5. 修行はまだまだですの
『タ、ル、ト、タ、ル、ト……』
頭の中でゆっくりと唱える。
最近、なぜかクリストファー様とまともに目を見て話せないので、無心になる修行をしていますの。
異国の本で読んだ瞑想を始めてみたのです。雑念が浮かんだときは、ある言葉を決めて繰り返すといいそうですのよ。タ、ル、ト……ダメだわ、お腹が空いてきました。
ローリー様が学校に来てから二週間が経った。
今日の放課後は、ローリー様に勉強を教えることになっていますの。
あ、教室に行く前に、図書室で辞書を借りるんでしたわ。
思い出して、図書室に行ったのですが……クリストファー様を見つけてしまいました。
勉強してるのかしら。顔をまじまじと見るのは(こっそり斜め前からですが)久しぶりのような気がしますわね。なんせ、顔を見て話せなくなってしまったんだもの。なんだか、金色の髪に光が当たって輝いて、水色の瞳が真剣で綺麗ですわね……って私は何をぼーっとしているのかしら。辞書ですわ。
借りたい辞書は見つけましたが、ギリギリ、手が届きそうで届かない高さにありますの。あとちょっと……と思ったらすっと抜き取られました。
「はい」
そう言って微笑むのは、クリストファー様でした。いつの間に。
「あ、ありがとうございます」
思わず目をそらしてしまう。
やっぱり顔が見られませんの。ええっと、タ、ル、ト、タ、ル、ト……
「ソフィア嬢、僕は何かしてしまったかな」
「ど、どういうことでしょう」
「最近、僕のことを避けているだろう? 申し訳ないけど、理由がわからないんだ。僕が何かしてしまったなら、教えてほしい」
「いえ! クリストファー様のせいではありませんわ」
私にも理由がわかりませんの。修行が足りませんわね。
「そっか。じゃあ、こっちを見てくれる?」
「それは、ちょっとまだ……修行しなおしてきますわ。えっと、これからローリー様と約束があるので、失礼しますね」
もう、目を合わせるなんて無理に決まってますの。声を聞いているだけでも、なぜか緊張してしまうのです。早くこの場から離れたいですわ。
そうやって立ち去ろうとしたはずでしたのに。
クリストファー様が、私の顔の横に両手をついて、逃げ場がなくなる。これは恋愛小説で読んだことのある壁ドゥンではありませんの!?
「く、クリストファー様?」
「ソフィー」
ずっとうつむいていますが、私はきっとひどい顔をしていますわ。今までクリストファー様に、ソフィーと呼ばれたことなんてありませんでしたもの。
「ど、どうしましたの」
「ソフィー、って呼んだらだめかな」
「だめではありませんが」
フローラ様とか親しい友人や、家族はそう呼びますが。クリストファー様とはそれなりに付き合いも長いですが。でも、他の人に呼ばれたときとは違いますの。なんだか、心臓がバクバクしています。
「ソフィー、僕のこともクリスって呼んで」
「えっ!? ええっと、その……」
「ローレンスのことは愛称で呼ぶのに、僕はだめなの?」
なぜ、いきなりローリー様が出てくるんですか? ああもう、どうにでもなればいいわ!
「……クリス様」
我ながら、消え入りそうな声しか出せませんでした。
そしてなぜ、クリス……トファー様は黙ってしまうのですか! 顔を見上げる勇気も出ませんの……
「し、失礼しますわっ」
いたたまれなくて、しゃがんでクリストファー様の腕から抜け出す。最初からこうすればよかったではありませんの。
教室に行くと、ローリー様が待っていた。
「ローリー様、お待たせしてすみません」
「ああ、全然いいよ……顔が赤いけど、大丈夫?」
えっ。両手でほっぺを触ってみると、ものすごく熱い。
「だ、大丈夫ですわ」
もう、自分の気持ちがわかりませんの。
……ダメよ、今はローリー様にちゃんと勉強を教えないと。
「おお、なるほど! ソフィアさんの説明わかりやすいな」
「それはよかったです」
ローリー様がにっこり笑う。やはり、眼福ですわね〜。
「それでは、今日はこのくらいにしましょうか」
「そうだね。本当にありがとう。勉強まで教えてもらって、助かるよ」
「私が好きでしていることなので、気になさらないでくださいな」
「……あのさ、ソフィアさんはどうしてこんなに親切にしてくれるの?」
「え? それは……」
最初は、ローリー様があるプリの『ローリー様』に似ていたから……
って今、気づきましたけど、それってすごく失礼じゃないかしら。ローリー様はローリー様なのに。私、ずっと『ローリー様』を重ねていたのかも……
「……ローリー様って、私の初恋の方にそっくりなんです」
「えっ」
「ごめんなさい。私、初めはそれでローリー様に近づいたのです……でも、今は違いますの! ローリー様、いえ、ローレンス様と仲良くなりたいです。ローレンス様と友達になりたいのです」
ローレンス様は驚いたように目を開く。厚かましいお願いかしら。でも、これが私の正直な気持ちですの。
一瞬の後、ローレンス様が口元を緩めた。
「もちろん。ぜひ友達になってください」
「本当ですか!」
「うん。ところで、ちょっと聞きたいんだけど……」
ローレンス様が声を潜めて私の耳元に顔を寄せる。何やら、秘密の話かしら?
「ソフィー様!」
突然、声をかけられる。この声は……
「フローラ様。どうなさいましたの?」
教室の入り口に、焦ったような様子のフローラ様が立っていた。