Case.11 枯れ井戸の霊2
あれから二週間たった。
月が変わり学年も繰り上がり、俺たちは中等部最終学年になった。
カザミが旧学生寮の裏手にある枯れ井戸の蓋を壊してからというもの、アンリエットの周りにあの魚顔の男が現れる事もなく平穏に過ごしている。ただ、一つ引っ掛かるのはあれからずっとカザミの顔色が悪く、学校も休みがちであるということだ。
別に俺はアンリエット程アイツと仲が良いわけでもないし、ヒューバート程お人好しでもないので進んであれこれ聞くつもりはなかったのだが、いつもより青い顔で周りをうろうろされれば嫌でも視界に入ってくる。
幾度となく声をかけても曖昧に笑って気にするなと言うバカな女に憤りと焦りを感じながらも、日を追う事に窶れて行く姿に尚焦燥が募った。
これでいいのか、本当に大丈夫なのか。胸の内のわだかまりをポケットの中にいる相棒に問いかけるが、るるーは黒い石に入ったまま何も答えてはくれない。俺がカザミのことを苦手としているからか、アイツのことに対してはあまり協力的ではない気がする。
「どう思う?」
なんのことか、なんてわざわざ言うまでもない。いつもの自習室に行く道すがらヒューバートと並んで歩く。妙に重々しい声色の問いかけに答える術を持っていなかった。
どう、と言われてもあの時俺に出来た行動なんて後先を考えずあの魚顔の男にるるーをけしかけるくらいで、その他の対処法なんて思いつかなかった。でも一つでも方法を知っていた俺が他の方法を問うのは少し卑怯な気がして口に出す気にはなれないでいる。
「まぁ……このままは良くないよな」
なんとか無難な言葉を絞り出し息を吐く。
このままは、良くない。良くないんだ。それは間違いなく俺の本心だ。自分以外の人間には見えないモノに付きまとわれる恐怖というのは俺が一番よく知っている。どんなに訴えても理解されない虚しさ理解している。
それに、別に俺だってカザミのことは苦手ではあるが酷い目や苦しい目にあってほしいわけじゃない。
「なぁリカルド。俺はもう一度旧学生寮に行こうと思うんだ」
「行ってどうする?」
「わからない。でも行けば何か変わるかもしれない」
ヒューバートが足を止めた。その顔は思いつめた風でもなくただそうすることが当たり前だというようにこちらを見ている。
この男はどこまでも真っ直ぐだ。何かしら困っている奴がいれば手を貸してやるのが当たり前で、自分はそういうことの為に騎士の家に生まれたんだと信じてやまない。実際にこういったオカルトがらみ以外なら奴が一人で何とかなってしまうから厄介だ。
「何かあったら二人と……後、俺の婚約者の事を頼む」
奴が笑った。
「お前バカだろ」
頭がいいようでバカな奴ばっ仮でため息が出る。マシな奴は俺しかいないのか。
それは結局カザミがやったのと同じことだろう。同じことを繰り返して正解であるとは限らない。だったら何かあった後のことばかり考えていないで別の方法を案じた方がいくらか建設的だろう。
「お前が守りたいもんはお前で守れよ。俺はお前の分まではやらない」
「リカルド……」
「俺は自分が守りたいものを守るから、だから、お前も自分で守れ」
元々俺に出来ることなんてたかが知れてるんだ。だから自分の手の届く範囲にしか大切な物は置きたくなかった。多くを望まず、慎ましく生きていく程度の能力があればそれでいいと。
自分とは違い誰かの為に行動の出来る男を真っ直ぐに見つめ返すのは少し勇気がいる。
そんな風にはなれないのがわかっているから、視線を反らしたまま、時間をかけてゆっくりと息を吸った。
「……多少は付き合ってやるから」
微かに笑う気配がした。
思えば随分と照れくさい事を言ったような気もするが、残念なことに一度口から出てしまった言葉は取り消せない。
「ほら、さっそと行くぞ!」
「ああ、ありがとう」
「どういたしまして!」
羞恥による苛立ちから語気を強めながら見慣れた廊下を方向転換する。向かう先は以前も向かったことのあるあの旧学生寮の裏手だ。
そういえば以前あの場所でカザミに遭遇した時、何故アイツは旧学生寮に侵入していたのだろうか。なんとなくうやむやになってしまったが、あの井戸の事を知りながら廃寮近付き何をしていたのか。
聞かなかったのは俺たちだが、もう少しなにか言うことがあってもいいだろう。まぁ、そういう鬱憤も全部終わった後でカザミにぶつければいいだろう。
見慣れた校舎を抜け、歩き慣れた街並みを通り過ぎ、以前と変わらず整えられた街路樹を横目に旧学生寮へと臨む。
当然ながらあの時と違って二階の窓にランタンの明かりはない。窓の中はどこも黒に染まっており人の気配はなかった。目的はこの廃寮ではなくこの裏にあるものだ。
特にお互いに何かを話すわけでもなく、無言で建物伝いに裏手へと回っていく。その先に目的の井戸があり、ついでにカザミが侵入していた鍵の壊れた窓がある。
妙に生ぬるい風と共に開けた場所に出た。
そこに井戸はなかった。
「なんだ、アレは……」
井戸のあった場所には変わりとばかりに鈍色の板のような物が佇んでいる。
材質は石だろうか。縦に一本、真ん中に線が入っている以外には、いくつかの円を重ねた模様が刻まれている。
「門だ……」
自分の口から出た声が思ったよりも辺りに響いて驚いた。
ギリギリと錆び付いた音を立ててそれが開いていく。意味の分からない光景だった。井戸に向かったはずがそこに井戸はなくて、その代りにあった門が開かれようとしている。
門の奥から独特の匂いが鼻腔を擽った。
一瞬の視界不良の先に広がったのは見たことのない景色。
先ほどの匂いの原因である周りを囲む土色の壁は高く、足元には石畳が敷き詰められている。全体的に閉鎖的でどこか埃っぽく、ともすれば門のあちら側とこちら側で全く違う時間が流れているようにも感じられる。
俺は白昼夢でも見ているのだろうか。そんな漠然とした思考の海から俺を引き上げたのは、さっきは呼んでも返事もしてくれなかった相棒の唸り声だった。
「るるー? どうしたんだよ」
「おい、あれ」
ヒューバートの声に視線を上げる。
ゆっくりと開いた門の奥に、石畳のその上に何かを見つけた。人型の、何かだ。人と言いきれないのは、それが黒く今にも崩れ落ちそうな靄が集まり形を成している。それがこちらに歩み寄ってきていた。
乾いた喉で唾をのみ込み、じっと靄の動向を伺う。
いつの間にか外に出て来ていたるるーが一層低く唸った。時々カザミに向かって軽く威嚇していることは以前からあったが、ここまで露骨に怒った反応をするのは珍しい。
靄が、門の手前で足を止めた。
ゆっくりと腕を上げる。ボロボロと体を霧散させながら、それでも何かを指差した。少しだけ警戒しながらそちらを伺うが、そこにあるのは以前カザミが旧学生寮の中に侵入するのに使っていた窓があるだけだ。
入れ、ということだろうか。隣にいたヒューバートがそちらへ向かったのを意識しながら改めて靄を見やる。
いつだったかカザミと話したことを思い出した。ああいった存在も、いずれ死を迎えるらしい。大なり小なりの時間をかけて形を保てなくなり、そうしてボロボロと崩れ、消えていく。だからこの靄の主は、多分近いうちに死ぬんだろう。
「カザミ!」
ヒューバートの声がした。
窓を開けた先にいたんだろうか。そういえば朝から姿を見ていなかったか、今日も休んでいるのかと思っていたが保護したというのなら一度ここから離脱したいところだ。
靄が少しだけ笑った気がした。
「アンタは……」
顔もわからないこの靄を、なぜか男だと思った。そしてその男を知っているとも。
会ったことはないが話には聞いたことがあった。この男の事を話した時の、あの少し寂しそうな笑顔を妙に覚えている。ああ、そうだ。こいつはカザミの話の中にいた男だ。
男が、何を言うでもなく石畳の奥へと踵を返していく。現実から隔離されたような異界はまるであの男しかいないような静けさを纏っている。
今まで静かだった辺り一面に突然強い風が吹いた。周りの木々の葉を激しく揺らす音の中でゆっくりと門が閉じていく。
吹き付ける強風に目を閉じ、再び瞼を持ち上げた時にはあの重々しい門はなく、蓋の開いた枯れ井戸が寂しく佇んでるだけだ。
「リカルド、手を貸してもらえるか?」
「あ、ああ。わかった」
廃寮の方へ向き直ればカザミを抱えたヒューバートが窓の中に立っている。一先ず連れて帰ろう。門や、あの靄の男については後で話し合えばいい。
窓の外から気を失っているらしいカザミの体を受け取った時何かがおちた。
「悪い、拾ってくれ」
「ん。鍵だな」
ポケットにでも入っていただろうそれは黒く薄汚れている。長い革紐に通されたそれはいつもカザミが魔術を使う時に杖の代わりに使っている物のはずだが、なぜこんなに汚れているんだろうか。
一先ずそれはヒューバートに預かってもらっておくとして、日が落ちてしまう前に帰ろう。いつの間にか日は傾き出しており、旧学生寮の裏手は影になって殊更暗い影を落とし始めている。
井戸を背にして歩き始めたあたりでふと思い出した。
前に兄さんから聞いた道の話。誰が何の為に作ったのかも、いつからあるのかもわからない。今尚増え続けているあちらとこちらを繋ぐ道。そしてその入り口として佇む門の話を。
ああ、そうだ。あれは──。
「異界へ至る門、か……」