Phase 02 衝動
――朝日が眩しい。
私は、どうやらダイナブックの電源をシャットダウンしてそのまま寝てしまったらしい。スマホの時計を見ると、午前7時30分になろうとしていた。
スマホには、色々なアプリの通知が来ていたが、メッセージアプリに関する通知は来ていない。多分、善太郎は善太郎で今回の事件の推理を進めているのだろう。私はそう思った。
今置かれている状況といえば、水浦阿佐美という女性と中川智也という男性が同じ手口で殺害されて、遺体の横には赤ワインと紫色の石が置かれていた。
殺害現場に関していえば、水浦阿佐美の殺害現場は梅田のホテル、中川智也の殺害現場は箕面にある彼の自宅らしいが――梅田はともかく、箕面は大阪市内から結構距離がある。
となると、一連の事件の犯人は大阪北部に対して土地勘のある人間なのだろうか? それとも、水浦阿佐美と中川智也の両者に対して関係のある人物による犯行なのだろうか? 仮に後者だとすれば、どちらかに対して恋愛感情を抱いていて、付き合っていることが許せずに――殺害したことになるのか。
そもそも、私は中川智也のことをよく知らない。彼について知っていることといえば、水浦阿佐美の交際相手で、なおかつ昨日まで水浦阿佐美殺しの容疑者として指名手配されていたことだけである。これ以上彼について知るつもりはないし、知ったところでどうしようもないのが現実である。
――そういえば、ニュース記事には「中川智也(31)」と記載されていたな。仮に平成4年生まれだとしたら、同世代になるのか。
そういうことを念頭に置きつつ、中川智也の生年月日について考えているときだった。スマホが短く鳴った。――善太郎かと思ったら、違った。
――ヒロロン、ニュース見た? 箕面で男性が殺害されたってヤツ。
――被害者の名前に「中川智也」って書いてあったじゃん?
――アイツ、私の中学3年生の時の同級生なのよね。
――アタシとヒロロンは中学3年生の時だけクラスが別々……っていうか、アタシが特進クラスだったからクラスが別々にならざるを得なかったんだけど、どうも中川智也ってヤツが印象に残ってんのよね。別に、付き合ってなんかなかったんだけど。
――それで、この間アイツに連絡を取ったところなのよね。
――曰く、「今は大阪でソーシャルゲームの開発プログラマとして働いてる」とのことだった。
――大阪でソーシャルゲ―ムといえば、大阪ビジネスパークにある「ジャック・イン・ザ・ボックス」って会社が有名だけど、多分そこだと思う。
――それにしても、アイツも災難よね。恋人を殺害した罪で指名手配された直後に殺されちゃうなんて、アタシだったら耐えられないわよ?
――まあ、多分……ヒロロンもこの事件を追ってると思うし、参考までにメッセージを送っただけ。
――それじゃ。あっ、神戸国際会館にhitomiが来るらしいよ?
マシンガンのように送られてくるメッセージは、すべて菱田沙織のモノだった。一連のメッセージの最後には、「テヘペロ」のスタンプまで付いていた。――神戸国際会館で行われるhitomiのライブは既にチケットをコンビニで発券してもらっているけど、何か?
それはともかく、菱田沙織のメッセージは中川智也に関する意外な手がかりとなった。彼女のメッセージをまとめると――中川智也の職業はゲームの開発プログラマで、職場は大阪城の近くにあるらしい。
早速、ダイナブックのブラウザで「ジャック・イン・ザ・ボックス」と検索すると――大手転職サイトの企業情報と企業の採用サイトが見つかった。
ここで見るべき場所は――やはり、大手転職サイトの方だろう。手がかりが見つからなければ採用サイトの方を見ればいいだけの話である。
転職サイトの企業情報には、確かに「大阪府中央区城見」と書かれており、本社機能が大阪ビジネスパークにあることは一目瞭然で分かった。創業は平成24年であり、いわゆる「スマホバブル」に乗っかって起業した企業なのだろう。
主な開発タイトルの中に『戦国パズルバトル 3マッチの陣』というゲームがあったが、スマホを買いたての時にこのゲームを遊んでいたことを思い出した。『戦国パズルバトル』は、2010年代のスマホゲームにありがちな「2画面のパズルゲーム」であり、ガチャで強い武将を手に入れて編成するとかそんな感じのゲームだった記憶がある。
とはいえ、流石に「全然ドラゴン関係ないパズルゲーム」には勝てなかったのか、『戦国パズルバトル』は平成28年――2016年にサービスを終了してしまったが、無課金で最強キャラの1人である「伊達政宗」を引き当てたことは一生の思い出にしてもいいぐらいである。
現在では韓国で流行っている「先生が異能の生徒たちを集めて地球存亡の危機に立ち向かうSFノベルゲーム」のパチモンみたいなモノを開発しているらしいが――正直、二番煎じでしかない。どうせ短命に終わるのだろう。
――おっと、脱線した。「ジャック・イン・ザ・ボックス」のプログラマから「中川智也」という人物を探し出さなければ。
私は、転職サイトのページからジャック・イン・ザ・ボックスの企業サイトを開き、企業情報を閲覧することにした。流石にプログラマの名前は載っていないだろうと思ったが――あった。
プロフィールによると、「平成4年生 兵庫県出身 同命社大学卒」と記載されていて、「チーフプログラマ」という役職に就いていたらしい。となると、かなり腕利きのプログラマなのか。詳しいプロフィールを読むのは面倒くさかったが、創業メンバーの1人だとか。――創業時期を考えたら妥当だろう。
そして、菱田沙織から送られてきた一連のメッセージと照らし合わせると、なんとなく彼の人物像が浮かび上がってきた。これは私の憶測でしかないのだけれど、恐らく――同命社大学在学中に京都に本社機能を構える大手ゲーム会社、南天堂への就職を蹴られた生徒がジャック・イン・ザ・ボックスを起業したのだろう。その証拠に、創業メンバーの大半が同命社大学卒となっていた。
当時の南天堂は据え置き機の売れ行きが芳しくなく、携帯機に頼らざるを得なかった。何より、スマホというモノが出てきた以上、スマホより性能の劣る携帯機だけでは苦戦を強いられる状況だったのだ。
当然、南天堂の業績が芳しくないということは、新卒も採用しないので――立志舘大学や同命社大学、虎谷大学といった京都でも有名どころの私立大学から南天堂への就職を目指そうとした生徒はこぞってスマホゲームのベンチャー企業を起業したのである。
私の記憶が正しければ、虎谷大学の生徒は「京都ゲームラボ」という会社を、立志舘大学の生徒は「ワクワクゲームズ」という会社を起業した覚えがある。特に、「ワクワクゲームズ」に関しては、私の大学での数少ない友人である岡崎大喜がシナリオライターとして創業メンバーに入っていた。岡崎大喜はミステリ研究会の同期で、何回か溝淡社の新人賞にも原稿を送っていたが――やはり、プロの壁は分厚かったのか「何をやってもアカンわ」と言って小説家からシナリオライターへと転向したらしい。ちなみに、現在はワクワクゲームズを退職して再び小説家へ転向したとのことである。――恐らく、今後どこかでかかわるだろう。
しかし、「ジャック・イン・ザ・ボックス」が同命社大学の生徒によるベンチャー企業なのは知らなかった。――というか、友人の中で「同命社大学に進学した」という人物がいなかったから情報が入ってこなかっただけの話である。
世間では関東私立大学の「MARCH」に対抗して関西四大私立大学のことを「関関同立」なんて言うけど、「関」の「関阪大学」と「関宮学院大学」、「同」の「同命社大学」、そして、「立」の「立志舘大学」。その中でも、キャンパスが西宮の甲風園という好立地にある関係で、大半の友人は「関宮学院大学」へ進学することを選んでいた。
一方、私は――「今の成績じゃ関宮学院大学へ進学するための偏差値が足りない」と予備校の先生に言われてしまったので、少しグレードを落とす結果となった。それでも、辛うじて「関関同立」の一番下である立志舘大学にしがみついていたので、大したモノである。ちなみに、もう一つグレードを落とすと、京都の虎谷大学か神戸の港南大学になるらしい。
大学間カーストのことはさておき、私は中川智也についてのメモを取って、それを善太郎のスマホに転送した。
既読はすぐに付き、30秒ほど経ってからメッセージに対する返信が送られてきた。
――なるほど、中川智也はゲーム会社でプログラマをやっていたのか。水浦阿佐美に関する情報は入手できても、中川智也に関する情報は全くもって入手できなかったからな、でかしたぜ。
――そうだ、どこかで彩香を大阪府警の刑事と顔を合わせておきたいな。どこが良いだろうか……。
どうやら、善太郎は私を大阪府警の刑事と会わせたいらしい。私は、彼のスマホに返信した。
――うーん、できれば大阪市内というか、梅田周辺がいいかな? というか、明智くんって梅田周辺の土地勘はあるの? 今まで全く気にしてなかったけど……。
そういう私のメッセージに対して、善太郎はスタンプを一つだけ返信してきた。
――(ガーンという青褪めたムンクのスタンプ)
土地勘、ないのかよ……。私ですら、阪急梅田と阪神梅田の違いは分かるし、JRは東海道本線に位置する大阪駅と東西線に位置する北新地駅の2つあるって知ってるのに。――流石に、大阪メトロは無理ゲーだけど。
仕方がないので、私は善太郎にあるメッセージを送信した。
――そうは言うけど、大丸梅田店は分かるよね?
私のメッセージに対する返信は、すぐに来た。
――流石にそれは分かるぜ? JR大阪駅だろ?
善太郎があっさりと正解を送ってきたので、私は――若干呆れつつも彼のメッセージに返信した。
――じゃあ、そこで刑事さんと顔合わせってことで。ところで……大丸梅田店のどこで待ち合わせすればいいのかな?
そこまで考えが及ばなかったのか、善太郎は再び青褪めたムンクのスタンプを送ってきた。
ヤレヤレと思いながら、私は大阪府警の刑事さんとの顔合わせの場所を「ホテルグランヴィア大阪の最上階にあるカフェ」へ指定した。――私の提案に対して、善太郎は即座に「親指を立てたスタンプ」を送信してきた。若干ムカつく。
***
JRの芦屋駅から大阪駅の間で停まる駅は、新快速だと尼崎駅の1駅だけなのでものすごく早く着くのだけれど、やはり「片道320円」という高額な電車賃がネックになる。そして、関西人特有のドケチ精神が働いてしまうが故に――私は阪急(片道290円)で梅田へと出ることにした。とりあえず、芦屋川駅から隣の駅にあたる夙川までは普通列車で出て、夙川から特急に乗り換える。
夙川で特急に乗り換えたフェーズでhitomiのアルバムでも聴いてやろうかと思ったが、そんな時間はない。――西宮北口を抜けてしまえば、十三駅まで停車しないのだ。
やがて、車窓は「阪急沿線の割に治安の悪そうな風景」を映し出した。――十三駅に着いたのだ。こう見えて、十三駅は大阪梅田駅や西宮北口駅と並ぶハブ駅であり、神戸線の場合、ここから京都線へと分岐することになる。ちなみに、宝塚線への分岐もあるのだが、神戸線の十三駅経由で行くと遠回りになってしまうので、素直に西宮北口駅から仁川線に乗り換えた方が無難である。
十三駅を抜けた時点でスマホを見ると、時計は正午を回ろうとしていた。――善太郎、どこ経由で来るんだろうか? 十三駅のプラットホームに彼の姿は見当たらなかったし。
大阪梅田駅に着いて、改札口を抜けようとする。――ちょっと待て、上の改札口は罠だな。大丸梅田店というか、ホテルグランヴィア大阪に行こうと思ったら……下の改札口を通らなければいけない。
そう思った私は、エスカレーターで下の改札口へと降りていった。――やはり、善太郎の姿はない。
イコカをタッチして下の改札口を抜け、とりあえず家電量販店――ヨドバシ梅田方面へと歩いていく。
平日とはいえ、この時間帯はやはり人が多い。そんなことを思いつつ、私は阪急三番街から連絡通路へと抜けていった。
11月下旬となると、曇り空は鉛色である。そして、絶妙に寒い。
この日はカーキのミリタリージャケットを羽織って来たのだが、下に着込んでいたモノは薄手のトレーナーだけである。――しくったか。
連絡通路の下手に、JR大阪駅が見える。大丸梅田店とホテルグランヴィア大阪は対面を向いて建っているが、とりあえず共通して言えることは「JR大阪駅側にあること」である。
ホテルグランヴィア大阪へと行くべく、連絡通路から再びエスカレーターを降りて、JR大阪駅へと入っていった。――改札口の近くで、見覚えのあるサングラスの男性がデジタルサイネージを背にして凭れている。
「――オウ、来たか」
声の主は紛れもなく明智善太郎本人だったが、いつもの正装――白いスーツと赤いネクタイ――ではなく、黒いライダースジャケットに赤いセーターという服装をしていた。それでも、やはり丸いサングラスはつけている。
私は、善太郎の意外な格好に対して――思わず言葉を発した。
「明智くんが黒い服なんて珍しいね」
彼は、私の指摘に対して、満更でもないというか――当たり前の事を口にした。
「そうか? ――ただ単に、白いスーツじゃ寒いだけだが」
「確かに、今日は11月26日――普通に考えて、もう冬だよね」
そういう事を話しつつ、私はホテルグランヴィア大阪側へと向かい、エレベーターに乗り込んだ上で最上階のボタンを押した。
「ところで、大阪府警の刑事さんには連絡済みなの?」
「オウ、連絡済みだぜ? ――何なら、お前が『ホテルグランヴィア大阪のカフェ』って指定したフェーズでかなり喜んでいた」
「なるほど」
善太郎の話を聞く限り、彼がコネクションを持っている大阪府警捜査一課の刑事は――もしかして、女性なのだろうか?
得体の知れない人物に期待と不安を膨らませつつ、エレベーターは最上階へと着いた。
カフェは、大阪市内を一望できるというか、多分――夜景が似合うのだろう。私の目にはそういう風に見えた。
ウェイトレスが駆け寄ってきたので、善太郎は彼女に「3名様です」と席数を告げた。
「――ああ、明智善太郎様ですね。先客なら、こちらにいます」
先客は、紅茶を飲みながら、カフェのメニューを見ていた。そして、私たちに気付いたのか――「善ちゃん」と言いかけて、咳払いをした。
「あら、善ちゃん。――コホン、明智さん。随分と遅かったじゃないですか」
「スマン。どうしてもお前に紹介したい人物がいてな。――小説家の卯月絢華だ」
「えーっと、あなたが明智さんのお友達ですか? 私は大阪府警捜査一課の刑事、宿南衣沙と言います」
宿南衣沙と名乗った女刑事は、切り揃えられた前髪に、日本人形のように長い髪を靡かせていて、双眸には、日本人としては若干色素の薄い――鳶色の眼を浮かべていた。
彼女は話す。
「――卯月絢華さん、今後ともよろしくね」
そう言いながら、彼女は私の手をそっと握った。――彼女、氷のように手が冷たいな。もしかして、低体温症なのだろうか?
それにしても、善太郎――いくら大阪府警の刑事が目の前にいるからって、私のことを本名じゃなくてペンネームで呼ぶなんてどうかしている。これは訂正が必要だ。そう思った私は、宿南衣沙に対して訂正を促した。
「あの、私のことは本名で呼んでもらっても構わないんですけど……。ちなみに、本名は『広瀬彩香』と言います」
「なるほど。――でも、私としてはなんだか『卯月絢華』の方がシックリ来るんですよね。まあ、良いでしょう」
彼女の言葉に対して、善太郎も納得していた。
その上で、改めて「宿南衣沙」という人物を説明した。
「――こう見えて、彼女は繊細だからな。オレとしては『取扱注意』的な人物だと思っている。だが、大阪府警の中でオレのことを信頼している数少ない人物の1人でもある。恐らく、卯月絢華――お前にとって強力な戦力になってくれることは確かだぜ?」
善太郎の説明を聞きつつ、私は――宿南衣沙がオーダーしたアフタヌーンティーセットからマカロンを頂いた。ピンク色のマカロンを食べながら、私は話す。
「――もぐもぐ、そうなのね。明智くんが大阪府警の信頼を勝ち取っていないっていうのも意外だったけど」
善太郎は、紅茶を飲みながら話す。
「まあ、オレの主戦場は飽くまでも京都だからな。前回お前が関わった『柘榴石の殺人』事件は兵庫県警の所轄だったが、この事件以前に兵庫県警からの信頼は既に勝ち取っていた状態だった。しかし、大阪府警は今でもオレのことを煙たがっている。多分、大阪という大都市であるが故に、信頼を勝ち取ることは難しいんだろうな」
「なるほどね。――もぐもぐ」
ついでに、宿南衣沙も補足する。
「一応、私は明智さんのことを信頼していますけどね。――ほら、1年前に発生したあの事件」
「ああ、吹田で発生した連続猟奇殺人事件だな。――確かに、アレはオレじゃないと迷宮入りしていた可能性がある」
吹田で発生した連続猟奇殺人事件――聞き覚えがあるな。
確か、松島電器の外国人実習生を狙った殺人事件で、事件の犯人は松島電器の人事採用方針に反発したパーソナルコンピュータ事業部のベテランエンジニアだったか。
「松島電器」という世界的な大企業を狙った事実上の企業テロであり、当時は大々的に報道されていた記憶がある。――まさか、善太郎が事件の解決にかかわっているとは思ってもいなかったけど。
松島電器でそういう猟奇的な殺人事件が発生していた頃の私は――確か、鬱病のピークだったな。
毎日のように自傷行為を繰り返して、毎日のように向精神薬の過剰摂取を繰り返していた。それ故に、私の躰と心はボロボロの状態で、一歩間違えれば――死んでいた。
そんな負のスパイラルの中で、私は松島電器の事件を題材にして小説を書いたが――やはり、「コンプライアンス的にマズい」ということで溝淡社から却下されてしまった。タイトルは忘れてしまったが、鬱病がピークだった時に執筆した小説だから――別に、忘れても構わない。
あらすじとしては「松島電器の外国人実習生を狙った殺人事件が発生して、アルバイトとして雇われていた期間工が事件に巻き込まれていく」とかそんな感じだったと思う。被害者の遺体からは心臓が抜き取られていて、犯人の狙いは「キリストの奇蹟の再現」――即ち、「神の血を創り上げること」だったと思う。
――神の血か。そういえば、例の殺人事件は「キリストの奇蹟」を見立てたモノだと推理していたな。ワイングラスは「水を赤ワインに変える奇蹟」の見立てで、紫色の石は「石をパンに変える奇蹟」の見立てだったか。
いや、待った。紫色の石は――もしかして、アメシストなのか? だとすれば、これは「キリストの奇蹟」の見立てじゃなくて、もっと、こう――ほら、アレだ、アレ。
アレを思い出せずに頭を抱える私に対して、宿南衣沙が声をかけてきた。
「――『神の血』事件で思い出すのもアレですけど、今回の事件の遺体に添えられた赤ワインと紫色の石、もしかしたら『バッカスの伝説』に対する見立てじゃないでしょうか?」
――それだ! 私は思わず手を叩いた。
「宿南刑事、それです! それ! ギリシャ神話における酒の神である『バッカス』が自分の呪いで石になってしまった恋人に対して赤ワインをかけたら、きれいな宝石になったっていうアレです!」
「それは良かった。――補足すると、アメシストは古代ギリシャ語で『酔い止め』を意味するモノで、元々は酔い止めの薬として使われていたらしいです」
宝石を薬として使うなんて、現代じゃ考えられないけど、「柘榴石の殺人」事件では、人体実験の治験薬としてガーネットを使おうとしていたな。――もっとも、あの事件におけるガーネットは贋作だったのだけれど。
とはいえ、これで事件に対する疑問は一つ晴れた。後は――事件の犯人だが、今のフェーズでは容疑者を絞り込むことは不可能である。さて、どうしたものか。私は宿南衣沙に相談した。
「バッカスの見立てだと分かった以上、次のフェーズは犯人の絞り込みですけど……宿南刑事はどう考えているのでしょうか?」
私の相談に対して、彼女は自分のタブレットを指差しながら話した。
「今のところ、容疑者はこんな感じですね。――土地勘から考えて、『神戸~大阪間に在住しているジャック・イン・ザ・ボックスの社員による犯行』と仮定しました」
彼女の話によると、容疑者――即ち、神戸から大阪の間に在住しているジャック・イン・ザ・ボックスの社員は5人だった。性別と年齢はバラバラで、一貫性は見当たらない。
・1人目 捨松勇(32)西宮市在住
・2人目 黒江弥沙(28)吹田市在住
・3人目 長森知子(34)尼崎市在住
・4人目 高畑草太(30)伊丹市在住
・5人目 桐野亮介(29)池田市在住
住所を見ると、阪神~北摂間でバラけている。大阪市内に一番近いのは、長森知子だろうか。
しかし、水浦阿佐美が殺害された現場は大阪市内――梅田のホテルの一室だが、中川智也が殺害された現場は箕面市である。箕面から近いと考えると、やはり吹田市在住の黒江弥沙と池田市在住の桐野亮介が怪しい。
そんなことを考えていると、すかさず宿南衣沙が補足情報を加えた。
「5人の容疑者のうち、捨松勇と桐野亮介はプログラマ、黒江弥沙はデバッガ、長森知子と高畑草太はデザイナーとして働いていました。一応、ご参考までに」
「ありがとうございます。――そうなると、5人全員が怪しく見えますね」
私と宿南衣沙の話に、善太郎も割り込む。
「なるほどなぁ。――オレは、暫定的に『黒江弥沙が怪しい』と踏んだぜ?」
「黒江弥沙? どうしてなの?」
「彼女は箕面から程近い吹田に住んでいる。確かに桐野亮介が住んでいる池田も近いが、より近いのは黒江弥沙の方だ。――それに、黒江弥沙の名前をよく見てみろ」
「黒江弥沙……くろえみさ……クロエミサ……黒弥撒……って、そんな安易な考えだったの?」
「オウ、その通りだ。――正直言って、こじつけでしかないけどな」
善太郎は、笑いながらそう話した。――若干、顔がムカつく。
それでも、宿南衣沙は善太郎の考えに対して好感触を示していた。
「明智さんの推理、面白いですね。我々大阪府警では考えがつきません。――とりあえず、容疑者リストは明智さんと卯月さんのスマホに送信しておきますね」
そう言って、彼女はタブレットのデータを私たちのスマホに転送した。
気づけばアフタヌーンティーのお盆に盛られたお菓子は空っぽになっていて、それは即ち「お茶会のお開き」を意味していた。
宿南衣沙は話す。
「それでは、私はこれで。いい加減署の方に戻らないと、先輩に怒られますからね」
「先輩?」
「――いいえ、何でもありません」
宿南衣沙という女性は――なんだか、私と同じ「死の匂い」がした。なんというか、心に深い傷を負っていて、次に大きな傷が付いた時には破綻してしまうような、そんな死の匂いだった。多分、彼女は私と同類の「病んでいる人間」なのだろう。そして、彼女は善太郎にしか心を開いていない。私の目にはそういう風に見えた。
JR大阪駅の改札口へと戻ったフェーズで、私と善太郎、そして宿南衣沙はそれぞれ別れることになった。ちなみに、善太郎は新快速で京都から大阪まで来ていたらしい。
「それじゃ、オレは京都に帰るぜ?」
「じゃあ、私は芦屋に帰ります」
「そうですか。私はとりあえず大阪府警の本部へと戻りますね。――また、何かあったらスマホの方に連絡しますから」
そう言って、私たちは散り散りになった。――帰ろうかな。
帰路はとてつもなく早かった。――大阪梅田駅から西宮北口まで出てしまえば、芦屋川行きの普通列車が停まっている。西宮北口から芦屋川までは2駅しかないので、スマホを弄っている暇すらない。
芦屋川に着くと、私の住むアパートは既に見えている。駅から徒歩3分ぐらいだろうか。
アパートへ戻って、部屋の中に入り、そして――コーヒー用のお湯を沸かした。正直言って、コミュ障の私にとって「人と会う」という行為は疲れる。なんだか眠くなってきた。
それでも、私は沸騰したお湯でコーヒーを淹れた。コーヒー豆の香しい匂いが、意識を覚醒させる。
淹れたてのコーヒーを飲みつつ、件の容疑者リストをダイナブックへと転送する。――スマホの画面じゃ見づらい。
それにしても、善太郎は「黒江弥沙が怪しい」なんて言ってたけど、実際のところ――本当に彼女が犯人なのだろうか? 私は少し懐疑的になった。
ふと、スマホで水浦阿佐美のユースタグラムを閲覧する。彼女は既に死んでいるので、更新は死亡日時直前――令和6年11月22日で止まっている。
生前最後の写真は、西九条の遊園地で撮影されたモノだった。どうやら、彼女はこの遊園地の年パスを所持しているらしい。その証拠に、首から年パスのパスケースがぶら下がっていた。
――写真、もう少し拡大してみるか。そう思った私は、年パスの名前が見えるまで写真を拡大した。
年パスの名前を見ると、水浦阿佐美は当然として――黒江弥沙と長森知子の名前もあった。となると、やはり怪しいのはこの2人か。私の考えだと、どちらかが中川智也と恋人関係だったが、何らかの理由があって水浦阿佐美と付き合うことになった。そして、「恋人を取られた」という恨み心から彼女を殺害した。そんなところだろう。
しかし、殺害するのは水浦阿佐美だけでいいはず。どうして中川智也まで殺害する必要があったのか。
色々考えているうちに、逆に考えがまとまらなくなってきた。――マズい。
善太郎に助けを求めようと思ったが、彼も彼なりに推理を続けている頃だろう。ここは、放っておくか。
この状況下で私にできること、それは――寝ることである。寝る前に、シャワーを浴びて、ドライヤーで髪を乾かし、部屋着に着替える。
そして、ベッドに入って――そのまま意識を失った。現在時刻は午後3時30分ぐらいだった。
***
――夢を見た。
白いワンピースというシンプルな死装束を身にまとって、躰は黒い鎖のようなモノで縛られている。身動きを取ろうにも、身動きが取れない。
やがて、私の目の前に――私が現れた。何を言っているのか分からないかもしれないけど、確かにそれは「もう一人の自分」で間違いなかった。
目の前にいる「もう一人の自分」は、凍りつくような冷たい目で私を蔑んでいる。
そんな中で、「もう一人の自分」は言葉を発した。
「――さっさと、死ねばいいのに。あなたがいるから、私は幸せになれない。だから、死ね」
確かに、私は常日頃から「死にたい」と思いながら生きている。けれども、「死ね」という言葉は――気軽に言っちゃいけない言葉だと思う。
私は、「もう一人の自分」に対して反論した。
「そうは言うけど、私はこうして生きている。これからも私は生き続けるし、心臓の鼓動が止まるまで『広瀬彩香』という人間はこの世に存在していることになる。――あなたこそ、死にたいのでは?」
「確かに、そうかもしれない。――ああ、私は『広瀬彩香』。あなたと同じ名前の――『人格』よ」
つまり、私がこの目で見ているモノは「人格」なのか。「人格」は、広瀬彩香という「私」の心を形成するモノであり、「核」でもある。
広瀬彩香という「人格」は、私の乳房の間に手を触れた。――心臓が、どくどくと脈を打っている。脈を打つ音は、やがて私の中へ「聴覚」として伝わっていく。
「これが、『脈を打つ感覚』?」
「――え?」
「私、そういう感覚を覚えたことがない」
「普通、人間は生きている以上『脈を打つ感覚』を覚えるはずなのに、どうしてあなたはそういう感覚を覚えていないの?」
「――私の乳房の間に触れたら分かる」
そう言われたので、私は広瀬彩香という「人格」の乳房の間に耳を当てた。――あれ?
「心臓が、脈を打っていない……」
「そうよ。心臓が脈を打っていないということは、私は『死んでいる』ことになる」
私の「人格」が――死んでいる? それは、一体どういうことなんだ?
再び私の乳房の間に手を当てつつ、広瀬彩香という「人格」は話す。
「だから、『広瀬彩香』という『人格』は――既に死んでいる。あの時、自傷行為で『私』は死んだ」
ああ、そういうことか。私は度重なる自傷行為で心が壊れたのか。そう思うと、心臓の鼓動が早くなる。心臓の鼓動に合わせて、視界がバグっていく。
「――それで、最後に言い残すことはないの?」
そう言いながら、広瀬彩香という「人格」は――私の首を絞めている。首を絞められるということは、苦しくなる呼吸も相まって、心臓の鼓動は尚更早くなる。
呼吸が苦しくなる中でも、私は話す。
「私は――あなたという『もう一人の私』に殺されるのか。それで死ねるんだったら、特に悔いはない」
そう言い残した時点で、私の心臓は完全に脈を打つ行為をやめていた。
***
ああ、厭な夢だった。
夢の中で「もう一人の自分」に首を絞められて殺される。それは、私の心が破綻しているという意味でもあるのか。
――心臓の鼓動に同調するように、自傷行為の傷痕が痛む。
まだ、夢から覚めていないのだろうか。
心臓の鼓動が早くなる。
早い鼓動が耳越しに聴こえる。
胸が苦しい。
あまりの苦しさに、私は思わず胸を押さえた。
朦朧とする意識の中で、鏡を見上げる。
鏡に映っている自分の姿は、あまりにも無様で滑稽だった。それは、夢で見た私という「人格」に似ていた。
どうせ、私なんて生きている意味がない。
死んでしまえ!
死んでしまえ!
死ンデシマエ!
無意識のうちに、私の手にはカミソリが握られていた。
カミソリで、手首を切っていく。
どくどくと流れ出る赤黒い血が、私の白い肌を汚していく。
どこかで聞いた話だと、自傷行為の痛みから出るドーパミンって、性行為や自慰行為によって満たされるドーパミンと同じだったっけ。
だから、今の私は――快楽に満たされているのか。こんなことで快楽が満たされるなんて、あまりにも情けない。
――痛い。痛い。痛い。いたい。
――イタイイタイイタイイタイ!
切りたての傷が、ズキズキと痛んでいく。傷からは、未だに血が流れている。
流れ出る血は、肌を伝って――ポタリと床へ落ちた。床に落ちた血は、やがて――血溜まりを形成していく。
――血が止まらない。傷が痛い。心が痛い。
コンナ私、生キテイル意味ナンテナイヨネ?
ソレジャア、死ンダホウガ良イヨネ?
心臓ノ鼓動ガ遅クナッテイク。
アア、私ハコノママ死ヌノカ。
――心臓ガ、大キク脈ヲ打ッタ。
その時点で、私の視界は完全に暗転した。