終結に向けて
動きがないからと安心するより不安になるのは、仕方がない事だ。
動きがあれば、終わりも近いと感じることが出来るからだ。
最近、役者たちも体力的な余裕が出来、今夜は夕食の後お茶に誘われた。
蓮もその場にいたのだが、少し早めにその場を離れ、いつものようにヒスイたちの様子を見に行っている。
鏡は男たちと馴染み始め、酒が欲しいとぼやく位羽目を外したが、我に返って今の状況の不安定さを警戒する。
レイジもその場にいて、別れた時にそっと公衆電話に向かっていたから、何事もないこの数日に不安を募らせているのだろう。
焦っても仕方ない、気長に向こうが動くのを待つ、そう言う考えのセイは鏡と共に役者たちと別れ、部屋の前に戻ってきたところだ。
隣同士の扉の前で、鏡が振り返り鍵を開けてドアノブに手をかけている若者に声をかけたが、それは就寝の挨拶ではなかった。
「おいっ、ドアを閉めろっ」
緊張のはらんだ声に答える前に扉が内側から開き、そこから伸びた手に胸倉を攫まれ、身を引く間もなく部屋の中に引きづり込まれる。
思わぬ状況に我に返った時、素早く後を追って来た鏡共々身を凍らせる声音が、男の声で言った。
「みいつけた」
耳元で地を這うように恨めし気に言われ、セイは悲鳴をかみ殺した。
そんな様子を見下ろし、胸倉を攫んでいた男が大袈裟に溜息を吐きながら、若者を解放する。
「もう、あなたはどうして毎度毎度、あたしがこういう近づき方したら、そんなに驚くのよ。いい加減傷ついちゃうわ」
それは驚くなと言うのが無茶だ、と思うのだがセイは男を見上げて言った。
「仕方ないだろ、あんた、こっちが少し素に戻った時を見計らって、そういう事をするから、反応が遅くなるんだよ」
「それこそ仕方ないでしょ」
嘆き口調だった男が、頬を膨らませて言った。
「あなた、素に戻ってしまった後も、仕事モードの時もあたしに気付かないふりするじゃない。最近、あまり顔を合わせられないのに、ひどいわ」
それは、色々うるさいからだとは言わず、セイが黙り込んだのを幸いに、男は顔を曇らせた。
「心配したのよ、約束したのに来ないから。一体どうしたのよ? 言っとくけど、緊急の仕事なんて嘘、通じないわよ」
答えを促す男に、セイは仕方なく答えた。
「……蓮を撒こうとして、捕まったんだ」
簡潔過ぎる答えに、相手は勿論納得しない。
「セーちゃん……」
膝をついて両手を伸ばし、若者が身を引く前にがっしりとその顔を攫んだ。
「いつも言ってるでしょう? いくら面倒でも、言い訳は順序良く、詳しくして頂戴」
「ご、御免なさい」
悲鳴に近い謝罪は、とても昔男を従えていたとは思えない。
鏡が呆れて見守る中、セイは声が震えないように抑えながら、説明した。
「本当は、何時間でも待つ気でいたんだ。あんたの仕事は、時によっては時間が守れない事態もあるだろうから」
「そんなに待たせないわよ。例え強盗事件が起こって、犯人が立てこもってたって、あなたを優先させるわ」
「いや、頼むから、人命は最優先してくれ」
本気で頼む若者にいつも通り笑いながら、男は捕えていた顔を開放する。
人を食ったような笑顔に押され、セイは話を続けた。
「約束の時間の五分ほど前に、蓮が歩いてくるのに気づいて……厄介な悩みを抱えている顔をしてたから撒いておこうと、一度あの場を離れたんだ」
「撒いて来れなかったの? どうして? いつもなら、早急に撒けるんでしょう?」
更に深く切り込む男に、セイは鏡を一瞥してから答えた。
「それは……撒いている最中で、とても珍しい事をしている人を見つけてしまって……ついそっちに行っちゃったんだ」
歯切れが悪い若者から、思わずそっぽを向いた鏡に視線を流した男は、溜息を吐いた。
「今も、シノギって名乗ってるみたいよ、叔父様」
「……」
「動揺するのは分かるけど、それで人助けしちゃうなんて、あなたらしいわね」
どうやら、あの線路内の出来事も察しているらしい。
無言のままの鏡に頷いて、男は再びセイに向き直った。
「その過程で、蓮ちゃんに捕まっちゃったのね」
男の口調にはまだ責める色がある。
「でも、それなら、蓮ちゃんの用事が済んでから、来てくれればよかったのよ。どうして来なかったのよ?」
「それは……」
歯切れ悪く目を泳がせるセイは珍しい。
「これをカムフラージュにすると言う手も、使えるなと思って……」
「カム……フラージュ、ですって? あなたねえ」
目を見開いて、男は声を必死で抑えながら言った。
「そこまでやっといて、まだ、そんなものがいると思っちゃうの?」
「いや、これは、予想外の産物なんだ」
これまた珍しく言い訳する若者をしみじみと見つめ、男は深く溜息を吐いた。
「カスミちゃんの引きが、恐ろしく早かった原因は、それね。違和感があるなとは思ってたけど、余りにも些細なこと過ぎて、気づかなかったわ」
「良かったな、分かって」
話の間に自分を取り戻しつつあるセイが無感情に返し、話を切り上げようとするが、男はまだ納得していなかった。
「まだ、分からないことがあるんだけど」
若者を見据え、問いかける。
「あたしを呼んでまでそれをどうにかしようとしていたと言う事は、相当の大事だったんでしょう? どうして蓮ちゃんの仕事を優先させちゃったの?」
「優先になんて、してないよ」
あっさりと答えられ、一瞬考えてしまった。
「……? そちらは解決してきたってこと?」
「いや」
短く答え、セイはあっさりと言った。
「同時進行中だ」
動きを止めてしまった男が、不意に声を張り上げた。
「な、何ですってっ」
忍んできたはずの立場を忘れた大音量の声に、セイは流石に顔を顰める。
「なんて声出すんだよ。あんた、内密で来たんじゃないのか?」
「そんな呑気な事を……」
必死で声を抑えているが、男は動揺しっぱなしだ。
この子の行動は相変わらず、突拍子がなさすぎる。
「一体、どんな仕事と、同時進行してるの?」
「あんたなあ……」
つい、真剣に訊いてしまった男に、セイは面倒臭そうに溜息を吐いた。
「それ、あんたなら、ペラペラ喋るのか? 終わったものならまだしも、まだ遂行中の仕事の内容を?」
そう言いつつ、セイは終わった事でも決して外に漏らさないと決めている。
どちらにしても仕事がかち合い、協力できるという異例がない限りは、事情を漏らす気はない。
ましてや、この男は敵側にいる。
なのに、男はやんわりと笑って首を振った。
「あなたと今受け持ってる仕事を天秤にかけるとして、どちらが優先かは言うまでもない事よ。あたしも協力するわ」
背後で鏡が顔を顰めるのを見るでもなく、セイは溜息を吐く。
「そうか、そこまで、失敗させたいのか」
「……」
「まさか、そんな白々しい言い分をまっすぐにとるとは、あんたも思ってないよな?」
笑顔のままで、男は答えた。
「勿論よ」
「あんたって、つくづく労力の無駄遣いが好きなんだな」
しみじみと言い切るセイの言葉に棘はないが、直球だ。
だから、男も腹をくくったようだ。
「分かったわ。この際、はっきりと言わせてもらいましょう。セイちゃん、この仕事から、手を引きなさい」
「断る」
返事は短くきっぱりとしていた。
そんな若者に、諭すように話しかける。
「あなたにはそんな記憶がないから、分からないんでしょうけど、子供と言うのは大人に甘えて成長するものよ。蓮ちゃんだって頼る人がいるうちに、そういう経験をしなくちゃ」
「その頼る人とやらに仕向けられてるのに、頼ろうと思う程蓮は若くないよ」
「それは、頼り慣れてないだけよ。若さなんて関係ないわ。それに、血縁でもそうでなくても関係ない。年上の知り合いが心配しているのに、無茶ばかりするのも、どうかと思うけど?」
鏡が呆れ顔で溜息を吐いている。
「……言っても無駄だろうけど」
セイは静かに口を開いた。
「本当に助けが必要だった時、傍に誰もいなかった子供に、そんな無理な期待はしないでくれ。あの人は優しい人だから何も言わないけど、それに付け入る人は、質が悪すぎる」
「……」
「あんたの言葉、そっくりそのまま返そう。あんたの方こそ、この仕事から手を引け」
男を見返す目は、いつも通りの無感情のものだった。
「引かないのなら、次に顔を合わせた時は、敵としてお相手する」
迷いのない言葉に、男は溜息を吐いた。
そして小さく笑って言う。
「次に会う時には、全て終わっているわ」
やんわりと、しかし、いつもよりも迫力のある声音が、他の二人を身構えさせたが、それは長く続かなかった。
男から間合いを取ろうと身を引きかけたセイが、突然体勢を崩して床に倒れこむ。
「おいっ」
思わず声を上げた鏡も、そこで膝をついた。
力が抜けて床に手をついた鏡が、片手で口元を抑え顔を歪ませる。
「お前、まさか……」
睨んだ先の男は、やんわりと答えた。
「無臭の筋肉弛緩剤。気づかなかった? 入口の前に仕掛けてたのよ。この部屋にいきわたらせるには少量で時間もかかるけど、近くにいたら少量でも効くし、この子に至ってはこの通り」
人を食ったような笑いでセイを見下ろし、男は身をかがめた。
体勢を立て直そうと足掻く若者の身を起こし、用意していた布を口と鼻に押し当てる。
男が所持していたそれには気づいていた鏡は、歯軋りして動こうとするがその間に、セイの動きが止まった。
振り返って立ち上がり、近づいてくる男を睨むが、相手はたじろぎすらしない。
「蓮ちゃんが戻る頃には、あなた達の仕事の失敗は確定しているわ。明日、ローラは動く。その前に、邪魔な人間は消すように言われているの。リヨウちゃんの送り込んだ子よ」
あっさりと言い切る声は普段通りだ。
つまり、人ひとりの命など、それほど重くないと思っている口調だ。
これでも、子供には優しいはずの男だ。
それを知る鏡は、苦々しい気持ちで、呟いた。
「お前、そこまで戻る程に、そいつが心配なのか? いい加減、認めてやれ。そいつは、お前が思っている程……」
「無理よ」
短い答えは、悲痛に聞こえた。
……セイの部屋に入った蓮は、その惨状に眉を寄せた。
静かに扉を閉めてから、鏡の傍に膝をつく。
争った形跡は余りないが、ここに来た男がどうやって鏡を戦闘不能にしたのかは想像つく。
「大胆な真似をしたな、あのおっさん。それに……」
部屋を見回しながら、本来の部屋の使用者がいない事実にやんわりと笑みを浮かべる。
「命知らずだな、本当に」
呟いて、鏡の額に触れた。
どういう結果であろうと、男の後を追う必要があった。
翌朝、レイジが姿を見せなかった。
いつもならば誰よりも早く食堂に向かい、役者たちや演出達に明るく挨拶してくれる男なのに、全員が朝食を終えて稽古の段になっても姿を見せない。
「ノックは何度もしたんですけど、返事もないんです」
サラが心配そうにそう報告してきた。
「風邪で寝込んでるのか……様子を見て来る」
セイが眠そうに答え立ち上がったが、それを制してカインが立ち上がった。
「オレが行ってみます」
言いながら、何故かゲンの腕を攫む。
「あ? 何だ?」
「鍵開け、手伝え」
返事の暇を与えず、男は年下の男を引きづるように歩き出す。
「おい、何でオレが……」
「変だぞ」
「何が?」
「セイの怪我……」
言いかけたものの、躊躇うカインにゲンが戸惑いながら聞き返す。
「刺し傷が、どうしたんだ?」
「ああ、確かに、刺し傷だった。昨夜までは」
「昨夜まではって……何言ってんだ?」
「オレもどう言っていいのか分からない。人が入れ替わったわけでもないんだ。本人なのは間違いないんだが……」
頭を掻きむしる男を、戸惑いながら見守りゲンは少し考えた。
「まあ、そう言う事もあるだろ。あの人は、結構常識から外れてるから。それより、レイジだろ。あの人、一体どうしたんだ?」
「何でそれだけで話を終わらせられるんだ? お前、やっぱり、あの手に慣れてるな?」
「あの手って、どの手だよ?」
困惑していたゲンが、カインの目を見てぎょっとなった。
「……この手の奴に、慣れてるだろう?」
年下の男を見据える目は、いつもの瞳の色より透明度のある色合いに変わっていた。
「……犬、いや、狼か?」
引き攣り笑いで後ずさるゲンに、カインは静かに頷いた。
「正体さらした上での話だ。セイは、確かに深い刺し傷を負っていた、昨夜までは。なぜ分かるか、聞かれる手間はないな?」
「あ、ああ」
「だが、今その刺し傷はない。この数十日治る気配のなかった怪我が、急に一晩で治っている。代わりに……」
カインは、その違和感をゲンに告げた。
「? 何で?」
「分からないからお前に相談している。この手の奴に慣れているんだろう? こういう事は、あるのか?」
「あるわけないだろ。勿論、オレだってそれほど詳しいわけじゃない、だけど、珍しい事例なら、耳に入るのは早い」
言いながら、何かを感じていた。
一つの予兆、だ。
「……レイジが姿を見せない事と言い、そろそろかもしれない」
カインもその可能性を口にした。
「じゃあ、レイジは、まさか……」
「残念だが、可能性はある」
ゲンが歯を噛み締め、カインも溜息を吐く。
「もしかしたら、レイジを助けようとした結果が、あの状態なのかもな。痛い黒星だ。これ以上の痛手は、勘弁だな」
「逃げるのか?」
抑えた声の問いかけに、男は笑って答えた。
「いや。オレは、ここで確かめなきゃいかん事がある。例え、あの三人の仕事が失敗したとしても、ここに来れただけましだ」
「安心した。戦力は多い方がいいと、あの人も言っていた」
僅かに笑いゲンが頷き、カインも笑い返す。
言葉通りレイジの部屋に向かい無人を確かめると、その旨を報告する。
「……遅かったな」
「あのな、鍵を外すの結構難しいんだぞ」
「やったのか、本当に? お前、検察官じゃなく、泥棒向きじゃないのか?」
コウの呆れた言い分に、ゲンは睨んで返した。
「刑事に向いてない奴に言われたくないなっ」
「しかし、どうしたんだ、レイジの奴」
若い反論は聞き流し、コウは姿を見せない男を心配する。
「心配だが、それどころじゃないかもな。今日は」
トレアが台本片手に言った時、稽古場にヒスイが顔を出した。
顔を上げた役者が一様に不信を抱くほどに、顔を強張らせている。
「監督が、スポンサーを連れていらした」
「はい」
目を見開いてセイが頷き、ゆっくり立ち上がる。
そして、目を上げて視線を合わせたレンとヒビキに頷いてみせた。
「迎えに行ってくる」
やんわりと声をかけて、ヒスイと共に稽古場を去っていく。
それを見送って、ヒビキが小さく舌打ちした。
「体が、思うように動かん」
「質の悪い薬だったな。体にしみこむのも早かったみたいだ」
「あの、変態野郎が」
意味不明の言葉を吐き捨てる女に苦笑し、レンは稽古場の出入り口に視線を移したが、その顔が傍から見ても分かる程に強張った。
見ると、監督のローラともう一人、よく似た美しい女が稽古場に入って来る。
そして、その部下たちが入って来たが、そのうちの一人のジャンがにやにやと笑いながらセイの両腕を封じていた。
その封じ方は明らかに怪我を圧迫するもので、役者たちが戸惑いと怒りを浮かべる中、レンは顔を強張らせて立ち上がった。
そこに、乾いた音が響き、立ち上がったレンが肩を抑える。
「動くな、それだけ無駄に痛い目に合う」
ヒスイが、静かに口を開いた。
肩を抑えて立ち尽くしたレンが、無言で赤毛の男を睨む。
驚きを隠さず座ったままのヒビキに、アレクが銃口を向けた。
右腕を強く攫まれたまま、セイは目を見開いてヒスイの手元を見つめた。
「あんた、何でっ?」
いつもの表情を消し去り、セイが叫ぶようにヒスイに呼び掛ける。
「仕事の邪魔は、されたくねえんだ。お前らと一緒でな」
まだ白く煙を上げる銃口を、レンに向けたままヒスイは言った。
「こちらにも、深い事情がある。これ以上痛い目は嫌だろう? 大人しくしてな。そうすりゃ、人によっちゃ楽しめるだろ」
「赤毛っ、お前っ」
ヒビキが、嫌悪感をあらわに叫んだが、ヒスイはローラに頷いてジャンからセイを引き取り、稽古場を去っていく。
連れていかれるセイが、肩越しに振り返る。
立ち尽くしたレンはその目を見返して頷き、不敵に笑って見せた。
頷き返した若者が大人しく連れていかれるのを見送り、残った女がジャンとアレクに声をかけた。
「今回、女が少ないのね。これで足りるの? ローラは高く売る気でいるけど、信用は大事よ。依頼された分は出荷日に間に合わせないと」
「大丈夫ですよ。これだけいりゃあ、上手くすりゃあ六人分、半年後には『収穫』出来る」
「『収穫』後、すぐに次を仕込めば、出荷数も余裕ですよ」
アレクも言い、女たちをねめつけた。
男たちが嫌悪感で顔を顰める中、女は首を傾げた。
「次を仕込むって、そんなに頑丈かしら、その女たち?」
「頑丈ですよ、特に、こいつは」
銃口を向けているヒビキを見ながら、アレクはにやりとする・
「女たちも、こいつらが鍛えるだけ鍛えてくれたはずです。他の方は、オレたちが鍛えてやりゃあ、長持ちしますぜ」
ジャンも一か所に固まって身を縮め、何が起こったのか図ろうとしている女たちを、一人一人物色する目で見つめる。
「それは期待するけど……」
女は残念そうに部下たちを見回した。
「男を沢山連れて来ちゃったわ。鍛える前に、壊れなきゃいいけど」
「それなら、また馬鹿な女どもを、今度は大量に集めりゃいいんだ。今回は、楽しむだけでも、オレは全然構わないですよ。出荷までまだ間はあるんでしょ?」
ジャンは女に答えながら、マリーの腕を攫んで引き寄せた。
激しく抗い、マリーが言葉を投げる。
「何よ、何の出荷の話なのっ?」
「そんなこと気にせず、楽しもうぜ。その方が何かと楽だろう?」
「……子供、だよ。正しくは、受精五か月を過ぎた、胎児」
動きを止めたジャンが、答えた声を振り返った。
肩を抑えて立ち尽くしたままのレンが、そのままスポンサーの女を見据えていた。
「羊水に包まれた胎児か羊水自体か、その辺は分からないし分かりたくもないけど、美容液の元となる物が、産まれた時に包まれていたもので出来ています……って言う、へどの出るようなキャッチフレーズの商品。それこそ、一部の金持ちの間の、若さを願うマダムが購入対象の材料確保が目的で、この映画撮影の公募は行われている」
微笑む女に微笑み返しながら、レンは首を傾げた。
「これで合ってるか?」
「……黙れ、クソガキがっ」
マリーを離し、ジャンが大股に近づき、力任せにレンを殴りつける。
小柄な体は抵抗なく床に転がり、その体に馬乗りになった大男が怒鳴るように女に言った。
「こいつからやっちまってもいいですか? その口が二度と聞けねえようにしてから、嬲り殺してやる」
「それはいいな。こいつらの敗北の後なら、女どもも無駄に抵抗しないだろう」
アレクも言いながらヒビキを抱き寄せた。
「はいはい、好きになさい」
女は男たちが思い思いに目を付けた相手に近づくのを、呆れたように見つめ首を振った。
抱き寄せられたヒビキは、一瞬固まったがすぐに動いた。
胸元に引き寄せられたのをいいことにその勢いを利用して、そのまま思いっきり拳を男の腹に叩きつけた。
籠った声と共に、一撃でアレクは沈む。
自分より大きい男を乱暴に体からどかし、他の者たちの救助に動こうとして、固まった。
空気が、凍っている。
その空気をまとっているのは二人。
一人は、サラとティナを背に、倒れている男たちを見下ろすシュウだ。
「いや、驚いたよ。こんな猟奇的なこと、会社ぐるみでやってるところがあるんだね。うちは大丈夫なの?」
誰にともなく言い、シュウはまだ立っている敵を見据えた。
「……大丈夫ですか?」
ゲンが、大柄な敵の男たちを牽制しながら、ヒビキに声をかけた。
「ああ。鳥肌がまだ収まらねえが」
「そうですか。戦力に数えても大丈夫ですよね?」
「当たり前だ」
言いながら、ヒビキは銃を持った者を探した。
レンのように撃たれて平気な人間は、あまりいないだろうから、早いうちに無力化する必要があると思ったのだが……。
もう一人の凍った空気をまとった女が、ジャンの拳銃を手にした手を攫み上げていた。
「なるほど、これは、少々度が過ぎる。意図せず作ったとはいえ、放ってはおけませんなあ」
やんわりとマリーが呟き、つかんだ手首をそのままひねり上げた。
「レンと申したか? 合図は、どのようなものだったのだ?」
尋ねた先は、泣きわめく大男が馬乗りになっていた若者だ。
「合図?」
「暴れる合図はないのか?」
「あ、ああ」
今、何が起こっているのか分からなくなっているのか、レンは珍しく呆然としていた。
しどろもどろになりながら、マリーに答えた。
「さっき、セイが出て行くとき、振り返っただろ。オレたちの我慢が切れたら、反撃開始だ」
「分かりやすいのう」
女は楽し気に笑い、無造作に拳銃を立て続けに発砲した。
身を起こしたレンは、銃口の先でアンを背後から羽交い絞めにしていた男が、拳銃を落とした手を抑えて倒れこむのを見た。
「聞いたか、カスミ殿の娘御。もう暴れてもよいようだ」
「と言うか、君ら、我慢強いねえ。私だったら、八つ裂きだよ、そこまでされたら」
シュウも稽古場にあった錫杖を手にし、襲い掛かった男を一撃で沈めている。
「……おい。あいつら、何もんだ?」
呆然としながらも、ヒビキは飛び掛かってきた男は撃退していた。
撃退された男たちを、手際よく束縛していたゲンが、首を傾げて答えた。
「あなた方が分からないのなら、オレが分かるはずないです」
出る幕がないレンは身を寄せてきた女たちに支えられ、肩を抑えながら圧倒的に有利となった味方たちを見物している。
銃を全て無力化した後シュウから杖を投げ渡され、マリーは嬉々として男たちを撃退しているのだが……。
「……おい、あれは、そのものだろう」
誰にともなく呟いた。
「ですが、あの方は、当の昔に……」
「だよな……だけど、そのものの動きだ」
小声で返す女に戸惑いを伝え、シュウに目を移すとその傍でトレアが束縛の補助をしていた。
「安心してください、確かに伯母さんがいなくなる前は荒くれもんの集まりだったけど、随分大人しくなって営業を出来る奴もいるんですよ」
「そうなのか? あの子も少し落ち着いた?」
「あんたが、ちゃんと大人しく療養して、元気になればもっと落ち着きますよ」
「仕方ないでしょう。仲良しだった子が、自刃覚悟でこんな辺境に向かうって挨拶に来るんだもの」
意味不明なのになぜか理解できる会話を交わす二人を見て、レンは疲れたように呟いた。
「何だこれは? 偶然にしても、鉢合わせし過ぎだろ」
まだ、最後の仕上げが残っているのに、脱力が止まらない。
そんなレンを我に返らせたのは、無言で男たちを沈め、見物しているスポンサーに近づいた男だった。
「おい……お前、何者だ?」
引き攣らせながらも笑みを浮かべる女は、カインを見上げる。
「あなたには及びもつかない場所で生きてる者よ。ここまで近づくのも、あなたごときには許されない」
「ふざけるな。そいつの姿だけ似せて、オレを誤魔化せると思ったか? 何者だっ?」
「何を訳の分からない事を……」
「あいつを、どうした? あいつに成り代わるために、どうしたんだっ?」
身を竦める女に掴みかかるカインに、レンは素早く近づき腕を攫んだ。
勢いの付いた体の向きを強引に変え、床に抑え込む。
倒れたカインの体に、糸くずが無数に落ちた。
いや、糸くずにしては長い、焼けて落ちた糸状の束、だ。
肩の痛みを忘れて動いたレンは、男を押さえつけた体制のまま、恐る恐るそれを凝視した。
それが、銃弾で焼かれて切れた自分の髪の毛だと認識して、そのまま体を硬直させてしまう。
「……何なのよ、あなた達。こんなことして、只で済むと思ってるの? 雇われのくせに」
「雇われ、と言うのは、それなりの報酬をいただける保証がある人に使う言葉だろ?」
ジムが気のない口調で答え、無節操な欲を向けてきた男どもを足蹴にして見下ろす。
「そんなもん、期待できねえだろ。行きつく先が、口封じじゃあな」
コウも嫌悪感を丸出しにしたまま、倒した男たちを見下ろしていた。
「大人しく、どこぞの国の法の裁きを受けるんだな。この建物自体が証拠として使える」
ヒビキの言葉に笑い、女は煙草を取り出した。
「そんなもの、もみ消せるに決まってるじゃないの。どこの国でも、私たちの財力をもってすれば、法を振りかざす前に内側から弱体化できる」
ライターを取り出して煙草に火をつけてふかし、女は優雅に笑った。
「うちの従業員をそうやって乱暴に扱った事の方が、犯罪として見られるようにするくらい、簡単なのよ」
「き、貴様、いい加減に……」
カインは勢いよく起き上がり、女を見据えた。
そしてすぐ横に立ち尽くすレンに気付き、我に返る。
若者は、女の手元を凝視して固まっていた。
「……レン?」
様子が明らかにおかしいレンは、女の手元のタバコの火に目をくぎ付けにされていた。
それに気づいたヒビキが強く名を呼ぶ。
「レンっ」
びくりと肩を震わせて振り返った若者の顔は、強張ったままだった。
「すまない、やばいかもしれない」
「馬鹿、耐えろっ」
ヒビキは叫ぶように返し、レンの傍にいるカインを呼ぶ。
「おい、早く来いっ」
反論の余地を与えぬ迫力の声に、男はすぐに動いた。
女もレンの表情に何かを感じたのか、後ずさる。
「……あんた、煙草なんか、吸ってたっけ?」
無感情に、レンが尋ねた。
「その女の嗜好なのか、只の演出か……カインのあの反応からすると、後者だろう?」
「そんなこと、どうでもいいじゃないのっ」
「仕方ないだろ、どうでもいい事を話してでも、避難の時間を作らないと、頼んだ当のオレが、加害者もろとも全員死亡させてしまう」
体中の何かがざわざわと動く。
その感覚に顔を顰めながら、若者は女を見据え続けた。
その様子を見守り、女が微笑む。
「いいじゃないの。当の依頼者のあなたが、派手な演出をする。それが出来るように種をまいてくれたヒスイに、感謝したら?」
「……あんたは、本当に、質が悪いな」
そろそろ会話がつらくなってくるが、まだ意識ははっきりしていた。
このまま耐えて抑えつけられるなら、それに越したことはない。
そう思った時、背後で声がした。
「レン、よく耐えた」
静かな聞き慣れた声にレンは振り返り、その瞬間、意識が飛んだ。
ヒスイは黙ったまま、ローラと共に外へ出た。
女の護衛数名も無言で、この建物の中で何が起ころうと無関心に見える。
プロだからなのか、何度も経験済みなのかは分からないが、大したものだ。
良心の呵責を己の怒りでかき消しながらも、何とか平静を保っているヒスイには出来ない態度だった。
感情を表に出さぬためとはいえ、捕えた若者の腕を敢て強く攫んでいた。
怪我をしているはずの固定された右腕は包帯越しにも細く、初めの頃に男二人を打ちのめしたとは信じがたい。
だが、東が一目置く若者なら話は別だった。
どういう能力かは分からないが、セイならば本来指一本動かす事なく、相手を負かすことが出来るだろう。
先日、触らずに起爆装置を動かし、逃げ遅れた女二人と子供を移動させたように。
そう、赤の他人をヒスイの知る若者たちに似せて、それと気づかせずに仕事を遂行させることも、難しい事ではなかったはずだ。
それに気づかずに出方を計れなかったことに腹が立ち、更に攫んだ手に力がこもる。
流石に、少し体を強張らせたセイを連れ、女について所定の場所につくと、そこでは東が待っていた。
ヒスイに頷いてからその前に立つセイを見て、表情を硬くする。
「……」
東の傍には、拘束された通訳の男が立っていた。
それを見て、若者がゆっくりと笑みを浮かべる。
「大丈夫か?」
やんわりとした問いは、自分の現状を忘れているように聞こえる。
答えるレイジの方が青ざめていた。
「あなたこそ、そんな……」
「目覚ましには、丁度いい」
答えた若者に、ヒスイは苦い顔になる。
「立場は弁えた方がいいわよ。折角あなたは助ける気でいるのに」
ローラが困ったようなしぐさで首を振り、笑った。
「あの二人が助けに来ると思っているのなら、無理よ」
「撃たれて戦意を消失するようじゃあ、今頃命乞いでもしてるかも知れないですな」
軽い口調で護衛の一人が言い、周囲で失笑が広がる。
「お姉さんに限っては、無理ね。いつも、単に見てるだけだもの。あの場にいる男たちも言ってたわ。どんなに許しを乞いても、あの場では動かないんですって」
そんな会話を耳にして更に青褪めているのは、レイジだけだ。
男は身じろぎして首をめぐらし、建物の方へ目を向ける。
血走った目を再びセイに向け、動きを止めた。
若者の表情は、先程から変わらない。
「……お姉さん、ですか。あなたは、血縁の濃度による関係性について、どう思いますか?」
それどころか、そんな質問を投げた。
「何を言っているの? ああ、まさか、姉さんとの血縁関係は全くない事を知ってて言ってるの? お姉さんはお父様の再婚相手の連れ子だけど、私が苦しんでいる時に助けてくれた、優しい人よ」
「らしいですね。でも、助け方が、尋常ではなかったからこそ、あなたは、騙されてしまったんですね。血縁云々と言う割に、見分けがつかない誰かさんとは、大違いのようだ」
「……おい、騙していた親玉が、偉そうにほざいてんじゃねえ。まだ、黒星を認めねえ気か?」
どんよりとヒスイが呟くのにも構わず、セイはローラを見つめていた。
女は微笑み、切り出す。
「褒めてくれてるのかしら。ありがとう。私、あなたとなら長くやって行けそうな気がするんだけど、あなたは?」
「末永いお付き合いには、私は不向きです。他所を当たって下さい」
返事は速攻だった。
そんな若者に、ローラは呆れながらレイジの背後にいる護衛に合図する。
「この男も役に立つから、傍に置いておこうと思ったけど、あなたが来ないのならこの場で二人とも片付けないとね」
その言葉で、ヒスイは目を見開いて東を見た。
確か、その通訳を口封じすると言って昨夜は去っていったはずだ。
前言を撤回して助けたのかと戸惑う男の前で、セイは全く変わらぬ声音で答えた。
「命を取られるのも、あなたの仲間にするのも、その人は勿体ない人材です。これからきっと大物になる。あなたには及びもつかないほど、立派に」
「……そう思うのなら、もう少し考えなさい」
ようやく、言葉に棘がある事に気付いた女が表情を険しくすると、目を見開いたレイジの背後で護衛が銃を構えた。
体を硬直させる男を見やり、セイは口を開いたが、それは背後の赤毛の大男に向けてのものだった。
「ヒスイさん、すみませんね。程々にと合図を送ろうかと思ってたんですが、あれを見た後じゃあ、それもする気にならない」
「何を言って……」
急な呼びかけに、ヒスイは戸惑う間もなかった。
背後の鋭い殺意に反応して、振り返りざまに応戦する。
「……あんた、相変わらず、オレの神経逆なでする事には、長けてるよなあ」
拳銃で受けた剣は鋭い。
その剣の先の男を見て、ヒスイは舌打ちした。
「お前、そういえば、ずっとこいつについていたなっ」
力任せに刃を突き放し、間合いを取りながら構え直した男オキを見据えた。
思わぬ展開に、唖然としたのは一瞬で、ローラは護衛に叫んだ。
「撃ちなさいっ」
鶴の一声で一斉に銃を男と若者に構えて引き金を引いたが、乾いた音が響いただけだった。
「……眠すぎて、集中力が続かなくて、時間がかかってしまった」
やんわりとした言葉に、ローラは恐る恐る若者に目を向けた。
先ほどと同じように立つセイは、最後の銃に詰まっていた銃弾を、左手を広げて草の生い茂る地面にパラパラと零しているところだった。
唖然とする女の目の端で、レイジが護衛から身を振りほどいて逃げ、それを追う屈強な男を突然出てきた小柄な女が一発で撃沈するのが見えた。
セイに攫みかかった護衛も、先程まで立ち尽くしたままだった大柄な色黒の男に腕を攫まれて、ひねり上げられる。
「ろ、ロン、お袋っ? 何やって……」
「御免なさいね、ヒスイちゃん。ここにあなたが来た時、合図を送るつもりだったんだけど、それはちょっと、許しがたいのよ」
人を食ったような笑顔で東が答え、その体をすり抜けてメルが突進してきた。
その勢いのままヒスイに殴りかかる。
「この、こいつが怪我してるの知ってて、何て捕まえ方してんだよっ」
「そういう事よね、要は」
殴られるままに、呆然としている男に構わず、東はローラの護衛陣を無力化して束縛していく。
その間に、セイはレイジを束縛している手錠を、解いていた。
「だ、大丈夫ですか? そんな治療だけじゃあ、腕が駄目になっちゃいますよ」
解放された男はまず、若者の腕を心配する。
そして、東に手渡された固定具で、治療を始めた。
「無茶にもほどがありますよ。刺し傷と骨折なんて、うまく固定すれば分からないようにできたんです。なのに、ばれるかもしれないなんて言って……」
ぶつぶつ言いながらも、素早い。
「おい、どういう事だ? 何、頼まれた通りに、物を用意してんだ、お前はっ?」
「相変わらず、物分かりが悪いな、あんたは」
剣を治めながら、オキが苦々しい顔を東に向け、ヒスイの目を剝きながらの疑問に答えた。
「忠告を無視して、薬使った結果、しっぺ返しを喰らって、完全敗北したからだろ」
「完全敗北だとっ?」
「オレは、消去法で、セイが分かったんだけどな。ああいうことをやられるんじゃあ、戦意も喪失する」
メルは深く溜息を吐いて言い、東も黙ったまま深く溜息を吐いた。
食堂の廊下の内、行きつく先が壁で何もない廊下に向かい、東はヒスイと会った後にやってきたメルと顔を合わせた。
女の足元には、男がセイの部屋の向かう前に気絶させた、レイジが座り込んでいる。
「……眠らせたのか?」
「当身喰らわせただけだったから、いつ目覚めるかは分からないけど、問題ないでしょ」
小声で問う女に答え、ぐったりとしている男を担ぎ上げた。
「一思いに、息の根は止めてあげましょう。血が流れても大丈夫な場所で」
人を食ったような笑顔でそんなことを言い、廊下の奥へと歩き出した。
コンクリートの壁の向こう側には隠し階段があり、地下室が広がっている。
そこに、ローラは、生き物を放置していた。
ここを利用するときに、不要となった女を片付けるためだけのその生き物は、いつも腹を空かせている。
「下手すると、飢え死にしてるかもしれない位間隔は空いてるのに、かわいそうな事をするわよね」
言いながらも、東にとっては、世間話の延長線上の会話だ。
身近な者の事、特に幼い子供には気を遣うが、顔を合わせたこともない生き物たちを憐れむほど、優しくないのだ。
階段を下りた先の重い扉を開きながら、男は少し眉を寄せた。
「……メルちゃん、ここで待っててくれる? レンちゃんが来ちゃうかもしれないから」
女は内心ほっとしつつ、その言い分に首を傾げる。
当然、考えられることなのだが、何故か取ってつけた言い訳に聞こえたのだ。
「すぐ、終わるから」
振り返っていつもの笑顔で言いきり、男は女をその場に残して地下室に入り扉の鍵を閉めた。
これで、一応は声も遮られる。
男は、小さく笑ってから先客たちを見返した。
「あなた達が、最後の砦かしら?」
小さな明かりを灯して待っていた男が、何故か溜息を吐き、代わりに隣の赤毛の男が答えた。
「最後じゃねえが、砦の一つではある」
溜息を吐いた男は、東が抱えてきたレイジに目を向け、彼らしからぬ、静かな声音で問いかけた。
「殺しては、いないんだな?」
「形跡を残す真似をするほど、落ちてはいないわ。勿論、ここの生き物に与える前に、楽にしてあげるつもりだったけど……」
人を食ったような笑いを浮かべ、男は室内を見回した。
建物全体の広さの地下室に、独特の獣の匂いが染みついているが、その匂いの元が見つからなかった。
「……セイが、そんな危険なものを放置して、仕事を続けるはずがない」
それを受けて、男オキはゆっくりと言った。
「あんたが提供してただろう? 猛獣を保護している、信用できそうな団体。あれは、ここの生き物を早々に引き上げるための、準備作業だ」
「あらあら」
困ったように首を振るが、全く困っていない東は、レイジを床に下ろしながら言った。
「じゃあ、そう見せるやり方をするしかないわね。後回しになっちゃうけど」
男は姿勢を改めながら、軽く身構えて自分を見守る、もう一人の男に笑いかけた。
「久しぶりに会ったけど、相変わらず弱そうね、コウヒちゃん?」
頬が引き攣りそうになりながらも、コウヒは無理に笑いを作る。
「レンと違って、オレは頭脳派なんだよ。筋肉馬鹿のあんたとは、張り合いたくもねえ」
「なら、どうして、ここにいるのよ? あたしが考えてること、分かるんでしょ?」
じんわりと、大男が間合いを計る。
その間合いから、逃れるように後ずさりながら、上ずりそうになる声を絞り出す。
「あの赤毛親父が、本当の事を知ったら、その時に、オレがあんたの手にかかって死んだと知れたら、流石に、あの親父は許さねえんじゃねえのか?」
「だから、それを危惧してるんじゃないの。あなたが生きてる限りは、その不安が消えないの。後の問題は、あなたが気にすることじゃないわ。元々、あなたは死んだことになってるんだから」
一瞬言葉を失くす男に、東は笑いを浮かべたまま続ける。
「こっちが散々探した時には、顔を見せすらしなかったくせに、弟をつついたら、あっさりと出てくるのね」
「……」
「レンちゃんが、ヒスイちゃんと血が繋がっていなくったって、それが明るみに出たって構わないわ。あの子は、見た目ほど子供じゃないし、あなただって別に関係ないでしょ?」
男は笑いを濃くしながら言い切った。
「あなたとも、血は繋がってないんだから」
「……どういう意味だ?」
低いコウヒの声が、少し揺れて聞こえるが、構わず続ける。
「あなたのお母さんが亡くなったのは、あなたがまだ生まれて間もない頃だった、あなたがそう言ったじゃない。弟が生まれる余地は、何処にもないわ」
顔を伏せた男から、足下にいるレイジを見下ろし、東は話を切り上げた。
「早くしないと、一般人を無闇に怖がらせちゃうから、話はここまで。あまり、手を煩わせないでね、まさか、ここにあなたがいるとは思わなくて、一人、外に待たせてるの」
「……煩わせねえよ。あんたの相手は、オレじゃねえから」
伏せた顔を上げたコウヒは、東の後ろの扉に目線を向けた。
ちょうどその時、扉に遮られながらも、よく聞き取れる声が、外で待つ女に言った。
「メル、そこをどけ」
無感情な、静かな声だ。
「お、お前、それ……」
メルの声は、驚きに悲痛が混じっている。
その聞こえた声に、思わず振り返った東の耳に、オキの溜息交じりの呟きが聞こえた。
「あんた、やっぱり使ったんだな。もう知らんぞ。ご愁傷様、だ」
最後の言葉は、オキの連れ合い候補である律が、電話越しに投げかけたものと同じだ。
だが、そんな言葉を気にする余裕は、もうなかった。
何故、眠らせたはずの若者が、扉の外まで来ているのか、レンが戻って対処する時間稼ぎにしては、今の会話は短すぎた。
扉の外に立つ若者は、鍵を開けると言う動作すら、今は面倒らしい。
一瞬沈黙した後、盛大な音が、扉をぶち壊した。
重い扉が若者によって蹴破られ、ゆっくりと内側に倒れかけたが、それが急に東に襲い掛かった。
明らかにそれは、男の頭を狙っている。
「ち、ちょっと待って、セーちゃんっっ」
「うるさい。言っただろ、次会った時は、敵としてお相手するって。大人しく、これの角で頭をかち割られろ」
無感情のまま言いながら、セイは左手一本で扉を攫み上げ、ぐいぐいと東の頭に押し付けている。
「……あいつ、薬の対処は出来るようになったが、機嫌悪くなっちまうよな」
しみじみと言いながら、コウヒはその様を見守っている。
「元々寝起きは最悪だ。半端に起きてる状態だから、質が悪いのなんの」
しかも、その対処の仕方が、今のメルのように、唖然とさせるものなのだ。
「……セイ、や、やめろって、そんな、そんな状態でっっ」
半ば泣きながら、メルが若者にすがりついた。
「そうよっ、大体、押し付けたってかち割れないわっ。潰れるだけよっ」
必死で、扉を押し戻しながら、東も言いつのる。
「悪かったわっ、降参するっ。だから、やめなさいっ。どうしてそんなことするのよっ」
悲鳴のように告げた男を見下ろし、セイはようやく、扉を床に放り投げた。
何もいない場所を、見据えての行動だ。
それを見届けてから、敵だった二人は、座り込むほどに脱力した。
「……あなた、どうやって、右腕を折ったのよ?」
ロンが見上げる先は、セイの力なく落ちた右腕、だった。
先ほど、薬を使った時に治したはずの腕は、再び負傷している。
「仕事中に眠る訳にはいかないからな。少し前に考え付いた、対処法だ」
「だから、対処は分かったけど、どうやって……」
「聞くなよ」
オキが思わず口走る中、セイはあっさりと答えた。
「蹴り折った」
言葉を失くした二人から、若者は倒れているレイジへと、意識を向ける。
「あんたが慎重で助かった。捕まえてその場で、って奴がこの人を捕まえに出てたら、私は黒星確定だった」
「そんなことになりそうなら、オレが先に動く気でいた。余計な心配はするな」
セイは、オキの言葉に無感情のまま頷き、コウヒに目を止めた。
「……何で、あなたがここにいるんです?」
「……何で、だろうな」
その言葉で、自分を時間稼ぎに使う行為が、オキの独断と知り、コウヒは思わず隣の男を睨む。
そんな二人に、メルが目を凝らして、気づいた。
「……お前、もしかして、コウヒか?」
天井を仰ぐ東に構わず、女は立ち上がって、赤毛の男に近づく。
「え? お前……?」
「あー、どうも、初めまして」
戸惑うメルに、コウヒは、引き攣りながら挨拶した。
混乱する女に、オキは多少同情しながら、言った。
「本物見れば、流石に気づくな。レンは、あの旦那の子じゃない」
「誰かさんが無闇に逃げ回るし、どこかの考えなしは、その場しのぎの動きをしたし、あんたが騙されたのは、仕方ないけどね」
無感情な声に、東が目を剝く。
「あなたも、コウヒちゃんのこと、知ってたのっ?」
「まあね。メル、ヒスイさんに話すかは、あんたに任せるけど、荒波立たない言い方をしてくれよ」
「あ、ああ……」
呆然と答えてから、メルは我に返った。
「じゃあ、レンは? 誰の子なんだ?」
「オレの母親の子に、決まってんだろ」
コウヒは即答したが、それには東が目を細めた。
「まだ、そんな嘘を? あなたを産んで、すぐに亡くなったんでしょ?」
「嘘じゃねえよ、あんた、馬鹿だったのか?」
呆れた声の男に、東は笑みを濃くした。
「何ですって?」
「……この人の事を、レンが話す時、違和感なかったのか?」
ようやく、目を開いて顔を持ち上げたレイジの傍に、膝をついたセイが、眠そうに口を挟んだ。
眉を寄せる男に、コウヒが言う。
「はた目からじゃあ、結構前から、オレの方が年上に見えてたからな、レンもそうしろって言ってたんで、名前呼びしてたんだよ」
「レンも、名前呼びしてる。名前で呼ばない時は、『兄弟』。変だろう? 『兄貴』とか『兄上』とか、呼び方はある」
コウヒが、兄だと言うのなら。
「え、ちょっと、待って」
思い当たった男の、強張った顔を見据えながら、コウヒは言い切った。
「オレは、レンの弟だ」
父親違いの、蓮より年下の兄弟、だ。
「レンは、オレと初めて会った時から、時を止めてた。そん時オレはまだ、洟垂れ小僧だったぜ」
母親が死に、その夫だった男の身に、危険が迫った時、男は実の子に頼る決心をした。
呪いの為に、半端な年齢で時を止めてしまい、身を隠していた息子に、幼い子供を託す決心を。
「レンと死に別れたと思ったあの後は、その親父の元へ帰った。もう、あんたらにも、こりごりだったからな」
「……その親父って……レンの、親父の事かっ?」
「ああ。もう、元気いっぱいの人だぜ」
笑いながらコウヒは、盛大な威力の爆弾を放った。
「自分の親父を、この手で滅ぼすことを、誰よりも強く願ってる。今回のこの件が、その親父の画策だと知ったら、いい口実が出来たと、喜んで乗り込んで来るぜ」
「そうなったら、少し困るんだ。そちらは、内密でお願いします」
固まった二人に構わず、セイが無感情に、コウヒに頼む。
「当たりめえだ。伯母上が混じっているのを黙ってるのは、その為だぜ。仕事の一環だってのに、ぶち壊しは、お断りだ」
凍ったように動かない二人を見つめ、若者は首を傾げて見せた。
「これを話すかどうかも、あんたらに任せるよ。どちらにせよ、メルはひ孫にも会いたいだろ?」
「ひ、孫?」
「この人、子供が二人いるから」
「おい、死んだ子で、水増しすんな」
コウヒが強く言って、はっと顔を強張らせた。
扉が無くなった出入口に目を向けて、息を詰める。
「……済んだか?」
若い声が外の方から投げられ、セイがすぐに答えた。
「ああ。レイジさんも、無事だ」
答えながら立ち上がり、一人冷静に成り行きを見ていたオキを振り返った。
「後は、任せる」
「ああ。合図は頼む」
短いやり取りの後、それまで成り行きが理解できなかったレイジが我に返った。
「ま、待って下さい、怪我の手当て……」
「怪我の具合が、全く違うから、いいよ。固定されたら、周囲に不自然さがバレる」
肩越しに答え、セイは立ち止まらずに立ち去った。
「……まあ、予想通りの展開で、諦観するしかなかったんだが。一応、尋ねるぞ」
残ったオキは、充分に警戒しながら立ち去るコウヒを見送りながら、確認した。
「あんたらは、今後どうする? このまま引き上げるか、否か」
「……あの怪我見て、引き上げろって言うの?」
「邪魔されるよりは、そうして欲しいだろうな、あいつは」
意地悪く言う男に、二人は同時に答えた。
「しないわよっ」
「するか、そんなことっ」
ならいいと、男は意地悪く笑いながら頷き、若者の指示を伝えたのだった。
成り行きを話しはしたが、まだ衝撃の事実を消化していない二人は、ヒスイに事実を半分も話していない。
だが、それでも、分かったはずだ。
「……じゃあ、あれは、本物の蓮、だったのか?」
「大した、御父上ですね」
穏やかに笑いながら、セイが答える。
演技としての表情は、全く陰りがない。
仕事を終えるまでは、その表情をやめないだろうが、東はついつい溜息を吐く。
「ねえ、それ、もしかして、エンちゃんの真似?」
「参考にした。似ているか?」
「……顔まで、似て見えるわ」
勿論錯覚だが、元々エンとセイは兄弟のような間柄だ、言ったところで気を悪くするほどでは、ないだろう。
実際気にせずに、セイはレイジに尋ねる。
「リヨウとの連絡はついたか?」
「はい。網は仕掛け終わっているから、いつでも大丈夫だ、と伝えるように言われました」
答えに頷き、若者は踵を返す。
建物の中に戻ろうと足を踏み出した時、空気が震えた。
「……?」
立ち止まったセイに声を掛けようとした東は、建物からわらわらと飛び出してくる役者たちに、目を丸くする。
男の役者たちは、数人ずつ束縛した今回の容疑者たちを、数珠繋ぎにして連れていたが、一人数が足りない。
「……」
空気が、また揺れた。
地震とは違う、風が、木々を揺らす感覚に似た揺れ方だ。
「レイジっ、無事だったのかっ」
コウが立ち尽くすセイに気付き、続いて行方が分からなくなっていた男を見つけ、声を張り上げる。
適当な場所に容疑者たちを転がし、ゲンが報告する。
「ヒビキさんが、急いで建物を離れろと。……レンが、おかしいんです」
それを聞いても、セイは黙ったままだった。
黙ったまま、建物の中へ歩き出す。
「セイっ?」
メルが思わず呼びかけて、後を追おうとしたが、セイが振り返って制止した。
「来るな。もう少し、この建物から離れろ。そいつらも連れて」
静かな声ながら、その重みが、全員に何かを感じさせた。
その背が建物に入った時には、その指示に従った全員が、建物を脱出していた。
「……姉さんはっ?」
ほっとした一同を、我に返らせたのは、ローラの上ずったその声だった。
「あれ、そう言えば……」
「いや、その女の事なら、気にするな」
気づいて呟くコウに、何故かヒスイが、げっそりとして答えた。
「何を言ってるのよっ。まさか、あのガキ、姉さんに何か……」
「例え、そうでも、自業自得だ」
「なんですってっ」
ヒステリーを起こして、束縛された身で暴れるが、ヒスイはやけに疲れた顔で、女を見下ろしているだけだった。
一方、稽古場に急ぐセイは、あり得ないと思っていた事態に、歯を噛み締めた。
空気が震えるこの感覚は、滅多にないのだが、セイには覚えのある感覚だ。
どうしてそうなったのか、経緯を聞くのは後だ。
足早に、稽古部屋に戻ったセイを迎えたのは、待ちわびていたヒビキと、背を向けたまま立ち尽くすレンだった。
厳しい表情のヒビキと頷き合い、セイはゆっくりと部屋の中に入る。
レンが立ち尽くす前で、ローラの姉である女が、座り込んでいる。
それを一瞥してから、セイは静かに声をかけた。
「レン、よく耐えた」
それは、名を呼ぶことで標的を自分のみに限定する、引き金の様な物だった。
振り返ったレンは、正気を失っていた。
一気にその力を爆発させるその瞬間、セイの蹴りが若者の頭に決まった。
が、遅かった。
部屋全体が何かの力で軋み、内側から粉々に崩れ始める。
何もかもが、粉々に崩れる落ちるまで、それは止まらなかった。
外で建物を見つめていた東が、突然崩れ始めたそれを見ながら、息を詰めた。
思わず近づこうとする男を、オキが止める。
「……やめとけ。あんたの出る幕じゃない」
「あの子を、見殺しにしろ、って言うの?」
どう考えても、異常な崩壊の仕方だった。
「そうは言っていない。と言うより、あいつらで無理なら、お手上げだ」
「何がよ」
「ここを目にして、大きく広がる可能性がある、ってことだ。まあ、そこまでになったことはないから、本当の所は、不明だがな」
意味が分からないと、一同がざわめく中、マリーが目を見張ったまま、固まっていた。
「だ、大丈夫ですか?」
その表情は、戸惑いを貼り付けたまま、気遣うアンを見返した。
「……」
「ま、マリー?」
黙ったまま首を振り、女は再び建物があったあたりを、見つめている。
色々な感情が入り混じったこの場に、複数の車が到着した。
出てきたのは、どこかの国の武装した団体だ。
思わず身構えた役者たちの前で、レイジが気の抜けた声を出した。
「リヨウさん」
「……何事だ、これは? 証拠が……」
金髪の男が帽子を取りながら、建物の方を見た。
その顔は、うんざりとしたものになっている。
「勘弁してくださいよ。あんたらが関わると、こういう事態になるから、首突っ込んでほしくないんだっ」
じろりとにらんだ先には、疲れた顔のヒスイがいる。
「どうせ、カスミの旦那が、やり過ぎたんでしょ? あの人、どこですかっ?」
「ああ……あの中だ」
ようやく言った答えは、予想通りのものである。
「今回も、経費が最大限にかかってしまう。その上、行方知れずで退場って、やりすぎだっ」
嘆きながらも、男は連れてきた部下たちを、てきぱきと動かす。
「あなたたち、姉さんを見殺しにしたわねっ、許さないんだからっ」
ローラが、血走った目で役者たちを睨む。
言い訳はあるが、見殺しにしたのは事実なので、黙っている役者たちに代わり、ヒスイが疲れた声で言った。
「あのですね、ローラ。オレには、年が離れた腹違いの弟がいるんですが……」
突然の身の上話に、女が興味を持つ様子はないが、それでも男は続ける。
「見た感じは真面目で、ごく普通なんですが、暇つぶしの為なら、老若男女問わず化けて、楽しむような奴です」
「だから何よっ」
「ですから、あのあなたの姉は、うちの弟だったんですよ」
「はあっ?」
思わず間抜けな声を発したのは、聞くともなしに聞いていた、カインだ。
「どういう事だっ?」
「この仕事を、オレに膳立てしたのは、弟のカスミで、あの女は、偽物だったってことだ」
赤毛の男の言葉に、東が苦笑して呟いた。
「ちょっと、特等席過ぎる役柄よねえ」
「本物は、あの人が、隠してるのかっ?」
血相を変えたカインの問いかけに、ヒスイと東は、複雑な表情で顔を見合わせた。
「それねえ……」
「ああ。あのな、カスミの奴、一つだけ、本物とすり替わる時に、何故かこだわっていることがあるんだよ」
言いにくそうな男に代わり、色黒の男が続けた。
「人に化けさせる時もなんだけど、必ずその本人が、鬼籍に入っていることを条件にしているのよ。勿論、自分で手を下すんじゃないのよ。その上で、まずはその人と、悶着があった者を貶めて遊ぶ」
「……う、そだ」
「ああ、ここに匂いはない? だったら、水場があった時だったのね。昔は、地下で飼われていたのは、哺乳類じゃなかったのよ。この人の先代が飼っていたのは大型の、爬虫類」
そう昔の話ではない。
この建物を所有していた、財閥の先代当主は、数年前に病死と報じられた。
「その爬虫類は、確か鞄か何かの材料に、売り払っているな。肉はどうしたか知らないが。だから、残念ながら……」
座り込んだカインにも無反応のまま、ローラは呆然と宙を見つめた。
そんな女に、良は静かに告げた。
「ちなみに、あんたの事を、我々に初めに漏らしたのは、あんたの所の取締役だ」
目を剝いて凝視する、ローラを見返して、男はにこやかに言った。
「あんたは、不治の病で、他界したことにするらしい。名前は、こちらで用意してやる。だから、安心して、我が国で裁かれろ」
そうして言い切った後、男は何か言いたげなコウを見た。
「日本の警察とは、これから話し合います。あなたも、色々言いたいことがあるでしょうから、その席でぜひ」
「あ、ああ。ちなみに、あんたらの国は、どこですか?」
警察関係者に見えない良と、その部下たちに、コウは不信感を抱いているが、話し合いの場を設けると言う申し出は助かる。
良はそんな男の問いを曖昧に流し、再び建物の方へ目を向けた。
カスミがここまで事を大きくしてしまったのなら、あそこで解決を急いでくれている者が、いるだろう。
後は、暫く待つだけだった。
砕けたコンクリートの粉を、瞬時に固めて盾にして、セイと己の身の安全を確保したヒビキは、小さな声で呟いた。
「やはり、勘違いじゃねえ、レンの奴……」
「ああ」
その盾が、崩されないように内側から支え続けながら、セイも呟く。
その声は、二人とも嫌そうだ。
「成長してる」
「おかしいと思ってたんだ、会う度に声が聞こえる位置が、上がってやがった。声が低くなるのも、時間の問題だぜ」
「久しぶりに会った時、一瞬、目がおかしくなったかと思った。目線が、妙に高くなってる。何でこんなに急速に、成長を始めてるんだ?」
何が、原因なのか。
そんなことは、今問題ではない。
問題なのは……。
「これ以上、成長されたら、もう抑えきれない」
実際、レンが意識を飛ばしてから、爆発するまでの間隔が、短くなっていた。
「しばらくの間は、自分で抑えていた。前は、そんな余裕すらなかったから、それも成長したお蔭、と言える。しかし、だ」
「成長が、呪いを消す足掛かりだと言うのは、間違いないが、どの位から、消えるのかが分からない、か」
今回どうにかしても、次にこうなった時に、対処可能なのか判断できず、二人は顔を顰めていた。
レンの母親は、薬師だったという。
その家系は、今現在も続いているのならば古いが、既にない。
国のはずれの村で、住民が出尽くしてしまったのも原因だが、代々受け継がれた呪いが、多くの幼い子供の命を奪ったせいだ。
薬を作るには最適だったその土地を、別な集落の者と争っていた過去が、その呪いを作り上げた。
夜襲で火を放つのを得意としていたその敵対者たちも今は滅びたが、レンが生まれた頃はまだ存在していた。
コウヒにも、その呪いは掛けられていたはずだが、既にその気配はない。
ある一定の年齢に達する頃には、心の安定と共に消える類の呪いだからだと、コウヒは義理の父親に説明されたと言っていた。
舌打ちして、ヒビキは、立ち尽くすレンに顔を向けた。
その奥にいたはずの女は、消えている。
「……あいつ、わざとこの場に残ってやがったな。演技の一環と思い込んで、気にせずいたが、あいつ、レンの目の前で、タバコを吸いやがった」
「大人しすぎると、警戒していたのに」
だが、カスミも、あれを予想していたとは、思わない。
ヒスイが最後までレンに気付かず、銃を向けるなど。
呪いの類は、思い込みも多少含まれる。
レンの場合は、それに気づくか否かで、呪いが発動するか否かが変わる。
意図した、断髪行為。
自分が行う場合でも、他人が行う場合でも、それが発動源となる。
今回の場合……。
「銃弾が、髪を僅かに焼き切ってたんだろうな。それしか、思い当たらねえ」
だから、レン自身も気づくのが遅れた。
気づかなければ良かったのにとは、遅すぎる上に、無駄な文句だ。
呪いが発動すると、僅かな火の熱や光にさえ警戒し、攻撃する。
今回のように、火を使う者と、その周囲を満遍なく。
そうなると、まずは動かなくなるまで、待つしかない。
敵が一人もいなくなったと、レンが納得するまで。
「証拠は、地下だから、まあ心配ないだろう。起こせなかったら、どうする?」
「オレらだけ、逃げる選択肢は、ねえんだろ?」
「あんたに、一緒に死んでくれとは、流石に、頼めない」
軽口なのか本音なのか分からない言葉に、ヒビキは小さく笑った。
「それは、物理的にも難しいが、お前の、盾になってやる位なら、出来るぜ」
レンを見ると、何も遮るものが無くなったその場で立ち尽くし、空を見上げていた。
「普通、男の方が、その役だろうに。すまないな」
セイも微笑みながら返し、支えていた盾を、強く握りしめる。
「オレが、こんな格好してても、お前の方が、何倍も女じみて見えるんだ。違和感ねえよ」
にんまりとした女を、思わず睨みながら、若者は握りしめていた盾を、放り投げた。
それはすぐに形を崩し、砂ぼこりとなって周囲を目くらましする。
レンは、立ち尽くしまま周囲に顔をめぐらし、無表情の目を、ある一点に向けた。
体当たりするように、女が飛び掛かるが、若者の体に触れることなく、崩れ落ちていく。
次いで姿を見せた若者を、体ごと振り返ったレンは、突然、足元から生えた手に足首を攫まれ、無言のまま引き倒された。
「……そろそろ、起きろ、レン」
セイは言いながら、レンが顔を上げる余裕を与えず、容赦ない勢いで、その頭を踏みつけた。
その場に出てきたのは、セイ一人だけだった。
「何があったのっ?」
すぐに寄って来る東に、短く答える。
「予想外の事故、だ」
それで話を切り上げる気の若者を、更に問い詰めようとする男に構わず、隣に来たオキに、声をかけた。
「ヒビキに、何か着るものを頼む」
「……派手に、やったんだな」
男は、そう呆れて言っただけで、すぐに姿を晦ます。
それを見送って、今度は、良へと目を向けた。
「証拠になりそうなものは、一応地下に移動させておいた。万が一に備えて」
ここまでの万が一は、予想していなかったが、問題なかった。
「こんなもので、良かったか?」
「ああ、充分だ」
頷いた良に頷き返し、セイは大事なことを告げた。
「報酬の交渉は、後日改めてさせてもらう」
「……ああ。覚悟は出来てるぞ。お前の事だ、こいつらの出演料も、搾り取る気だろう? いいだろう、その代わり、ちゃんと、計算してくれよっ」
顔を引き攣らせながらもそう言い捨て、作業を開始すべく、部下たちの方へと戻っていく。
「……私は、レンほど吝嗇家じゃないんだが」
小首をかしげて呟いた時、ようやくレンとヒビキが近づいて来た。
ヒビキの方は、何故か先程と着ている物が違い、レンの方は、右肩の痛みを忘れて頭をさすっている。
「レン、肩は? 大丈夫なのかっ?」
「……」
飛びついてきた、ヒスイを見上げるレンの目は、恐ろしく冷たい。
「あんたは痛くないのか? 銃弾は肩の骨を砕くと、結構、頭に響く痛みがあるんだよ」
「え、撃たれたんですかっ。診せて下さいっ」
その目にたじろぎ、それ以上近づけなくなった男の代わりに、次いで反応したレイジが、身を乗り出した。
「弾をほじくり出してから、診てくれ。このまま手当てされても、色々厄介だから」
「ほ、ほじくりって……」
耳を疑った男の前で、セイが手渡した苦無を使って、レンは簡単に、銃弾をほじくり出してしまった。
医者の卵として、どこから指摘して怒ればいいのか分からず、震えているレイジに、レンは平然と声をかけている。
「報酬の方は、年末までに全員に届けに行くから、連絡先は、出来るだけ変えないでくれ」
成り行きに、ついて行っていない役者たちに、セイはそう笑顔で言ってから、ふと気づいた。
後ろを振り返り、僅かに顔を顰める。
「……すまなかった」
突然、真面目に頭を下げる若者に、我に返ったコウが慌てた顔で手を振った。
「お、おい、何を謝ってるんだよ。建物はああだが、全員、無事だっただろ?」
「そ、そうですよ。こちらが、礼を言うならまだしも……」
次いで、我に返ったサラも、頭を上げるように促すと、セイは顔を上げながら言った。
「確かに、あんたたちは全員無事だが……他の物は、全然無事じゃない。このままじゃあ、この国を出る事はおろか、この地を、立ち去る足すら見つけられない」
言われて、気づいた。
パスポートも、持って来た金銭も、さっきまであった、建物の中だ。
何度見直しても、その影は見えない。
「……今更なんだが」
ジムが、気の抜けた声で、問いかけた。
「さっきまであった、我々が利用していた宿泊施設は、どこに消えたんだ? 我々の、私物はっ?」
「……すまねえっ」
思い当たったヒビキも、勢いよく頭を下げた。
「そうだ、すっかり忘れてたぜ。人だけ助けても、ここから離れられねえんじゃあ、胸張れねえじゃねえかっ」
「つ、爪が甘い……のか?」
命の危機からすると、些細な事だ。
だが、面倒な手続きをする羽目になりそうなこの現状は、有難くない。
怒っていいのか許せばいいのか、分からない地元出身の男たちが顔を見合わせ、トレアが言った。
「そこの人たちに、通信機械を借りて、知り合いに相談してみます」
「ついでに、女房が無事かも、訊いて見ろ」
良を見つけて歩き出す背に、ジムが声を投げたが、聞こえなかったのか返事はない。
「ま、あいつの家は、この国じゃあ有志だからな、何とかなるだろ」
「……首都の空港に、送ってやる位は、出来るぞ」
ヒスイの申し出に、ヒビキは即答した。
「当たりめえだ。下らん画策に乗りやがって。何なら囮になれ。こいつらを不法出国させる」
「いや、それは、ちょっと……」
現役の刑事と元刑事の妻が苦笑し、刑事の方が口を挟んだ。
「事情を話して、どうにかしますから、そう言う法に触る解決法は勘弁願います」
そんなコウを凝視し、ひっそりとため息をついた者がいる。
「偽名だったのね。どうしてかしら。写真見ても全く思い当たらなかったわ」
それに、疑問が目白押しの状況になっている。
その疑問の、大部分の答えを知るはずのセイは、そんな東の呟きも、聞き流した。
「迎えのバスをよこしてくれるそうだ」
トレアが、良と共に戻って来た。
その後ろから、何やら重そうな物を抱えた男が続く。
「おい、これは、どうする気だ?」
呆れたように良が指し示す物は、地面に下ろされた砂袋だ。
人ひとり分の体重くらいは、優にありそうな分量だ。
「ああそれ、置いててくれても、よかったんだが。後で、処理加工する予定でいたんだ」
セイが笑顔で答えると、その傍でヒビキが溜息を吐く。
「中々骨が折れる作業だったぜ。ふわふわ逃げ回りやがって」
「あらかた集めたと思うけど、今回は、どうするんだ?」
レンも少し表情を緩めて尋ね、それにセイが答える前に、良が言った。
「ここでその作業するなら、こちらの邪魔に、ならないやり方にしろよ」
「分かってる。だから、あんたのこの地での協力者を、紹介してくれ。田畑に使える土と、何かの種が欲しい」
若者が言うと、その意を理解した身近な者たちが、それぞれの反応をした。
「それで、どの位大人しくしてるか、だな」
「流石に、おしまいじゃねえのか?」
「いやあ、分からないぞ。この人の事だから」
ヒビキとレンが気楽に言い合い、ヒスイは唖然として、砂袋を見下ろしている。
「……ほんと、こいつは、化け物だな」
メルがかがみこんで砂袋をつつきながらしみじみと言い、東は苦笑して答えた。
「それは、世の化け物にも、失礼なんじゃないかしら」
頼まれた良は、呆れた顔のまま、頭に浮かんだ言葉を口にする。
「食い物にならない種は、こっちじゃあ手に入るか、分からないぞ。下手に食える物じゃあ、心配だ」
奇妙な議論は、その後迎えのバスが来るまで続き、映画撮影と偽った場に参加した一同は、無事にその地を後にしたのだった。
喫茶「舞」に、一人の若者が訪れたのは、それから一月ほどたった昼下がりだった。
用件に入る前に飲み物を注文し、報告と称して、一連の話をかいつまんで話してくれた。
カスミの、軽い尻拭いを請け負うことの多いマスターは、話が終わると、溜息を吐いて感想を述べた。
「なるほど、そうでしたか。だから……」
先ほども、顔を出していたカスミを思い浮かべながら、水谷葉太は、しみじみと言った。
「この店を出してから、毎日一度は、顔を見せてくれる旦那が、一週間ほど、顔を見せなかったんですね」
カップから目を上げたセイが、カウンター越しの男を、見上げた。
「一週間で、顔を出してるのか」
僅かに、うんざりとした顔になった若者は、盛大にぼやいた。
「今回は、よく土と肥料を混ぜて、それに苗を植えて、それこそ方々の国の山奥に別々に植えて来たのに……」
「徹底してますね」
初めは一々驚いていたが、今では平然と返す葉太に、セイは真顔で声を潜めた。
「前から、そうなんじゃないかと、疑ってたんだけど、あいつ、妖怪かなんかなんじゃ、ないのか?」
「……今更、そんなことを、言いますか」
呆れた男は、思わず返した。
「オレは、あなたも含めた、旦那の周囲の方々は、絶対そうだと、昔から確信してましたよ」
「何を、馬鹿な事を、言ってるんだ」
若者は、真剣に反論した。
「私は、首を斬られたら、死ぬ自信がある」
「それは、オレだって。自信満々ですよ」
大体、あの人を、妖怪の方々と一括りにするのは、余りにも失礼である。
だが、敬う身としては、それ以上の存在に心当たりがなく、神ではないと、当のカスミからは釘を刺されているので、そう揶揄するしかない。
「取りあえず、各自に報酬は引き渡したし、何とか落ち着いたんで、これを返しがてらに報告に来たんだ」
カウンターに置かれたのは、白い布で包まれた何かだ。
「すまなかったな。長く借りてしまって」
「スペアはありますよ。良ければ、差し上げてもいい位でした」
そう言いながらも、セイが姿を見せた時、その予備の眼鏡を外していた男は、手を伸ばして返却品を受け取った。
「度数があるように見せた、伊達眼鏡なんて、あったんだな」
貸し出しを申し出た時も、セイはそんなことを言って、感心していた。
若者が、あの時言った「口封じ」とは、こちらの企みを敢て聞かせ、逆に取り込む方法だった。
配下を取り込むことで警告を発し、一時的に、カスミを引かせようとしたその行為は、セイが表情を貼り付けた時、一気にその効力を増してしまった。
「……変な虫は、付かなかったようで、何よりです」
カスミは何故か、どんなに楽しんでいる事でも、セイが出てくると陰に隠れていく。
そして、今回のように、とんでもない役回りで登場して、怒りを煽るのだ。
カスミは、気に入った相手を怒らせて、楽しむ傾向がある。
それだけ、あの男が、この若者を気に入っていると知る葉太は、せめて浮かべる笑顔が、質の悪い虫を引き付けない様にと、伊達眼鏡を貸し出したのだった。
「一応、草太の方からは、障りない程度の事情は聞いてたんですが、巧も、世話になってたそうですね」
「その分、こき使ったから、貸し借りで言うと、こちらの借りが多いよ」
「……」
その草太が言うには、逮捕するはずの容疑者たちは、とある国に取られたらしい。
「悔しがってましたが、日本の法律じゃあ、刑の執行までが長いでしょ? それまで、税金をそいつらに使うのは、どうなんだと、突っ込まれたらしいです。その国なら、刑の執行までの人権を、そいつらから奪った上で、それ相応の因果を含める事が、出来るらしいんです。国の法も、それぞれですね」
「あの国の刑事責任者は、犯罪者に対する良心が、微塵もない奴だからな」
相槌を打ちながら、セイは、残ったコーヒーを飲みほした。
「病持ちの女優さん方、ちゃんと治療できそうなんですか?」
「治療を考えるかどうかは、本人次第だろ。こちらとしては、それが出来る金額を、渡したつもりだ。後は、知らないよ」
素っ気ない言い分は余りに冷たいが、葉太は頷いただけだ。
そう言い切る今の時点で、この若者は、多くの事を陰で働きかけていたはずだと、今迄の伝え聞く実績で、察せられるからだ。
いずれ、そのうちの誰かが、世界的な俳優として、活躍するかもしれない。