遅れてきた花婿/3
テレビを見て、昼過ぎに散歩に出かける。それが彼女の日課となった。冬から春へと変わってゆく空を見上げ、ひとりベンチで風に吹かれる。
「気持ちがいい。静かだ……」
目を閉じて、神の恵みを全身で感じる。適切な治療がされなかった二十四年間を振り返る。
喜怒哀楽という感情に、戦車か何か大きなもので引っ張る回されるようだった。心がざわつかない時はほとんどなかった。
躁状態に転じれば、スキップしたいほどで、子供みたいにはしゃぐ。
鬱状態に転じれば、立っていることができないほど悲しみに包まれ、泣くことも止められない。
そんな日々だった。おまけの倫礼は晴れ渡る空を噛みしめるように見つめていた。
「静かな余生を送りたい……。恋とか結婚とかはもうどうでもいい。できるだけひとりで、この世界から切り離されたところで生きていきたい……」
毎日の出来事が覚えていられないほど、記憶力は低下していた。それでも、その年の初夏に、彼女は新しいことにチャレンジするのだ。
ずっと修理に出していなかったパソコンが使えるようになり、療養中の今だからこそできることを始めようとした。
「小説ずっと書けなかったから書こう」
人生に休む時間はそうそうない。神さまが与えてくれた大切な時だと彼女は信じた。USBメモリーに入っているファイルを片っ端から開けてゆく。
「どれを書こうかな?」
神さまと病気のお陰で、アイディアがいくつも浮かんだ設定だけが保存されているファイルを見ていたが、やがてひとつの物語に目を止めた。
「そうだ。これだ。コンクールに出したけどダメだったやつ。キャラクターをもう少し作り込んで、再チャレンジしよう」
ファイルを開くと、青字で文章は書かれていた。倫礼は主人公のキャラクターカラーを決めて、その色で全編を書いたりする。
青――
彼女の中ではこの人しかいなかった。
「主役のモデルは光命さんだったんだよね。ん〜、やっぱり思考回路が好きなんだよね。もっと前面にそれを出そう」
登場人物の脇に描かれたモデル名を倫礼は読み上げる。
「あとは……月命さん。考え方は一緒だけど、負けたがりだからね。ふふっ。対立する感じでいいんじゃないかな?」
段ボール箱にまだ詰められている、神さまの名前を書いたクリアファイルを彼女は本当に忘れていて、勝手に名を変更していた。
あの紙に書かれていたのは、親兄弟配偶者、子供までで、親友などの関係性は書いていない。
ルナスマジック――。女性にプロポーズさせていた男と、喫茶店でよく話している神の名で、倫礼は立ち止まった。
「あぁ〜、そうっだっけ? 冴えない人物にしてたっけ? でも、今回は冴えていただこう。孔雀大明王さんね」
さらにスクロールしていって、倫礼は光命とこの人物が主従関係ということに楽しげに微笑んだ。
「独健さん。毒舌を吐くキャラにしよう。言いそうだよね? お父さん、結構怒るからね」
神を起用して、小説の世界へダイブしている彼女は、さらに登場人物をなぞってゆく。
「あと子供がふたり出てたよね? 誰かモデルがいるんだよな、きっと。本当はどんな性格なんだろう?」
大人ではないのだろう。名前がすぐに浮かんでこないのだから。倫礼はパチパチ打ち込みながら考える。
「一人は五歳の男の子。正直で素直で明るい、優しい子。もう一人は八歳の女の子。個性的な話し方をする。我とかお主とか、そういう感じ……」
クラウド上にあった兄弟のデータを眺めると、ピンときた。
「女の子はわかった。妹の桔梗だ」
キャラクターの服装や身長、瞳の色や髪型。性格まで作り上げてゆく。倫礼の毎日は充実して、幸せな日々になっていった。
神はいない。死後の世界は存在しない。そんな考え方の人も多くいる物質界でも、彼女は信じ続けることをやめず、規則正しい生活を送りながら、散歩へ出かけて綺麗な青空を見上げる。
家へ戻ってきては、パソコンへつたない文章ながらも、あの美しい世界を見たくて、神さまをモデルにした物語に浸る毎日を送っていた。
「ん〜? 障害者になってよかったね。自分はしてないと思ってたけど、差別を色々してたんだ。BLも笑わなくなった。いい経験だった、病気になったことは。価値観が色々増えて、これからまた私は大きく変われる」
青の王子――光命が主役だ。彼女の筆が止まることはなかった。暑い夏がきて、未だに足を引きずる症状は出ていて、外出をしない日々が過ぎてゆく。
パチパチとパソコンのキーボードを打ち込んでいた手をふと止めて、一人きりの空間で、倫礼は珍しく笑顔になった。
「ん〜、やっぱり光命さんの考え方は面白いね。この人と結婚したい……!」
光命を知って、十四年の月日が流れた。一度だって思いもしなかった。許されない想い口にして、倫礼は慌てて口をつぐんだ。
涙があとからあとからこぼれてくるが、顔を急いで拭って、首を横に振る。
「結婚したいじゃない。ううん、結婚したかった!」




