先生は女性的な男/2
大通りを間に挟んで向こう側にある建物は、マンションではなくオフィスビス。新しく引っ越した部屋で、自室を持った奇跡来は、ポンと買ったパソコンを前に文字を打ち込んでいた。
ウォーキングマシーンに座っているコウは、今日も新しい出来事を、大人の神さまが見えるようになるまで付き合う人間の女に話していた。
「月主命は小学校の社会の先生になったぞ」
余計な言葉が入っていると思い、パソコンのキーボードを打つパチパチという音が消えた。
「はぁ? 社会の先生? 普通、小学校って、担任の先生が全部の教科教えるよね?」
「神さまが人間と同じなわけがないだろう。いいか?」
「うん」
コウに諭され、回転椅子をパソコンの真正面からはずし、夕闇に光を強く放ってゆくオフィスの明かりを見つめるようになった。
「物事を忘れたり、理解ができないのは、肉体の不具合からくる。だから、神さまの子供は、授業を全て一回で覚える」
「すごいね! さすが未来の神さま」
「だから、テストもない。人の勉強よりもはるかに難易度の高いことをする。半年もしないうちに、地上の全ての言語は小学校一年生でも読み書きできて、話もできる。だから、教科ごとに専門の先生がいるんだ」
「さすが人間の守護をするだけあるね」
奇跡来は大いに納得した。全ての言語が理解できなかったら、神さまは人間には平等ではないと。
しかし、コウは世界の常識をひっくり返すようなことを語り出した。
「人間を守護をする神さまはほんの一握りだ。メインの世界は霊界や神界なんだからな」
奇跡来は今までの話を思い出す。世界は広くて、次々に新しい世界が出てきて、地球なんて場所を知らない神さまたちも大勢いる。それどころか、悪というものを知らない神さまもいるくらいだ。
コウがはっきりと告げた。
「お前が暮らしてる世界はサブだ。サブ! 大袈裟に言えば、なくなってもいいんだ」
「そうだね。魂だけで存在してるのが普通なんだから。希少価値という意味で言えば、幽霊は人間のほうかもね」
よくそばに遊びにくる子供たちが、アニメに出てくるお化けを見て、存在を知らず大爆笑していたのを、奇跡来は思い出した。スピリチュアルな哲学。
色ペンの芯を出すボタンをカチカチと落ち着きなく何度も押す。
「担任の先生は別にいるの?」
「そうだ。ホームルームや学校の行事は、担任の先生が担当だ」
「ということは、担任プラス教科の数が、一クラスの受け持ちの先生ってことか」
奇跡来はメモ用紙に『神』と書いて、くるくると何度も丸で囲んだ。
「しかも、先生は一クラスしか受け持たない。人間みたいに数が少ないわけじゃないからな。人はたくさんいる。だから、いくつもクラスは受け持たない。先生をやりたいやつがみんなやれるようになってる」
「ふ〜ん。授業風景とか見てみたいなな〜」
向かいのオフィスで、残業をしているサラリーマンを窓越に眺める。この世界とは違って、ブラックはどこにもなくなり、緩やかな時の中で神さまたちは生きているのだ。
「親バカが神さまには多くてな。学校に子供の様子を毎日見にくるやつもいるらしい」
「仲いいね。人間と違って、神さまは……」
奇跡来はどこかぼんやり返事をした。コウの姿は別れの挨拶もなく、急に消え去った――この世のことに彼女の心は囚われた。
自分は時々おかしいと思う。冷たい雨が降るベランダに裸足で、傘もささず出たくなり、窓を開けてずぶ濡れて立っている。
もう夜中だというのに、急に外出したくなって、出ていこうとしたのを、配偶者に止められた。
癇癪みたいなひどい怒りに囚われ、配偶者に食器を投げつけ、包丁で刺殺しそうになり、四本の腕が力の競り合いを起こして、プルプルと震えているのを一度見たことがある。人を殺そうとしている自分が、自分の中にいる。
配偶者はこう言う。親との確執がきちんと解消されていないから、心が歪み、フラストレーションを爆発させるのだと。
結婚という大地に綺麗に咲いているような花の根っこは、ひとつがボロボロと崩れると、連鎖して他の根も崩れ、いつか花も枯れるだろう。
奇跡来の日常は、コウが持ってくる話とはまったく違っていて、重苦しく危険なものだった。




