ナイフの向こうに憎しみがある/1
江は今、果物ナイフを人に突きつけていた。憎しみを三十五年間も抱き続け、和解もせずすれ違い続けた、この世界の家族を脅している。
修正が不可能になってしまった、家族の末路を歩いんでいこうとする。記憶が消え去る――正気を失う前に、江は正常な自分を必死で探し出す。
(コウが前に言ってた。人を脅すのは一番してはいけないことだって。人の心を物のように扱って、それを自覚しながら、自分の思い通りに動かそうとすることだから)
水色をした辞書のような本の表紙に彫られたような白い十字――聖書がすぐそばに置いてあった。
(神威が効いたテレビドラマでも、主人公が一番怒ってた。人を脅すことを許してはいけないと)
鋭い銀色をした刃先は未だに家族に向けられたままで、まわりが何を言おうと、彼女の心にはどんな言葉も届かなかった。
(その時、私は心の底から人を脅すことはいけないと納得した。決してしないと思った。それなのに、今自分は人に刃物を向けて、私を排除しようとする家族を、強制的に言うことを聞かせようとしてる)
彼女はまだおかしいと気づけなかった。褒められることなど一度もなく育った家庭の中で受けた、言葉の暴力は彼女の心を深く蝕んでいたのだ。自己否定という名で。
(それを守れないほど、自分はやっぱり弱い人間だったんだ。それなら、誰からも見捨てられて当然だ。生きる価値もない。自分はこの世界にいらない)
泣きたいはずなのに、『頭にくる』という言葉通り、怒りは頭に登っていて、熱い頬のまま誰かが自分の体を使って怒鳴り散らしている――。まるで映画でも見ているような感覚だった。
(だから、やっぱり死んでしまおう。それがいい。誰かを傷つける前に死んでしまおう)
希死念慮。その鎖に囚われ、自力では抜けられないと気づくこともなく、ただただ自分を責めて、落ちてゆくばかり。心の片隅で、なぜこんなことになっているのかと首を傾げている江がいる。
底無し沼の水面から顔を出しては息を吸って、また沈んでいき、もがき苦しんではい上がって、もう一度引き金になった出来事を最初から思い出した。
それは三日前の午後――
夏の暑い日。クーラーをかけながら、田舎の真っ直ぐな国道を、落ち着きのなさ全開で、江は縫うように車で走っていた。
「ん〜、やっぱりいいね。映画観て、買い物するなんて」
お気に入りの曲を聞きながら、小さな弟たちと、見えないながらも助手席に座っている緑とともに、ご機嫌だった。
「外国産のお菓子とかチーズとか買っちゃった」
大きなトラックの後ろで停車して、信号が青になるのを待つ。
「ふふ〜ん♪」
動き出したと思ったが、ブレーキを踏み完全に停車した時、
「おっと、すぐに止まっちゃ――っ!」
急発進する音が背後から聞こえ、
キキーッッッ!!!!
ガシャーンッッ!!!!
背後から後続車に激突されたのだった。滅多に悲鳴など上げない彼女だったが、思わず黄色い声を出し、
「きゃあっ!」
助手席に座っているだろう、我が夫――いや守護する神に意見を求めた。
「え……? 緑さん、これで合ってますか?」
彼女はまだ甘かった。自分の愛する夫が神であっても、他の人と何ら関係なく平等に扱われていると気づいていなかった。緑の優しげな声が心の中で響く。
「えぇ、合っていますよ」
帝国の人間である以上、陛下の命令は絶対。守護神はどんなに数を少なく見積もっても、人間の数以上いる。つまりは江一人のために地球は回っていないのだ。
しかも、未来の見える神である緑の心の中は、冷静さだけを持ち合わせる彼らしく、かなりシビアだった。
(たくさんの人々のために、あなたにはこちらで強制的に動いていただきます)




