男はナンパでミラクル/2
算数の教科書を小脇に抱える左手には結婚指輪が光っていた。また実りの秋を迎え、イチョウの葉が宙を舞う。
廊下の十字路に差し掛かろうとすると、茶色のロングブーツが顔をのぞかせて、凛とした澄んだ男性の声がかけられた。
「焉貴先生?」
呼ばれた算数教師が立ち止まると、マゼンダ色の長い髪を水色のリボンで結び、それをピンと横へ引っ張り、ニコニコの笑顔をした歴史教師が佇んでいた。
「あぁ、月主先生。お疲れ様です」
川の水が合流するように、職員室へ向かって先生ふたりは廊下を歩き出した。
「一期経ちましたが、お仕事のほうはいかがですか?」
「みなさんのおかげで、順調にいっています」
「そうですか」
丁寧な物腰が似ているふたりに向かって、生徒たちが挨拶をして通り過ぎてゆく。
「月主先生は、姫ノ館にはいつごろからいらっしゃるのですか?」
「私は創立してすぐに赴任しましたよ」
「そうですか」
開け放たれた窓からは秋風が心地よく吹いていて、同僚という距離感で、話も歩みも進んでゆく。
「焉貴先生は他の宇宙からいらっしゃったとうかがいましたが、以前も教師だったんですか?」
「いいえ、私は家が農家なものですから、両親の仕事を手伝っていましたよ」
「そうですか。温泉などは近くにございますか?」
月主命のヴァイオレットの瞳は隙を逃さないというように、片目だけ密かにご開帳した。焉貴はそれを見逃してはいないが、知らない素振りをして、「えぇ」と短くうなずき、
「先生は温泉グラブの顧問をなさっていると、生徒から聞きましたが、もともと温泉がお好きだったのですか?」
ヴァイオレットの瞳はまたニコニコのまぶたに隠され、見られていることは百も承知だが、こっちも知らない素振りをして、「えぇ」と、月主命はうなずき、
「私は放浪のたびに以前出ていましたので、ある土地で素晴らしい湯に出会ったんです。それからです」
「そうですか」
「焉貴先生はご実家の近くにある温泉に入ったりしたんですか?」
「えぇ。秘湯でしたから、村の方々との交流の場として、よく浸かりに行っていましたよ」
「いいですね。私もいつか行ってみたいです」
月主命は思う。妻と子供を連れて、遠くの宇宙へ行って温泉に浸かる。そんな旅も乙なものだと。
「今はまだ宇宙船もほとんど出ておりませんし、電話も通じません。近くに宿泊施設もありませんので、長期休みの時に参られるのがよいかと思います」
焉貴は思う。実家から離れて一度も帰っていないと。携帯電話は未だに通じることもなく、連絡は一切していなかった。
「そうかもしれませんが、宇宙船の運行時間はまさしく光の速さの如く、短縮されていますから、すぐに近くなるかもしれませんよ?」
「十年も待てば変わるでしょうか?」
窓から空を仰ぐたびに、空港から旅立つ宇宙船の銀色の線は本数を増やしてゆくのだ。月主命と焉貴が見上げた秋空に、またひとつ線ができた。
三百億年も生きているふたり――焉貴と月主命の声が重なった。
「私たちにとってはほんの一瞬ですが……」
こんな話が意外な形で実現するとは、ただの同僚である男ふたりは夢にも思っていなかった。




