Case.07 能面
あれは九月のいつ頃のことだっただろうか。
長期休暇も開け、まだ休み気分が抜けないまま始まった新学期をだらだらと過ごしていた。
何をしていてもなんとなく眠気と気だるさが残るのは、この大陸特有の暖かな気候のせいだろう。緩やかな雨季乾季はあるが心地良い気温が一年を通し続くのはとても魅力的ではあるが、自堕落な生活を誘発しそうな気温というのはある意味難点でもある。
自習室の机の上に腕を投げ出して欠伸をかみ殺す。
もうすっかり入り浸っているが学園内にいくつかある自習室の中でもここは、採光の為か大きく作られた窓のおかげで午後からの日当たりがよく昼寝に最適である。
何より思っていた以上に利用者が少ない。見つけた当初はもう少し人が来るかと思っていたが、近くに図書館があることも相まってか大抵俺たち四人しかいない。そのおかげで好き勝手出来ているのだが、流石にここに置かれている蔵書がもったいない気もする。
暖かい日差しと微睡みの中でアンリエットとカザミが時折声を潜めて笑い、それに交じってヒューバートが紙をまくる音が微かに聞こえる。
ああ、そういえばヒューバートは生徒会の資料の確認作業をするとか言ってたな。
一年の頃ヒルダ先輩の紹介で入り、来年度はめでたく会長職に就くらしい。今やっているのはその引継ぎというか、以前の会長の行っていた仕事内容の予習のようだ。
本来は生徒会室でやるべきなのだろうが本人曰くこっちの方が集中できると、持ち出し可能なものだけ持って来たのだとか。相変わらず真面目な奴め。
生徒会といっても実際に学校運営のあれこれをやるわけではなく、リーダーシップの発揮だとか組織運営のあれこれを学ぶ場所という名目らしいのでほどほどでいいんじゃないかとも思うんだがね。
ああ、リーダーシップといえば。中等部には所謂王族と呼ばれるような方々は在籍しておらず、成績優秀な生徒から身分を問わず推薦で選ばれる。
ああいう高貴な方々は自宅に優秀な家庭教師を招いて高等部から学園に来るのが通例で、侯爵子息でありながら中等部から入学したヒューバートはちょっと珍しいタイプだ。
兎に角。成績優秀者から選ばれるのであれば、主席殿も生徒会に在籍しているかというとそうではない。入学早々に教員から声を掛けられたらしいが、早々に「学業だけで手一杯なので」とバックレたらしい。面倒くさがりかよ。面倒くさがりだったわ。
「ねぇ、リカルド」
名前を呼ばれた気がして重たい頭を持ち上げる。
辺りを見回してみるとカザミに引っ付いたアンリエットが何かを指差していた。お前何してんの?
意図のわからないまま彼女の指差す方向へ視線を向ける。確かそっちはヒューバートがいるはずだ。
寝惚けた頭でそちらを見れば顔があった。ヒューバートのじゃない。いやヒューバートのもあるんだが、それだけじゃない。知らない顔が二つ、ヒューバートの顔を挿んで浮いている。
は? 何だあれ? え、ちょ……脳みそがちょっとバグりそうなんだけど。
あれのことなのかと指を指したまま振り返れば、おもちゃを見つけたような顔をしたカザミとその腕を抱きしめたまま青い顔をしたアンリエットが小さく頷いた。
よし、そのままホールドしておいてくれ。何もしないとカザミはそのまま突っ込んで行きそうだから。
「いつからあんの?」
「わからない、気が付いた時にはもう」
顔だ。
どっからどう見ても顔だ。首から下はない。
黙々と資料を読み込むヒューバートと並んで紙の束を覗き込んでいる二つの顔。並んで、というよりはヒューバートを挟んで浮いている顔は何をいうわけでもなくそこに存在している。
マジでなんだよあれ。どうしろって言うんだよ。
「能面みたいね」
「のう、何?」
「私の故郷にある舞台芸術で使われる仮面かな」
あれお前のとこの故郷からはるばるやって来たのかよ。お前の故郷ってあれだろ? 海の向こうの島国の。
意味が分からずあの能面? とやらを眺めるが、今一どういう感情の顔なのか理解できない。笑っているような怒っているような、はたまた悲しんでいるような。カザミも面倒臭い時とか無表情決め込んでたりするけどまだもうちょい感情豊かだぞ。
振り返ってみればどことなくそわそわしているカザミと腕を捕まえたままのアンリエットがいる。好奇心旺盛かよ。
しばらく観察してみたが特にその能面は何をするでもなくヒューバートと一緒に資料を読んでいる。
外部に漏らしていい資料なのか気になってきたが、あの能面が学生会の運営に口を出して来たらそれはそれで別の意味でホラーだ。
一区切りついたのかヒューバートの視線が紙の束から外れる。
能面の視線も反れた。どうやらアレは資料を覗いていたのではなく、ヒューバートの視線を追っているらしい。
とは言えそれに気付く事なく時期生徒会長殿は長い時間下を向いていたからか、肩と首を回して凝りを解している。そして変わらずあの薄い笑みを浮かべた二つの顔は消える事のなくそこにあるのだ。
ヒューバートがこちらの視線に気付き、不思議そうに視線を上げる。彼と同じように能面もこちらを向き、俺の後ろからアンリエットの引きつった悲鳴が聞こえた。
「皆どうし──」
「空からカエルが降って来た」
正直な話、自分でも何がどうしてそうなったのかよくわからない。
とりあえずあの能面の視線に気味の悪い物を感じ咄嗟に視線を逸らさせようとした。ただその方法にまでは気が回らず、立ち上がった勢いで少し前のめりになりながら人差し指を誰もいない窓へと向ける。
つられてそちらへ向く三つの顔。その内の二つ、人ではない別の何かの顔はそちらを数拍見た後にゆっくりと薄くなって消えた。しかしながら妙な空気が残った。
こちらへ向き直ったヒューバートの困惑した視線とぶつかる。
「スマン、嘘だ」
「あ、あぁ。そうか」
後ろからカザミが吹き出す気配がした、お前マジでそういうところだぞ。
何が起こったのかと戸惑うヒューバートを傍らに、ツボに入ったのか小さく震えているカザミの頭に軽く手刀を落としておく。
「君、あれはないよ」
「うるせぇ、咄嗟に思いつかなかったんだよ」
すっかりいつもの自習室の空気に戻っている。ヒューバートに簡単に何があったのか説明し安堵のため息を吐いた。
変な顔は浮かんでいないし空からカエルも降って来てはいない。眠気を誘う昼下がりの一幕だ。
「なんだったの? あれ」
「さぁ?」
どうやらふらりと立ち寄ってみただけらしいあの能面みたいな顔はもうこの場には完全にいないらしく、事の中心にいながら全く視認していなかったヒューバートに関してはそれほど作業に集中していたのだろう。
結局何だったのかは分からず終いだったが、放っておいても問題はないはずだ。
先ほどの妙な空気が嘘のように穏やかで暖かい日差しが窓から降り注ぐ。
悲しいかな、この学園に入学して約一年半で一同理解の及ばない存在というものにはすっかり慣れてしまったようで、各々先ほどまでの作業に戻ろうとしている。
かく言う俺もその内の一人なわけで。
なんとなく椅子に座ったまま手の届くところにあった本棚から一冊本を引き抜いてみたものの、この日差しの中で踊るような活字を眺めるような気分になれず二、三ページめくっただけで分厚い表紙を閉じてしまった。
だらりと弛み切った日常。いいじゃないか、それで。
何事もないのが一番。わけのわからない存在も本当なら願い下げだが、こちらに危害を加えるつもりがないというのなら見て見ぬフリでもいいじゃないか。
ヒューバートが資料をめくる紙の擦れる微かな音に交じって、時折アンリエットとカザミが声を潜めて笑い合う声が聞こえる。
そんな日常の一幕で、降り注ぐ暖かな日差しと微睡みの中に俺は意識を放り投げた。