六角氏の現状把握
会話をうまく描写できないのが最近の悩み。
資格勉強のため更新遅れます。
1545年3月 観音寺城
三雲定持は定頼から出頭の命をうけ、定頼のいる部屋に入る。そこには、定頼だけではなく、六角義賢もいた。定持が着座すると、定頼が口を開いた。
「定持。薄々気が付いているかもしれないが定持に儂の孫亀寿丸の守役の任を任せたい。どうか受けてくれぬか。」
「御屋形様、亀寿丸さまは既に立派な受け答えが出来ると聞いております、わたくしめのような者の指導はいらないのではないでしょうか。もし、必要だとしても、進藤殿や後藤殿などの他に適役と思われる方が多くいらっしゃいます。私以外でもよいのではないでしょうか。」
「進藤は他家との折衝で忙しく、役柄故に京などにも出向かなければらん。後藤は義賢の腹心として支えて貰っているので両者とも守役をやるだけの余裕がない。他の蒲生、目賀田も同じく余裕がない。他の家臣だと家格が低すぎる。そこで白羽の矢が立ったのが定持お前よ。」
「御屋形様が言われた、余裕があるのも理由の一つだが幕府ともある程度の繋がりがあり、明との交易も行っている事も御屋形様が定持殿を選ばれた理由です。」
「儂はもう51歳。残りの人生は長くはない。亀寿丸が将来の六角氏当主として、重責に耐えうる男子に成長する種をまくことが義賢に出来る最後の餞別となる。どうか守役の任を受けてはくれまいか。」
定頼はそう言うと深々と頭をさげた。定持は慌てながら定頼に頭を上げるように促す。
「御屋形様、義賢様が深く考えた結果この三雲定持に亀寿丸様の守役を当てられた事が良くわかりました。御屋形様自ら頭を下げられてしまっては断ることはできませんな。この不詳三雲定持、全身全霊を持ってやってまいります。」
定持が納得し、意気込みを表明する。定頼、義賢は亀寿丸を頼むぞと声かけて定持を部屋から下がらせた後、それぞれの職務に戻っていった。
1545年4月
遂に俺にも守役が付くことになった。寺での勉学を頑張ったかいがあった。最も崩し字や文法にはとても苦労したが...今は、祖父と父と共に守役となった人物を待っている。祖父曰く、「珍しいもの、新しいもの好きなお前には適役である」との事。親子三代水入らずで会話をしていると、部屋の外から声が掛かった。どうやら守役が部屋に到着したらしい。
「部屋に入れ。」
祖父の一言で部屋の外にいた人物が部屋に入ってきた。上座に座る祖父に拝礼し、次に父に拝礼しその隣に座る俺と向き合った。父が横からどの様な人物か説明をしてくれた。
「亀寿丸、お前の目の前にいるのは我が家中の重臣三雲定持である。明とも交易をしており舶来の品などに詳しい。それに商いにも秀でておる。お前は定持を師、父として仰ぎ、教えを乞うのだ。」
「はい。父上。」
「義賢様に紹介を受けました、三雲定持であります。非才の身でありますがこの定持の知恵、経験を亀寿丸様に余すことなく教えていく所存。よろしくお願いいたしまする。」
「まだ、右も左も分からぬ幼少の身、父六角義賢の言われた通り三雲定持殿を我が師、亜父として仰ぎ将来の六角家当主としての人格、見識を養わせて頂きます。」
そう言って三雲定持に深々と頭を下げる。数秒間頭を下げたのち頭を上げると三雲定持は少し驚いたような顔を、父義賢は想定内な顔を、祖父定頼は何を考えているのか分からない微笑を浮かべていた。
これが、俺の守役であり、最大の理解者、内政外交など当主としての必要な見識を教えてくれた三雲定持との出会いであった。
1545年 観音寺城 5月
守役となった定持から色々な事を教わる日々が始まった。
この図が示しているのは、我が六角氏との関係が深い地域だ。伊勢北部は梅戸氏に祖父定頼の弟高実が養子として入っており、他の北伊勢国人も六角氏の被官となっている、
伊賀北部は六角氏被官の国人が多くおりこの地域も六角氏の強い影響下にあるといえる。中部は伊賀仁木氏、南部は伊勢北畠氏の強い影響下にある。
最後に我が六角氏の領国である近江についてだ。近江国は中央に存在する琵琶湖によって北部と南部に大きく分かれる。そして、我が六角家は近江南部に大きな勢力圏を持っている。対する近江北部はかつて京極氏が領有していたが、家督争いで没落し、家臣の浅井氏が台頭した。しかし、その浅井氏も1538年、祖父定頼、父義賢に小谷城まで追い詰められたことにより我が六角氏に対して劣勢となった。そして、浅井亮政から家督を継いだ浅井久政が遂に膝を屈し自らの正妻とお腹の中にいる子供を人質として差し出した事により、近江一国を完全に支配することになった。
これらの事を教わりながら、忘れぬように紙に書き纏める。しかし、最近は城内が少しずつ騒がしくなっている。このことを定持に訪ねる。定持曰く、今摂津を中心として1543年から細川晴元と細川氏綱が争っている。その細川氏綱が南山城で軍勢を動かしたことにより、細川晴元が祖父定頼に援軍を要請し、それに応えるための軍勢を集めているからだそうだ。
この細川一族の内輪もめは最終的に晴元が、勝利する。しかし、1549年江口の合戦で三好長慶に敗北したことで京を放棄し、近江に没落する結果になるはずだ。
現状としては、細川晴元を支援する為の軍勢を集めている事以外に、六角氏は対外関係に問題を抱えていない。また、現当主である六角定頼が病み上がりである影響から活発な行動をとらず、将軍から持ち込まれる所領の裁定などに注力しているのが現状である。
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