報われぬものは何もない
時間は明日、結婚式を控える今へと戻ってきて、今日始めて言葉を交わした人間の女の瞳を、光命はまっすぐ見つめ言葉を慎み深く紡いだ。
「あなたはいつでも一生懸命。何事からも逃げ出しませんでした。ずっと見ていましたよ」
見ていると言われれば、誰だって格好をつけるだろうが、この女は誰からも聞かされていなかった。つまりは素の自分だった。彼女は一度だって逃げ出さなかった。気持ちを曲げることもしなかった。素敵な女性だと神の男は思った。
倫礼の目にみるみる涙がたまってゆく。
「誰も見ていないんだと思ってました」
おまけの倫礼はまた静かに泣き出した。霊感がなくなり、たくさんの人が去っていき、誰も自分の話に耳を貸してくれない日々の中で感じた孤独はとてもひどいものだったが、それでも自身の意思を曲げなかったことが、今評価されたのだ。他の誰かではなく愛してやまない人に。
(結婚する運命だったから、忘れようとしても忘れられなかったんだ。間違ってなかった何も……)
倫礼は自分の価値観を改めなくてはいけないと思った。今までは、自分が本当に望んでいることは、人生では決して叶わないのだと思っていたが、どうやらそれは間違いだったのだ。意味があったから、忘れないように神さまが仕向けていたのだ。
倫礼は涙を手で拭って、光命に微笑んで見せる。
「それじゃ、光命さんの奥さんと四人で結婚するんですね?」
「いいえ、私は結婚してしませんよ――」
光命の紺の長い髪が横へ揺れて、倫礼は少々驚いた。
「え? じゃあ、彼女ができたって聞いた時から、今までしなかったんですか?」
「えぇ、ですから、私は今回初めて結婚するのです」
誰とも結婚していなかった。憧れの神は十八歳のまま純潔だったのだ。
「あぁ、そうですか」
喜ぶというよりは、拍子抜けしたような倫礼は、指を唇に当てて少しだけ首を傾げる。
「そんなに、大人の世界を満喫してたのかな?」
どうも森羅万象に合わないと思っていたが、光命は返事をせず、別のことを話し出した。
「それでは、明日、式が終了後に――」
「式は何時からですか?」
おまけの人間がいけるはずもないが、光命の言葉の途中で、倫礼は割って入った。
「十二時から一時間で終了します」
「そうですか」
「式が終了次第、あのあなたのそばへ戻ってきます」
「はい、ありがとうございます」
倫礼はまだ夢を見ているのではないかと思った。あんなに待ち焦がれていた人が、自分のところへ戻ってくると言うのだから。
「それでは、今日はこちらで失礼」
遅れてきた花婿――光命は言い残すと、瞬間移動で消え去った。
*
明日になれば、明智の家で暮らすようになる、最後の生家で光命は静かに時を過ごしていた。ブランデーグラスを傾けながら、物思いにふける。
あの迷っていた日々をふと思い出した。
(なぜ、私はたくさんの人を愛してしまうのでしょう? 誠実でありたいと願うのに、誠実でいられない)
不便な入院生活をしているおまけの倫礼を想って、光命はそばにいる時間を長くしていた。病名を告げられて、うちしがれる彼女をそっと見守る。
「悲しい……」
一分も落ち込まずに、倫礼は顔をさっと上げた。
「理論だよ。最初にすることは! 感情を捨てること! 物事を進めるのに感情はいらない」
気絶を今も繰り返して、可能性を導き出せないでいる光命には、何がなんでも突き進む倫礼がとても輝いて見えた。彼の心の中で愛が膨らんでゆく。
「私は彼女に何もすることができません。今のままではどうすることもできない」
守護神以外の手出しは赦されていなかった。自身の気持ちは決まったものの。どうにも手が出せなかった。相手は結婚している。まさしく人妻だ。
しかし、彼女が迷路から救ってくれた一人なのも確かだった。光命はどうしても彼女を救いたかった。
そして、自身を救ってくれたもう一人を思いながら、彼は婚約指輪を指先でなぞる。この指輪をはめてくれた男との出会いを、冷静な脳裏に何ひとつ違えずに蘇らせた。




