿南刑事から手がかりを受け取った次の日に、オレは吹田へと向かっていた。――黒江弥沙に会うためだ。事件の犯人自体は長森知子で間違いないが、犯行時の状況を調べれば調べるほど、どうも違和感がある。アイツ、もしかしたら『自分の手で殺人を犯したくないから長森知子を利用したんじゃねぇか』って思って」
「なるほど。――それで、車とスマホを黒江弥沙に壊された理由は何なの?」
「ああ、単純だぜ? ――オレが黒江弥沙の弱みを握ったからだ。車はGTRだから西宮に着くまで辛うじて持ってくれたが、スマホを壊された以上どうにもなんねぇ。一括払いで良かったと思うぜ」
「黒江弥沙の弱み? 一体何なのよ?」
「ああ、アイツは敬虔なキリスト教信者で――同性愛者だ」
「ちょっと待って。キリスト教信者なのはいいけど――同性愛者? それ、マズくない?」
「確かに、キリスト教という物差しで考えると――マズいぜ? 名目上、キリスト教の教義では『同性愛』を禁じているからな。もっとも、昨今のジェンダー論だとそういうモノも徐々に認められつつあるが。ちなみに、日本における同性愛は『衆道』というカタチで戦国時代から存在していたらしいぜ? 噂によれば、織田信長は自分の部下である森蘭丸を手込めにしていたとか」
「ああ、織田信長の件は聞いたことがあるわ。というか、戦国時代のような乱世においては『異性間による恋愛』の方が珍しいと思ってるわよ? もちろん、乱世が終わって江戸の世になっても――大奥では女性同士による肉体関係が結ばれていたらしいわね」
「その通りだな。だから、オレは『男が男を好きになること』はおかしくないと思っているし、『女が女を好きになること』もおかしくないと思っているぜ? ――もっとも、旧約聖書の時代から『アダムとイヴ』という神話が存在している以上、『恋愛関係を結ぶのは男と女という番』が暗黙の了解になっているけどな」
そう言いながら、善太郎はラークの箱から煙草を取り出し――火を点けた。
煙草を吸いつつ、善太郎は話す。
「仮にだが、オレが彩香と結婚するとなれば――祝ってくれる人間はいるのだろうか?」
私は、その質問に答えようと思ったけど――少し、言葉に詰まってしまった。
「――どうだろうね? 少なくとも、私の身内は祝ってくれると思う。でも、明智くんの身内は祝ってくるのかしら? 当然の話だけど、私には分からないわよ」
「だろうな。――車、来てるぜ?」
ああ、黄色いアウディが見える。――向かわなければ。
***
「――そういう訳だ。お前はキリスト教信者として『あってはならない恋愛感情』を抱いてしまった。故に、水浦阿佐美を性的な対象で見ていても、笑い者にされるだけだ。残念ながら、今のところ日本の法律では同性婚は認められていないからな。潔く負けを認めることだな」
「そうですか。――分かりました、私の負けです」
俯く黒江弥沙に対して、かけられる言葉なんてなかった。けれども、何としても私は彼女に何かを言わなければ。そう思った私は――ある言葉を彼女にかけた。
「今はまだ、同性間による結婚は認められていません。――でも、『パートナーシップ』というカタチでの事実婚は認められています」
「パートナーシップ? それ、詳しく教えて下さい」
「良いですよ? 私の好きな女性3ピースバンドのドラマーは同性愛者を公表していて、先日、交際相手の女性と『パートナーシップ』を結びました。これは女性同士による事実婚と言っても良いでしょう。だから、そんなに『自分が同性愛者であること』に対してネガティブになる必要はないと思います。もっとも――まずは殺人教唆について刑務所で反省することですが」
「殺人教唆ですか。――ああ、そういうことですね」
黒江弥沙が気づいた時には、仏間に宿南刑事が来ていた。
宿南刑事は話す。
「黒江弥沙さん、あなたが長森知子さんに対して行ったことは――『殺人罪の教唆』という立派な犯罪です。その証拠に、あなたはジャック・イン・ザ・ボックスの社内で長森さんとある会話をしていました。――音声をお聴き下さい」
「音声? ――それ、違法捜査じゃないんですか?」
「いや、私は何も関与していません。――何か意見があるのなら、情報提供元である桐野亮介さんに言って下さい」
そう言って、宿南刑事はスマホの音楽プレーヤーの中からあるデータを再生した。
「――黒江さん、これって……立派な犯罪だと思います。私はこのやり方に反対です。そもそも、人を殺すこと自体が立派な犯罪じゃないですか」
「――そうは言うけど、私は水浦阿佐美という人間が許せないの。だって、あれだけ私に対して真摯に向き合ってくれた人に裏切られた気分だもの」
「――確かに、私も中川智也という人間からパワハラを受けて心が壊れましたが……いくら何でもやり過ぎだと思います。潔く諦めた方が賢明です」
「――いいの? パワハラに対する天罰を下す絶好のチャンスだけど」
「――そうですか。……分かりました」
音楽プレーヤーの停止ボタンを押したところで、宿南刑事は黒江弥沙に話した。
「桐野さんの話によれば、中川智也さんはいわゆる『パワハラ上司』だったらしいですね。自分が『ジャック・イン・ザ・ボックスの創業メンバーであること』を良いことに、部下に対してセクハラやパワハラを繰り返していた。そして、パワハラがエスカレートして――長森さんは中川さんから犯された。だから、心神喪失の状態だった長森さんは長森さんで中川さんに対して殺意を抱いていた。中川さんの交際相手である水浦阿佐美さんに対して殺意を抱いていたあなたは、利害関係が一致した長森さんを利用して中川さんを殺害した。長森さんは、自分の家にニトログリセリンがあることを利用して2人を殺害しようと計画したけど、そもそもの話――なぜ『長森さんの家にニトログリセリンがあること』を黒江さんが知っていたのか?」
「――それはオレが説明するぜ?」
そう言って、善太郎は黒江弥沙の秘密を暴いた。
「黒江弥沙、お前は――知りすぎたんだ。確かに、長森知子の家は置き薬の販売会社を営んでいて、薬の研究も行っていた。だが、凶器――毒――を提供してもらうフェーズで、お前は倉庫である箱を見つけてしまった。それはいわゆる『パンドラの箱』で、本来長森家にあってはならないモノだった」
私は――すべてを察した。
「それこそが、ニトログリセリンだったのね」
「オウ、その通りだ。倉庫でニトログリセリンを見つけた黒江弥沙は、それを『毒』として水浦阿佐美と中川智也に飲ませようと目論んだんだ。――ところで、ニトログリセリンが入っていた箱の中に、こんなモノも入っていたらしいな」
善太郎は、白いスーツのポケットから――見覚えのある紫色の石を取り出した。
「そ、それって……」
私はそう言ったけど、善太郎の答えは――言うまでもなかった。
「この石は、アメシストだ。アメシストの主な原産国は南米だが、かつてはこの日本でも鉱脈があったと言われている。鉱脈があった場所は石川県で、地元の住民の間では『加賀紫』なんて呼ばれていた。長森家のルーツは富山の置き薬の家系だが、それは倒幕によって時代が明治に変わってからの話だ。倒幕前の長森家は、加賀国で採掘されたアメシストを加工して販売するという仕事に従事していた。しかし、度重なる採掘によって鉱脈が枯れてしまい、アメシストは採れにくくなった。そして、時代が明治に変わって富山に引っ越した長森家は、薬を売るうちにある化合物の販売権を手に入れた。それこそが――ニトログリセリンだった。ニトログリセリンを使えば、石川県にある鉱脈からもっとアメシストを採掘できるかもしれない。多分、長森知子のジジイである長森磯兵衛はそう考えていたのだろうな。だが、現実は上手くいくはずがねぇ」
「探偵さん、どうして――そう思うの?」
黒江弥沙の質問に対して、善太郎は――碧くて鋭い眼で答えた。
「――答えは単純だ。ニトログリセリンを所持していたことに目を付けた軍部が『破壊兵器の製造』を指示したからだ。長森家がニトログリセリンの販売権を取得した時、ちょうど日露戦争から第一次世界大戦に突入して、戦争の時代になっていた。戦争の時代ということは、宝石は『贅沢品』であり、身につける余裕すらなくなる。もっとも、『宝石を薬として使う』という考えもあったようだが、すべての宝石が薬として使えるとは限らねぇ。その件に関しては、そこにいる小説家が詳しく知っているぜ?」
そこにいる小説家――私のことか。確かに、「柘榴石の殺人」事件の時に「宝石が薬として使われていた」という事実を知り、そして人体実験で利用されていたことも知った。
しかし、それは飽くまでも迷信でしかなく――実際の効果は未知数である。
だからこそ、化学の知識は正しく知るべきだと思うし、正しく恐れる必要もある。――大学で理工学を専攻していたから、尚更そう思うのかもしれない。
そして、善太郎はアメシスト鉱石をスーツのポケットに戻しながら話を結んだ。
「まあ、俗に言う『賢者の石』の正体は水銀という説が有力視されているし、仮にそんなモノを飲んだら人間は一発でオダブツだ。――現実を受け入れるんだな」
黒江弥沙は、俯きながら善太郎の話に答えた。
「――はい、分かりました……」
「それじゃあ、後は宿南刑事に任せた。オレと彩香の仕事はここまでだからな」
善太郎がそう言うと、宿南刑事は返事をした。
「分かっています。長森さんと黒江さんの証言を一致させて、齟齬がなければ正式に刑務所へと送致したいと思っています。――多分、齟齬なんてないと思いますけど」
「オウ、そうだな。――ふぁーあ」
善太郎のあくびで気づいたけど、窓の外はすっかり明るくなっていた。鳥も鳴いている。
「明智くん、今――何時よ?」
腕時計を見た上で、善太郎は私の質問に答えた。
「――ゲッ、午前6時だ」
「午前6時? マジで?」
「マジだ。――オレは寝させてもらうぜ? ムニャムニャ……」
そう言って、善太郎は私の膝に凭れかかって、そのまま眠ってしまった。――いびきがうるさい。
「はぁ……。仕方ないわね」
ヤレヤレを思った私は、善太郎を逆お姫様抱っこした上で菱田沙織のアウディまで連れて行くことにした。
――どうせ、私はバイクで帰るし。