Case.08 古い絵画
高等部に入学して早一か月。
何がどうなったのかはさておき高等部校舎に引っ越した俺たちは、早々に教授の研究室という放課後の溜まり場をゲットし入り浸っていた。
研究資料と教授が趣味で集めている変な物で溢れかえってはいるが、時折お使いと研究室の整理を手伝うだけで好きに入り浸っていいと御達しが出ているので好きにさせてもらっている。
ミハイル・ユーリエヴィチ・ジルコフ。エゲリア学園高等部人文学課程の教授で、骨董収集が趣味のオカルトマニア。今は席を外しているがその男がこの研究室の主である。
そういえばこの学園に入学してすぐの頃兄さんが会いに来たことがあったが、あの時俺のことを兄さんに知らせたのも教授だったとか。……あの人の知り合いかぁ。
別に兄さんがどうこうというわけではないんだが、あの人はあの人で不思議な人だから教授もどこかしら変わった人ではあるんだろう。
そんな主不在の研究室を特に理由もなくアンリエットと二人で見て回る。
別に俺たちは何かの目的があって集まっている訳でもなければ、約束をしている訳でも活動をしている訳でもない。
たまたま入学式当日にある自習室で会ったのを縁に、放課後の時間を適当に潰すためだけに同じ空間を共有しているだけの謂わば仲良しグループというやつである。だから集まる時は何もなくても四人全員集まるし、集まらない時は一人という場合もざらにある。
だからこうして、用事の無かった者同士暇つぶしがてらに教授の収集品を眺めて回っているのだが。如何せん年代物の美術品に紛れてどこかの部族が被っていそうな仮面だったり枯草を束ねて作った人形だったりと統一性がない。いや、ある意味あるのか?
「なんか色々すごいね」
若干含みがあったような気もするが、確かにアンリエットの言うようにすごいとは思う。よくこんなに集めたなとか、どこから集めてきたんだという意味でだが。
職員会議か何かの用事で教授が離籍しているのをいいことに好き勝手言いながら物色する。
「どこでこんなもん手に入れてくるんだよ」
「この前ロゼッタ先輩がカタログみたいなの持ってきてたよ」
「あの人も大概逞しいな」
多分だが中等部の自習室同様、この研究室に一番入り浸るのは俺とアンリエットになるだろう。ヒューバートは高等部でも学生会に声を掛けられているし、カザミはカザミで割とふらふらしている奴だし。
そうなると結局、従者の小言から逃げるために校舎内にセーフティルームを求める俺と、ご友人たちとのサロンがある日以外は俺に付き合ってくれているアンリエットがここの一番の利用者になるだろう。
俺としても話相手がいてくれるのは有り難いがもう少しアンリエットは自分の付き合いを大事にした方がいいと思う。
そもそもの出会いが例の悪戯妖精の一件で、それ以来何かと一緒にいることが多くなったが本人は別にオカルトやらに興味があるわけではないのが巻き込んでいる気がして申し訳ない。感覚が近いのでいてくれる分には俺の精神面で助かってはいるのだが。
ヒューバートは驚きはするが何とかしようという考えが先行するしカザミに至っては自分から突き回しに行こうとするので、同じようにビビってくれるのは俺の感覚が間違ってないとわかって安心する。
いやまぁそういった場面に遭遇しないのが一番なのだが、向こうから勝手にやってくるんから仕方がないだろう。
「なんだろうあれ」
研究室には様々なものが置いてある。古美術品のような大きな壺だったり呪われていそうな人形だったりとその種類は節操ない。
そんな中でアンリエットが壁に立てかけてある一枚の絵画を見つけて呟いた。
絵画と言ったが正確には何が描かれているのかはわからない。ただ言えるのはその絵は壁側に伏せて立てかけられていたということ。
細かな装飾を施された額縁は所々塗装が剥げて傷んでおり、それなりに古いものだというのが伺える。
ざっと研究室を見て回ったが、どの収集品もそれなりにきちんとした保管方法をとられているのに対し、ただ乱雑に埃を被らせたまま放置されたそれに妙な違和感を覚えた。
布でもかけておけばいいのに。そんなことをぼんやりと考えていたら横から手を伸ばされた。
「アンリエット」
その指が額縁に触れるかどうかの所で彼女の腕を掴む。
何故そんなことをしたかと問われればなんとなくとしか言いようがない。言語化は出来ないが、なんとなく、その絵を見たくなかった。
「リカルド?」
「あー、いや。なんか、うん」
曖昧に笑って、見るだけならともかく触るのはやめておこうと誤魔化しておく。理由らしい理由なんてない、ただなんとなく嫌だっただけだ。
本当になんで布でもかけて置いてくれなかったんだ。物理的に隠されていたらこの絵のことを意識しなくて済んだかもしれない。そうすればこの奇妙な嫌悪感も抱えずに済んだだろうというのに。
いつもより少しだけ深く息を吸い込んで何でもないふりをする。
とりあえずこの絵画から離れたい。掴んだままにしていたアンリエットの腕を引きそろそろ戻ろうかと声を掛ける。
見て回った所で何か言われるようなことはないが、この絵について詳しく聞きたいとも思えなかった。
「おや、そんなところにいたのか」
まぁ、そう思っている時ほど嫌なことは起こるもので。
振り返ればそこにはこの研究室の主が用事を済ませて佇んでいて、如何にも自分の収集品について語りたいという顔をしている。
「気になるかい?」
それ。と教授が壁に向けて伏せられた額縁を指差す。
「別に見たいとは」
「それはどうして?」
「どうしてって……理由は、特に」
あえて振り返りはしないがすぐ後ろにはあの絵画が置かれており、額縁の裏板がこちらを見上げているだろう。
光による劣化を防ぎたいのなら布を被せておけばいい。虫干しをするのなら額の中の絵を外に出しておくべきだ。しかしそうすることなくただ立てかけられているだけのこの絵画にはどういった意味があるのだろうか。
あの薄い板の裏にはいったい何が描かれているんだろうか。
明確な何かがあるわけではない。もしかしたらただの勘違いでなんともないのかもしれない。でもなんとなく、本当に少しだけ、嫌な感じがした気がした。
言いよどむ俺に教授は興味深そうに笑う。
「そうかそうか」
何がお気に召したのかはわからないが上機嫌に頷くとゆっくりと俺たちを追い越し立てかけられた額縁へと近づいた。
伸ばされた指が装飾に付いていた埃を払いぱらぱらと床に落ちていく。
「これはこの学園の卒業生が描いた絵なんだけどね。五回この絵を見ると死んじゃうらしいよ」
嬉しそうに言うな。
「え、死んじゃうんですか?」
「噂だよ噂、実際に僕は五回以上この絵を見てるしね」
なんてことない様に笑う教授にため息を吐く。
噂とは言えそんな物騒な噂の物をなんでその辺に放置しているんだよ。というか回数制限がある呪い? ってどうなんだ? なんか蓄積されるの?
「でも君はこの絵に何か嫌なものを感じたんだろう?」
研究室の中を舞う埃が窓から指す光に照らされて光る。静かな昼下がりに不思議な雰囲気が漂った。先ほど流れかけた穏やかな空気とは違う、どこか遠くで耳鳴りがするような、静かで穏やかで、それでいて張り詰めたような空気。
真っ直ぐに俺を見る教授の紫の目にそわそわする。この目はあれだ、アイツと同じ目だ。こういったオカルト染みたことに遭遇した時のカザミと同じ。
頭の片隅に今日はいないアイツを思い出す。理解の及ばないはずのモノに自分から突っ込んで行って突き回して遊ぼうとするタイプ。
正直危ないからやめて欲しい。言っても聞きそうにないとはわかっているが、見知った顔がどうこうなってしまうというのもいささか気分が良くないので結局るるーに頼ることになるのだ。
まぁ教授はカザミとは違って対処の方法を複数持っていると信じたい。本当ならわざわざ危険だと思われることに首を突っ込まないでいてくれるのが一番だが。
「リカルド?」
こちらを伺うようなアンリエットには悪いが、彼女には答えず笑う男を見つめ返す。
「だったらなんなんですか?」
我ながら愛想の無い返しだと思うがそうさせたのは教授の方なのでとやかく言わないでほしい。
試すような物言いはいくら目上の相手とはいえ面白くはないものだ。下級とは言え貴族の生まれなのでそのあたりのプライドはある。最も、そんなもので飯を食えるわけでもないので時には邪魔になることもあるのだが。
教授が目を細めて笑った。
「その感覚を大事にしなさい」
感覚とは。曖昧な言葉に思わず眉をひそめる。
つまりはどういうことだ? なんとなく嫌だと思ったこの感覚は正しく、あの絵画には俺にとって都合の良くないものが描かれていたということだろうか。そして俺は無意識のうちに危険として嗅ぎ分けていた、と。
あまりスピリチュアルな考え方は得意ではないのだが、そういう考え方があるというのは知っている。
何だったら魔術や精霊もそういった方面の考え方を元に発展していった学問だ。学生の身分としてそういったことも学んではいるが、履修しているからと言って得意なわけでもすべて理解できている訳でもない。
見えているからそういうものとして受け入れてきた俺としては、いきなり感覚的な話をされても正直困るし、どう納得していいかもわからない。
「人は目に見えないものを疎かにしすぎる。本当に怖いものはいつだって自分たちのすぐ隣にいるというのに、ね?」
くすくすと教授は笑う。本気で言っているのか、それとも単にからかわれているのか。
変わった人だろうというのは思っていたがこの人もカザミと同じで俺の苦手なタイプだったか。本人たちにとっては興味深いもの、未知なものであり、それを解き明かしたいだけなのかもしれない。
危険なことからは出来る限り距離を取りたい俺としては了承しがたい人種である。
「なーんてね。どうだい? 驚いたかな?」
「び、びっくりしたぁ。やめてくださいよ教授」
へらへらと笑う教授にため息を一つ。安心しているアンリエットには悪いがこの男、半分以上本気だった気がするぞ。
決して穏やかとは言い難し心中を押し殺し少しだけ丁寧に呼吸をする。多分何か言うだけ無駄なんだろうなぁ。せめて酷くならないことだけ願おう。
もやもやしたままの俺を他所に教授は先ほどの会話など無かったかのようにお茶でもどうだと誘ってくる。いや、さっきの雰囲気を続けられるよりはずっといいんだがいささか切り替えが早すぎないか?
窓から暖かな光が差し込む昼下がり。なんとなく掴んだままにしていたアンリエットの腕を放して軽い足取りでテーブルのある方へ向かう教授の後を付いていく。古美術品に囲まれた奇妙なお茶会がこれから開かれることだろう。
慎ましやかに暮らしていきたい俺としても、見たら死ぬなんて噂のある空恐ろしい絵画の話を続けるよりも呑気なお茶会の方がずっといい。
背後に立てかけられた額縁に視線を向けることなく、茶葉や茶菓子といった毒にも薬にもならない話をするために俺たちはその一角を後にした。