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銀世界エイジ

作者: 西荻麦

 歌えよ。ほら、もっと声出して楽しそうに歌えよ。どんぐりころころ転がってんのに、そんなテンションじゃあ、どじょうより俺が困る。必死に作った笑顔がくずれる。もう引きつってる自覚はある。まばらな手拍子がむなしくひびく。

「うわー、皆さん上手に歌えましたねー。聞き入ってしまいましたー」

 我ながら棒読みだが、しらじらしい感想が彼らの――じいさんばあさんたちの耳に届いているとは思えない。白井のじいさんは虚空を見つめて誰かと交信しているし、みどりばあちゃんは舟を漕いでいる。ほかの老人たちも同志の言葉のみ聞こえるのか、もしくは聞こえてなくても問題ないのか、脈絡のない会話を好き勝手に繰りひろげている。

「じゃあ、もう一曲いきましょうか。チューリップ? シャボン玉? 好きな歌を教えてくださーい!」

 教えろっつってんだろ! 別に知りたくもねえけど! そう叫びたくなるくらい、彼らは奔放だ。しかし俺は暴言を吐くのを必死にこらえた。せっかくつかんだ職なのだ(バイトだけど)。

 特別養護老人ホーム【銀世界】に採用されて、ようやく一週間が経過した。スーパーのレジ打ち、喫茶店の店員、工場でのライン作業、テープ起こし……と、いろいろな職に手を出すも、どれも長続きしなかった。人間関係がよろしくない、客に嫌なやつがいた、単調で飽きる、座りっぱなしで眠くなる……と、退職理由はさまざまだったが、どれも俺に一因があることは認める。パン耳をかじる日々の中、改心せねば、という思いは強くなっていった。

 そんな折、目に飛びこんできた求人が、この【銀世界】だった。介護とか老人相手とかありえねえ、とスルーしかけたのだが、横目でとらえたのは【時給千円~】の文字だった。このご時世ゼロが三つの時給はそうそうない。これまで渡り歩いた職場も、最高時給額は九百五十円だった。一時間働けば、近所の小汚い定食屋でワンコイン定食が二回もいただける。安直な計算を頭の中でたたきだし、気づけばスマホを片手に面接を申し込んでいた。応対してくれた人の感じがよかったことも手伝って、俺はすぐに履歴書を書きはじめた。

 面接をしてくれたのは、ホーム長の赤井さんだった。ひょろっとした中年の男性で、「こんにちは」と挨拶された瞬間に、電話の人だ、とすぐにわかった。

 志望動機、(いくつもの)前職を辞した理由など、面接によくあるシチュエーションを俺はあらかじめきちんと用意してきた。職を転々とするのはどうなのか、と問われれば、その分多様な経験ができて臨機応変に動けます、などと見得を切るつもりだった。

「銀原エイジくん。明日からさっそくお願いできるかなあ」

 だから赤井さんがのんびりとした口調で言ってきたとき、俺はおおいに肩すかしを食らった。え? 面接開始十秒で採用? 実は介護職の素質が俺には備わっていたのか、と鼻息を荒くすると、

「本当に人が足りないからねえ。猫の手も借りたいくらいなんだよう」

 と、再び肩すかしを食らった。

「しかも名前に銀が入ってるなんて、何かの縁だよねえ」

 さらに壮大なボケを菩薩の笑みで繰りだされれば、三度目の肩すかしもいっそすがすがしい。というか冷静に考えて【銀世界】って。特別、冬に雪が積もるような地域でもない。バーとかスナックにありそうな名前だ。なにゆえ【銀世界】なのか尋ねると、

「シルバー世代のいる場所だからねえ」

 そう答えてから赤井さんは「明日は九時によろしく」と、さっさと話を進めたのだった。

 めでたく職を得て、俺が最初に仰せつかった仕事がレクリエーションだった。じいさんばあさんの気分転換や脳トレのために、童謡を歌ったり折り紙を折ったりゲームをする。皆で楽しんでやってくれればそれでいい、という何ともゆるいお達しのもと、楽勝だろ、と気楽にかまえていたものの、これが本当に厄介だった。

 じいさんばあさんは恐ろしいほど言うことを聞いてくれない。もちろん実際に耳が遠くて聞こえないという意味合いもあるが、理解したうえで無視したり拒んだりするのだ。いまどき、小学生のほうがよっぽど素直なんじゃないか。そのくらい、俺は見事に手を焼いている。

 好きな歌を募っているのに、誰もかれもが知らんぷりを決めこむ。俺はこっそり舌打ちしてから、最大限のスマイルをもって接する。

「じゃあ、青木さーん。何かリクエストありますか?」

「南国土佐」

「……はい?」

「ペギー葉山の南国土佐を後にして!」

 何じゃそりゃ。誰だそりゃ。呆然とする俺を尻目に、何人かは青木さんに「おおー、いいねえ」と賛同している。童謡ではないことだけは、俺にもわかる。

「いや、あのね、青木さん」

「皆さん! ご飯ですよ!」

 俺の反論を思い切りさえぎるかたちで、職員の黒田さんがぴしゃりと声を張り上げた。よく通る彼女の声なら届くのか、じいさんばあさんも「もうそんな時間か」と思い思いに立ちあがる。食欲があるのは結構なことだが、誰一人レクリエーション終了を惜しまない。

 ぞろぞろと皆が出ていくと、空っぽになった椅子だけがぽつぽつと残った。苛立ちを通り越して、何だかひどく情けない気分だった。


「銀原くんはちょっと遠慮しすぎ! 気遣わなくていいんだから!」

 休憩時間、スタッフルームで黒田さんは梅干しこんぶをしゃぶる。「よかったらどうぞ!」とすすめられるが、丁重に断る。俺は梅干しが苦手だ。至福の表情を浮かべる黒田さんを見て、げんなりする反面、きっとこの仕事が天職なのだろうな、と想像した。梅干しが好きな人間は年寄りと話が合いそう、というまったくの偏見が、俺と彼女のあいだにくっきりと境界線を引く。

「あと声が小さい! あの人たち聞こえないんだから!」

 すべての発音にスタッカートがついて、すべての語尾にびっくりマークがついているようなしゃべり方の黒田さんは笑い声も大きい。近くにいると、こちらの耳がきんきんするくらいだ。当人は気づいていないし、赤井さんは慣れているのか涼しい顔をしていた。

「少しは慣れてきたかなあ?」

 黒田さんと比較すると、赤井さんの間延びした調子がよけいに際立つ。両極端の二人だ。

「仕事というか、ここの入居者に慣れないというか……」

「皆、わりと素直だし、元気な人ばかりだけどねえ」

「どう接したらいいのか、まだよくわかんないです」

「気長にやっていけばいいからねえ」

 雲をつかむような言い方に、俺も「はあ」と間抜けな返事しかできない。黒田さんは「ふんわりしてるから!」と鋭く切りこんでくる。

「あ、そろそろ休憩時間終了だねえ。じゃあ引き続きよろしくお願いします」

 ツッコみに動じることなく赤井さんは指示を出し、かわされたことに動じることなく黒田さんは「ガッテン!」とどこぞの健康番組みたいな相づちを打つ。のしのしと歩いていく黒田さんの背中は広くたくましい。

 気乗りしないまま重い腰を上げ、次は折り紙の時間かあ、とため息をつくと、

「銀原くん。一色さんの様子を見てきてくれるかなあ」

「え」

 唐突な展開にフリーズしてしまう。憂鬱な折り紙のほうが、よっぽどましに思えてくる。

「様子を見るって何をすれば……」

「声がけして、少し話し相手になって、検温してくれれば大丈夫」

 大丈夫ではない。赤井さんは簡単に言うが、それはなかなかのミッションだ。

「でも俺……素人ですよ。一対一で世話するなんて無理ですよ」

「そんな大げさなもんじゃないよう。ほら、孫がおじいちゃんの家に遊びに行くみたいな感覚でさあ」

 申し訳ないが俺のじいちゃんはもっと若い。頭も体も矍鑠としているし、会話だってきちんと成立する。

「じゃあ、お願いするねえ。僕は折り紙のほうへ行くよう」

 ゆったりとした口調のくせに、有無を言わさぬ強引さがある。赤井さんは手をぱたぱた振りながら、先に休憩室を出ていってしまう。細く薄っぺらい背中は頼りないが、意外に食えない。ホーム長を務めるだけあって、実はしたたかなのだろう。

 仕方なく一色さんのもとへのろのろと向かう。彼はほかの年寄りとは何かが違っている。


「……失礼します」

 ドアをスライドさせて入室するが、案の定反応はない。一色さんはベッドから降りて、車いすに腰かけ、ぼうっと窓の外を見ている。夕焼けが彼の顔をオレンジ色に染めて、妙に神々しい。

「一色さん、こんにちはー。温度は大丈夫ですか?」

 施設内は基本的に常時エアコンがフル稼働だ。暑い寒いという感覚とは無縁に、いつも一定の温度に保たれている。じいさんばあさんは自分たちで体温調節をする代謝が落ちている。我慢強いというよりは単に鈍くなっていて、放っておいたら熱中症や心筋梗塞を起こしかねない。つまり、挨拶代わりの俺の質問は、ほぼ無意味だ。

 一色さんの豊かな白髪が、きらきらと輝く。色素の薄い瞳には、くっきりと夕陽が映りこむ。彼の両目が太陽を携えているかのようで、より一層近寄りがたいオーラを感じてしまう。

「今、皆で折り紙をしてます。よければ一色さんもやりましょう」

 彼の横で、可能なかぎり耳に顔を近づけて話す。だが、恐ろしいほど無反応だった。俺が誰かわからないというレベルではなく、俺が今ここにいることさえわかっていないような気がした。

 一色さんはいつもこんな調子だった。俺が【銀世界】に来たときはもちろん、黒田さんもこの状態しか知らないという。彼は誰とも口を利かず、自室から出ることもなく、淡々と呼吸して日々を営んでいる。その様子は狂気的でもあるが、彼の風貌が意外と整っており、若いころはさぞイケメン(時代的にはハンサム? 好男子?)だったことをにおわせているおかげか、どこかほかの入居者より一段高いカリスマ性を漂わせていた。事実、ばあさんたちのあいだで、一色さんはちょっとしたアイドル的存在のようだ。「目の保養」とたまにのぞきに来る人もいる。あの年齢でミーハーぶりを発揮できるとは、感心するやら恐ろしいやらだ。

 早くも何も話すことがなくなった俺は、さっさと検温することに決めた。「すみません。熱計らせてくださいねー」となるべく笑顔を心がけて、おそるおそる彼の脇へ手をやった。身内でも憚られるのに、他人のじいさんの皮膚に触れるというのは不思議な心地だった。

 ぎこちない俺に、一色さんは配慮してくれるでもなく微動だにしなかった。長く同じ体勢を続けたせいでそのまま石化してしまったみたいだった。脇に体温計をはさむだけの行為に四苦八苦していると、突然一色さんが右腕を振り上げて、俺は思い切りのけぞった。

「うわっ」

 バランスを崩すと同時に、顔面に何かが飛んできた。ぴしゃり、と鼻を打ち、俺は「いってえ」とうずくまる。それでも一色さんはどこか遠く、もしかしたらこの世ではない世界を見据えている。

 鼻をさすりながら、床に落ちた飛来物を認識した。それは銀色の数珠だった。普段、数珠なんてそうそうお目にはかからないが、その色合いはめずらしい。まるでパチンコ玉みたいに、安っぽく光っている。

「……一色さんのですか?」

 返事がないとわかっていながらも、つい尋ねてしまう。高貴なオーラをまとう彼には、不釣り合いな印象だった。手に持つと、意外にも重い。実は高価なものなのだろうか。

「かっこいいですね、これ」

 意味もなく無駄な気遣いをしてみせる。一色さんの無言は、かえって俺の浅はかさを見透かしているようで居心地が悪い。そのくせまだ取り繕おうと「俺も欲しいなー」なんて顔が熱くなる嘘をつきながら、数珠を右腕にはめてみた。途端に襲いかかる重量感に、まるで修行の道具のようだ、と思った瞬間、

「バカっ!」

 一色さんが目をかっと見開いて、短く叫んだ。俺の心臓は跳ねあがった。頭が真っ白になっていく中、こんなじいさんでも「バカっ!」なんて言葉を使うんだなあ、とのんきなことを考えた。


 太ったおばさんがうるさい。きんきんと耳障りな声で、ずっとしゃべりつづけている。

「はいはい! 次は三角に折りますよ! 四角じゃないから!」

 うるせえええ。三角と四角の違いくらいわかるっつーの。指がなかなかうまく動いてくれないだけだ。我ながら自分の不器用さに腹が立つのに、そうやって煽られるとより萎える。俺は震える指で、折り紙の点と点同士を重ねる。何度やってもはみ出てしまい、だんだん紙自体がくたびれてくる。俺のしわくちゃの指のように。

 そこでふと気づく。え、何でしわくちゃなんだ?

「皆さん! 完成形は鶴ですよ! つ・る! やっこさんじゃないから!」

 いや、わかってるっつーの。最初に、ものの十分前に言われたことくらい覚えてるっつーの。本当にがみがみとやかましいおばさんだ。

 そこでふと気づく。え、黒田さん? 黒田さんだ。疑いようもなく黒田さんだ。

 混乱する頭で、さらにふと気づく。そもそも俺、何で折り紙なんか折ってるんだ?

 思わず力が入り、手の中で折り紙がくしゃっと音を立てる。力尽きていた折り紙は、さらにしわくちゃになり、再起不能と化す。

「あら! 銀原さん! だめよ、握りしめちゃ!」

 黒田さんと初めて目が合い、俺を見てはっきりと「銀原」と呼びかけた。自分の名前なのに、ずしん、と胸を射抜かれたような衝撃があった。俺はやっぱり銀原で、俺は折り紙を折る立場になっていて、しわくちゃで……。

 そっと頬に触れてみると、記憶にある肌の張りや、剃り残しのひげの荒々しさ、固い骨格はどこにもない。弾力の一切ない、ただのたるんだ皮がそこにあって、俺の心臓は鼓動を速めた。けれど、その早鐘にも力強さはない。

「エイジさん、落ち込むことねえよ」

「私もできなかったわよ、エイジさん」

「俺のやろうかあ、エイジいさん」

 自分の動悸に驚いていると、周りにじいさんばあさんが群がって慰めてくる。しっかりと俺の名前を呼んで。中には名前をもじってきて。

 叫びたかった。何じゃ、こりゃああああ、と俺はリアルタイム世代ではないが名優よろしく叫びたかった。しかし、喉は縮こまってしまうばかりで、すかした屁のような「はああああ」というため息しか出なかった。


 部屋に促され(扉には俺のネームプレートがかかっていた)、ベッドの上、どうにか興奮をしずめて、冷静になろうと努めた。

 落ち着け落ち着け、何が起こってる? 俺はじじいになっている。それはわかっている。

 部屋に備えつけの鏡に映った自分を見て、認めたくないが確信した。俺はじじいだ。筋金入りのじじいだ。具体的な数字はわからないが、誰がどう見たって間違いなくじじいだ。

 頭を抱えると、ほぼ地肌にさわる。頭髪は申し訳程度に残っていて、ふわふわと綿ぼこりのようだった。絶望とともに、どっと疲弊感が俺を襲う。娯楽室からほんの数分歩いただけなのに、足が棒のようになっている。背中や腰も張っている。

 泣きたい。だけど、涙さえ枯渇するものなのか、目が潤う気配もない。両の手で顔を覆うと、ごつごつと何かがあごのあたりにぶつかって痛い。

 パチンコ玉? いや、違う。銀色の数珠だった。一色さんのものだ。

 はっとする。俺はこの数珠をつけた瞬間、一色さんに怒鳴られたのだ。無口、無表情、無反応と無の三拍子そろった一色さんにだ(黒田さん評)。あのとき、意識が飛んだ。気がついたら、俺はじいさんばあさんに混じって、折り紙を折っていた(折れなかったけど)。

 もしかして数珠をはずせば、と試みるも、銀の珠一つ一つが皮膚に吸いついたように離れない。なら糸を切れば、とはさみを探すも、その前に珠同士がぴったりとくっついていて、隙間をまるで見せない。

「銀原さーん。お熱計らせてくださいねえ」

 もがく俺に何一つツッコまず、ゆるゆるの調子で入ってきたのは赤井さんだ。俺は彼に抱きつかんばかりの勢いでつかみかかる。赤井さんは「わあ」とのんきな声を上げる。

「赤井さん……俺です……銀原エイジです」

「わかってますよう。お熱を」

「わかってないっ……うぇっほ、ぐぇっ。俺……じじいじゃあ……ない……」

「わかってますよう。銀原さんはお若いですからねえ」

「年寄り……扱いするなっ……えほっ、がはっ」

 むせる俺の背中を、赤井さんが優しくなでてくれる。その温度に涙腺がゆるみそうになるが、やっぱり涙までは出てこない。体中の水分が蒸発してしまったみたいだ。

 何を言っても、年寄りが「まだ若い」と虚勢を張っているようにしか見られない。体温を測られ(微熱気味だ)、赤井さんの笑みにうやむやにされてしまう。

「あんまり無理しないで、ゆっくり休んでくださいねえ」

 こちらを慮ってくれているのだろうが、おとなしく寝ていてくれ、というニュアンスに取れた。赤井さんの柔らかな対応に、俺はこちら側に立って、初めてかすかな苛立ちを覚えた。

「赤井さん……一色さんに会わせて……」

 さっさと立ち去ろうとする背中に、俺は半ば意地になって声を振りしぼった。振り向いた赤井さんは、少しだけ困惑の色を見せた。

「銀原さん。一色さんって誰ですかあ。会えるといいですねえ」

 赤井さんの笑顔が初めて作り物に見えた。俺はその場で一人立ちつくした。

 その後、ホーム内を歩き回っても(ほぼ丸一日かかった)、どの職員に聞いても、一色さんはどこにもいなかった。

 あの人はこの世のものではなかったのだろうか。


「はいはい! 今日は大きなくりの木の下で、ですから!」

 為す術も思考する気力もなくしたまま、俺はじじいであるしかなくなっていた。自分の姿を見るたび発狂しそうになり、小刻みに粉砕された味のない食事にげんなりし、動くたびに体のどこかが軋んだ。

 それでも受け身でいれば、誰かが世話をしてくれる、という状況はまだ穏やかだった。娯楽室に集い、急に能動的であることを強制されるよりは。

 黒田さんはちゃきちゃき動く。その小気味よさが彼女の魅力なのだが、有無を言わさず【みんなの歌本・まごころ】を手渡されると、まるでこちらが囚人のように思えてくる。

「歌いますよ! 大きなくりのっ、木のっ、下でっ!」

 抑揚ゼロ、スタッカート百パーセントの歌い方に苦笑する。黒田さんが唾を飛ばして煽れば煽るほど、俺の気持ちはどんどん冷めていく。

「あなたっ、と、わったっしっ! たっのっしっくっ、あそびましょっ!」

 遊ばねえよ。俺は胸の内で毒づいた。黒田さんがこちらを見るたび、目をそらす。何でこの年になって童謡なんか歌わなくちゃならねえんだ。恥ずかしいだろ!

 黒田さんを視界に入れたくなくて、俺はそっぽを向く。すると、俺と同じように拒んだり、好き勝手にしゃべっているじいさんばあさんがいた。

 同じなのか、と俺は愕然とした。俺は本当はじじいじゃない。だからこんな仕打ちは耐えられない。そう思っていた。

 だけど、本当のじいさんやばあさんも、くだらないと思っているのか。

 黒田さんの子どもをあやすような身振り手振りが、ちょっと前の自分の姿と重なった。思わずにらみつけたくなる。子ども扱いすんな。年寄り扱いすんな。

「えぐっ……」

「はいっ? どうしました、銀原さん? どこか痛いんですかっ!」

「えぐっ……」

「痰でもからんだんですかっ!」

「エグザイルっ……!」

「エグザイル?」

 首を傾げる黒田さんとともに、無関心だったじいさんばあさんが俺に視線を向ける。俺は腹の底から声を絞りだす。

「EXILE、歌わせろっ……!」

 黒田さんは目を丸くしている。そりゃあ、じいさんがいきなり「EXILE」なんて単語を発したら驚くだろう。しかも藪から棒に歌いたいだなんて。

「いいね、EXILE」

 そう言って親指を立てたのは、何と青木さんだった。ペギー葉山を推していた彼が、まさかEXILEにまで精通しているとは、俺のほうが度肝を抜かれた。しかも「ふたつの唇がいい」とか、俺が歌えない曲名を繰りだしてくる。何でもいい。とにかく童謡から離れて、流行りの歌や自分の好きな歌を歌ってやりたい。

 するとそれに便乗して、次々とじいさんばあさんから意外な要望が飛びだしてくる。

「私はやっぱりSMAPがいいわ~」

「ジュリーメドレーだったらいけるぞ」

「ギターないか? Beatles弾き語り!」

「美空ひばり!」

「西野カナ!」

 どれだけ若いんだ、とツッコみたくなったが、皆の目がぎらぎら輝きだしたのを見て、頬がゆるむ。「あらあら!」とあわてふためく黒田さんに、俺はそっと耳打ちする。

「……倉庫にカラオケセット眠ってるでしょ」

 何で知ってるんだ、と黒田さんは目を見開く。俺はウインクをしてみせる。といっても、つい両目をつむってしまったけれど。

「エイジさん。あんた、まだまだ若いね」

 にやにやと笑う皆に、俺も意地悪く笑いかえす。

「そっちこそ」

 そこから夕飯の時間まで、いや夕飯を終えてもカラオケ大会は続いた。誰もかれもが熱唱し、終盤には黒田さんはじめ、職員一同もついにマイクを握りだした。

 残念ながら古いカラオケセットにEXILEは入っておらず、仕方なく俺はうろ覚えのまま米米クラブを歌い上げた。まさに浪漫飛行な一夜だった。


 カラオケ大会を境に、ホームの雰囲気は少しずつ変わっていった。じいさんばあさんは率先して自分たちのことは自分でやり、意思をはっきりと伝えるようになっていった。そうすると張りが生まれ、レクリエーションの時間はにぎやかに充実していった。新しいカラオケセットでのカラオケ大会、外国物のボードゲーム大会、ラジオ体操プラス筋トレなんかも展開されていった。

 何より皆、よく笑うようになった。本当に自分の好きなことをやれるというのは、その人自身を明るくさせる。皆の雰囲気につられて、職員スタッフたちも以前より快活になり、会話があちこちで増えた。年の離れた者同士は、それぞれの知識や経験に驚くこともできるが、共通の嗜好を探りあてたときの面白さもある。【銀世界】の人たちがミーハーなだけなのか、案外その幅は広い。肩肘の張らない付き合い方を、俺自身もできるようになった。

 すっかりじいさんでいることが板についてきた俺は、周りで笑う人たちを見て考えた。皆、実は若いんじゃないか。精神年齢とかそういうことじゃなくて、俺みたいにある日突然見てくれだけ年老いて、実はまだまだ若かったんじゃないか。

 そんな想像が頭をよぎる。そのくらい、俺は皆と語り合うのが楽しくなっていた。

「銀原さんのおかげですねえ」

「……何がですか?」

「皆さんがいきいきとしていることですよう」

 そう言う赤井さんこそ、前より何だかつやつやとしていた。不意にうれしいような寂しいような、複雑な気持ちが混ざり合う。

 部屋に戻り、すっかり体の一部と化してしまったような銀色の数珠に触れる。ひんやりとした感覚が、指先にゆっくりと伝わる。また、泣けないくせに目頭だけが熱くなる。

 視界が少しだけにじんだとき、枕元にしわくちゃの紙切れがはさまっているのを発見した。手に取ると、最初に頓挫した折り紙だった。俺はそれをテーブルに広げ、丁寧にしわを伸ばした。かさついた手のアイロンでゆっくりと。

 それからもう一度、鶴にチャレンジした。俺だって折り方くらいは知っている。ぎこちなく不器用な手先は、どうしても自分のものじゃないようでじれったい。だけど、確かに自分の手なのだ。どんな姿であろうと、これは俺の両手なのだ。

 紙はくたくたとしおれていく。そこに俺は息吹を与える。不細工ながら、鶴の羽が生まれる。ちょっとだるそうにくちばしを尖らせた頭ができあがる。

 震える手で羽ばたかせた。鶴がふわりと宙を舞う。そのまま落下するはずの鳥は、俺の目の前で優雅に旋回する。鶴が自由に飛び回っている。

 その軌跡に、俺は現実を忘れて見とれた。天井を、壁を、床を伝い、気持ちよさそうに飛行する。

 やがて鶴は、俺の顔面目がけて急降下してきた。避けなくては、と思いつつも、目をつぶってしまい、鶴は容赦なく飛びこんでくる。

 衝撃を覚え、目の前が真っ暗になった。いや、目をつぶっているから当たり前か。しかし、それ以上の深い暗闇に包まれ、俺はあっけなく意識を手放した。


「銀原くん。仕事中に寝ちゃあだめだよう」

 ゆさゆさと容赦なく肩を揺すられ、目を開けるとそこには赤井さんの微笑みがあった。

「あ、すみません……」

 体を起こすと、きれいにメイキングされたベッドの上だった。しわ一つないシーツがまぶしい。「だいぶきれいになったねえ」と赤井さんは部屋を見渡している。

「じゃあ、カラオケ大会よろしくねえ」

「はい……え、よろしくって?」

「銀原くんが皆さんを盛り上げるんだよう」

 赤井さんはそう言って部屋から出ていく。背中を見送ったあとで「銀原さん」ではなく「銀原くん」と呼ばれていたことに気づく。俺はベッドから飛び下りて、鏡の前に立つ。するとそこには、ずいぶん久しぶりな二十五歳の俺がいた。間の抜けた顔が、みるみる涙でにじむ。

 夢を見ていたのだろうか。俺はしわのない両手で、何度も輪郭をなぞって確かめる。その手首にきらりと光るものがあった。鏡越しに目をこらすと、それは銀色の数珠だった。安っぽい、パチンコ玉のような輝き。

 指に引っかけてはずそうとしても、やはりそれは取れない。だけど不思議と、もうあせりや悲観はない。いつか必ず来る、年老いるその日を忘れないための道しるべなのだろうか。そんなふうにも思えてくる。

「銀原くんっ! お待ちかねだからっ!」

 黒田さんの急かす声が聞こえてくる。「はい」と返事をすると同時に、彼女の手首にもまた、輝く銀色があるのを認めた。

 皆、平等に老いる。だけど、皆そう簡単に心までは老いない。

 一発目はEXILEを踊り付きで歌ってやろう、と俺は一人ほくそ笑んだ。

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