元婚約者の横には、俺と同じ顔
国境沿いの森の中に家があった。振動の少ない馬車がごとごとと大きく揺れ、中に座っていた青年は顔をしかめっぱなしだった。やがて馬車が止まると、青年はサーベルを腰に差して家のドアを叩いた。はじめは控えめに、しかし、やがて出てこいと言わんばかりに大きな音で。片足でステップを踏むこと六百。ドアが開き、同じくらいの年頃の女性が顔を出した。
「殿下」
「中に入れてほしいのだが」
内側から開いた扉に、青年は遠慮なく踏み込んだ。
「しばらくほうぼうを探した。......息災そうで何よりだ」
「ご足労いただき、感謝感激に震えております」
言葉とは裏腹に、女性の顔はのっぺりとしている。とても再会を喜んでいるとは思えない、表情がなかった。
テーブルを挟んで二人は向かい合っていた。やがて、沈黙に耐えかねて青年が咳払いする。
「王室は正式に、貴女の名誉の回復を誓う。放校処分の撤回が具体的な名誉の回復だが、私個人は、もっと貴女を尊重すべく、貴女の家が行った追放に関しても、一言添えるべきと......」
「お引き取りください」
返事はにべもない。女性は変わらず感情の消えた顔で応対する。
「私は現在の生活に満足しております。ありもしない罪を着せられ、家を追い出されてここに流れ着きましたが、それまでの艱難辛苦はすべてここの喜びのためと信じております。私は今満たされているのです。過去を掘り返すような真似はお止めください」
「我が国はあなたを必要としているのだ」
「一度捨てた女をですか? 相応しい人はもっとおられるはずです」
「マリーナのことならば、彼女は......」
「断頭台に上ったと。それくらいは耳にしております」
「そう。公爵令嬢に罪を着せるという大罪によって」
「そして殿下をたぶらかした女としてですか。いずれにせよ、私にはもう関係のないことです」
「強情になるのはよくない。祖国はあなたを必要としている。過ちを認め、歩み寄ろうとしているのだ」
「私には既に国はありません。国を追われたとき、私の母国は消えたのです」
平行線だった。王子はいらだたしげに足踏みを繰り返した。この強情な女をどうやってこの薄気味悪い森から引きずり出して、国に戻せるのか。そんな彼の心境を見透かしたようにほうとため息をついた。
「既になんの肩書きもない平民として。率直な物言いをすれば、今さら、です。私はあなたの提供しようとするものになんの価値も感じません。私が望むのは平穏であり、ここにいることがすべてです」
「......かつての婚約者として、幼馴染みとして。私を助けてくれないか」
「それがどれ程みっともないか、今さら指摘が必要でしょうか」
王子は立ち上がった。机を回り、その細い腕を掴もうとしたが、その瞬間、彼女は露骨に顔をしかめてその手を避けた。
彼の動きが止まる。その目は薬指の指輪に向けられていた。とても貴族が贈るようなものではない、シンプルな安物の指輪。
「結婚しています」
王子のからだが震える。ごくり、と生唾を飲んだ彼は、血走った目で周囲を見回した。
「お望みであれば、お呼びしましょう」
「その必要はない」
王子の背後で声が聞こえた。反射的に振り返り、彼は凍りついた。
木こりの服をまとった自分がそこに立っていた。
「確かに顔は殿下に似ていますけれど、決してそれで彼に惹かれたわけではありませんので、ご安心ください」
固まる彼をふっと一瞥し、木こりの服の男は妻を庇うように立った。かつての婚約者は、そんな彼の胸元にそっと顔を寄せた。その幸せそうな横顔に、王子は手探りでソファに掴まった。
自分が逃した幸せがあった。自分ではない自分が、自分にそっくりな男が、かつての婚約者を己のものにしていた。
きっと復縁できるはずだ、かつての地位を、家を、すべてを元通りにさえすれば......そんな夢は、儚く散った。
視界にひびが入ったような気がした。
王子が消えてから、女性はゆっくりと肩を落とした。テイムしておいたスライムを撫でて、もとの姿へ戻していく。
結婚したというのはもちろん嘘だ。婚約破棄が人間不信になるほどのショックだったわけではないが、何となく、人間と付き合うのは疲れてしまう。
スライムに夫を演じさせたのも、その顔を王子のものと同じようにしたのは、言うまでもなく彼女によるものだった。希望を失った男は、過去にすがろうとする。しかしそこに、本来自分がいるべき場所に自分に似た男がいることこそが、男の心を折る方法だと、彼女は知っていた。
「このくらい、復讐にもなりませんわよね?」
一人でお茶を飲みながら、かつての悪役令嬢は呟いた。
「私は今回、私を守るためだけに、こうしたのですから」
その後、王子が家を訪れることは二度となかった。