41.今までとは違った生活
今度の眠りは浅かった。
瑠璃媛命は一月ほどで目を覚ました。
月夜の晩だった。
瑠璃媛命のいる湖底にまで優しい月明かりが差し込んでいた。
いる。真っ先に調べたのはそれだった。
夜だというのに湖の近くに、少年の気配が未だに感じられた。
意外だった。
しばらく姿を現さねば人里に帰ると思ったのに、どうやら律儀に瑠璃媛命の言いつけを守り、湖の周りを見張っているらしい。
馬鹿なやつじゃ、と瑠璃媛命は半ば呆れた。まさか瑠璃媛命の言ったことを真に受けるとは。
どんなことがあろうが瑠璃媛命には大したことではないし脅威にはならない。
湖を見張るなど完全な時間の無駄だ。
人間は寿命が短いというのに、そのように時間の無駄をするなどよほどの阿呆らしい。
どれ、からかってやろうかと瑠璃媛命は水上に分体を飛ばした。
人間の、美しい女性に化かした分体だ。
龍の瑠璃媛命とは比べるべくもないが、それでも人間にとってはさぞ美しいと映ることだろう。
にひひひと瑠璃媛命はほくそ笑む。
脅かしてやるか、それとも誘惑でもしてやるか。
少年の態度でそれは決めようと考えていた。
本体は湖底で横たわったまま、分体に意識を同調する。
少年のいる湖の西側へと歩いていく。
足で歩くというのはなんと不便なのだろう。
飛んでいくほうが遥かに早いが、それでは人間ではないとバレてしまう。
瑠璃媛命は忍耐強く歩いた。
忍耐強くと言っても数分であるのだが、それは瑠璃媛命とって大変な意思の力が必要であった。
我慢の限界値が極めて低いが故に。
少年の姿が見えた。
少年からは、瑠璃媛命の分体がまだ見えていないようであった。
夜目がきかないのだ。
仕方なしに瑠璃媛命はさらに近づくと、ようやく少年は瑠璃媛命に気付いた。
さてどういった反応が来るか。
瑠璃媛命は笑うのを我慢して、できるだけすまし顔をして近づく。
これだけ近ければ、月明かりで顔が見えるはずだ。
少年は瑠璃媛命の分体を見て目を見開き、跪いた。
「大天霊尊様! 湖に異常はないようであります!」
「なんじゃと……」
「私がわかる範囲では、です。大天霊尊様のような全知はない故、見逃していることもあるやもしれませんが……」
「そちはなぜ妾がすぐにわかった?」
「それは大天霊尊様が龍の御姿である時と同じ、美しい翡翠色の瞳をしているからであります」
瑠璃媛命はニヤリと笑った。
「そうかそうか! 妾の美しさは分体になろうともその本質を伝えてしまったか!」
「はい、大天霊尊様の分体も、天女のように美しゅうございます」
瑠璃媛命は割りとチョロかった。
「主はなかなか見どころがあるぞ、名はなんと申す?」
「空羅と申します」
「よし空羅よ、妾が主に修行をつけてやろうぞ」
「本当でございますか!!」
「明日から妾が主を鍛えてやろう」
「ありがとうございます!!」
昔々にいたのだ。
瑠璃媛命に修行をつけてくれと言う修験者が。
この申し出は、そこからの発想であった。
面白そうなおもちゃが手に入った。
修行と称し、適当に遊んでやろうではないか。
瑠璃媛命の分体は隠しもせずに邪悪な笑みを浮かべていた。
「それから」
「はい! なんでございましょうか?」
「大天霊尊というのはやめろ。妾はその呼び名が好きではない。これからは瑠璃媛様と呼ぶが良い」
***
もちろん瑠璃媛命は修行のことなど何も知らない。
龍は生まれながらにして強い生き物で、瑠璃媛命はその中でも一際強かった。
修行なんてものはしたこともないし、教えたこともない。
だから適当にやった。
死ぬ寸前まで野山を走らせたり、死ぬ寸前まで模擬戦を行ってみたりとめちゃくちゃにやった。
それでも空羅は瑠璃媛命がどんな無茶を言ってもそれを実行しようとしたし、不平不満の一つも漏らさなかった。
意外なことに、この生活は楽しかった。
なんというか、事あるごとに瑠璃媛様、瑠璃媛様と寄ってくる空羅が、可愛らしく感じたのだ。
人間が動物を飼うというのはこのような気持ちからなのかもしれない。
色々な話をした。
瑠璃媛命は今までに経験したことを、空羅に聞かせた。
空羅は何にでも興味を示し、事あるごとに瑠璃媛命を賛嘆した。
空羅の方も、瑠璃媛命に人間の世界の話をした。
つまらない話もあったが、興味を惹かれる話もあった。
龍からしたら馬鹿らしい話や信じられない話も多かったが、全く違った世界の話というのは、聞く気があればたいていは面白く感じるものだと知った。
平穏な時が過ぎていった。
身近に誰かがいるというのは、悪くない気分だと瑠璃媛命は思った。
五年が過ぎ、十年が過ぎ、その頃にはもう空羅はすっかり大人になっていた。
ある晩の事だった。
空羅がいつになく真剣な面持ちで、瑠璃媛命の元に現れた。
「なんじゃ? 妾と一緒に寝たくなって来たか?」
「いえ、その……」
と空羅は口ごもった。
こういう空羅を見るのは珍しい。
あまり良い予感はしなかった。
「はっきり申せ」
「は! この空羅、しばしお暇をいただけないかと参りました」
意味がわからなかった。
「何を言っておるのじゃ?」
「私は瑠璃媛様に鍛えられ、かなりの力を手にしたと考えています」
「何を言うておる。主なんか妾に比べれば赤子のようなものじゃ」
「それは存じておりますが、人の世界では意味のある力です。私はこの力を使い、多くの人を救いたいのです!」
空羅が何を言いたいのか、瑠璃媛命にもようやくわかってきた。
要するに、空羅は瑠璃媛命から離れたいのだ。
瞬間的にキレた。
瑠璃媛命は空羅ごとこの湖周辺を消し飛ばしたい衝動に駆られた。
話をしていたのが分体でなければ、本当にやったかもしれない。
その代わりに、瑠璃媛命は感情のままを口にした。
「そんなに妾から離れたいか!! ならば好きにせい!!!!」
それで終わりだった。
瑠璃媛命は話していた分体を消し、空羅の前から姿を消した。
残ったのは、湖底に眠る、巨大な龍だけであった。