光を失ったピアニスト/6
数分が過ぎた頃、場の雰囲気を壊さないように、平常を装って、光命はドアから廊下へと出た。
ダンス曲がちょうど終わるところで、壁際にさりげなく立って、さっきの銀色をした龍がフロアから降りるのを待っていた。
人の流れを壊さないように、光命のショートブーツは足早に近づき、さっき話をそらしてくれた龍にお礼を言った。
「先ほどはありがとうございました」
「構わんさ」
バーカウンターでモルトを頼んだ龍は優しく微笑み、弓形の瞳で人間の男をじっと見つめる。
「君の心は優しくできているから、相手のためにその場から逃げないが、時には自身を大切にすることが、相手の幸せにつながることもあるんだよ」
「えぇ、そうかもしれませんね」
優雅な笑みという仮面を被った光命はうなずいたが、心の中では彼の負けず嫌いの精神がにじみ出ていた。
(私は逃げることはしたくない。いいえ、逃げてはいけない――)
この人は自身よりもはるかに長い時を生きている。気づいているのかもしれない、光命のうちは許されぬ愛にずぶ濡れになっていることを。
しかし、これは自分一人の問題ではなく、たくさんの人間が関係することで、そうそうむやみやたらに相談できることではなかった。
やはり自身で抱え込んで、誰も傷つかない方法を見つけるしかないのだと、光命は改めて思った。
「あら? 光坊や、お久しぶり」
色っぽい女の声がカウンターの反対側で響き、振り返ると、上品な龍の女性がいた。光命は思う。やはり自身は世の中ではまだまだ若いのだと。
「お久しぶりです」
「ツアーのことは聞いたわよ」
「えぇ」
あれから顔を見せなくなった、目の前に座っている人間の若い男。何千年も生きている龍の女性は優しく諭したが、内容は少し違っていた。
「長く生きていると、いろんなことが起きるの。はじめの頃はみんな、驚いたり戸惑ったりするのよ。でもね、いつかそれが普通になる時がくるの。いつだってそうだったわ」
同性愛がそれに当てはまるのか、事実――過去から可能性を導き出す光命は見極められずにいた。
今度は反対側から、男の龍が声をかける。
「誰かの未来は予測できたとしても自分のことはできない」
次に誰が何をするのか、小さな子供であったとしても予知できるのがこの世界に生きている人たちだ。
弟や妹が何を望んでいるのかよくわかる。先回りして、プレゼントを渡したり、何かをしてあげることが、光命は兄として幸せな限りだ。ただ自分よりレベルの高い大人にはこれが通用しないから、世の中は面白いのだ。
モルトの入ったグラスを傾け、龍の男は人生を語る。
「今起きていることが、何につながっているかは誰もわからない。ただ言えるのは、どんなことでもいい意味があるということさ」
光命を間に挟んで、龍の女がカクテルグラスを同じように傾けて、少しだけ微笑む。
「そうね。邪神界はなくなったのだから、無意味なことはもう起きないのよ」
「邪神界でさえ意味があったと、僕は思うけどね」
「確かにそうね〜?」
悪を知らない世代の大人。その一人が光命。厳しい世の中を生き抜いてきた先人のふたりに囲まれ、ブランデーグラスを弄ぶようにくるくる回した。
「お気遣い、感謝いたします」
迷路は誰かの力で抜け出せても、目隠しされたままゴールへとたどり着くのと一緒で、新しい景色は望めないのだろう。だから何としても、光命は自分の力で歩みたがった。
*
寝静まった寝室――
大人の袖口を名残惜しそうに握っていた小さな手の力が抜け、ころんとシーツの上に転がった。その腕をつかんで、毛布の中へ寒くないよう入れる。
光命は子供たちの掛け布団を直しながら、薄明かりの中で同じようなことをしている男――彼らの父親に質問を投げかけた。
「子供はどのようにして生まれてくるのでしょう?」
「知らん」
夕霧命の地鳴りのように低い声が、バッサリと切り捨てた。従兄弟が気になっているのは行為の話ではなく、医学的な見地のことだった。昔からそのことをしきりに知りたがっている。




