大寧寺の変3 中国情勢複雑奇怪
そういや尼子がいた事忘れていたわ。
1551年 9月 観音寺城
陶隆房謀反の報を聞いてそういえばそんな時期だなと他人事に考えていたら、六角氏所有の船が大内義隆達を拾って石見まで運んだとの情報が入ってきた。
「若様、大内が内乱で家中が混乱している話、お聞きになりましたか。」
「ああ、我々が所有している船団が大内義隆殿を助け出したこともな。」
「若様は耳が早いですな。大内義隆殿直筆の感謝の書状に加え二条関白殿の書状が御屋形様に届いたそうですぞ。」
さらにつらつらと話す三雲定持を横目に、手習いの文字の書き写しをやりながら、これから西国で起こるであろう事を予測する。
(このまま西国では大内義隆が盛り返すか、そのまま陶に討ち取られるかで大きく未来が変わるだろう。ただ両方の道で言えることは、この混乱は、祖父定頼の命が尽きるまでには収束しないだろう。どっちみち、三好とは父義賢の代で和睦しなければなるまい。)
「若様聞いておられますか?このような、重大事が起きた時、若様自ら筆を取られ文を書かなければならない時が必ずや来るでしょう。その時に恥をかかぬためにも綺麗な字を書けるようになっておかなければなりませぬ。」
話がいつの間にか、俺への説教に変わっていた。
「しかし、言うのは容易いが、実行すると中々上手く行かぬ。」
「それは若様の努力が足らぬだけ。某も御屋形様の様な美しい文字を書けと言っている訳ではありませぬ。将来の若様が恥をかかぬようにと思い、某は厳しいしく指導しておるのです。どうかお分かりください。」
そう言って深々と頭を下げる定持に俺は渋々わかったと言いながら、文字を書くしか無かった。
同年 10月 山口 陶隆房
「陶隆房朝敵となる」との報は、大内義隆の手によって瞬く間に西国・九州各地に伝わることとなった。それにより、日和見を決めていた国衆は、大内義隆側に付くこととなった。
陶隆房に付いた国衆内でも、大内義隆側と連絡を取るものが現れ陶隆房は、疑心暗鬼になっているようだ。
「おのれ義隆!俺が朝敵だと!」
陶隆房は、家臣より渡された檄文を読んで怒り狂う。彼にしてみれば、これから自分に反抗する勢力を潰していき、権力を確固たる物にする為の第一歩で大きく躓いたのである。
(義隆派の公家を数人殺しただけで済ませてやったのに。皆殺しにすればよかったわい。配下の国衆の知行地の保証、自筆の書状を送り何とか求心力を保たないといかん。)
「筆と紙を持ってこい!」
陶隆房は、紙・筆を持ってこさせ石見一の大勢力を誇る益田藤兼を筆頭に石見守護代問田隆盛や小笠原長雄といった味方する国衆に、大内義隆を匿っている吉見正頼やそれに味方する三隅氏を最と激しく攻めるように求める書状を書く。
(大友から大友晴英を迎え早く新たな当主になってもらい、一応の我らが担ぐ神輿を作らねばらん。でないと我らの大義を示すことができん。)
同月 月山富田城 尼子晴久
「今の大内の混乱は天の助け。更に、混乱は長引く気配がすると来た。大内からの援軍が来ない今、美作・播磨・備中・備前は切り取り放題!」
この大内の混乱で最も得する立場となった尼子晴久は、今まで大内に圧迫されていた鬱憤を晴らすが如く西美作に侵攻した。
西美作最大の勢力である三浦家当主三浦貞広を幼少であることを理由に出雲に送くらせると、叔父の大河原貞尚・重臣の牧尚春を指揮下に置くことに成功した。
そして、反尼子を鮮明にしていた元美作守護代であった中村家が中山一宮を拠点に諸勢力を糾合しているのを、三浦家を先陣として攻めることとした。
そして無事中村家を拠点としていた一宮・中山神社を焼き討ちし、これを滅ぼした。この勢いに乗り、備前に攻めこんだ。備前国主浦上政宗は、大内からの援軍がない今為す術なく尼子晴久に服属した。
尼子晴久は、僅かな期間で美作・備前の2カ国を切り取った。10年前の郡山合戦で失った勢いを取り戻しつつあった。
同月 安芸国 郡山城 毛利元就
「皆の衆、儂らは、これからどのような進路を取れば良いか?皆の意見聞きたい。」
当主毛利元就は、目まぐるしく動く情勢を何とか切り抜ける為に家臣を自らの城に集め意見を求めた。
「父上、義隆様が生きており陶が朝敵となった今、取るべき方針は1つしかありませぬ。すなわち、大内義隆様への忠節を誓い陶と敵対するのです。」
「殿、私も隆元様と同じ意見であります。このまま陶に味方すれば我らも朝敵との誹りを免れることは出来ないでしょう。」
「隆元、志道広良も同じ意見か。他の者はどうだ。」
「某も、志道殿の意見に参戦でございます。」
「福原もか。されど我らは乱の当初義隆殿に御味方する勢力を尽く討ち尽くした。そのような我らを義隆殿はお許しくださるだろうか?」
「父上と私が頭を丸め、私を人質として差し出せば、心の広い義隆様は許してくださるでしょう。」
「殿、我らは今や安芸一国を纏めるような存在になりました。我らの帰参は、大内にとってもありがたいはず。もし駄目であれば、独立しましょう。厳しい道だとしても我ら家臣一同殿をお助けしていく所存であります。」
「分かった。義隆様に服属の手紙をだそう。」
息子の隆元、家臣の福原・志道達に説得され陶隆房から大内義隆へ鞍替えすることを決めた。息子の毛利隆元を使者として、送ることを決めた。
喉やっているので更新遅れます。
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