遅れてきた花婿/2
鬱になれば、自殺する――自身を殺す。
躁になれば、誰かを殺す。
極端だから、病名が双極性障害なのだ。
大袈裟ではなく、最悪のことも考えて生きてゆくのだ。取り返しがつかなくなる前に、事実から可能性を導き出して、対策を練っておくのだ。
ガタガタ道を車で走ってゆき、タイヤがぬかるみにはまり、抜け出せないように彼女の体調は狂っていた。
二階建ての上階にいるだけで、地震でもないのに、怖くて仕方がなくなるのだ。
「こんなことあり得ないのに、建物が崩れて落ちそうで怖い……」
体が左へ左へと傾いてゆく。好きなことをして回復しようと思っても、そこにも壁があった。
「リズムが取れなくなってる。プロを目指した時もあったのに、強弱がめちゃくちゃになってる。もう昔みたいに、歌えないのかな?」
一人きりの夜など何年もあった彼女だったが、薬を飲んで布団に入るととても怖くなった。
「眠るのが怖い……。こんなこと今まで一度もなかったのに……」
眠らなければ、病状に影響が出るのはわかり切っていた。だが、焦れば焦るほど眠れなくなる。携帯電話を取り出し、バックライトが寝室ににじむ。
「調べてみよう。眠ることが怖い人、他にもいるかな?」
出てきた検索結果を読み、彼女の心は軽くなる。
「死を連想させるから、怖い人がいるみたいだ。みんなはそれでも眠ってるんだ。一生懸命前に進んでるんだ。だから、自分も恐怖心がなくなるようにしよう」
彼女はそうやって、はいつくばっても前へ進んでゆく。
東京からいきなり田舎へやってきて、夜景の光の少なさに寂しさを覚え、人の少なさに寂しさを覚え、遠くの山が見渡せる建物の低さにも寂しさを覚え、それでも、彼女は少しずつ回復していった。
病院では十分できなかった、自身の病気についての本を購入して、一冊ずつ丁寧に読み進めてゆく。
「ん〜、なるほどね。発症は二十五歳以下。自分は二十歳だと思う。あの時からおかしいと思うことが起き始めた。最初は鬱状態」
言葉が言えなくなったのは、昔もあったのだ。それを自分はおかしいと思うだけで、対処はしなかった。
発病から二十四年になる日々を思い出してゆく。
「それから三、四年後に躁状態だったのかもしれない。包丁で刺し殺しそうになったのはそうだと思う」
雨に濡れたり、急に出かけたくなったり、配偶者に食器を投げつけて、修羅場だった。
「本には、イライラして会社に辞表を叩きつけて急に辞めるとか書いてある。それから、記憶に残らないのも症状であるらしい」
全て自分の性格のせいだと、責めてばかりだったが、誰も理解してくれなかったが、病気だとわかれば、自分を少しだけ許せて、鬱状態にたどり着くことから回避できる可能性は上がるだろう。
一回目の離婚をした時のことを思い出した。
「その後、また鬱状態になって……」
何かが引き金で、病状は悪化するのだ。
「この家で、暴力を振るった時に躁に転じた」
そして、今まで病気だと見逃してきた自身に課せられた大きなハンディがあった。
「この病気は治療が遅れると、鬱状態と躁状態に変わるサイクルがどんどん早くなってゆく、ラビッドサイクルというものが起きるらしい」
きちんと病気と向き合ってこなかった分、ずいぶんと病状は進んでしまったのかもしれない。それでも、彼女は本から書き出した内容を、ノートの上で読んでいた。
「自分は今どこまできてるんだろう? それを知るためにも、記録をつけたほうがいいって書いてある」
持っていたパソコンは酒と水をこぼして、今はただの箱と化していた。小説を書くために、大量に買ったノートを段ボール箱から取り出してきた。
もうタイトルまで書いて、真面目な彼女は準備万端だった。
昔の恋を思い出したとしても、心は痛まなかった。もう今年で四十四歳だ。青の王子を愛した時は三十歳。何もかもが若かった。
あれから十四年が過ぎようとしていたが、今でもあの行動は奇妙だった。
「寝不足で気絶したことがあったでしょ? あれは躁状態だったよね。ここに書いてある。眠らなくても平気で活動できるようになるって」
変なところで意地を張るくせに、基本的に素直な彼女は、うんうんと何度もうなずき、自身の糧として心に取り入れてゆく。
「ということは、規則正しい生活。夜更かしはしないってことだ。とりあえず、食事の時間をずらさないで、夜もきちんと十時には寝よう。病院で生活してたようにしよう」
生まれてこの方、病気というものをほとんどせず、痛みというものも感じず、恵まれた体で生きてきたことを、彼女は今反省する。
「自分は体が丈夫だから過信してきたんだ。それが一番弱い脳に出たのかもしれない」
そして、障害者としてどんなハンディキャップを追ったのかにたどり着いた。
「薬が開発されない限り、一生、鬱状態と躁状態にならないように、自分をコントロールし続けないといけない。一日だって、徹夜はできない」




