陛下の執務室/2
「今度は音楽を使って、お前の住む世界の不浄をこの世界の価値観に合わせて広めてもらいたい」
「音楽ですか……」
病気になって、入院してからと言うもの、まったく手をつけていなかった。昔作った自身の歌でさえ、もう歌えないほど実力は落ちているのに、陛下は音楽をと言った。
「お前の才能は私も認めている」
「ありがとうございます。褒められたことなかったから、全然才能ないのかと思ってた」
コウはいつだって、指示を出して教えてくれるだけで、褒めてはくれなかったが、それは性格なのだ。
「話はここまでだ」
「本当にありがとうございました」
お忙しい陛下だ。執務室を出れば、さっき待合室で待っていた人々のひとりひとりの話に耳を傾け、言葉をかけるのだろう。颯茄と光命は丁寧に頭を下げて、執務室を後にした。
受付のある廊下まで歩き出すと、光命が口を開いた。
「颯茄?」
「はい」
「音楽活動を再開しようと思っています」
「どうしてですか?」
何十年も休むのだと思っていたが、違った。颯茄はずいぶん驚いた。
「あなたのことはひとまず区切りがつきました」
「お陰さまです」
消える運命だったのが、この先はずっと一緒なのだ。愛を深める時間はいくらでもある。人生の航路は変わったのだ。
「子供たちの友人から、活動を再開するのはいつなのかと十二名に聞かれたのです」
「ああ、それは再開しないといけないですね。他にもいっぱいいるってことです。心待ちにしているちびっ子が」
子供たちの友達が家へ遊びにきて、活動休止中のパパはいつも顔を出すのだ。すると、人気のピアニストだったと知り、サインを書いてとせがまれたりよくしているのだ。
光命の冷静な水色の瞳は氷のような冷たさではなく、陽だまりみたいな暖かなものだった。
「結婚をして子を持つと、子供を中心に人生を考えるようになりますね」
「それだけ、光さんは成長したってことです。大人になったんです」
不思議だ。結婚しない理由はきちんとあったが、大人の世界を満喫していた男が、今は子供中心の結婚生活を送っている。噂に聞くだけで手の届かなかった存在が、そばでいい変化を遂げていると思うと、颯茄は嬉しくて涙がこぼれそうになるのだった。
「ですから、活動を再開します」
「最近、倒れることも少なくなってきたから、いいんじゃないんですか?」
ピアニストにはピアノを弾いていて欲しい。ミュージシャンには音楽をやっていて欲しい。愛している旦那には好きなことをのびのびとやっていて欲しい。颯茄は自分のことのように喜んだ。
「孔明をはじめとするみなさんのお陰です」
「よかったです」
人は小さな歯車。愛する人と出会って、初めてうまく回るものだが、明智家は回るためにいくつもの歯車――人間が必要なのだ。だから、倒れることもあったが、今はみんながお互いを支え合い、うまく進み出していたのだった。
「それから、あなたとユニットを組むという話でしたが、そちらも一緒に行います」
「私の方はゆっくりでいいですよ。いついつまでっていう期限はついてないですから」
夫婦で音楽をやるという、新たな目標へ向かって、颯茄の人生は歩み出した。
「えぇ、ですが、私はあなたと一緒に音楽活動をしていきたいのです」
そんな優しい瞳で言われると、颯茄は断れなくなってしまうのだが、きちんと意見しようとした。
「ありがとございます。でもまずは、神世のレベルにならないとできない――」
「そうだ。お前の作曲のレベルは問題外だ。何だ、あのダイアトニックコードのオンパレードは」
会話の途中で、別の男の声が割って入ってきた。颯茄は照れたように頭に手を当てて笑う。
「あははは。スケールの勉強不足で……」
「曲は光が作れ。お前より才能がある」
城の正門までいつの間に歩いてきていた颯茄は、目の前に両腕を腰のあたりで組み、イライラと指を腕に押し当てている男――いや、夫を見つけた。
「って、あれ? 蓮、いつの間に」
「私が連絡をしたのです。音楽で経験値が高いのは、我が家では蓮ですからね」
意識下でつながる携帯電話は、人と話をしながら、誰にも知られずにメールを送ることができる便利な代物だった。
颯茄は二人の夫に囲まれて、うんうんと何度もうなずく。
「確かに、ディーバさん、ワールドツアーしましたからね」
まだおまけの倫礼だった頃の話だ。知らぬ間に、夫は有名人になっていて、三ヶ月間仕事で家を留守にしていて、子供の面倒は見れなかった。今では、天然ボケみたいな性格が功をなして、クイズ番組などの出演に引っ張りだこである。
「作詞はある程度使い物になる」
「歌は?」
決して下手ではないが、神様と肩を並べるにはまだまだなはずだ。蓮は笑いもせず言ってのける。
「それは練習次第だ」
「よし、やるぞやるぞ!」
颯茄のやる気満々の声が響くと、三人はみんなが待つ明智家へと瞬間移動をして帰っていった。こうして、総勢二十一人の結婚にまつわる話は幕を閉じるのではなく、新たな発展を遂げる予感が漂っているのだった。




