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最後の恋は神さまとでしたR  作者: 明智 颯茄
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緑の線は新たな道標/3

 覚えたばかりの浮遊を使って、五歳の弟はCDと同じ位置まで登ってくる。いくら神さまの子供でも、大人でないと心の声は聞こえない。姉は密かに思う。


(あぁ〜、気持ちはとても嬉しんだけど、こっちの世界じゃ物が動かないんだよなぁ)


 弟の小さな手がCDへ伸びて、霊界でのそれをつかみ、満面の笑みで振り返った。


「はい」


 現実のディスクは未だに奥にあったが、弟と姉の間にはきちんと物があった。江はそれを受け取り、小さなお手伝いさんにお礼を言う。


「ありがとう。助かったよ」

「えへへへっ……!」


 照れたように微笑む顔が、どこまでも純粋で、誰かのために何かができたと、心の底から喜んでいた。ダンボール箱にすでに入れたCDを整理する振りをしながら、姉は機会をうかがう。


 それでも、ニコニコの笑みで弟は、姉の引っ越しを眺めていた。江は何気ない振りで、他のCDに手を伸ばして箱に入れ始める。すると、ふわふわと浮かびながら、弟の後ろ姿がドアへ向かっていった。


「部屋から出て行ったから、気づかれないように今のうちに取ろう。傷つけちゃうからね」


 さっき取れなかったCDに手を伸ばすために、彼女はとうとう、ピアノの椅子を通り越して、楽器の上に軽く乗った。


「よいっしょっと!」


 取り出したディスクのアーティスト名を見て、彼女はふと手を止める。


「ん〜、これはどっちの持ち物? 二人で一緒に買った物って、所有権がわからないね。でも確認はしないとね」


 そんな物が大量にある結婚生活だった。共有する部分が多い仲。


「ケンカしたわけじゃなくて、お互いのために別れるってことだからね。険悪なムードじゃないから」


 恨んだり憎んだりとか、そういうことではなく、努力を重ねたがどうにもうまくいかなかった。それが原因。


 ただ、江はひとつだけ驚いた。包丁を持ち出した修羅場のことだ。配偶者は相手を困らせるために嘘をつくような性格ではない。そんな人が、修羅場は何度もあったと言ったのだ。


 江は唖然とした。たった一回きりだと思っていた。思い出そうとしても、記憶にない。彼女は自分を責めた。怒りでブチ切れてしまうほど、感情のコントロールが自分で効かないのかと。それほど、人間ができていないのだと。


 怒って記憶が消えたなど今までなかった。小さな違和感を放置したまま、彼女は自分に対する恐れが芽生えた。


 自分が知らないうちに、誰かを傷つけるのではないかと思う。自分を信じることができない。何もかもが輪郭をなくして、確かな物がどこにもない。


 ぐるぐると全ての世界が渦を巻き、飲み込まれていきそうだったが、人の気配が台所でして、江は我に返った。


「とにかく詰めないと……」


 荷物が整理されてゆくたび、彼女のため息を増えてゆく。


「実家に帰るか……。家族から何を言われるんだろう?」


 仲のいい家庭があるのは、この家にきてよくわかった。それでも、意見の言い合いになるが、相手を尊重して、前へきちんと進んでゆく。温かい家庭だった。


 そういう家に生まれた人は、理解できないと言う。自分の子供を虐待する親がなぜいるのかを。


 江にはわかる。仲によくない家族は世の中にいるのだ。血のつながりなどという不確かで曖昧なものを、さも重要に思い、それがあるから何をしても許されるのだと、相手は自分から離れていかないのだと、勘違いしている人間というものはいる。


 恨みや憎しみ増す。だからこそ、江は知っている。その感情を持って生きることが、どれほど余計なエネルギーを消費して、自分をさらに傷つけていくのかを。今の状態で実家に帰ったら、家族間の殺人を自分が起こすのではと、ぼんやり考える。


「家族と暮らしたくなくて、結婚したのかもしれない……」


 それでも、彼女は気を取り直して、荷物を詰め続ける。


「現実から逃げたからだ。面と向かって、きちんと話をしよう。そうしたら、仲が良くなるかもしれない」


 今年で三十五歳を迎えるが、彼女はまだまだ若かった。物語はしょせん物語で、現実で叶わないからこそ、ハッピーエンドが夢や希望として書かれていることもあるのだと気づかなかった。


 束の間の幸せに微笑み、ずっとそばにいる緑と時々話しながら、彼女は荷物を詰めてゆく。


「考えるのはあと、引越しの日がきちゃうからね」


 そして、引っ越し当日。円満の別れであるがゆえ、家族全員に見送られながら、空港までタクシーで彼女は向かった。


 それでも、九年以上の結婚生活は思い出がたくさん詰まっていて、江の視界は涙でにじみ、涙がこぼれそうになるのを必死で堪え、現実でそばにいる人が一気に変わる環境へと身と委ねるしかなかった。


 気持ちはなかなか収まらず、誰にも言えない言葉を、江は走行音になじませる。配偶者との関係が本当はどういうものかを、一人きちんとわかっている緑にだけ聞こえるように。


「霊視ができない人には伝わらない。娘に変わったから、一緒に結婚してるのはおかしいんだって。それを、お互いで納得して離婚したって――」

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