遅れてきた花婿/1
入院できる期間は三ヶ月。
外出もできるようになり、それなりに順調に回復していた、おまけの倫礼だったが、大きな壁が彼女の前に立ちはだかっていた。
病院の近くにあるドラッグストアに、他の患者に誘われ行ったが、店内に入った途端、彼女は自身の病状がどれほど悪化していたのかを知った。
「こんなに店の電気明るかったかな? 目がチカチカして買い物ができない」
商品棚の間で、戸惑いを隠せない彼女は立っているのもやっとになっていた。
「商品のパッケージとか情報量が多い感じで、自分の体がついていかない……」
あの不協和音がずっと鳴り響いているような狂った日常生活を経ての入院。慣れない生活に、これから先の未来の不安が膨らんでゆく予感が漂っていた。
それでも、入院期間の終了はやってきた。
今の倫礼には、ひとりで暮らしていける気力はどこにもなかった。家族に連絡をして、七年半続いた失踪生活は終わりを告げた。精神障害者となって戻ってきた彼女を、責める家族はもう誰もいなかった。
東京の主要駅で地方へと行く電車に乗ろうと、駅で待っているだけで、倫礼は恐怖に駆られる。
(電車に乗るのが怖い。トイレに行けないかもしれないと思うと、とても怖い。今まで平気だったのに、できてたことができなくなってる……)
久しぶりに戻った実家だったが、彼女は変わっても、向上心のない家族が変わるはずもなかった。
誰も彼女を理解する人はいなかった。しかし、彼女は大きく成長していた。失踪している間に人から教えてもらったことだ。
――人と過去は変えられない。自分と未来は変えられる。
彼女は思い返す。三十代の頃、一度目の離婚をして戻ってきた時のことを。どれほど、自身が子供だったのかと気づいた。
親が子供を理解するとは限らない。親だって人間で、神さまではない。だから、期待をしてはいけないのだ。わかってほしいと。それは裏を返せば、相手の気持ちを変えようという心の現れだ。
倫礼は人にしがみつかなくなった。自身のことは自分でする。誰にも頼らない。理解されなくても、この世界でたったひとりになってしまっても、自分の信じた道は押し通す。
それは、誰にも頼ることができない、たったひとりの生活の中で身に付けたきた知恵と技術だった。理論と感覚を合わせた方法だった。
怒鳴り声が家の中で響く時は、イヤフォンをして音楽を大きくする。そして、知らないふりをする。
他の人に関わるだけの余裕は彼女にはない。いや関わりたくないのだ。そんなことをしたら、躁状態に転じて、家族を殺すのだろう。いつかのように、刃物を振り回すだろう。
双極性障害の薬は、高血圧の薬と同じだと、家族は思っている。飲めば普通の生活ができると。
理解されないと困ることは、相手が怒鳴ろうとも、罵声を浴びせようとも、ただ静かに、
「違う」
と言い続けることで、相手は落ち着かざるを得ない。自分だけが怒っているのが、バカバカしく思え、恥ずかしいと思うからだ。
怒鳴って言うことを聞かせようとする人間は、いつも自分のレベルの低さに怯えているのだ。だから、相手のペースに飲み込まれないことだ。
言葉を話すことができない他の種族と同じなのだ。こちらが怯えたり、怒りをむき出しにすれば、相手も同じように怖がり、その裏返しで、攻撃される前に攻撃するの図が出来上がってしまう。
それでも収まらない時は、ありがとうと一言嘘でもいいから、感謝を口にすればいいのだ。それくらいの嘘をつけるほど、彼女は強かになっていた。倫礼はそれを、あの昼夜逆転している街で働いた時に技術を手に入れたのだ。
人の心を無視して、動かそうとする人間など、相手を思いやることが当たり前の世界に住む神と話してきた、彼女にとってはどうでもいい人なのだ。道端ですれ違う人と同じ。そう思うと、相手の挑発にも乗らないし、相手が何をしてこようとも、『どうでもいいのだ』。
家族との距離感を取るという、究極の頂きへと昇ると、相手が自身の望む通りに罠にはまろうが、手の内がバレバレの嘘をついてきたとしても、それさえもどうでもいいのだ。それが、関わらないということだ。
人生は勝ち負けではない。もっと大事なことがある。倫礼は知っていた。死んだあとにも続くような、心の成長をするために生きているのだ。
年齢を重ねると、人生のレベルは上がる。それは様々な制限がついてくるからだ。若い頃のように、やる気という感情だけでは進めなくなってくる。だからこそ、人生は面白いのだ。
理論を使う。感情はまず切り捨てる。もともと好きで仕方がない思考回路だ、倫礼はとっては。それが少しできるようになってきたことに、喜びを感じる。
冷静に病気のことを考える。
薬を飲んで、病状を抑えられるのなら、精神障害者の認定は受けない。つまりは、薬は気分を安定させる助けにはなるが、自身が努力し続けないと、病状は悪化する。




