ルナスマジック/3
三度ティッシュで拭きながら、今の家に引っ越す前のことをふと思い出した。
「学んだよ。人を引きつける気の流れがどんなもので、どうやって作るのかも」
「霊感の周波数を変えれば、気の流れも見えるからな」
「相手の気の流れを自分へ引き込むこと。その方法のひとつは、相手に感謝をすること」
まさしくその気の流れを使って、ゴミ箱との距離を測り、生クリームに染まったティッシュは綺麗な軌跡を描いてポトンと中へ落ちた。
コウは床からふわふわと飛び上がり、奇跡来がいつも座っている椅子に腰掛ける。
「そうだ。よく覚えてた」
「でもさ、それだけじゃ、全員にプロポーズされるようにはならないよ。何だかおかしいなあ〜」
自分が知っているような情報だ。世の中の人たちも大勢試しているだろう。そうなると、モテモテの人がもっといっぱいいるという話があってもおかしくない。
そんな考え方は奇跡来のバカがつくほど超前向きな単純発想では思いつかなかった。コウはマウスを操作して、ブラウザの画面を変える。
「それとは違う、強力な気の流れがあるんだろう?」
「どんな気の流れ?」
テレビゲームのホームページへ行き、赤と青のくりっとした瞳は、上半身の半分まである赤髪、非常に落ち着きのあるキャラクターを眺めていた。
「いつか教えてくれるやつに出会ったら、教えてもらえ」
「そうだね。神さまの気の流れは人間には見えないから、見える大人の神さまに会ったら聞いてみよう」
「そうしろ」
奇跡来は冬空を見上げる。上から下を見ることはできても、下から上を見ることができない霊界と神界。その絶対的なルールの向こうに何が待っているのか、ワクワクした。
「それから、こんなことも起きた」
「月主命さんの話はまだあるの?」
やっと食べられたケーキを口でもぐもぐして、奇跡来はとびきりの笑顔を見せた。
「月主が通り過ぎると、女が気絶する」
彼女はびっくりして、座ったまま飛び上がったように大声を上げた。
「えぇっ!? 怪我しないからいいけど、地球じゃ大変だ!」
「そうだ。城の中は騒然としてる」
手に負えないというような顔をしているコウの後ろで、呑気にケーキを食べていた奇跡来は何かに気づいて、ブラウンの髪を揺らした。
「でも待って、魂って気絶するの?」
「しない。気絶は肉体に起きるものだ。しかし、魂も強い衝撃などを受けると、気絶することはまれに起きるぞ」
「なるほどね」
紅茶をごくごくと一気飲みしている人間の女に振り返り、コウはニヤニヤする。
「気づいてないんだな。お前もよく気絶してる」
「え、いつ?」
自分は至って健康で、倒れたことなど今までの人生でない。それなのにこんなことを言われて、奇跡来はぽかんとした。
「光命のキャラクターに、甘い言葉を言われた時だ」
天敵を突きつけたように、コウがはっきり告げると、奇跡来はケーキの皿をひっくり返し、持っていたカップから紅茶をジャバジャバとこぼし、何もかもがめちゃくちゃになった。言葉遣いもおかしくなる。
「きゃあっ! あれはちょっと困るんです! どうしてだかわからないんですが……」
大した言葉でもないのに、オーバーリアクションをしている奇跡来を見ずに、コウの赤と青の瞳はなぜか床に視線を落としていた。
「今も倒れてるぞ。後ろを見ろ」
いつもの癖で振り返ることなく、霊感の視点を百八十度回した。肉体からはみ出している魂を見つけて、今は奇跡来と呼んでいいかわからない女は納得する。
「あ、本当だ。魂が気絶しても、肉体は平気なんだね」
「そうだ。霊感は脳を使うから、肉体ってことだ。自分の魂も客観的にこうやって見れる」
「なるほど……」
不思議な現象をあちこちから落ち着きなくうかがっていると、コウはいきなりこんなこと言った。
「やっぱりお前じゃないんだな」
「何の話?」
どこかずれているクルミ色の瞳が視線を合わせようとしたが、コウは倒れている魂をじっと見ながら文句を言う。
「それはこっちのセリフだ。話を元に戻せ」
「え……?」
きょとんとすると、魂が意識を取り戻して、肉体へすうっと簡単に戻った。たどれないほど話がそれてしまっていて、コウは的確に告げる。
「魂が強い衝撃を受けると気絶するだ!」
「あぁ、そうだったね。そうなると、月主命さんが通っただけで強い衝撃がきたってことか。ここまでくると、《《ルナスマジック》》だね」
綺麗にまとめた人間の女を前にして、子供に見える神さまは偉そうに言う。
「いい名をつけた。褒めて遣わす!」
「ありがとうございます」
ひれ伏しそうになったが、奇跡来は何かに気づき、ピタリと動きを止めた。
「あ、ちょっと待った! 見えるようになったら、月主命さんと話す時は気をつけないとね。気絶するかもしれないから」
奇跡来は先走りを発揮して、心配する。さっきみたいに肉体から魂がはみ出しては、何か問題が起きないとも限らな――
「お前はならないぞ」
「どうして?」
コウの意外な言葉に、奇跡来は考えていることをもやめた。神さまは未来が見えるということを証明するように、銀の長い髪を持つ小さな神は言ってのけた。
「いつか理由はわかる」
「そうなの?」
「倒れるようじゃ、やっていけないからな」
「守護する神さまになるってことかな?」
ゲームのコントローラーを取り上げて、真面目に神さまの雰囲気をつかむという作業をし始めた、奇跡来は未来を見ることのできない人間らしく、思いっきり見誤っていた。そう気づくのは、だいぶあとになってからのことだった。




