Phase 01 不可能犯罪
「――これが、今回のホトケ様だぜ?」
善太郎が不謹慎そうに言うので、私は注意した。
「明智くん、もうちょっと弁えてよ。嬉しそうに話すけど、これは立派な殺人事件よ?」
「ヘイヘイ」
彼の話によると、被害者は「水浦阿佐美」という女性であり、大阪市内のホテルの一室で殺害されたとのことだった。遺体の横には赤ワインと紫色の石が置いてあったけど、これは――何かの見立てなのだろうか?
私は、善太郎にそのことを聞いてみた。
「ところで、遺体の横にある赤ワインと紫色の石? これって何の見立てなのかな?」
しかし、彼の答えは――私が求める答えではなかった。
「ああ、オレも気になっていた。赤ワインだけならまだしも、紫色の石は分かんねぇな」
仕方がないので、私は遺体に対する考えを善太郎に述べた。
「そうなるよね。赤ワインだけなら『血の見立て』として推理できるけど、紫色の石は何の見立てか分からない」
赤ワインが血の見立てとしても、紫色の石が何を示すのか? そもそも、水浦阿佐美という女性の職業は何なのか。
「そういえば、水浦阿佐美の職業って何なの?」
「ああ、そういえばお前に言っていなかったな。水浦阿佐美は、京橋にある『電報堂』という大手広告代理店の関西支社でデザイナーとして働いていたらしいぜ?」
「電報堂ねぇ……厭な思い出しかないわ」
「厭な思い出? ――ああ、心中お察し申し上げるぜ?」
電報堂は――言うまでもなくお祈りメールをもらった企業の1つである。
私は「Webデザイナー志望」として電報堂にエントリーシートを提出したが、書類選考のフェーズで蹴落とされてしまった。立志館大学レベルの高学歴でも、落とされるときは落とされるのである。当然、お祈りメールをもらった日には自傷行為に手を染めていた。
そんなことは置いておいて、どうして水浦阿佐美は殺害される羽目になったのだろうか? 善太郎の情報を信じるなら、彼女はいわゆる「キャリアウーマン」であり、他人から憎まれる要素なんて見当たらない。ましてや、電報堂は東京本社での年収が1000万円超え、関西支社でも年収800万円は保証されている。それぐらいの大企業である。――もしかして、金目目当ての犯行だろうか。
私は、善太郎にそのことを聞くことにした。
「殺害現場って、特に荒らされた様子は見当たらないの?」
彼は、顎を擦りながら私の質問に答えた。
「ああ、荒らされた形跡はないぜ? テーブルの上にはエナジードリンクとノートパソコンが置かれていて、椅子にはハイブランドのバッグが置かれていたぜ? でも、バッグは盗まれていないし、パソコンも盗まれていない。――妙だな」
「妙? どういうことなの?」
「ああ、バッグはルイヴィトンのモノグラムで、価格は15万円ぐらいだろうな。そして、ノートパソコンはリンゴ柄のパソコンで――恐らく、水浦阿佐美の私物だろう。梅田にある家電量販店での価格は20万円以上する。でも、犯人はソレを狙った訳ではない。多分、他に理由があって水浦阿佐美という人物を殺害したのだろう」
確かに、高価なモノが事件現場に置かれているのに――犯人はそれらを盗んでいない。じゃあ、犯人は一体何のために水浦阿佐美という女性を殺害したのだろうか? 私は頭を抱えた。
頭を抱えつつ、私は善太郎に対して遺体の状況をもう少し詳しく聞くことにした。
「それで、遺体の状態は――どうなってたの?」
「オウ、そこを聞くか。――遺体の状態は普通というか、特に荒らされた形跡はないぜ? 首に索条痕がなければ、犯された形跡――情交の跡――も見受けられなかった。なんというか、彼女は眠るようにして死んでいたぜ?」
「なるほど。――となると、死因は昏睡なのかな」
「そうだな。オレも大阪府警もその線で捜査を進めているところだぜ?」
首を絞められていなければ、犯された訳でもない。ただ、水浦阿佐美という女性は眠るように殺された。そして、水浦阿佐美だったモノの横には赤ワインと紫色の石が置かれていた。これらが示すことは一体なんだろうか?
そんなことを考えていると、善太郎が私にSSDスティックを手渡してきた。
善太郎は話す。
「それで、これが――事件の資料だ。探偵として事件を解決するのはオレの仕事だが、お前にも手伝ってもらうぜ?」
「そういうことだろうと思った。まあ、溝淡社に新作小説の原稿を提出したところで暇だったし、手伝ってあげる」
「オウ! そうとくれば商談成立だぜ!」
善太郎は、イキイキとしている。やはり、私に対して信頼を寄せているのだろうか?
そして、彼は話を急カーブさせた。話はやはり『柘榴石の殺人』にまつわるモノだった。
「ところで、『柘医院での事件』が小説として発売されるらしいな。オレ、書店の広告で見たぜ?」
善太郎に言われて、私は思わず赤面した。
「――なんだか、恥ずかしいな。まあ、私が解決に関わった事件がこうやって公共の面前に触れるのは嫌いじゃないよ?」
「そうか。――楽しみにしているぜ?」
そう言って、善太郎は帰っていった。――孤独だ。
***
彼から渡された資料は水浦阿佐美の身元を記したデータ、殺害時の状況を撮影した写真が3枚ほど、そして――「何かの役に立つだろう」として渡してきた聖書の写しだった。っていうか、善太郎と同じ大学だから、聖書ぐらいは持っているんだけど。
早速、私は水浦阿佐美のSNSを調べることにした。今の時代、SNSのアカウントを所持していない方が珍しいので――何らかの情報は引っかかるだろう。
手始めにユースタグラムで「水浦阿佐美」と入力したら、それらしいアカウントが引っ掛かった。プロフィール欄に「電報堂勤務」と書かれているので、ビンゴだろう。
色々とプロフィールを見ていった結果、どうやら、彼女の居住地があるのは大阪ではなく西宮の夙川らしい。――近所じゃないか。そうと来れば、実際に向かうべきか。
私は、バイクに跨って夙川まで出ることにした。夙川の中でも香櫨園寄りの方だったら――やはり、海沿いだろうか。
そんなことを考えつつ、バイクは2号線を駆け抜けていった。
芦屋と西宮の境目は――2号線だと分かりやすい。神戸から芦屋に入ると途端に静かになって、芦屋から西宮に抜けると賑やかになる。一応、芦屋と西宮の境目に「打出町」という繁華街のようなモノがあるが、やはり芦屋なので静かである。芦屋という街は、治安の悪さに定評のある阪神沿線の割に「治安が良い」との評判だが、芦屋駅と打出駅に関して言えば確かに治安は良いかもしれない。それは私がこの周辺をバイクで走っていても分かる。
やがて、バイクは芦屋を抜けて西宮へと入っていった。――賑やかだ。
そして、阪急夙川駅の近くにあるタワーマンションが目に入った。もしかしたら、ここに水浦阿佐美は住んでいたのかもしれない。
タワーマンションの駐車場には、兵庫県警のパトカーが停まっている。――やはり、そうなのか。
駐輪場にバイクを停めたところで、もう1台パトカーがやってきた。当然、パトカーには「兵庫県警」と印字されている。
停まりたてのパトカーから刑事が降りてくるなり、私の顔を見たのか――声をかけてきた。
「ああ、あなたは卯月先生……いや、広瀬彩香さんじゃないですか。僕ですよ、僕」
私に声をかけてきた刑事は、高学歴バンドでギターを担当していそうな身なりの男性――兵庫県警捜査一課の刑事、浅井昭博だった。
「浅井刑事、お久しぶりです。――いつ以来でしたっけ?」
「いわゆる『柘榴石の殺人』事件以来じゃないですか。ほら、善太郎さんと一緒に解決したあの事件」
「ああ、アレですか。――正直言って、胸糞悪いと思っていましたけど」
確かに、あの事件は――胸糞悪かった。
私が無実を信じていた人物が犯人で、犯人の手によって4人の犠牲者が出てしまった。挙げ句、事件が終盤に差し掛かったところで、私も犯人の手によって殺されるところだった。あの時、善太郎が助けに来てくれなかったら、私という存在はとっくの昔にこの世にいない。
そして、事件が解決してから私の心は深く傷ついていた。
自傷行為の傷は増え続け、向精神薬の過剰摂取は止まらない状態だった。
自傷行為を繰り返すうちに、私という存在がこの世から乖離して、どこか遠くに行ってしまったような気がした。
いわゆる「病んでいる」状態の中で、私は自問自答を繰り返していた。
どうして、私は生きているのか?
どうして、人は他人を恨むのか?
どうして、人は殺人という罪を犯すのか?
どうして、人は簡単に死んでしまうのか?
――そんな事ばかり考えながら、私は自傷行為に手を染めていた。
自傷行為に手を染めるということは、「自分で自分を殺すこと」でもあり、私は「自分の中のもう一人の自分」をそのカミソリで殺そうとしていた。――もっとも、そんな柔いモノじゃ私という存在は殺せないのだけれど。
心に傷を負い、手首をカミソリで切りつけ、そしてまた心に傷を負う……そういう悪循環の中で増えていく傷痕を見ながら、私は酷く落ち込み、暗い部屋の中で独りうずくまっていた。
一応、溝淡社の担当者である蓮田大介には「精神が不安定な状態なのでしばらく話したくない」とメールを送っていたが、私が示していた「しばらく」の期間はあの事件が解決してすぐ、多分1ヶ月半から2ヶ月ぐらいだったと思う。――それで私の心の傷が少しでも塞がるのならば、まだマシなのかもしれない。
気まずい表情をしている私の顔を見て察したのか、浅井刑事は例の事件に関する話をやめた上で――今そこにある事件に話を切り替えた。
「ところで、ここのマンションに住んでいる女性が殺害されたという話はご存知でしょうか?」
当たり前だけど、私はそのことについて知っていた。
「もちろんです。被害者は水浦阿佐美という広告代理店勤務の女性で、大阪市内のホテルで殺害されたと聞きました。そして、彼女は西宮の香櫨園に住んでいたと」
「その通りです。――さては、善太郎さんから話を聞きましたね?」
やはり、見透かされていた。私は話す。
「そうです。明智くんから事件の話を聞いて――ここまでやって来ました。もっとも、明智くんが渡してきた資料には『西宮在住』という記載はなかったんですけど」
「なるほど。――どうしてここが分かったんでしょうか?」
「ユースタグラムです」
「ユースタグラムですか。――アカウント、見せてもらえないでしょうか?」
浅井刑事に言われた通り、私はスマホで水浦阿佐美のユースタグラムのアカウントを表示させて、彼に手渡した。
「ふむふむ……。――分かりました、ありがとうございます。スマホの方はお返しいたします」
スマホを返してもらった上で、私は浅井刑事に質問した。
「何か、分かったことでもありましたか?」
「そうですね……この男性が怪しいと踏みました。ほら、遊園地の地球儀を背景に写っている写真を見て下さい」
そう言われたので、私は件の写真を見ることにした。撮影場所は西九条にある遊園地で――被写体には、水浦阿佐美の他に男性が1人写っていた。男性にはタグ付けがされていて、名前は「中川智也」と言うらしい。
浅井刑事の話が正しければ、中川智也という男性が事件の犯人なのだろうか? 私は、とりあえず彼を容疑者として唾を付けることにした。
そんなことを考えつつ、浅井刑事は話す。
「とりあえず、水浦さんの部屋へと入りましょうか。彼女は一人暮らしで、部屋には彼女以外の生活の痕跡はないと聞きました」
「そうですか。――でも、部外者である私が入っても良いんですか?」
「良いですよ? 一応、広瀬さんは『善太郎さんの助手』ということになっていますし」
――そうなのか。浅井刑事から見れば、私は「明智善太郎」という探偵の助手になるのか。なんだか、変な感じだな。確かに、「柘榴石の殺人」事件でのことを思うと探偵の助手かもしれないが、私はただの売れない小説家である。
若干不本意に思いつつも、私は浅井刑事と一緒に水浦阿佐美の部屋へと向かった。
大家から受け取ったマスターキーによると、水浦阿佐美の部屋番号は「501号室」らしい。タワーマンション自体は10階建てなので、割と真ん中に位置するのか。
鍵はカード式であり、カードリーダーに翳すと解錠されるという仕組みになっていた。なんだか、今時のマンションらしい構造である。私が住んでいる築35年のアパートとは大違いだ。
当然の話ではあるが、部屋の中は静かだった。光熱費に対する督促状が来ていないところからも、殺害されてからそんなに日にちは経っていないようだ。
外は晴れているので、自然の太陽が照明代わりである。故に、照明を点けなくてもそれなりに明るい。
部屋を見渡しつつ、浅井刑事は話す。
「――特に変わったところは見当たらないですね。事件現場自体は大阪のホテルですから当然でしょうか」
「そうですね。ところで、ホテルの所在地はどこに?」
私の質問に、浅井刑事は答えていく。
「大阪府警の話によると、事件現場は梅田の一等地にあるホテルだそうです。――もう少し詳しく話すと、JR大阪駅のビルにあるホテルですね」
「なるほど」
***
一概に「梅田」と言われても、「梅田」と名乗る駅は多い。そして、駅と駅を繋ぐ通路は迷路のように複雑に入り組んでいる。故に、その地形は他府県民から「梅田ダンジョン」と揶揄されることもある。辛うじて、JRの駅は「梅田駅」ではなく「大阪駅」と名乗っているので間違えないのだが、やはりそこに行く過程の通路は複雑に入り組んでいるのだ。
もちろん、迷子になるのは駅と駅の間だけではない。商業施設に行く過程で迷子になるケースも度々ある。芦屋に住んでいる私は、基本的に「家電量販店へ行くには阪急、ライブハウスへ行くには阪神、松竹系の映画館へ行くにはJR」で覚えているのだが、たまに乗る電車を間違えてしまうことがある。
先日、hitomiが梅田のライブハウスで公演を行った時に、頭の中で「阪神に乗らないとダメ」と記憶していたのに、何をトチ狂ったのか阪急で梅田へと出てしまった。当然、阪急側から阪神側まではかなりの距離を歩かないといけないので、私は思いっきり迷子になってしまった。
迷子になった挙げ句、一緒にライブに行く約束をしていた友人(菱田沙織ではない)の手助けもあって事なきを得たが、本年度やらかし大賞は確実に受賞するだろう。それぐらいのやらかしだったことは確かである。
***
そんなことはともかく、私は善太郎から受け取った写真を浅井刑事に見せた。
「それで――この写真から、水浦さんの死亡推定時刻って分かるんでしょうか?」
浅井刑事は、写真を見つつ質問に答えた。
「ああ、分かりますよ。――大阪府警の刑事曰く、死亡推定時刻は一昨日の午前2時頃らしいです」
一昨日の午前2時頃――令和6年11月23日未明か。今日は11月25日なので、殺害されてから丸2日経っている計算になる。
とはいえ、そんな2日で事件が解決するとは思えない。この事件は、まだ「発生」のフェーズに立ったばかりである。「解決」のフェーズには程遠い。
そんなことを思いつつ、私は浅井刑事に話した。
「ホテルには、水浦さんの他に中川さんもいた。そして、2人の間で何らかのトラブルが発生して、水浦さんが殺害された。――そんな感じでしょうか?」
私の考えは正しかったようだ。浅井刑事は話す。
「その通りですね。故に、現時点では中川智也を事件の被疑者として指名手配するしかない。僕もそう踏んでいます」
「それ、大阪府警に伝えるべきだと思います」
「ああ、そうですね。――少し、待っていて下さい」
そう言って、浅井刑事はスマホで大阪府警の刑事に電話をかけた。多分、相当な長話になるだろう
電話している間に暇を持て余しても仕方がないので、私は水浦阿佐美の部屋を見渡した。
彼女の部屋は、私の数百倍女子力の高い部屋で、整理整頓が行き届いていた。デスクの上にはデザインの本が陳列されていて、パソコンの横に写真立てが置いてある。
そして、写真立ての写真に写っているのは、紛れもなく中川智也だった。やはり、彼は水浦阿佐美の恋人なのだろうか? 交際していくフェーズでトラブルが発生して、水浦阿佐美を殺害してしまった。浅井刑事はそうやって考えていたが、現時点では私もそうやって考えるしかない。
スマホで水浦阿佐美の部屋の写真を撮影しつつ、ソレを善太郎のスマホに送信する。既読は付かない。――立て込んでいるのか。
部屋の撮影が終わったところで、死人の冷蔵庫を覗くのは申し訳ないと思いつつ、私は冷蔵庫の中身を見ることにした。
浅井刑事の部下から手袋を借りて、冷蔵庫のドアを開ける。――赤ワイン?
私は、善太郎の言葉を反芻する。事件現場には赤ワインと紫色の石が置かれていて、遺体は安らかに眠っていた。
冷蔵庫から、赤ワインのボトルを1本取り出す。ラベルにはフランス語が書かれている。私はフランス語が読めないが、辛うじて「ボルドー産」という意味合いの単語は理解できた。1998年産ということは、相当古いワインなのだろう。流石に事件現場でワインを飲む訳にはいかないので、スマホでラベルを撮影した上で、私は元あった場所にワインを戻した。
それから、ラベルの写真を善太郎のスマホに送信した。――既読はすぐに付いた。
というか、よく見ると部屋の写真にも既読が付けられていた。すぐに既読が付いたということは、やはり――何か証拠を掴んだのだろうか?
そんな事を思っていると、善太郎からメッセージが送られてきた。
――このワイン、見たことあるぜ? ボルドーでも有名なワインだな。時価100万円はくだらないらしいぜ?
――それはともかく、事件現場にも同じラベルのワインが残されていた。ボトルは空っぽだったが、恐らくグラスに注がれていたワインがソレだろうな。
――とにかく、これは重要な証拠だ。
――お前の証拠、大阪府警にも提出するぜ?
メッセージはそこで終わった。――とにかく、これは「でかした」のだろう。私は小さくガッツポーズをした。
しかし、これで事件が解決した訳ではない。もしかしたら、連続殺人事件へと発展する可能性も考えられるのだ。殺人事件の頭に「連続」が付いてしまうことを阻止するためにできること。それは一体なんだろうか?
そんな事を考えているうちに、浅井刑事の電話が終わったらしい。
浅井刑事は話す。
「広瀬さん、大阪府警で中川智也を指名手配したそうです。――これで、あなたの出番は終わりです。後は僕たち兵庫県警と大阪府警に任せて下さい」
「分かりました。――それでは、私はこれで」
まあ、そう言われるだろうなとは思ったけど、事件は呆気なく解決してしまったことになるのか。もうちょっと難事件になると思っていたので、私は拍子抜けしてしまった。
タワーマンションを後にして、バイクで2号線を芦屋方面へと走り抜けていく。
11月となると、やはり外の風は冷たい。西日は既に落ちかけていて、なんだか物悲しい色をしている。そういえば、「心が悲しくなる」という理由で私は11月の夕暮れが嫌いだったっけ。物悲しい色の空の中、バイクは西宮を抜けて芦屋へと入っていった。2号線は夕方といえども車はほとんど走っておらず、私のバイクの排気音だけが鳴り響いている。そして、芦屋川沿いにあるカトリック教会を目掛けて走る中で、私は考え事をしていた。
私はただの小説家であって、探偵ではない。探偵は飽くまでも明智善太郎という人物である。でも、あの胸糞悪い事件はほとんど私が解決したようなモノであり、善太郎は最後のアシスト――即ち、来島家が隠し持っていたサリンという名の毒を闇から光へとさらけ出す行為――を行っただけである。
結果的に、私のせいで柘家も来島家も崩壊して、来島海運は民事再生法を適用して倒産。柘家の1人息子だった柘卓也は西宮に住む親戚の家へと引き取られることになったらしい。
世の中には「知らないほうがいいコト」があるとは言うが、私があの事件で開けてしまったパンドラの箱は、まさしく「知らないほうがいいコト」だったのかもしれない。
やがて、バイクは芦屋川沿いへと辿り着いた。カトリック教会から曲がれば、アパートまですぐそこである。
芦屋川沿いにある古びたアパート。名前は「メゾン・ド・芦屋」とかいうありふれた名前だったか。2階建てのよくあるアパートで、築年数は35年。つまり、阪神間を黒い煙に包んだ忌々しい震災は辛うじて生き抜いている。そんなアパートの2階の一室が、私の家であり、仕事部屋でもある。
バイクを駐輪場に停めて、アパートの階段を上がる。
202号室が私の部屋で、鍵穴に鍵を差し込んだ。「ガチャリ」という音を確認した上で、私はドアを開けた。
――ゴツン! という鈍い音がした。
「イテッ! ……ああ、広瀬さんですか。私の不手際でこうなってしまってすみませんでした」
どうやら、隣人――203号室の住民の額にドアを当ててしまったらしい。私は隣人に謝った。
「ごめんなさい……これで通算5回目ですね……」
隣人は、頭を掻きつつ話す。
「いや、良いんですよ。ボーッとしていた私が悪いんですし……」
203号室の隣人――名前は「小宮仁美」という。
職業は芦屋市内の中学校の教師だが、なんとなく私の推しのアーティストの本名と名前が似ていて、私は彼女に対して勝手に親近感を抱いていた。
小宮仁美は話を続けた。
「あっ、広瀬さんの最新作、読みましたよ! 今回も寶井灰斗くんはかっこよかったですね! なんでも、3年ぶりのシリーズ新作だったとか」
確かに、「柘榴石の殺人」事件の直後に溝淡社ライト文庫で発刊された小説の主人公は「寶井灰斗」というオカルトオタクの私立探偵であり、彼が京都北部で徐福に関する謎を追ううちに連続殺人事件に巻き込まれる話だった。――若干、あの事件に引っ張られつつも原稿は書ききった。ちなみに、長編の『寶井灰斗シリーズ』としては第6作となる。
小宮仁美の話に対して、私は謙遜しつつも感謝の気持ちを伝えた。
「それはどうも。――私の小説を読んでくれる人間なんて、余程のモノ好きだと思っていますけど」
私がそう言ったところで、彼女は――私のネガティブな言葉をやんわりと否定した。
「いや、そんなことはないですよ? 私は広瀬……じゃなかった、卯月先生の柔らかくも退廃的な文章が好きですし」
「そうですか。――いい加減、部屋の中へ入らないと」
「そうでしたね。何か、呼び止めちゃってごめんなさいね」
「大丈夫ですよ? 私、このアパートに引っ越してから話し相手がほとんどいませんでしたし」
そう言って、私は202号室の中へと入っていった。ちなみに、小宮仁美はどうやらコンビニへ煙草を買いに行きたかったらしい。
部屋の中に入って、とりあえず――黒いライダースジャケットを脱いだ。それから、冷凍庫に入っていた冷凍パスタを取り出して、電子レンジで温めた。
電子レンジのタイマーが切れたタイミングでパスタを取り出し、カップスープと共に食べることにした。袋を見ると「いかと明太子のパスタ」と書いてあった。確か、JR芦屋駅の隣にあるスーパーで178円だったか。芦屋という土地を考えると若干チープだが、私のような売れない小説家だとこれでも十分ご馳走である。
パスタを食べつつ、ダイナブックの画面を見る。
私はテレビを持っていないので、新しい話題を入手する手段は大半がSNSかネットニュースである。というか、「まともな情報が手に入らないテレビなんて持っていても碌なことがない」と思って数年前にフリマアプリで売り払うことにした。――利益は二束三文であり、送料の方が高くついてしまった。つまり、早い話が赤字である。
――あれ? これって……。
私がクリックしたニュースは、朝売新聞関西版の「女性殺害事件 容疑者死亡」というニュース記事だった。
記事には「広告代理店勤務の女性を殺害した罪で指名手配されていた中川智也容疑者(31)が自宅で死亡していた」と書かれていた。――どういうことなんだ?
困惑する私をよそに、スマホが短く鳴った。メッセージの送信主は、当然善太郎だった。
――すまねぇ、中川智也が殺された。
――悪いが、オレにも事件の詳細が分からねぇ。
――ただ、一つだけ言えることは……大阪府警も兵庫県警も突然の事態に困惑していることだ。
メッセージはそこで終わっていた。
善太郎が言う通り、容疑者として指名手配していた人物が何者かに殺害されたという事実がそこにあり、そして――警察は困惑している。
善太郎や警察が困惑している以上、私はもっと困惑している。どうしたものなのか。
件のニュース記事を読む限り、中川智也の自宅は大阪府箕面市にあるらしい。ということは――やはり大阪府警の出番なのか。どうせ、私の出る幕ではない。
そんなことを思っていると、再びスマホが短く鳴った。
――さっきのメッセージに追記だ。
――お前、水浦阿佐美の部屋にあった赤ワインのボトルの写真をオレに送っただろ?
――大阪府警の話だと、そのボトルは中川智也の家でも見つかったらしいぜ?
――当然、事件現場には赤ワインと紫色の石が置いてあって、中川智也は安らかな顔で眠っていた。
――どういう理由があって犯人がこんなことをやっているかは分からないが、多分……「キリストの奇蹟」に対する見立てだと思うぜ?
なるほど、そういうことか。
私が立志館大学で耳にタコができる程聞いた「キリストの奇蹟」。その中でも妙に印象に残っていたのは「水をワインに、石をパンに変える」とかそういう話だったな。大学の理工学部を専攻していた私は、「質量保存の法則上あり得ない」なんて思っていたけど、「キリストの奇蹟」なら仕方がない。確か、聖書学の教授――牧師――はそんなことを言っていたか。
仮に、ワインが血液のメタファーだとしたら、この殺人事件は「奇蹟」なのか。そもそも、2人の死因は分かっていない状態である。遺体は安らかに眠っていたというが、外傷がないとなると――やはり、「不可能犯罪」なのか。
世の中には「不可能な犯罪なんてない」と言うけれども、誰がどう考えても不可能な犯罪と言わざるを得ない状況が発生してしまうことがある。それを解決するのが刑事や探偵の仕事なのだが、私は――ただの売れない小説家である。
そんな私にできることといえば、善太郎や浅井刑事、大阪府警のまだ見ぬ刑事の手助けをするだけであり、事件を解決することではない。
ただ、先日の「柘榴石の殺人」事件では、どういう訳か私が事件を解決したことになっている。――善太郎がそう言うのだから、間違いない。
もしかしたら、またしてもエラい目に遭うかもしれない。そう思った私は、溜め息を吐きつつ――ダイナブックの電源をシャットダウンした。