名を呼ぶことを許してやる/2
それから二ヶ月もたたずに、倫礼は自分が直感した通り、バイト先の社員の男と付き合うことになったのである。
初めての一人暮らし、段ボール箱もまだ全部開けていないままで、倫礼は部屋に立っている、銀の長い前髪と鋭利なスミレ色の瞳を持つ神と対峙していた。
「あの……」
無事見えるようになった光秀から聞くところによると、陛下に言われて自分のところへきたと言う。
守護神ではないが、自分の名前を知っているのは当たり前で、ここは礼儀正しくと思った。
「名前聞いてもいいですか?」
「神の『おまけ』に名乗る名などない」
神さまとか。人間とか。そんなことはどうでもよく、ひとつの存在として、倫礼は思わずこう思った。
「カチンとくるな!」
彼女は怒りで顔を歪ませた。神さまとか。人間とか。そうではなくて、同じ目線にどうしても立ってしまう男と女。
「こんなことで怒るとはな。だから、お前には魂が宿らないんだ」
男からのひねくれ言葉を浴びて、倫礼は悔しそうに唇を噛みしめる。
「む〜〜!」
「ふんっ!」
勝った的に、男は上から目線で鼻で笑った。何としても、負けてなるものかと対抗心が駆り立てられて、倫礼は机を拳で軽く叩いた。
「よし、霊視して無理やり調べてやる!」
固有名詞は難しい。既成概念がないから、霊視するのが一苦労だ。しかし、今まで子供たちの名前は百人近くを、そうやって聞いてきた。経験がものを言う。
まずは音の響きから聞き出そうとすると、倫礼を見下したように、二メートル近くもある背丈を持つ男は、鋭利なスミレ色の瞳で刺し殺すように見た。
「ふんっ! 神の俺が教えようとしなければ、『おまけ』の霊感など通用するはずがないだろう!」
「もう〜! 神さまが人間にパワハラだ! これは究極のパワハラだ!」
持っていたボールペンとメモ帳を、机の上に放り投げて、倫礼はわめき散らした。しかし、神は神で、態度デカデカで言い返す。
「どうとでも言え。『おまけ』が俺を指図するなど、身の程知らずもいいところだ」
そう言われても、やはり負けてなるものかと、なぜか突っかかってしまう倫礼は、ささっと考えて、挑むように神をにらみ返した。
「よし、こうしてやる! じゃあ、『神さま』って呼びます!」
「?」
考えていた割には、ひねっていない呼び方だと男は思った。彼が首をぎこちなく傾げると、銀の長い前髪はさらさらと落ちて、両目があらわになる。
そして、倫礼は両手を胸の前で組み、にこやかな笑みを振りまいた。
「神さま〜! お願いしま〜す! 現実世界にケーキをホールですぐに出してくださ〜い!」
「っ!」
男は息をつまらせ、言葉も発しなくなった。これみよがしに、倫礼は心の中で大声で祈る。
「神さま〜! お願いしま〜す! 現実世界に白馬に乗った王子様を出してくださ〜い!」
「っ!」
調子に乗り過ぎて、倫礼は背中に悪寒が走った。
「い、今のはちょっと、自分でも鳥肌が立った。よし、気を取り直して!」
ヤッホーっと叫ぶように、両手を口の横に添えて、倫礼は男に向かって大きな声をかけた。
「神さま〜! お願いしま〜す! 皇帝陛下の謁見の間へ連れて行ってくださ〜い!」
「…………」
男は腕組みをしながら、活火山のマグマが地底深くで密かに活動しているように、怒りを抑えていた。そこへ、倫礼が満足げな顔でニヤリと笑う。
「あれ? 神さまだから、叶えられますよね?」
そして、火山はとうとう爆発し、男は感情的ではなく、はらわたが逃げくり返るで重厚感のある怒りを叩きつけた。
「お前の頭はなぜそんなに壊れている? 今まで一体何を学んできた! お前の頭はガラクタか! 『おまけ』が陛下のもとへなど行ける――」
神の男と人間の女の間に、ぽわんと煙が拡散するように浮かんで、コウが湧いて出た。机の上に置いてあった、赤ワインをぐびっと飲んで、うんうんと何度もうなずく。
「喧嘩するほど仲がいいって言うからな。いいことだ」
倫礼と男は何も言わず、お互いの視線を気まずそうに別々の方向へ向けた。
「…………」
「…………」
宙にふわふわ浮いたまま、コウが喧嘩の仲裁をした。
「こいつの名前は、月水 蓮だ。じゃあ、よろしくやれよ!」
くるくるっとその場でスピンをして、銀髪の子供が消えると、蓮は倫礼を一瞥して、どこかへ歩いて行ってしまった。
1Kのアパート。場所などそうそうないが、どうも玄関と神界の部屋がつながっているようで、絹のように柔らかな弦の音が響いてきた。
「ヴァイオリン?」




