3.どこへでも、望む場所へ
日中、リクウは誰の見送りも受けずに光岳寺を出た。
傍らにはルリがいる。
リクウの出で立ちは黄土色の僧服で、右手には木製の杖を持っている。
左の肩には片肩掛けの背負かばんを背負っていた。
リクウは山門の階段を降り、無言で山道を進んでいく。
「のう……」
「なんだよ」
「妾のこと、恨んでおるか?」
なにを言ってるんだコイツは、とリクウは思った。
あれだけ強気な言動をしておいて、今更気弱にでもなっているのか。
着いてきているルリに目を移すと、信じがたいことにルリはふよふよと浮いていた。
地面に足をついておらず、遅くも早くもない速度で宙を浮きながらリクウに着いてきていた。
「おま、それ、どうなってるんだ?」
「? なにがじゃ?」
「浮いてるだろうがよ」
「ああ、そりゃあ浮くじゃろう、妾じゃからな」
とルリは謎の理屈を口にして誇らしげにしている。
人間ではないのはわかっていたし、妖魔の類でもないとは思っていたが、さては幽霊の類か。
リクウはルリに近づき、両の脇下に手を入れて掴んだ。
驚くほどに軽かったが、実体はあった。
「ちょ、女子の体にいきなり何するんじゃ! しつれ……」
抱っこをするような形で左右に振ってみる。
「ああああああ、やめろおおおおお、妾であそぶなあああああ!」
幽霊でもなさそうだと納得してからリクウはルリを開放した。
コイツはいったい何者なんだろう。
「はあ、はあ、まったくとんでもない坊主じゃ!」
「いやなに、ふよふよ浮いてるんで幽霊かなにかかと思ってな」
「わらわをそんな低俗なものと一緒にするでない!」
「じゃあいったい何者なんだよ」
「ひみーつじゃ!」
出たよ。
リクウは諦めて先へと進む。
ルリがいるからと歩調を緩めていたが、この分だとそういった加減は必要なさそうだった。
「なあ、どこに行くつもりなんじゃ? 山を降りるのではないのか?」
「ちょっと寄っていきたい場所があってな」
旅立つ前に、見ておきたい光景があるのだ。
八昇山は標高の高い山で、山頂付近では草木はほとんどない。
延々と続く山道をリクウはひたすら歩き続ける。
日は頂点に達し、暖かさが感じられるようになってきた。
「のう、さっきの話じゃが……」
「恨んでるってやつか?」
「それじゃ、やっぱり怒っておるか?」
「恨んでねぇし怒ってねぇよ」
完全な本当とは言えないが、嘘ではなかった。
リクウは歩みを緩めることなく話した。
「そうか? ほんとうにか?」
「如尊に誓って本当だよ」
「そうか? そうじゃな?」
とルリの声に元気が戻ってきた
「なんじゃ! 安心した! こんなにかわいい妾がいるのに全く喋らんとは、怒っとるのかと思ったわ! リクウは無口なんじゃな?」
「あのなぁ、人に取り憑いてきたよくわからないなにかと面白おかしく喋るってのはすぐには無理だろ」
「もしかして照れとるのか? しょうがないやつじゃな」
「はいはい照れてれてるよ」
そこからはリクウが喋ろうとしなくとも、ルリはひっきりなしに話かけてきた。
「なあ、あれはなんじゃ?」
「今の帝は誰じゃ?」
「のうのう、山を降りたら妾は飴が舐めたい」
適当に返事をしてながらリクウは先を進む。
山を降りる頃に日が暮れてしまうのはまずい。
今のところかなり余裕はあるが、何が起きるかがわからないのが山だ。
リクウは八昇山から繋がる尾根を進む。
その先には岩壁がある。
尾根の行き止まりには垂直に近い山があった。
九天山だ。
峰霊山脈の中では最も高い山で、最も霊験あらたかであると言われている。
岩壁の手前まで来てリクウは立ち止まる。
「お前は、浮いて上まで来られるよな?」
「お前じゃなくてるーりじゃ!」
「……ルリは浮いて上まで来られるか?」
「妾を置いていこうという腹か?」
「そんなわけあるか、もう受け入れてるよこの妙な状況を」
すると、ルリはなにやら口元をもぞもぞさせていた。
むふふ、と妙な笑いが漏れているあたり、まさか嬉しかったのか。
「気にせず登るが良いぞ」
「じゃあそうさせてもらうよ」
リクウは岩を登るというより、岩場から岩場を飛び移るように移動を開始した。
手足に霊気を漲らせ、まさしく超人が如き動きで岩壁をするすると登っていく。
その動きは人というよりも、山岳地帯に生きる野生動物を彷彿とさせた。
あっという間に頂上についた。
リクウは平たくなっている場所を探しては腰を降ろしてあぐらをかく。
ルリが遅れてふよふよと浮いてくる。
腰が霊力の支点になっているのか、腰を中心に体を折って浮いている姿は、なにかに釣り上げられているようでどこか間が抜けていた。
ルリが着地し、リクウの横に座った。
「して、なんでこのような場所に来たんじゃ?」
「なんでって、見ろよ」
視界一面には、青すぎる空があった。
眼下には、白い雲が広がっている。
白い雲の切れ目からは樹木の緑がのぞいていた。
八昇山の光岳寺もここからは良く見えた。
東塔に西塔、本堂に練武場、坊舎に鐘楼に山門まで見て取れた。
リクウが十の時に寺に入ってから、十六年を生きた場所だ。
「良い景色じゃの」
「だろ」
「ん? まさか景色を見に来たのか?」
「それ以外に何があるんだよ」
「いや、ここはかなりの霊地ゆえ、この力で跳びでもするのかと思うてな」
「なんの話だ?」
「なんの話だって、何もわかっとらんのか? まさか本当に観光か?」
「観光だよ、見ろよこの景色を。こんな絶景を見られる人間がどれだけいると思ってるんだ」
リクウはしばし眼前の光景に見惚れていた。
景色を楽しみたい、それが主な目的ではあったが、考えをまとめるためでもあった。
「して、主はどうするつもりなんじゃ? これから」
「それを今考え中だ」
いきなり好きに生きて良いと言われたらどうするか。なかなかに難しい問題だ。
光岳寺の僧として生涯を過ごすつもりが、昨日の今日でいきなり人生の全てが変わってしまったのだ。
リクウは図太い方だと思うが、それでもいくらか衝撃は受けていた。
これからどうするのか。
楽しく生きたいとは思う。こうして良い景色を眺めるだけでも信じられないほど心地よい気分になる。
旅をして、色々な経験をしたい。色んな場所で色んな景色を楽しみ、色んな経験を楽しむ。それだけでもこれからの人生を十分に楽しめるような気はしている。
それと、人助けか。
リクウには、それなりの力がある。そんじょそこらの妖魔になど負けはしないし、人間にだってそうそう負ける気はしない。
この力を人のために使うのは武僧としての役目だ。
景色からルリに視線を移す。
ルリは静かに眼下の雲を眺めているようであった。
こうして喋っていないと、中身が決して子供ではないのを確信できる。
背丈も見た目も十歳かそこらといった感じなのに、可愛らしいではなく美しいと感じさせるのはどうかしている。
――――その童女を払う方法を探すも良いじゃろう。
ジュテン僧正はそう言っていた。
それはどうだろう、とリクウは思っている。
今のところルリはうるさいだけで害があるようには思えない。
それに、旅の道連れがいるのは悪いことではない。
慣れれば割と楽しくやっていけるのではないかとリクウは楽観していた。
旅はする。
自分が楽しみ、人を助ける旅だ。
それができれば、これ以上望むことはないだろう。
できれば遠くが良い。外国を目指すのもいいかもしれない。
まったく見知らぬ土地で、見知らぬ人間と関わりなにかを成す、それはいかにも楽しいことであるよう思えた。
「外国!」
「は?」
「決めた。今決めた。外国に行こう」
「そうか、まあ主が決めたなら別に止めんが。やはりここには跳びに来たのか?」
「いきなりなんだ。自死なんてしねぇよ。したら楽土に行けなくなるだろうが」
「楽土? どうも話が噛み合ってないの。神足通があるのではないのか?」
神足通とは一瞬で望む場所に行けると言われる神通力である。
もちろんリクウにそんなものはない。
「ねぇよそんなのは」
「なら、妾が飛ばしてやろうか?」
「ん?」
「飛ばしてやろうかと言っておる。ここならお山の力を借りて行けるじゃろう」
「行けるって、外国へか?」
「どこへでも、望む場所へ」
「マジか?」
「マジじゃ」
ルリの態度から、リクウをからかっているようには見えない。
本当にこいつは一体何者なのか。
「もしかしてお前、神仙の類か?」
「ひみーつじゃ! どうする? どうしてもというならやってやらんでもないぞ?」
興味深い提案ではあった。
本当に神足通があるとすれば願ったり叶ったりではある。
仮に船旅で外国を目指した場合、半年以上はかかる過酷な船旅になるだろう。
船旅は死の危険も多いにある。そこまでして外国に行きたいかといえば、冷静になるとなかなか怪しい。
しかし、なんの危険もなく、即座にたどり着けるとしたら――――
「お願いします」
「なんじゃ? ようやく妾の尊さを理解したか?」
「はい、ルリ様の尊さを理解しました」
「妾はかわいいか?」
「はい、ルリ様はかわいいでございます」
ルリは喜ぶではなくむっすりとした顔をして、
「やめろ気持ち悪い! バカにされてるような気がするわ!」
「なんだよめんどくせぇやつだな」
「そうまで言うなら飛ばしてやろう。妾も外国は興味があるしな。してどこに飛ぶ?」
いきなり言われてもすぐには答えられなかった。
北出門は比較的近い大陸であり、無難ではあるが、こちらと文化が近い分あまり面白みがないかもしれない。
印苑和にはかなり興味がある。七光如尊の教えを伝えてくれた国であり、古くから関わりのある国だ。
奇をてらったところでは浪西涯か。聞いた話によれば、浪西涯では妖魔の王が打倒されたが、なにやらまだまだ国は安定していないらしい。それに浪西涯は酒が旨いと聞く。実際にそれを体験できる機会はかなり魅力的に思えた。
「浪西涯に行きたい」
「ろしゃあが?」
「遥か遠く、西にある大陸だ。無理か?」
「西? ああ、愚者の国か。なぜそこなんじゃ?」
「こういう機会がなけりゃあ生涯行くことのなさそうな場所だし、楽しそうじゃあないか。それに酒も旨いと聞く」
「楽しそうじゃから、それだけでそんな遠い異国の地に行きたいのか?」
「他に理由なんかあるのかよ、人生で」
ルリはしばし考え込んだ。
「ないかもしれんの。しかし酒か」
ルリはそう言って、呆れるような微笑みを浮かべていた。
「ほんに生臭坊主じゃて」