Phase 03 長い1日
――意識が覚醒していく。
――視界がはっきりとしていく。
視界が横向きになっていることから、私は横たわっているようだ。
そのまま横たわっているのもアレなので、私は重い上体を起こした。――床が血に塗れている。
確か、「思考がまとまらない」ということでベッドに入って、厭な夢を見て、そして――衝動的に自傷行為に手を染めてしまった。
自分の行いに対して後悔しつつも、私はフロアクリーナーで床を拭いた。このまま血溜まりを放置していると、恐らく「事件現場」と間違えられてしまう。とはいえ、どうせ私の部屋にやって来るのは善太郎と隣人の小宮仁美ぐらいだ。溝淡社とのやり取りは基本的にビデオチャットを介して行っているし、直接自宅へ来ることはない。
床を拭き終わったところで、スマホを見る。時刻は午後7時を少し回ったところだった。
――そういえば、善太郎や宿南刑事から連絡はあったのだろうか?
私はスマホのメッセージアプリを起動したが、特にこれといったメッセージは入っていなかった。やはり、そんな簡単に事件の手がかりは掴めないのだろう。
事件の手がかりが掴めない以上、私は今そこにあるモノだけで推理をしなければならない。ならば、とりあえず――ご飯でも食べよう。お腹が空いた。
精神的に参っている以上、コンビニに行くのもしんどかったので、冷凍庫から「冷凍弁当」を取り出して電子レンジで温めることにした。タイマーが切れたところで、電子レンジから弁当を取り出した。ちなみに、おかずはチキン南蛮とブロッコリーだった。当然、五穀ご飯も付いているので栄養価はそれなりに高い。
冷凍弁当を食べつつ、私は改めて5人の容疑者について整理していく。
善太郎は「黒江弥沙が怪しい」と言っていたけど、水浦阿佐美が生前最後にアップロードした写真には、長森知子も写っていた。ならば、怪しいのは――この2人だろうか。
宿南刑事の証言といっしょに照らし合わせると、彼女たちはジャック・イン・ザ・ボックスの社員である。
黒江弥沙はデバッガで、長森知子はデザイナーだったな。同じ会社に勤務している以上、仲はそれなりに良いはずである。
他に怪しいといえば、桐野亮介だろうか。彼は池田に住んでいるので、中川智也を殺害しようと思えばすぐに殺害できる。
しかし、彼に対する証拠は不十分だ。ここは、実際にジャック・イン・ザ・ボックスのオフィスへと向かうべきだろうか。オフィスの所在地は大阪ビジネスパークの中でも一等地のビルと言われている「松島電器ツインタワー」だったな。――ってか、ここでも松島電器か。
そもそもの話、ツインタワー自体が松島電器の所有物であり、一時期本社機能はこちらにあった。しかし、業績悪化による事業再編に伴って、平成25年に本社機能を吹田市へ戻したという経緯がある。
就活での縁としては――確か、松島電器の本社機能がツインタワーにあった時にエントリーしたが、やはりお祈りメールのフェーズで蹴落とされている。
志望配属部署はオートモーティブ事業部で、早い話がカーナビのプログラミングを担当する部署である。本来はモバイルコミュニケーション事業部への配属を志望していたが、事業再編でモバイルコミュニケーションは消滅してしまった。――ああ、そういうことか。どうして、そのことに気付けなかったのだろうか。
私は、なんとなく松島電器の社史を調べる。「レッツパッド」という自社製品がある以上、ライバル会社の製品であるダイナブックで松島電器のホームページを見るのは――若干気まずかった。
気まずいと思いつつダイナブックで松島電器の企業サイトを見ていると、確かに松島電器の社史には「平成25年にモバイルコミュニケーション事業部から撤退」とあり、ついでにいえば「デジタルカメラ事業部を縮小」と書かれていた。
それを踏まえた上で、ジャック・イン・ザ・ボックスの社史を見ていく。――やはり、そうか。
社史には「平成25年に松島電器モバイルコミュニケーション事業部の元社員を大量に受け入れる」と書かれていた。
そして、5人の容疑者の中で最年長は――長森知子である。
34歳なら、彼女は松島電器の元社員で間違いない。
となると、後は――直接ジャック・イン・ザ・ボックスのオフィスへと向かうしかないか。
とはいえ、いくらなんでも私のような部外者がノコノコとオフィスへ向かう訳にはいかない。
何か、口実を作らなければ。――そうか、ゲームへのシナリオ提供だ。そうと決まれば、明日、フェイクのシナリオを持ってオフィスへと行こう。
オフィスの所在地は松島電器ツインタワーの最上階――21階――である。
***
翌日。
――私は大阪ビジネスパークの真ん中にいた。
JRの芦屋駅から新快速で尼崎へと向かい、そこから東西線に乗り換えた。
東西線はいわゆる「各駅停車」なので、尼崎から京橋までは30分以上かかってしまう。とはいえ、大阪駅で環状線に乗り換えることを思えば――多少の非効率は厭わない。
京橋駅から連絡通路で大阪ビジネスパークへと向かい、そこから松島電器ツインタワーを目掛けて歩く。連絡通路を降りてしまえばすぐなのだけれど、やはり高層ビルの多さに気圧されそうになる。
高層ビルの多さに気圧されつつ、私は松島電器ツインタワーの麓へと辿り着いた。――空は、相変わらず鉛色の雲に包まれていた。
エレベーターで21階に向かうと、ドアが開いた瞬間に「株式会社ジャック・イン・ザ・ボックス」という看板が目に入った。社名の由来となる「ビックリ箱」を模したロゴが印象的である。
私は、受付で「小説家の卯月絢華です」と名乗った。当然、用件は「ゲームシナリオの提供」――ということにした。
受付係は、私の顔を見てビックリしていた。曰く「芦屋在住とは聞いていたけど、まさか本当に来社されるなんて夢のようです」とのことだった。ということは、ミステリ系のゲームに対する意欲があるのか。
受付係に案内されて、私は応接室へと向かった。
応接室といえども、やはりゲーム開発会社だけあってデスクの上には普通にタブレットとノートパソコンが置かれていた。――ノートパソコンのラベルには「桐野亮介」と書かれている。恐らく、彼が私の担当者なのだろう。
やがて、桐野亮介と思しき人物が応接室へと入ってきた。彼は気さくそうな男性であり、センター分けの髪型が妙に印象的だった。
伝説的なハードロックバンドである「メタリカ」のロゴが入った黒いトレーナーを着ていることからも、ジャック・イン・ザ・ボックスという会社が割と自由な社風であることは確かである。
桐野亮介は話す。
「いやぁ、本物の卯月先生に会えるなんて光栄ですよ。ボク、『寶井灰斗シリーズ』のファンで、いつか『卯月先生からシナリオ提供してもらいたい』と思っていたんですよ」
「そうですか。――これがシナリオのプロットです」
そう言って、私はフェイクとして作ったゲームシナリオのプロットを彼に見せた。フェイクとはいえ、それなりに作り込まないとやはり怪しまれてしまう。だから、私は『寶井灰斗シリーズ』の没プロットをそのままゲームシナリオとして昇華することにした。
没プロットは「寶井灰斗がイギリスで『切り裂きジャックの再来』と言われる連続猟奇殺人事件に巻き込まれてしまい、現地の人々からの協力を経て切り裂きジャックを追い詰める」というモノである。当然、私はイギリスに行ったことがないし、ロケハン費用も馬鹿にならないので――このプロットは即座に没となった。とはいえ、ガチャで「寶井灰斗に協力する現地の人々」を実装すればそれなりのゲームに仕上がりそうな気がした。ちなみに、このプロットは昨晩――約2時間で仕上げた。
約10ページという短いプロットを読み終わったのか、桐野亮介は大きく頷いた。
「――良いですね、コレ。スマホゲームとしては珍しく『明確な終わり』が見えていますし、ボクは好きですよ?」
「そう言ってもらえるなんて、光栄です」
そして、私は――例の殺人事件の話へとシフトチェンジさせた。
「ところで、別件というか――オフレコで申し訳ないんですけど、桐野さんにとって中川智也さんはどういう存在だったんでしょうか?」
私の質問に対して、桐野亮介は俯きつつ答えた。
「中川先輩は、プログラマとしてボクにとって憧れの存在でした。もちろん、大手広告代理店である電報堂の女性社員と付き合っていることも知っていました。――でも、2人とも死んでしまった。当然、ボクは『中川智也殺し』に加担していなければ、中川先輩の恋人を殺めることもしていません。それは事実です」
「――分かりました、ありがとうございます」
やはり、桐野亮介はシロか。となると、怪しいのは――黒江弥沙と長森知子の2人だが、どこかで接触できないのか。
そう思った私は、ジャック・イン・ザ・ボックスに来社した目的を――桐野亮介だけに打ち明けた。多分、彼なら信頼できるだろう。
「実は、『シナリオ提供のために来社した』というのは嘘で、本当は――例の殺人事件の容疑者がこの会社にいると踏んで来社したんです」
目的を打ち明けたところで、彼は納得していた。
「そうでしたか。――でも、何のためにこんなことを?」
「私の友人に『明智善太郎』という探偵がいるんです。それで、探偵の助手として中川智也を殺害した犯人を追っている。――そんなところです」
私が「明智善太郎」の名を言うと、桐野亮介は途端に目を輝かせた。
「明智善太郎って、あの明智善太郎ですよね!? 一流小説家となると、そういう探偵ともコネクションを持っているんですね!」
「そうは言いますけど――ただ単に、大学のミステリ研究会で一緒だっただけで、別に特別なコネクションを持っている訳じゃないんですけど」
「なるほど。――どこの大学の出なんでしょうか?」
「私も明智さんも、京都の立志舘大学ですが……」
「立志舘大学ですか。――実は、ボクも立志舘大学出身なんです。ちなみに、平成29年度卒です」
「私は平成26年度卒ですから、3歳下ですね。もしかして、ミステリ研究会に所属したこと――ありますか?」
「はい、あります。――でも、卯月先生が『就活に専念する』としてミステリ研究会を勇退した直後だったので、直接卯月先生と面識があった訳ではないんですけど……」
「平成29年度卒だったら――桐野さんは平成25年に入学したという計算になりますよね。当然、私は就活に専念していたのでミステリ研究会どころじゃなかったんですけど」
確かに、あの頃の私は――就活でいっぱいいっぱいだった。
度重なるお祈りメールで心が折れて、その度に自傷行為に手を染める。そういう悪循環を繰り返していた。
どうせお祈りメールをもらうぐらいなら、いっそのこと――アマチュアの小説家になってしまおう。そう思ったのは確か平成26年の8月頃だった。
小説家として活動を始めた時には既にミステリ研究会を勇退した後だったので、そこを経由せずに小説を書いていた。
目指す分厚さは溝淡社ノベルスにおける京極夏彦クラスだったが、やはり私にはそれだけの文才がない。せいぜいノベルス換算で200ページ弱が限界だった。――これじゃあ、後輩に見せる顔がない。
とはいえ、今そこにいる桐野亮介のように、私に憧れを抱く後輩は多数いるらしい。多分、私が紡ぎ出す退廃的な文章に惹かれるのだろう。
後輩――桐野亮介は話す。
「でも、同人誌として発刊された処女作、ボクは好きでしたよ? タイトルは確か『電脳世界の殺人』だったかな」
「よく覚えていますね。――私、処女作のことなんてすっかり忘れていました」
桐野亮介が言う通り、確かに私の処女作は『電脳世界の殺人』というタイトルである。
執筆当時、映画館で見た電脳世界が舞台のハリウッド大作に影響されて、「電脳世界の発達によって荒廃した現実世界で殺人が起こったらどうなるのだろうか?」というコンセプトで執筆した覚えがある。
当初は溝淡社の新人賞へ原稿を送ろうと思っていたが、「いくら尊敬する京極夏彦を輩出した新人賞といえども、そんなウマい話は信じない」ということで同人誌としての発刊に切り替えた。――結果的に『電脳世界の殺人』は溝淡社文芸第三出版事業部の目に留まり、商業小説として発売される運びとなった。
しかし、私の書きたかったモノは――『電脳世界の殺人』のようなSFの世界ではなく、江戸川乱歩や京極夏彦の小説に代表されるような怪奇小説の世界である。
だから、溝淡社ノベルス向けに「寶井灰斗」というキャラクターを創り上げた。ただ、それだけの話だ。
溝淡社ノベルスで発刊された寶井灰斗シリーズ第1作『幽霊館殺人事件』は、それなりに売れた。軟派なミステリが求められる時代の中で、敢えて真っ向から新本格にチャレンジしていったのが功を奏したのだろう。
そして、私の陰キャな性格をトレースした「寶井灰斗」という探偵は、たちまち人気キャラとなった。――まあ、結局のところ島田荘司が生み出した偉大なヒーロー・御手洗潔の換骨奪胎でしかないのだけれど。
その後、第2作である『殺人オーケストラ』はまだ売れ行きが良かったが、第3作である『アイヌの黄金秘宝』以降は売れ行きがガクッと落ちてしまった。私自身が溝淡社ノベルスでの発刊に拘泥していたのもあるけど、急激な売れ行きの低下は心が折れそうだった。
結局、第4作の『異端な星』を最後に溝淡社ノベルスでの発刊を終了。第5作である『学生魔女裁判』と第6作である『徐福伝説殺人事件』は溝淡社ライト文庫から発刊されることになった。
当然、溝淡社ライト文庫に移籍したからといって売れ行きが回復するとは限らない。むしろ、溝淡社ライト文庫自体が「ライト文芸レーベル」という括りの中にあるので、最悪の場合――ノベルスよりも売れないのだ。故に、私は自分のことを「溝淡社文芸第三出版事業部のお荷物」だと思っている。
自分のことをオワコンだと思っている以上、本来なら『学生魔女裁判』を最後に寶井灰斗シリーズの看板を降ろそうと思った。――それが、今から3年前のことだった。
だから、私は『学生魔女裁判』の最後で、寶井灰斗という存在を――殺した。
厳密に言えば殺した訳じゃないのだけれど、物語の最後で彼はヒロインや刑事の前から姿を消した。要するに、シャーロック・ホームズにおける「ライヘンバッハの滝」状態だった。
しかし、この手で寶井灰斗を「殺した」ことによって――数少ない私のファンによるネット上での考察合戦が加熱してしまった。
考察の大半は「生存説」が多かったが、中には「宇宙に行った」とか「マルチバースに巻き込まれた」なんてモノもあった。――アメコミじゃないんだから。
仕方がないので、私は先日発刊された3年ぶりの新作『徐福伝説殺人事件』の冒頭で、寶井灰斗行方不明の真相を「ロンドンへ探偵修行に行っていた」ということにした。
この件に関してネット上での反応は概ね好評だった。――というか、むしろ「寶井くんらしい」という意見が大多数を占めていた。
私の心に深い傷を負わせた柘榴石の事件に引っ張られつつ原稿を書き、溝淡社にゲラを提出したのが事件解決から1週間が経った後である。
そんな中で発刊された『徐福伝説殺人事件』は、蓮田大介の話によるとかなりの売れ行きらしい。
彼曰く「神戸で発生した連続猟奇殺人事件の解決に探偵の明智善太郎とその恋人が関わっていて、善太郎の恋人は卯月絢華という小説家である」という風説のお陰で売れているとの話だとか。――正直言って、不本意だ。
まあ、おかげさまで私の過去の作品まで再評価されているし、長らく文庫化されていなかった『アイヌの黄金秘宝』と『異端な星』は同時に溝淡社文庫で発売されることになった。発売時期は令和7年1月中旬予定で、背表紙の色は「どうせ文庫で出すなら京極夏彦や森博嗣と同じ色にしたい」ということで灰色を選んだ。――あの世代の溝淡社ノベルスに殴られて育ったから当たり前だろう。
私のそういう事情を踏まえたのか、桐野亮介は話す。
「こう見えて、ボクは同人誌として発刊された『電脳世界の殺人』からずっと卯月先生のことを応援していましたからね」
「それは結構。――私の小説を応援しているなんて、相当なモノ好きなんですね」
「そんな、謙遜しなくてもいいじゃないですか。ボクは1人のファンとして、卯月絢華という小説家が好きです。それは今でも変わりません」
「そうですか。――ああ、話を元に戻しましょう」
私は、脱線していた話を元に戻した。
「それで、桐野さんは立志舘大学を卒業してジャック・イン・ザ・ボックスに入社したとのことですが、この4人の中で――同命社大学を卒業した社員は分かりますでしょうか?」
質問に対して、桐野亮介は相槌を打ちつつ答えていく。
「ああ、分かりますよ。黒江弥沙と長森知子は同命社大学のOGです。ちなみに、捨松勇は関阪大学からの入社組で、高畑草太は東京の赤川学院大学から地元に戻って入社したという異例の経緯を持っています」
赤川学院大学か。――キリスト教系大学の中でも「東の赤川学院、西の立志舘」として双璧を成す難関大学だったな。確か、陸上部がかなりの強豪で、今年の正月の箱根駅伝では「4年連続優勝」という快挙を成し遂げていた記憶がある。
一応、私が卒業した立志舘大学も駅伝の強豪として知られているのだが――やはり関東の大学には勝てない。出雲や伊勢路でちゃっかり入賞したところで、箱根への出場権は得られないのだ。箱根自体が所詮関東ローカルの大会でしかないで仕方がないのだけれど。
――そういえば、私の出身中学校である豊岡第一中学校から地元の進学校を経て赤川学院大学へと進学した友人がいたな。
名前は「鎌田美詠子」で、私から見れば同業者である。
彼女は溝淡社の中でも精鋭作家が集う部署――文芸第二出版事業部でコンスタントにヒット作を連発していて、少し前に江戸川乱歩賞も受賞した。どうせ私はその域に達しないと思いつつも、文芸第三出版事業部のお荷物作家として彼女を祝福していた記憶がある。
鎌田美詠子のことを思い出していると――スマホが短く鳴った。一応、これでも「打ち合わせ中」ということになっているんだけど。
メッセージの主は、件の鎌田美詠子だった。
――卯月先生……じゃなかった。
――彩香ちゃん、沙織ちゃんから「中川智也殺人事件」のことは聞かせてもらった。
――それで、中川智也って「水浦阿佐美」という女性を殺害した容疑で指名手配されてたんだよね。
――水浦阿佐美って……大学で私と同期だったんだけど。もちろん、専攻学部も同じよ。
――専攻学部は「ビジネス学部」で、要するに商業学部みたいなモノだったわ。一応、ご参考までに。
――そういえば、同じ「兵庫県出身」ということで、大学を卒業してからも彼女とはスマホで連絡を取り合ってたんだけど、数日前から彼女の様子がおかしかった記憶があるわ。多分、電報堂というブラック企業に勤めてるからメンタルを崩しちゃったんだと思う。
――曰く「私の心の頼りは智也くんと知子ちゃんしかいない」だとか。どういうことなのかな?
鎌田美詠子、でかした。この事件の犯人は――言うまでもなく長森知子で間違いない。
でも、水浦阿佐美が私と同世代――32歳だとして、長森知子は34歳、つまり2歳上である。どこで面識を持ったのだろうか?
私のスマホのメッセージを覗き見たのか、桐野亮介が声をかけてきた。
「あっ、そういえば――長森さんって、今住んでいる場所自体は尼崎ですけど、出身地は西宮って聞きました」
「そうなんですか? ――それで、西宮のどの辺りなんでしょうか」
「西宮の中でも、夙川周辺と聞きましたが……」
「――分かりました。それじゃあ、私はこれで失礼します」
「は、はい……」
そう言って、私はジャック・イン・ザ・ボックスのオフィスを後にした。
帰りの電車の中で考えていたけど、桐野亮介の証言と鎌田美詠子の証言を照らし合わせると、水浦阿佐美と長森知子は、小学校と中学校が同じのはずだ。ならば、行くべき場所は――やはり、夙川だろうか。
東西線で京橋から尼崎へと抜けて、新快速に乗り換える。新快速は西宮に停まらないので、一気に芦屋まで戻ることになる。どうせアポなしで西宮にある長森知子の実家へ向かっても、門前払いを食らうだけだ。――ここは、態勢を立て直そう。
***
ジャック・イン・ザ・ボックスで随分と長話をしたのか、アパートに戻ったフェーズでスマホを見ると時刻は午後6時になろうとしていた。――なんか、色々と申し訳ない。
相変わらず善太郎や宿南刑事からは連絡が来ないし、余程捜査が難航しているのだろうか。そうなると、自分の推理だけが頼りである。そう思った私は、とりあえずダイナブックの電源を入れた。
通知を見ると、浅井刑事からメールが来ている。スマホじゃなくてダイナブックに送ってくるってことは、相当な用事なのだろう。
私は、浅井刑事から送られてきたメールを読むことにした。
――広瀬さん、お疲れ様です。
――あれから水浦阿佐美の自宅を色々と調べていたんですけど、調べれば調べるほど妙な違和感を覚えるんです。
――一応、写真を何枚か添付しましたが、もしかしたら今回の事件に関する手がかりになるかもしれません。
――このメールの件、明智さんや大阪府警の宿南刑事にもよろしくお伝え下さい。
なるほど。添付されていた写真を見ると、部屋にあった彼女の私物が多数撮影されていた。やはり、高給取りの大企業に勤めているだけあって、その私物の大半は――高価なモノである。
――これは、何だ?
私は、水浦阿佐美の私物の中であるモノに目を付けた。
目を付けたモノは、事件現場に置かれていた紫色の石――アメシスト――が使われている小さな指輪だった。多分、そんなに大きな宝石ではなかったと思う。彼女とアメシストの因果関係はよく分からないけど、恐らく宝石の中でも好んでいたのだろう。
しかし、私が気になったのは、アメシスト自体ではなく――指輪に彫られていたメッセージだった。
浅井刑事が撮影した指輪の写真を拡大する。
限界まで拡大することによって、彫られていたメッセージは読めるようになった。
指輪には、英語で「この指輪が、私の愛娘を守ってくれますように」と彫られていた。――水浦阿佐美の両親からプレゼントされたモノなのか。もしかしたら、水浦家という存在自体に何かがあるかもしれない。
そうと決まれば、直接水浦家へと向かうべきか。
浅井刑事のメールには「彼女の実家は西宮の苦楽園にある」と書いてあった。――確かに、それっぽい感じはしていた。
***
普通に考えて、芦屋から西宮の一番端――苦楽園は阪急に乗るよりもバイクで行った方が早い。アパートから水浦阿佐美の実家までは、多分10分もかからなかったと思う。
水浦家は、洋風の住宅が並ぶ苦楽園周辺では珍しく、和風の住宅だった。とはいえ、「和風に作ってある」というだけで、築年数自体は約15年といったところだった。
インターホンのボタンを押すと、水浦阿佐美の父親と思しき人物が声をかけてきた。
「――どなた様でしょうか? 宗教の勧誘ならお断りしていますが……」
そんな訳はないだろう。私は話す。
「いや、私はそんな者ではなく、ただの小説家です」
「そうでしたか。――お名前だけ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「えっと……ペンネームは卯月絢華、本名は広瀬彩香と言います」
私がそう言ったところで、向こうは納得してくれたらしい。
「卯月絢華ですか――ああ、名前は存じております。先日も、神戸で発生した連続殺人事件を解決に導いたとの噂を聞きました。もしかして、私の娘を殺害した犯人が分かったのでしょうか?」
「流石にその段階には至っていませんが、なんとなく察しはついております。――中に入らせてもらってもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ。――客間へ案内いたしますので、少しお待ち下さい」
それから、引き戸が開いて――水浦阿佐美の父親と思しき人が現れた。
「卯月先生、わざわざすみません。私が、水浦阿佐美の父親で、名前は水浦慎一と言います。まずは客間に案内しないといけませんね」
水浦慎一と名乗った男性は、声色からも分かる通り優しそうな見た目をしていた。多分、水浦阿佐美という愛娘を相当かわいがっていたのだろう。
そして、客間の座布団へと座るなり、水浦慎一の妻――水浦阿佐美の母親――が温かいお茶を持ってきてくれた。
座布団に座ったところで、母親は話す。
「あなたが噂の卯月先生ですか。神戸で発生した名家連続殺人事件を解決したという伝聞はこちらにも伝わっておりますが、まさか本物の推理作家だとは思ってもいませんでした。――ああ、すみません。私は慎一の妻、水浦有希子と言います。当たり前の話ですが、阿佐美の母親に当たります」
水浦有希子と名乗った女性は、どことなく水浦阿佐美に似ているような気がした。多分、彼女は母親の血を濃く遺伝したのだろう。――もっとも、私は「水浦阿佐美だったモノ」しかこの目で彼女を見ていないのだけれど。
一通り自分のことを2人に説明したところで、水浦慎一は水浦家について詳しく話してくれた。
「水浦家は、元々杜氏の家系でした。ほら、西宮にある『水浦酒造』という酒造メーカーはご存知ですよね?」
「ああ、知っています。西宮神社の近くに工場がある酒造メーカーですよね。十日戎になると樽酒が奉納されているのを見ます」
「それで、水浦酒造では日本酒の他に果実酒や蒸留酒の製造も行っているんです。流石に、蒸留酒は西宮の地理だと製造が不可能なので、蒸留所は朝来と氷上の2箇所にあるんですけど」
「なるほど。――ああ、そういえば私の母親が水浦酒造の蒸留酒を好んで飲んでいました。名前は『水浦〇〇年』とかそんな感じの名前だったと思います」
「そうですか。ありがとうございます。――本来なら、娘が私の仕事を継ぐべきだったんでしょうけど、やはり女性の杜氏はまだまだ偏見があるので……」
「だから、阿佐美さんは水浦酒造の杜氏にならず、電報堂へ就職したと」
「その通りです。結果的に娘は電報堂でもやり手のデザイナーになっていましたので、いつかは弊社の広告やホームページを手掛けてもらうつもりだったんですが……残念です」
「まあ、そうなりますよね。――そうだ、この指輪に関して見覚えはありませんでしょうか?」
そう言って、私は件の指輪の写真を見せた。写真を見せると、水浦慎一は頷いた。
「――はい、それは娘が成人した時にプレゼントした指輪ですね。娘は2月生まれなので、アメシストの指輪にしたのですが……アメシストを選んだのには、もう一つ理由があるんです」
「もう一つの理由?」
「ギリシャ神話の神、バッカスの逸話です。ほら、バッカスが石にされた恋人に対して酒をかけたら美しい宝石になったというアレですよ」
そうか、そこまで見据えた上で――アメシストだったのか。私はある考えを水浦慎一に話した。
「つまり――阿佐美さんは『アメシストの化身』であると言いたいのでしょうか」
「そうです。娘はアメシストの化身――いや、バッカスの恋人の生まれ変わりということです。それは、酒造メーカーとして当然の考えだと思います」
「――分かりました。ところで、阿佐美さんに『中川智也』という交際相手がいたことはご存知でしょうか?」
私の質問に対して答えを返したのは、水浦有希子の方だった。
「はい、知っています。でも、夫――慎一さんは阿佐美と智也さんの付き合いに対してあまり良い顔を見せていなかったので、阿佐美は私のスマホにだけ『智也くんと会った』と伝えていました。もっとも、智也さんも殺害されてしまった今は夫にも智也さんのことは伝えざるを得ない状況ですが……」
となると、水浦家の人間はシロか。――もう少し掘り下げよう。
「質問を変えます。――阿佐美さんの友人関係はどうなっていたんでしょうか?」
友人関係を説明してくれたのは、やはり水浦有希子だった。
「友人関係は良好でしたよ? 中学校と高校では美術部でしたが、特に長森知子という高校の先輩を尊敬していました。阿佐美の話によると、彼女――大阪のゲーム開発会社で働いているらしいですね」
「そうです。『ジャック・イン・ザ・ボックス』というゲーム開発会社でデザイナーとして働いています。そこまでは私も調べ上げたんですけど」
長森知子の件を話したところで、水浦有希子は私にあることを伝えてきた。
「そういえば、卯月先生が来る少し前に、明智善太郎という探偵がウチにやってきたんですけど、『彩香に伝えてほしい』と言って伝言を残していました」
善太郎からの――伝言? 一体、何なんだ?
「その伝言、詳しく教えてもらえないでしょうか?」
伝言は、メモ書きで残されていたらしい。
「良いですよ? ――『恐らく、彩香も真相を突き止めてこちらへやって来ると踏んで伝言を残すが、今すぐ長森知子の実家へ来てくれ。実家がある場所は甲陽園で、かなりデカい家だからすぐに分かるだろう』とのことでした」
「――分かりました。私、長森さんの家へと行ってきます」
「それにしても、普通なら卯月先生のスマホにメッセージを残すべきなのに、どういう訳か――明智さんは『スマホが壊れた』と言ってきたんです。どういうことなんでしょうか?」
「それは――分からないです。でも、事件を追ううちに、明智くんが何らかのトラブルに巻き込まれてしまったのは確かでしょう。だから、私じゃないとこの事件は解決できないと思う」
玄関へと戻ったところで、水浦慎一は話す。
「この事件が解決へと向かっていることは確かでしょう。でも、犯人は恐らく一筋縄ではいかない人物だと思います。私にできることといえば、『卯月先生と明智さんが生きてこちらに戻って来ること』を祈るだけです」
「そうですよね。――私、きちんと生きて戻ってきますから」
そう言って、私は水浦家から踵を返した。
そして、バイクに跨り――甲陽園へと向かった。スマホの時計を見ると、時刻は午後9時を少し過ぎた頃合いだった。――厭な予感がする。
当然だけど、午後9時となると、苦楽園から甲陽園へと向かう坂道は私のバイクしか走っていない。愛車である金崎重工のジライヤは蛍光系のライムグリーンが特徴なので、夜道だと余計と目立ってしまう。そんなことを思いながら坂道を登り切ると、善太郎の愛車――赤い日産GTR――が見えた。
日産GTRが停まっている場所。そこは――長森知子の実家だった。表札には「長森」とだけ書かれている。車は格闘ゲームのボーナスステージのようにボコボコにされていて、善太郎の身に何かがあったことは明確である。
悪い意味で高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせつつ、私はドアホンのボタンを押す。――誰も出ない。
よく見ると、門は開いている。勝手に入っていいのか。夜だというのに、照明は点いていない。
スマホのライトを頼りに家の中へと入ったが、やはり心細い。善太郎はどこにいるのだろうか?
家の中を探索するうちに、大きなドアが見えた。――ここに、善太郎がいるのか。
私はドアノブに手をかけて、そのまま回そうとした。
――バチッ!
何か、痺れるような感覚を覚えた。――これは、スタンガンか!
「――馬鹿ね。私を追い詰めたところで、何になるっていうのよ?」
女性の高圧的な声がするけど、スタンガンを当てられてしまったことで意識が遠のいていく。
「まあ、良いでしょう。これであなたは私のモノになる。私が支配してあげる」
どうやら、私は――犯人に服従されるらしい。そんなこと、あってたまるか!
遠のく意識の中で、私は歯を食いしばっていたが、そこで私の記憶は――途切れた。