人間らしく。咲イテ散ル。
“我が運命君の手中にあり”
さて、どうしたものか。
詠っていた深紅の椿が見事に『堕ちた』。
*
椿が『堕ちた』。落とす前に落ちた。落とす勇気もなく静寂の中見惚れていただけだったのに。それは呆気なく生を終えた。
そんな私は夢に『堕とさ』れ、いや、此方が夢か彼方が夢か、どちらにしろ今は泥のように重たい体をズルズルと引きずって歩いていた。
できることなら全てを夢物語として燃やしてしまいたかった。
のに。
「あァん、なんて煽情的ぃ…っ」
右も左も分からないような真っ暗な空間でただ一つ、照らすは赤青黄の四角い灯篭。辺りに立ち込めるのは煙管から溢れたような紫の煙。
真ん中に座る1人の女。はだけた紅い着物に黒い帯を締めた彼女は目元を隠す“猫”の面を着けていた。
漆塗りをしたような黒髪は胸丈。
「甘い初恋、苦い情熱甘い魅力、苦い一途、口の中が移気でいっぱいいっぱい…。やァん、危険な恋だなんて蕩けちゃうぅ」
薬を盛られた雌のように喘ぎながら、彼女は床に散らばる色とりどりの花びらを口に運んでいた。
面から覗く紅い唇は卑猥に濡れ、花を摘む紅い指先をエロティックに舐める。花びらを一度舌に滑らせてから飲み込むのは彼女の癖か、見せつけるようなその仕草は至極妖艶で、どこか狂っているようで、まるでこちらが犯されているような感覚に陥った。
「でもやっぱり此れが格別…。
ねーぇ、打ち明けられない恋?」
面の下ではおそらくウットリとした視線を向けているのだろう。ツキミソウを摘み上げ、紅い舌をベロリと出し、特別ゆっくりと曲線をなぞる。
同時にフルリと震えた彼女は切なく顔を歪め、花を無理矢理口に押し込んだ。
口角は下がったまま。コクリと喉を鳴らす。
そして一つの間を置き、彼女が衝動的に床の花たちを握りしめて上に投げる。揺れ揺れ落ちる色たち。舞った花びらは露わになった彼女の太腿にゆっくりと散った。
その様は駄々っ子の癇癪の如く。
一連の流れを見ていた私は未だ固まったまま、もはや先ほどまでの鬱屈とした気持ちさえ忘れて彼女に魅入っていた。
彼女は壊れた人形のように動かなくなった。
猫の面が異様さを増す。
一、二、三、と無意識に呼吸の数を数え、ついには彼女の絡繰を探ろうかとさえ思い始めた。
刹那、彼女がパッと顔を上げる。
私はビクリと震えた。
ニィッと口角を上げた彼女が一つ手首を回した。どういう仕掛けか、次の瞬間には彼女の手元にお猪口が現れる。今度はパチンと指を鳴らした。花たちが消え、代わりに酒が現れる。
背景には桜を持って来た方が絵になるだろうに。
現れたのは花のない椿の木だった。
舞台を整えた彼女がゆったりと此方を見遣る。
妖艶な空気は変わらない。
先程の狂気さはもう無い。
「この面、怖くない?」唐突な彼女の問い。
「ぅえ??あ、えぇと…少しだけ…」私は曖昧に答える。
彼女はウフフっと笑って「だよね」と言った。
漫画に描いたような、遊女のような姿の彼女は案外普通の言葉を使った。私はそれに気を許して、少しだけ彼女に近づいた。
「飲みづらくないんですか…?」
「え?」
「お酒」
面を指差して問う。彼女は面を触って、ああ、と気の抜けなような声を漏らした。
「これね、取れないから」
「え?何でですか?」
「取れたくないんだって」
「ん??そのお面がそう言ったんですか?」
「ううん。アンタが」
「えっ?!私、そんなこと言ってません!」
「言ったの。くれたのもアンタだし」
「あげた覚えもありませんよ!」
「そうね。きっとそれが必然ね」
「必然…?」
「そう。必然。椿が落ちるのとおンなじ」
クイっと猫が酒を煽る。私はそれ以上聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
不意に椿の根元に目がいく。
瑞々しく咲いているのは色も形もバラバラな花たち。ヒマワリ、リンドウ、アレやソレ。
その中で一際目立つのはツキミソウ。花言葉は“打ち明けられない恋”だったか。それは他の花たちに比べ随分と小さく乙女のように可愛らしいのに、どこか咲きづらそうにしていた。
お猪口の酒を飲み干した猫の面をした彼女が熱い息を吐く。
「さァさ、此処にいても面白くないよ。どうせアンタは此処では堕ちない。次に進んでちょうだい」
それにしても人間臭い。
「そうだ。これでも着けていきなさいな」
そう言って彼女がくれたのは“兎”の面。
人間臭いという言葉が気になるが言及しても答えは返ってきそうにない気がして素直に顔に当てた。
「じゃあねぇ」
ヒラリと手でも降っているのだろうか。
一瞬の暗転の後、強い光が視界を奪う。
コロコロと猫が笑った。
*
逢引で 小指に絡む 陽炎が
「灯しがいいの」と その身を焦がす
*
ゆっくりと目を開ける。徐々に慣れる目。
目の前に広がるは煌びやかで不気味な無人のダンスホール。
「兎さんだ!兎さんだ!」
聞こえてきたのは幼子を真似たような声。
ホールの真ん中から駆けてくる1人の少女。群青色のパーティドレスと細いチェーンのネックレス。彼女も目元を隠す“蛇”の面を着けている。
後ろに纏めた髪は烏の濡れ羽色。
彼女は私の元まで走ってくると急ブレーキをかけてギュッと両手を握ってきた。面の下のキラキラとした瞳と目が合う。背丈は大して変わらない。彼女はニコリと笑った。
「クーイズクイズ!」彼女が言う。
「なーんのクイズ?」反射的に答えた。
「食べ物クイズ!黄色くてフワフワのォ」
「オムライス!」
「ピンポーン!じゃあ、茶色くて赤くてアツアツのォ」
「ステーキ!」
「ピンポンピンポン!じゃあね、赤くて甘いィ」
「イチゴ!!」
「ピンポンピンポンだいせいかーい!!」
彼女がパッと手を離す。パンパンっと手を叩けば良い匂いが鼻をくすぐった。いつの間に現れたのか。匂いの元を辿れば、長いテーブルにオムライスとステーキとイチゴが並んでいた。
「うわぁ…!」
思わず感嘆の声を漏らす。美味しいものには目がない。他の物事がどうでもよくなってしまうほど。
「あとね、あとね、生卵と魚の目玉!大好きなんだぁ」
パンパンッとまた手を叩く。テーブルに大皿に盛られた生卵と目玉が追加される。
「一緒に食べよ!」
彼女は屈託のない笑顔でそう言って私の手を引いた。
椅子、青のテーブルクロス、シャンパン、スプーン、フォーク、ナイフ、それから洒落たジャズ。
彼女が欲しいものを口にして手を叩けばそれらは魔法のように現れる。彼女にしてみればそれは当然で、なんでもないような顔をして食事を口に運ぶ。そして至極幸せそうに顔を綻ばせるのだ。
私は最初こそ遠慮していたものの口の中で蕩ける食事たちに自ら注文をするまでになっていた。
「これも美味しいよ!」「んん〜っっ」
「これも!」「美味しい〜っっ」
彼女は美味しいものを共有したいらしく私が顔を綻ばせればひどく嬉しそうにはしゃいだ。その顔はあまりに愛らしくて、健気で。幼子のような、恋人のようなくすぐったさ。
私は彼女のその顔が見たくて、つい「美味しい」と口から零した。
と、彼女の面にピシリと亀裂が入る。
え?
ピタリと手を止める。
彼女は特に気にした様子もなく、何の前振りもなく少し寂しいかなと言った。
「ボーイが欲しいなぁ」
パンパンと手を叩く。現れたのは首から上がないボーイが数人。無駄にキチリとしているスーツが異様さを増している。
その不気味さに思わず顔を歪めれば彼女は不思議そうな顔でこちらを見た。私はコクリと生唾を飲み込む。
「な、何であの人たちは頭がないの…?」
彼女はケロリとして答える。
「だって値定めするような目も無駄なこと言う口も要らないでしょ?ワタシ、あれ嫌いなんだもん」
ああ、たしかにと。
妙に共感できてしまう。不気味に見えたボーイたちがいくらかマシに見えるようになったのは原因を知ったからだろうか。
むしろ気にしてしまうような視線がない分居心地が良い気がした。
それにしても。
彼女の力はすごい。望めば何でも、どんな形ででも手に入る。
もしその力を手にしたとしたら人は何を望むだろうか。
お金?地位?周囲の羨望?不死身の体?
私は。と記憶を探った時。真っ先に浮かんだのは一つの影。
欲して止まない一つの花。
それを口にしていいのかと考え、ドクリと心臓が鳴る。きっとそれは賤しくて浅ましい願い。けれど…けれど、そうだ。ここは夢の世界。透明で脆くて、触ればパチンと消える、無かったことにできるシャボン玉。
「…ねぇ、“アノ人”も出せるの…?」
蛇がニィッと笑った。刹那面がパキンと音を立て、左目以外が崩れ落ち灰のように消えた。現れた垂れ目が嬉しそうに下がっている。
「出せるよぉ」
悪魔のような囁きだった。
ゾクリと体を震わす。氷の膜が張った現実の上に立たされた感覚。夢と現、善と悪、その狭間で迷子になったような。実際そうなのかもしれない。今望んでいるものが本来は望んではいけないことだと直感で分かる。いや、そもそも彼女の力を羨んでしまったことさえ間違えだったのだ。
私はその花を、“アノ人”を出させてどうするつもりだった?
指切り?秘め話?独りよがりなママゴトか?
それはあまりに“強欲”で、あまりに人間臭い。
許されないコトだろう。
はぁ、と。
蛇が私の思考を殴るように重いため息を吐いた。
「アンタはズルイね。」
低い声。
面が戻っている。
先ほどまでの笑顔とは一変、呆れた顔をしていた。
私はその顔が怖くて、目を逸らした。
「ホントにアンタは人間臭いのが嫌いだね。ワタシはたしかに人間なのに。またこんな面をつけて獣のフリをさせられる。くだらない」
彼女が何を言っているのか分からない、だなんて。
言えるはずがなかった。
けれど、今だに心の中の答えに目を向けられない。
彼女は続ける。
「そんなに人間らしさを出すのがいけないコトなの?欲しいなら欲しいって言えばいいでしょ?折角言霊があるんだから」
「夢と現実は違う。現実で欲しいって言っても手には入らない。魔法は使えない。それに…我儘な人間は嫌われるんだよ…」
そう言い訳をさせて。
そうでもしないと突きつけられた現実に泣いてしまいそう。
蛇が当てつけのようにもう一度透明の息を吐いた。
「結局ここでも堕ちないなら、もう要らない。じゃあねぇ」
俯く私に蛇はヒラリと手でも振ったのだろうか。
再び強い光が視界を奪った。
*
秋日傘 反して摘む花 標本に
「アノ子も欲しい」と 花一匁
*
目を開ければそこは大きな樹木の下だった。風が抜ける。広い広い草原のど真ん中でポツリと、寂しい、大きな大きな樹。先に見える青い空が舞台の背景であるかのように無機質に感じた。
その樹の下、こちらに背を向けて座る彼女が、持っている一眼レフでパチリと写真を撮る。チカリと上の方で光が反射したかと思えば一枚の写真が落ちてきた。
自分の足元に落ちたそれを手にとる。写っていたのは首のない、真っ白な女の裸体だった。
「綺麗でしょ?自信作なんだ」
彼女はやる気のない声でそう言って、またカメラを構える。パチリ。チカリ。今度は女の二の腕が写った写真が降ってきた。
彼女が振り向く。口元だけ面で隠れていた。何の動物かは分からない。生気のない吊り目がジッと私を見つめる。
黒水晶色の髪は肩の長さ。
「なーんで女の子の体ってあんなにミリョクテキなのかねぇ?折れそうな腕も柔そうな脚も、目も唇もぜーんぶキレイ。思わず見惚れちゃうワ」
馬鹿にしたような言い方に聞こえるのは私の都合のいい耳のせいか。
よく見れば樹の葉は全部写真だった。どれもこれも体の部位。枝には紐か何かで腕やら脚やらが吊り下げられている。ここから見ればマネキンのようだが、きっと違うのだろう。窪みにはギョロリとした目が埋め込まれていてひどく不気味だ。
不気味、であるはずなのに。
「性癖だ。って言っちゃえば楽だよね」
見透かしたように彼女が言った。
「本当は醜い“嫉妬”だけど」
そしてトドメのように言い放つ。
私は呆然と突っ立ったまま、樹をぼんやりと見つめていた。
あれもこれも覚えのあるものばかり。
だって仕方がなかった。
好きだなって言えば私は悪い子にならない。
私は嫌われたくなかった。
から、良い子のフリをして。
愛らしい兎のように。
アノ人に好かれたくて。
小さく口を開く。言い訳は止まらない。
「私はさ、この気持ちを伝えるつもりはなかったんだよ。それまでは普通に男子が好きだったし、作ったのも彼氏だったし。…好きだと思ってた。だから何でアノ人を好きになったのかも分からない。ただ…欲しいと思っちゃった」
手を繋ごうと友達らしく言って。
恋人ごっこだねと巫山戯てみて。
お前は可愛いななんてアノ人が嫌味なく言うから。
アンタは格好いいよと口の中で呟く。
「あの瞬間、言ってもいいかもしれないと思っちゃった。どうせ叶いなんてしない。好きだよってこの胸の内のドロドロを吐き出して、それから最高の友達だよって誤魔化すつもりだった。なのに、」
酷く冷めた顔をしてアノ人は一言。
『お前は可愛いね』って。
絶望。忸怩。自嘲。嫌悪。
「ああ、軽蔑されたんだなって。まあ自業自得だよね。色んな男子に言ってきたもん。きっとそれと同じだと思われた。軽々しく好きという言葉を使う女だと思われた」
今更本当の恋を知ったって、私にはどうすればいいか分からなかった。
私の話を聞いていた彼女は「ごめん」と言った。
トントンと面を指差して言う。
「これね、狸なんだ。でも化けるのは苦手。ごめんね。誤魔化しきれなかった」
私は思わず渇いた笑いを零した。
「いいよ。もう、いいや」
私は自ら目を瞑った。行き先は分かる。
狸がヒラリと手を振った。
「そっか。じゃあね」
私は小さくごめんと呟いた。
*
雪化粧 色めく椿が 憎らしく
咲えぬように 手折る首の根
*
そこは真っ白な空間だった。
右も左も上もない。ただ下には床がある。
目の前に立つ小柄な少女。
黒い髪をポニーテールに結ぶ彼女は私。
「人間臭いね」彼女が言う。
「人間らしいの」私が言う。
「捨てるのね」彼女が笑う。
「もう、要らないから」私も笑った。
捨てるのは放棄するのと同じで、それはつまり“怠惰”だ。
下手に理由づけするのはやめよう。
ただ、気付いただけ。
全てを捨てた時、そこには何も残らない。
ごめんね。私はもう一度言った。
「よりにもよってアンタに惹かれちゃった。“色欲”に惹かれれば癒しを求めただろうし、“強欲”に惹かれればどうにかして自分を満たそうとした。“嫉妬”に惹かれれば対象を別のものに変えればいいだけ。…捨てる選択はなかったと思うよ」
幸せは淡いものだ。
つい、怨みたくなってしまうほどに。
聖書に嫌われた同性愛がどうして救われる?
どちらにしろ私はアノ人に軽蔑されたまま。
もう、戻れない。
これが運命だったんだ。
「私はズルい?」
「いいや。人間らしいよ」
彼女がヘラリと笑う。
「こんなに不幸なんだから。地獄に落ちてもこれ以上『堕ちる』ことはないさ」
「悪趣味な餞別だね」
私は兎の面を取った。
人間らしさを隠して個性の皮を被る。
そうして自分を偽るのはやめだ。
偽るのは疲れてしまう。
私はクルリと背を向けてゆっくり手を上げた。
「じゃあね。可愛い“ワタシ”たち」
*
カンカンと 棒無し踏切 19才
「一緒に待とう」と 言ってくれれば
*
溶けぬ蝋 語るは永遠の 草双紙
望むは明けぬ 朧月夜
愛しくて可愛かったあの子が死んだ。自殺らしい。
【アタシ】の耳元で“傲慢”が言う。
『下手なプライドなんか持つから。』
そうじゃない。そんな陳腐な結末じゃない。
アタシはあの子の特別が欲しかった。
あの子はアタシが手に入った瞬間、きっと満足するだろう。
そうしてまた別のヤツを探す。
気紛れな蝶のように。
けれど、今はどうだ?
あの子はアタシを想いながら死んだ。
頭を、心を、アタシで満たして。
あの子の中で今咲けるのはアタシだけ。
2人で紅く染まる。
鈍い音 棒無し踏切 紅い君
「一緒にイコウ」と 言ってくれれば
落ちた椿に他人は見向きもしない。
それは素敵な、ふたりぼっちの世界でしょう?
咲いても詠う、散っても詠う。
花の刹那の生に惚れた人間は、また愚かに花に詠わせる。




