Case.09 夢の話
夢を見たのだと、アンリエットは言った。
長期休暇も開けた九月の夕暮れ。何がきっかけだったかまでは定かではないが、夕日に照らされる階段での一時を印象深く覚えている。
朱く、暗く。夕日と影に彩られた廊下に、よく見知った校舎のはずなのに時間が違うだけでこうも違う顔を見せるのかと変に感心させられる。
すっかり人のいなくなった廊下にアンリエットの静かな声が響き、四人分の影が階段を下りる度に浮き沈みする。一定のリズムを刻む足音が止むことはなく、帰路に付くため夕暮れの校舎を抜け出すまでの手遊びの様に語られた夢の話。
それは言葉を探るように恐る恐る紡がれたこともあり、奇妙で、それでいて神秘的な何かを孕んでいるようにも思えた。
不思議な夢だったのだと言いながら数段先を歩いていたアンリエットが振り返る。俺の背後にある窓から差し込む赤い光に少しだけ眩しそうにしていた。
朱い夕日と黒い影に塗りつぶされた世界に、彼女が語った夢の様に本当に別の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。
◆
その夢の中でアンリエットは一人だった。
周りを見回しても人影は無く、いやに古い石畳だけが続いている。星も見えない程の暗闇に、ぽつりぽつりと申し訳程度に錆びた街灯が立っていた。前に続く道も、後ろに伸びる道もその奥に何があるのかは伺い知れない。
ここはどこだろう。街灯は道沿いに等間隔に並んでいるようだが、少しでも道を外れれば明かりはなく薄っすらと何かの輪郭が伺える程度だ。
にもかかわらず、ぐにゃぐにゃと蛇行しながら続く石畳の小道だけは暗闇のずっと先にまで続いているのが視覚情報として得られるのだから不思議なこともあったものである。
全く見覚えのない場所に困惑しながらもアンリエットは一歩、前とも後ろともわからない方向へ足を進ませる。
少し歩いてみれば知っている場所に辿り付くかもしれないと思ったが、こうも暗くては知っているかどうかの判断も付きそうにない。こういう時にあの悪戯好きの小さな友人がいれば夜目の助けになってくれたのだろうか。
いや、あの妖精なら暗闇に乗じてこっそり脅かすくらいのことをやってきそうなのでやっぱりいなくてよかったのかもしれない。
最初の一歩目を踏み出してしまえば二歩目というのは存外軽いもので。暗闇の中で周囲が見えない事への不安よりも、ここがどこなのか、この先に何があるのかという疑問の方が勝ってしまった。
少しづつ慎重に足を前に出す。歩き慣れた学園の石畳とは違い、この小道に敷かれた石畳は一つ一つが大きくぼこぼこしている。そこに長年使い古し摩擦で磨かれたことも合わさってか靴底が滑ってしまい歩き難い。
これでは街灯から街灯までの間を進むのにも一苦労だ。
時折両サイドに広がる暗闇の奥で何かが蠢く気配がするけど、それがなんなのかを確認しに行く勇気は流石にない。しっかりと踏み締めている石の小道だけが心のセーフティだった。
多分、この光源が弱いにも関わらずはっきりと見える石畳を反れなければ大丈夫。そんな根拠のない自信だけを胸に少しでも気を紛らわせようと、昼間に学内カフェで食べたモンブランを思い出す。
今年は雨季が長かったせいか色々な作物に影響が出てしまったが、それでも美味しいものを提供しようと相違工夫してくれるシェフやパティシエには頭が上がらない思いだ。
代々一次産業で発展してきた領主の娘としては彼らの工夫が一番の広告になる。故郷の皆が作った物が美味しいものとして市場に出回るのはとても良い事だ。事実あのモンブランは舌触りが滑らかでとても美味しかった。
ゆっくりと深呼吸をしてアンリエットは一歩、また一歩と歩き進める。
怖いと思うから怖いのだ。だから自分は何も見ていないし何も気付いていない。そう言う体でただただ足を動かす。街灯から街灯へ、灯りから灯りへ。一箇所に留まっていては闇の中に取り残されてしまうような気さえした。
怖いと思ってはいけない。怖いと思うからそういうもの近寄って来てしまうのだ。ここがどういうものなのか、この道がどこに続くかもわからない。けれど、怖いとだけは、思ってはいけないと思った。
不意に、音がした。
特別不自然な音ではない。息を吐く音だ。ただ問題なのは、その吐息の音が自分の物ではないということ。
足を動かさなくてはいけない。ここにいてはいけない。そんなことばかりが頭を巡るも、体はちっとも言うことを聞いてくれない。
「っ、」
息を飲む。視界の端から何かが飛び込んでくる。
そこにいたのは真っ黒な。
「る、るるー?」
自分を見上げる痩躯の犬に思わず間の抜けた声を上げる。
犬、と呼んでいいのかはわからないが突然現れた友人の相棒に困惑する。彼、あるいは彼女はとてもいい子だ。主人を助け、よく懐いている。
確かに初めて姿を見た時はその異様な出で立ちに困惑と畏怖を覚えたが、見慣れてしまった今ではよく食べよく眠る中型犬という印象だ。
ただ気になることと言えば大きく裂けた口でお化けや怖いものを食べてくれるが、そういうのをばかり食べてお腹は壊さないのだろうか。
どういうわけか、この見知らぬ場所に現れた彼、あるいは彼女と目線を合わせるようにしゃがみ込む。鼻先を少し動かした後、だらりと伸びた長い舌を揺らした。
手を伸ばして撫でてみればるるーは大人しく受け入れている。これは、一緒にいてくれると考えていいのかもしれない。自分はこの子の主人ではないが、今は少しだけこの子の優しさに甘えてしまおう。
コツリと石畳を打つ音がして肩が跳ねる。
なんとかなるかもしれないと安心させてすぐ驚かすのはやめて欲しい。しゃがみ込んだまま恐る恐る音のした方へ視線を投げかけ言葉を失った。
見慣れた友人が面白いものを見たような含み笑いでこちらを見ている。
「あら、見つかっちゃった?」
「見つかったって、ユウコ……」
夜に溶けるような黒髪を携えユウコ・カザミは薄く笑っていた。
彼女と言えば、アンリエットが普段から交友をしている三人の中で一番こういったことに詳しい人物だ。るるーの主人であるリカルドも色々経験があるようだが、本人がこういったことは得意ではないと自己申告しているため詳しく聞いたことはない。
「うん?ああ、私のことは気にしないで」
気にするなと言われても困る。
小道の外から街灯に照らされた石畳へ入って来た友人は昼間と同じ顔で笑っている。どうやらあの足音の主はこの友人だったらしい。相変わらずな彼女に少しだけ安心する。
元々落ち着いた雰囲気のある友人ではあるが、別に冷めているとか、達観しているとかそういうわけではなく。むしろアンリエット自身やリカルドと話している時などは悪戯染みた笑い方をよくしている。
今だってそうだ、からかう様な物言いで笑っている。普段からそうやって主人をからかっているからなのか、るるーはあまりユウコのことを気に入ってはいないらしく唸っている。
「君は行き来できるのね」
「え?」
彼女が口を開いた。
脈絡のない言葉ではあったが、その意味からこの場所のことを指しているような気がした。
「それってどういう……」
問いかけようとユウコを見上げた時、今まで静かだった辺り一面に突然強い風が吹いた。笑ったままの彼女が緩やかに唇を動かす。
彼女の言葉を聞き逃さない様に耳をすませた。激しく吹き荒れる風の音の中で確かに彼女はそう言って笑った。
「これは夢よ」
◆
「って夢を見たんだけど」
あれは一体何だったんだろう? そんな調子で首を傾げたアンリエットは階段を一段を降りた。
夕日を受けて影が廊下に伸びるのを見届け息を吐く。
夕日によって染められた世界はまるで異界のような雰囲気のまま、けれど何か可笑しなことが起きることもなく一段、また一段と下っていく。
少し先を行くアンリエットとヒューバートがあれこれと言い合い夢の無いようについて考察している。見知らぬ場所で見知った誰かの合う夢というのはそんなに気になるものだろうか。俺は普段あまり夢を見ないから今一その感覚がわからない。
夢なんて脳が情報を整理しているのを断片的に覗き見ているだけだろう。そこに深い意味はない、と思いたい。
「るるーとカザミが出てくる夢なぁ」
呟きながら思い出したのは少し前にヒューバートと教授の三人で話した「門」の事。それはこの世界と異界を繋ぐ世界の綻びの様なものだと兄さんが言っていたけど、あまり詳しくは分からなかった。
ただ、そこに留まるのはあまり良くないらしい。引き込まれてしまっては、戻れなくなってしまう。門を開くな、道を抜けようとするなと、兄さんは言っていたがあの人は何を知っているんだろうか。
その話を聞いた時は何のことかもよくわかっていなかったが、どういうわけか最近は「門」と「道」と「鍵」というワードに妙に引っ掛かる。
勿論、アンリエットの見た夢の道と兄さんが言っていた門の奥にある道が同じものなのかはわからないが。
「ユウコも夢に出てきたんだけど、なにか知ってる?」
窓から差し込む光は赤い。朱く照らされた校舎はまるで見知らぬ世界のようだと錯覚する。ほんのすこし禍々しい様な朱色の世界の中でカザミはおそらく笑っていた。
階段の踊り場に立ち止まった女は逆光の中にいて、影の暗い世界に佇んでいるためはっきりと表情は見えない。いつもと同じ様な、けれどどこか秘密めいた笑顔だと感じた。
アイツはあまり自分のことを話さない。問いかければある程度は答えるが、あえて口にしない事も多い。それになんでもない顔で嘘だって付く。悪い奴ではないとは思うが、秘密主義で単独行動が好き。
恐らくだが、カザミは「門」の存在を知っている。それを知っていて黙っている。アンリエットがこの話をしなければ、カザミがその石畳の道ついて触れることはなかったと思う。
「さぁ?夢は夢でしょう?」
だから多分、これは嘘だ。