呪いの日本人形
梅雨が明け、寝苦しさを感じる夜だった。
月の光に照らされ、一つの小さな影が背を伸ばす。
その影が向かう先は一軒の安アパート。
階段を一つずつ上がっていく。
そして、目的の部屋の前で立ち止まった。
鍵が開いた音。そしてドアが開き、その黒髪が風で揺れた。
一歩、一歩、しずしずと歩いて中に入っていく。
そして……隣人の悲鳴がアパートを震わせた。
そう、全ては隣人の身に起きていること。
始まりはある晩の事。
帰りが遅くなった私は重い足取りで歩いていた。
角を曲がり、我が家と呼ぶほどには気に入っていない安アパートが見えたとき
その敷地に並べられたゴミ袋が揺れた。
野良猫か、ネズミか。疲れてぼんやりとした頭でそう思った。
どうでもいいとも。だが、ゴミ袋が倒れた瞬間
恐怖で体が凍てついていくのを感じた私は咄嗟に電柱の陰に隠れた。
臆病者と笑うか? いいや、誰でもそうするさ。
そこから出てきたのが二つの小さな手だったのだから。
ガサゴソと中のゴミが擦れあう音。
そして黒い髪の毛がバサッと地面についた。
まるで死んだ母親の股から出ようとする赤子。
ズリズリとゴミ袋の中から這い出たのは日本人形だった。
黒と赤の着物、大きさは片手で掴めるぐらいだろうか。
そしてそれはアパートの階段を上り、私の隣の部屋の前で立ち止まったのだ。
それから起きたことは今夜のように捨てては戻ってくる、その繰り返しだ。
私はいつからかそのやり取りを楽しんでいた。
何故か? 単純な話だ。当事者ではないからだ。
恐怖はない。気楽なものだ。
映画やドラマ、演劇。体感型のリアルなショーに参加しているような気分だ。
隣人には悪いが、不満だらけの現実生活からの逃避からか
元々、そう言った類のものが好きな私にとっては最高の娯楽と言える。
お、隣人が出てきたようだ。階段を降りていく。
こうしてドアを少し開け
気づかれないようにオペラグラス、いや双眼鏡を片手に見るのが楽し……
あれは……鍋とティシュと、ダンボールそれにライター。
まさか火をつけるつもりか!
隣人は引きつった笑みを浮かべている。
強がり、というよりかはもはや限界が近いのだろう狂気のそれだ。
ダンボールを素手で千切り、ティッシュを放り込むとライターで火をつけた。
そして隣人は燃え上がったその鍋の中に人形を放り込んだ。
煙が立ち上り、嫌な臭いがここまで漂う。
……まあ、さすがに火には抗えないだろう。呪いの日本人形もここまでか……。
隣人も同意見のようで火が消え、白煙のみとなるのを
見届けると軽い足取りで部屋に戻った。
私はそっとドアを開け、外に出て鍋に近づいた。
日本人形は焼け焦げ、溶けたのか所々ブクブクと水泡のようなものができている。
髪は根元だけを残し、着物は殆ど燃え尽きた。
鍋の中に手を入れると威嚇するような熱が私の皮膚に噛み付く。
構わず私は日本人形を取り出し、胸に抱いた。
思い出が蘇る。初めて見た、あの夜。
小さな歩幅、小さな手で階段をせっせと上り、巨大なドアの前で立ち尽くすその姿。
どうにかドアを開けようとするあの子を見るに見かねて
部屋にある脚立を貸してやり、更にピッキングのやり方を二人で研究したあの時間。
結局その晩は開けられずに、ドアの前で隣人を迎えると決めたあの子。
そして、隣人にゴミ袋につめられたあの子を、ゴミ回収が来る寸前で救出した朝。
ピッキングをマスターし、ハイタッチしたあの夜。
全てが……そう全てが良い思い出だ。
「よく……頑張ったな……」
声の震え、それで自分が涙していることに気づいた。
日本人形が弱々しく手を伸ばす。私はその小さな手をギュッと握り締め
この子を一生大事にすると心に決めた。