13.盤上遊戯
雨音が聞こえていた。
リクウは追い詰められていた。
はるか前に優勢は終わっていたにも関わらず、今になってようやく自らが劣勢だと気付いた絶望感に顔を曇らせる。
対するルリは、油断なく思慮深い瞳で盤上を見つめている。
もぎ取った優勢を盤石にするために、僅かな緩みも生じない気構えだ。
外は雨であった。
春の穏やかな雨が街を濡らしている。
外から聞こえるのは小さな雨音だけで、ひんやりと、しかしじっとりとした空気が宿の中を満たしていた。
リクウとルリはおばさんの宿屋にいる。
冒険者といえば、特別な依頼がなければ天気の悪い日は休みと相場が決まっている。
何をするにしても天候が悪ければ実入りが悪いものだ。
リクウはわざわざ依頼など受けるつもりは毛頭ないが、それでも雨の日に外出しようなどとは思わない。
そういったわけで、チェスなのであった。
おばさんの宿のラウンジで、坊主頭の男と愛らしい幼女が盤を挟んで熾烈な争いを繰り広げていた。
ラウンジはふんわりとした明かりで満たされている。
魔導ランプのおかげで、雨の日であるのに真昼のように明るかった。
ラウンジ内にはリクウたちと同じく、雨の日で予定の潰れた人間がまばらに時間を潰していた。
「引き分けにしないか?」
「なぜ勝ち戦を捨てねばならんのじゃ?」
「それはだな……」
「まあよかろう、この局はこれで終わりでも良い」
ルリが駒を戻し始める。
このチェスといったゲームを知ったのは割と最近で、宿で暇な時にはだいたいふたりはチェスをしていた。
先に知ったのはリクウの方だった。
リクウは真都揶でも将棋という似たような盤上遊戯をやったことがあったので、チェスはすぐにルールを把握した。
リクウはおばさんの宿に泊まる客と手合わせしてもほどほどの成績を残し、そう下手ではないと自負していた。
リクウは暇つぶしにルリにもチェスを教えることにした。
初めはもちろん勝負にならなかった。
大人げないことに、リクウはルリをこてんぱんにした。
手加減もなにもなく圧勝し、意地の悪い子供のようにルリをバカにした。
しばらくすると、なんとか勝負になるようになった。
相変わらずリクウの勝ちは揺るがなかったが、勝負の体はなしている。
ルリは負けるたびに悔しがるというよりは、勝負そのものを学びの一部のように振り返っていることが多かった。
次第に、引き分けが発生するようになった。
チェスは将棋と違って引き分けという要素が存在する。
ある程度勝負がつかないだろうと判断した場合は、両者の合意で引き分けが成立する。
それもひとつの決着の形として認められている遊戯なのだ。
そうして今日だ。
リクウは理解していた。
今の勝負が実質的な負けであったことを。
たぶん、続ければ負けていた。それは認めなければならない。
だが、実力で劣っているとは認めない。
リクウも光岳寺では将棋巧者として通っていた。
似たような遊戯であるチェスで、そうも簡単に越えられてたまるかと思った。
リクウはこういった遊びでは死ぬほど負けず嫌いである。
「もう一戦やろうか、今度は考慮時間をもうちょっと長くして。本気でやってやる」
「ほう? 今のは本気でなかったと申すのか? さてはやさしいリクウ様は妾にわざと勝ちを譲ろうとしてくれたのか」
ルリは意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべていた。
野郎ぶっ倒してやる。
盤上の駒を初期位置に戻す。
「先手はどっちじゃ?」
「お前が決めていい」
「では先手は譲ろう、言い訳できないようにな」
盤を挟んで、坊主頭と幼女が互いに頭を下げた。
「「お願いします」」
序盤の動きは定石として決まっており、二人はさくさくと指し手を進めていく。
二人の気迫が周囲に伝わったのか、ラウンジで暇を潰していた人間が次第に集まっていた。
いつの間にやら二人の勝負を見物する人間は、十人近く集まっていた。
ぬるりと、リクウは重量のあるものを持つような手付きで駒を動かす。
ルリが盤上ではなくリクウを見ていた。
その顔には不思議そうな色が浮かんでいて、本当にその手でいいのか? と問いかけているようであった。
「あ……」
緩手。それも致命的な。
堅牢なルリの守りをどう崩すかに集中して、リクウは普段ならあり得ない失敗を犯した。
今すぐではないが、五手後にリクウの女王が死ぬ。ほとんどただ取りに近い。
負ける。
このままでは間違いなく。
ルリが指し手を進め、リクウの手番が戻る。
ルリの表情は真剣で緩みがない。
このまま負けたら、リクウは自分の中で何かが壊れる気がした。
深呼吸した。
まずは七光如尊の御姿を思い浮かべて心を落ち着ける。
事態は劣勢。負けないためにはどうにかしてこれをひっくり返さなければならない。
リクウは浅い深呼吸を繰り返しながら盤上を見つめる。
考慮時間が無慈悲に過ぎていく。
リクウは方針を決めた。
ルリを挑戦的に睨みつける。
見ていろ。
ひっくり返してやる。
その時、ラウンジに姿を現す者があった。
「あれ、そんなところに集まって何やってんだい?」
おばさんだった。全員の視線がおばさんに集中した。
リクウを除いて。
リクウは動いた。
手品師の繊細さと、強盗の大胆さを持って。
全員の視線が盤を離れたその隙に、盤をくるりと回転させた。
文字通り局面をひっくり返したのだ。
全員の目が盤上へと戻る。
「ルリ、指したぞ」
気付いた者からドン引きしていた。
子供相手にそこまでやるか、そんな目でリクウの坊主頭を見ている。
ルリはと言えばリクウに冷ややかな瞳を向けていた。
「なるほど、いい手じゃな」
ルリの反応は、リクウの想像していたものと違っていた。
リクウとて、そこまでバカではない。
負けに等しい状況だったのは十二分に理解している。
それでも、ルリに負けました、と頭を下げるのは避けたかった。
だからこそ、これだった。
盤をそのままひっくり返してご破産にするよりはマシという手でしかない。
これに文句をつけるルリに対していちゃもんをつけ、なんやかんやで引き分けに持ち込むつもりであった。
ルリはするりと、軽やかに駒を動かした。
「ほれ、リクウの番じゃぞ」
局面は、圧倒的にリクウの有利になった。
そのはずだ。
それなのにこのルリの余裕はなんなのか。
リクウは必死に精神を落ち着ける。
相手がこれでいいというなら、そのまま続けるしかない。
リクウの有利は揺るがないが、その分絶対に負けられない戦いでもあった。
これでもしも負けてしまったら、リクウは卑怯で間抜けで果てしないバカということになってしまう。
リクウは絶対に負けるわけにはいかない。
リクウは震えそうな手で駒を掴んだ。
***
暗い。
夜。
リクウは自室で明かりもつけずにベッドでふて寝していた。
リクウは、卑怯で、間抜けで、果てしないバカになった。
悔しさにちょっとだけマジ泣きした。
ベッドにはルリもいる。
リクウの頭の側に座って、リクウの頭をペチンとペチンと叩いて遊んでいる。
「なに、そう落ち込むでない。妾が天才すぎるだけじゃて」
リクウは何も言えない。
ルリの小さな手がリクウの坊主頭を撫でる。
「よしよし、卑怯な上に弱っちいとはなんてかわいそうなんじゃ。妾が慰めてやるからの」
反抗する気も起きずに、リクウは不貞寝を続ける。
コイツは、いつか、絶対泣かす。
リクウの魂がそう叫んでいた。
チェス以外で。
リクウの魂がそう叫んでいた。
夜の宿屋の一室で、ぺちんぺちんといい音が響く。