緑の線は新たな道標/2
同じ次元にいたのなら、吐息が耳にかかるほど近くにいるのだろう。江は今までしなかった仕草をする。両手をずらして握り、自信なさげにあごの下に添えた。
「もしかして……」
「そうだ。大人の神の声が聞こえるようになったんだ」
コウは珍しく微笑んで、大きくうなずいて見せた。ひそかな気配をたどって、江は照れたように頭を下げる。
「よろしくお願います」
「こちらこそ」
緑からしてみれば、おかしな光景なのだろう。配偶者が自分の姿が見えずに、視線を合わせもしないで、改めて頭を下げてくるのだから。
キャラクターの絵と声の雰囲気で、彼女は直感してしまった。上着の裾をモジモジといじりながら、
「もしかして……?」
「間違えるのを怖がらず、自信を持て」
コウのその言葉は、まるで父親が娘を励ますようだった。
「頭がいい人ですか?」
江からの質問に、緑の含み笑いが聞こえて、
「どうでしょうか?」
聞き返されてしまった。コウは首を横に振って、ダメ出しをする。
「本人に聞いても答えないだろう」
自画自賛するような人物なら別だが。江は表情を歪めて、やってしまった的な顔をした。
「あぁ、そうだね」
上着の裾をモジモジと触るスピードがアップした。コウはぴょんぴょんというコミカルな音を出して、空中を右へ左へ行ったりきたり。
「いいか? 緑は、光命や月主命などと同じ考え方だ。全てを記憶していて、そこから可能性を導き出し、成功する可能性が高いものを選ぶ」
青の王子の名――が胸に深く刻まれそうになったが、江は素知らぬ振りをした。誰も傷つけたくなくて、誠実であろうとして。
「理論派で、冷静ってことかな?」
「そうだ。お前もなかなか気の流れも感じ取れるようになったじゃないか」
似ている人ならよくわかる。しかし、人間の女は涙をこぼすこともなく、平然と嘘をつく。
「何となくね」
そして、魂は別として、肉体は心に鍵をかけることを覚えてしまった。
陛下が孔明に伝えた、指示語で考えるのなら、まだ救いようがあった。何かを考えているということが、神々にも伝わり、対処のしようがあるのだから。
しかし、彼女は思い浮かべること自体をやめた。それはつまり、誰ももう叶えようがない、救いようがないことを意味していた。
不自然に間を空けるのをやめて、江はコウに素早く質問した。
「でも、どうして変わったの?」
「もう少し待てば、理由がわかる」
神さまにも都合があるのだ。未来が見えるからこそ、人に嘘をつくこともある。必要ならば、いつだってそうだった。
「そうか」
「じゃあ。俺は忙しいからな」
コウはそう言って消え去っていこうとする。その後ろ姿に、緑が丁寧すぎるほど頭を下げているのを、江が気づくことはなかった。
*
「――サインして」
白い横長の紙を開くと、緑色の線が引かれていた。左上に大きな字で、『離婚届』と印字されていた。
人ごとだと思っていたことが現実となり、江は困惑した。二ヶ月ほど前に配偶者から聞いた言葉が蘇る。
「あなたとは道を違えた――」
あれは間違いでもなく何でもなく、離婚へとたどり着く道のりだったのだ。ぐるぐるとめまいがするようで、まるで夢でも見ているようで何もかもがモヤの中。
数日前のコウが言っていた言葉が今ならよくわかった。
(そうか。この世界でも大きく変わるから、魂が入れ替わったんだ。神さまが指し示してる道は……)
江は配偶者の瞳をまっすぐ見つめ、静かに口を開いた。
「うん、わかった。サインするよ」
怖いものは彼女にはなかった。愛する人がそばにる。青の王子と似ているところを持つ人がいる。代替えとかそういうのではなく、彼女の求めていたパートナーだ。
決して感情に流されることなく、何事も冷静に対処してゆく。喜怒哀楽の激しい自分の言動にいちいち左右されない。そういうパートナーを彼女はやっと見つけたのだ。
*
ピアノの上にある棚にしまっていたCDを、まるで虫が食ったように間を開けて、取っては段ボール箱に荷物を詰めていた。
「ん〜〜!」
基本的に、緑は話しかけないと、自ら話してくるようなタイプではない。現実のことに集中すれば、あの世のことから気持ちは離れ、そばにいたとしても気にならない空気よりも自然な関係。
江は右手を伸ばしていたが、左手に変えて同じことをした。
「ちょっと手が届かないなぁ」
旦那の実家から出ていく以上、引っ越すのは一人。誰かが手伝ってくれるはずもなかったが、幼い声が下から聞こえてきた。
「僕が取ってあげるよ」




