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捜査の進展

森口(もりぐち)律は、困惑していた。

 急遽呼び出された先にも少々抵抗があったが、呼び出した相手に困惑していたのだ。

 場所は、自分が会社を起こしている関東ではなく、南部の県の警察署内だ。

 仕事の一つとして後ろ黒い事をしていたのは、もう過去の事なのでそれはいい。

 しかし。

「……あなたが、どうして、ここに私を呼び出しますか? 初めに言っておきますけど、身元引受は出来ませんよ」

「お前、この良識ある男を前に、よくそんなひどいことを言えるな」

 ショックを受けたような言いようだが、男は整った顔を律に向けてにやりと笑って見せる。

「元気そうで何よりだ。困った事にはなっていないのか?」

 銀髪の大男は、いつものようにそう尋ねたが、今回はこちらの台詞である。

「こちらは変わりないですが、あなたの方は困りごとでしょう?」

「うーん。困りごとは困りごとなんだが、オレの困りごとじゃないんだ」

 通された会議室らしき場所に集まっていたのは、警察関係者が三名と顔見知り三名。

 警察関係者はそれぞれ、市原葵、高野信之、水谷草太と名乗り、律も名刺を渡しながら名乗る。

 三人とは初対面だが、市原という苗字には聞き覚えがあった。

 だから、その名前とは裏腹の大柄な強面の男が、若干オロオロしている理由も思い当たり、内心同情しつつ顔見知りの方に顔を向けた。

「また、とんだところで再会しましたね」

 自分と同じように困惑の色を張り付けている男にやんわりと声をかけると、男はいつもの穏やかな笑顔を浮かべて頷いた。

「この人の方から連絡が来るとは思っていませんでしたが、あなたがすぐにこちらに来れる所にいるとも、思っていませんでした」

「偶々、こちらに用があって来ていたもので」

「お前さんがこちらにいた事とも関係しているかも知れない件で、集めさせてもらった」

 銀髪の男は曖昧な言い訳じみた律の言葉を受けて言い、もう一人の男を一瞥した。

「この人の、お孫さんに関する話だ」

「取りあえず、適当に席に着いて下さい。立ち話する類のものじゃないでしょう?」

 やんわりと高野が声をかけ、それを合図に会議室の一角の名がテーブルを陣取って席に着く。

 すかさず隅に控えていた婦人警官が茶を面々に行きわたらせ、静かに退出する。

 それを見送ってから、銀髪の男凌が口を開く。

「うちの社長からの指示で、中華の国を中心に商売している知り合いに話をつけて、例の件を調査した」

 切り出された話に頷き、初老の男が話を促した。

「その結果をお話しいただけると聞き、ここに参りました。やはり、怪しまれずにこういう事を調べる時は、松本さんにおすがりして正解だったようですね」

「あの家は代々、古谷の人間には弱いらしいからな。あんな無茶を即答で引き受けるとは、思わなかった」

 苦笑して返してから、男は話を進めた。

「昔からの知り合いに話をもっていったんだが、そこの社長自身が妙に浮足立っていてな、それどころじゃないと。何でも行方が知れなかった姉が戻った、と。まあ、そのおかげで話はスムーズに進んだんだが……」

 そこで、ちらりと律の方を一瞥した。

 それを見返しつつも、律は黙ったまま先を促す。

「どうもその件には、すでに人がついていたらしい。しかも、その国の重鎮の一人とも話がついている状態だった、ある日本の会社との交渉の過程で」

 まだそれほど大きくはないが、成長を期待できる会社との取引で、発展が思わしくない土地の開拓を進めていた。

「国の重鎮とは、その土地や周囲に残るしがらみや恨み、汚点を一掃することを交換条件の一つに掲げて、調査を進めているらしい。だから、潜入している捜査官への応援は、その重鎮から話を通せる」

「助かります」

 高野が頷いて水谷と目を合わせた。

「すでに、人員は集めている。詳しい情報がないのが、心もとないが……」

「それですが……律さん」

 蚊帳の外の状態で話が収まりつつある為、ただ黙って聞いていた律は、急に声をかけられて無言のまま目を上げた。

 声をかけたのはエンで、話がまとまってきたのを見計らった呼びかけだった。

「何でしょう?」

「例の捜査員が、短いながらも現場の様子を報告してくれたんです」

 水谷がその内容をメモして、先の相談の時に資料としてまとめていた。

 エンも目を通したのだが、その中に気になる報告があった。

「初めての読み合わせの時から、あの辺りには珍しい家猫のような小さな黒猫が、飼い主らしき若者の傍に寄り添っている、とありました」

 捜査員も、その生き物に少し引っかかりを覚えているらしい。

「飼い主らしき若者は、『置いて来たのについてきた』と説明したそうですけど、国境を越えて海を越えて、どうやってついて来たんでしょうね?」

「あり得ない話でも、考えようによってはあり得る場合もあります。今回もそれでしょう」

 その話か、と思いはしたものの、律は慌てずにやんわりと答える。

 エンの方も、その可能性に頷きつつ、自分がここにいる理由を告げる。

「ある奴から、頼まれごとをしたんですよ、その心配事に当たることになった人が余りに信用できないと。頼まれはしたもののこちらは殆んど情報網を持たないので、この人達に困りごとの解決に協力することを条件に、法に触らない所の情報網を貸してもらっているんです」

 その過程で、この件に関わることになったと言い、エンは穏やかに微笑んで見せた。

「頼まれごとの内容は、知り合いと待ち合わせたはずの子の今の行方と状態、です。あのロンと会おうと考えると言う事は、それなりに切羽詰まっているのではと、心配したようです。うちの親父さんが探すと言ったそうですが、ご存知の通り我々にはあまり信頼されていませんので」

 頼んだ男は、そのロンと他数名と組んで、カスミの膳立てがあった件に当たると聞いていたのだが……。

「セイを敵に回したくない、というのが最近のオキの口癖なんですが、まさかあの子らしき人物の傍に現れるとはどういうことかと、仮に同じ現場の敵同士と判明したところで、事情を察して寝返る事が出来る程、頭の回転が良かったかなと」

 そう考えた時、律の事を思い出したと言う。

「あなたになら、オキは気軽に仕事の内容を話し、あなたも喜んで協力するのでは、と思ったんです」

 だが、その律の連絡先を、エンは知らない。

 所在すら分からない相手を探すよりも、状況は分からないが犯罪者の確保のために動き始める方が、時間が無駄にならない。

 だが、あのカスミが膳立てした件だ、どんな裏があるか想像もできない分、慎重な状況も把握したい。

 人員の確保が進む中、それでも不安を拭えなかったエンに、意外な人物が接触してきたのだ。

「ある会社の人間の一人が、今役者としてある場所に潜入していて報告してきたんだが、オキが人型じゃない姿で仕事に臨むことは、あるのか?」

 銀髪の男凌は、エンに挨拶もそこそこにそう確認してきたのだ。

 よくよく聞いてみると、古谷先代の男に頼まれた件を、ある男を通して調べていた過程で、オキが猫の姿で飼い主らしき若者の傍にいるらしいと分かったと言う。

 一瞬躊躇ったが、エンはこちらの事情を話した。

 そして、律の所在を聞くと、凌はすぐに頷いて連絡を取ってくれたのだ。

「……」

 無言で凌を見ると、男も無言で見返してくる。

 誤魔化しは利かないようだ。

 律は溜息を吐いて、椅子の下に置いていた鞄から、茶封筒を取り出した。

 本日、主人より遅れてこの地を去るつもりでいた為、身の回りの物を抱えてここに出向き、そのまま列車に乗り込む予定だったのだ。

 この茶封筒には、オキから裸で手渡され処分を任されたものの、それを躊躇いこのまま持ち帰るつもりだった、例の件の書類の数々が入っていた。

「連絡方法を所望なら、その前にそれに目を通してください。ご存知の通り、ロンがカスミの旦那の代わりに敵対しています。連絡を取るにも手短に、用件だけ伝えるようにしてほしいので」

 目を見開く刑事たちと客二人、呆れる凌の前にそれを滑らせながら言うと、エンがすぐに我に返って頷いた。

「助かります」

 相談しながら資料に目を通す面々を見守りながら、凌が律に問いかける。

「……他人の仕事の資料はすぐに処分、が鉄則のはずだが。どういう事だ?」

「……」

 無言のままの相手に、男は溜息を吐いて見せた。

「やることが、変態際際じゃないか」

「言わないでください。今、私も、反省しているところなんですから」

 指摘されて、自分が資料を捨てられなかった理由に思い当たったところだ。

 思い当たると、凌の言う通り変態の域の考えでの理由で、恥ずかしい限りだ。

「お前さんのおかげで、塚本家の孫の件も大きく動きそうだ。謝礼として、潜入している奴にオキの毛でも取って来てもらおうか?」

「やめてください、それでは本当に異常です」

 揶揄いと分かっていても、思わずむきになって拒否する律に、凌は楽しそうに笑った。

「しかし、いいタイミングでお前さんもあいつを保護していてくれたものだ」

 中華の国で大きくなりつつある企業の社長の姉を引き渡すために、律は今回この地に入っていた。

 ひた隠しにしていた女で、要求が来たとき主人を始め律も動揺してしまったが、無事事は済んだ。

 だが、それを知っている男の思惑は確認したい。

「それに、思ったよりまともな状態で戻ってきたと、先方は安堵していたぞ。本当に助かった」

「……保護した当時は、あそこまで回復していませんでしたので、ここまで時期が過ぎていて幸いでした」

 返事を返してから、何気なく尋ねた。

「いつから、あの姉弟をご存じだったのですか?」

「あいつらが子供の頃からだ」

「……」

 返事は短いが、重要なものだ。

「周囲に知られていないようですが、どういう思惑で、あの二人をひた隠しにしていたのですか?」

「別にひた隠しにする気はなかったんだが……」

 凌はじっとりと見つめる律を見返しながら、小さく苦笑した。

「本当は、少し前の親族会議で紹介する予定だったんだが、娘の方が永く行方知れずでな。顔合わせするにしても、姉貴と一緒でないと親族を皆殺しにしそうだと、あいつが断って来た」

 かなり長い間姉と生き別れていた男は、親族がその行方を知っていながら隠匿していると疑っていた。

 そんな状態で親子再会させようものなら、寄合の場がどうなるか分からない。

「だから、代わりにヒスイの息子を連れて行こうと思ったんだが……あいつ、逃げ足が速くてな。結局手ぶらで行く羽目になったんだ。お蔭で、また複雑な事になってしまって、困っているんだ。どうすればいいだろうな?」

「私に聞かれても、事情説明が曖昧なので、答えられません」

 最後、嘆きに似た相談口調になった男にすぐに答え、律は呟いた。

「カスミの旦那とは、うちの雇い主は会ったことがありません。なのに、あの社長と顔を合わせて仰天していたんです。私はそこまで危険人物には見えなかったのですが、カスミの旦那のご子息の一人なのですから、力が半減した狐を迫力負けさせるなど、朝飯前なのでしょうね」

「どうだろうな。あいつ、術の類には恐ろしく弱いんだ。姉の方もそれで捕まっていたらしいし。力が半減したとはいえ、狐を相手に迫力勝ちする事は出来ないはずだぞ」

 どこかで聞いた話だ。

 首を傾げたが、今それを掘り下げる理由はない。

 真剣に相談する刑事たちの様子を見、話の進み具合を伺う。

 真面目に話す一同の中で、大柄な強面の男が、英語の台本を直訳しながらぽつぽつと読んでいる。

 目を細め、単語の一つ一つを思い出すように、長文を読んでいる様子だ。

 そんな読み方ながらもページの進み具合は早く、十ページは読み進めているようだ。

 一人蚊帳の外でそんなことをしている葵を見とがめ、エンが苦笑気味に声をかける。

「葵さん、そんなもの読んでいる場合じゃあ……」

「……」

 それに答えず、大男は目を凝らして台本の長文の一文を見つめた。

「エン、これ、訳してくれねえか?」

「いや、ですから、そんな場合じゃあ……」

 ずいっ、と目の前にそのページを突き付けられ、そう返した男は葵の引き攣った顔を見た。

「? どうしたんですか?」

「いいから、ここの部分だ。オレの訳し間違いかも知れねえから……」

 若干切羽詰まった声の頼みに、エンは目を瞬きながらその文に目を落とす。

「……男女の別れのシーンですか? 幼い二人の男女が、もう会えぬであろうとそれぞれの形見を相手に残すシーン……男『お前の方が先に逝くだろうから、それを一緒に埋葬してもらえ。私が頃合いを見てそれを掘り出しに行く』何だか、変なシーンですね」

「……訳し間違いじゃねえっ。やっぱりだっ。あのおっさん、どこで、あのシーンをっ? まだ、あの場には来てなかったはずだぞっ?」

「何の話ですか?」

 エンの問いに我に返り、葵は薄ら笑いになった。

「い、いや、何でもねえ」

 不信の目を向ける男を避けてようやく話に加わる大男を横目に、エンはもう一度台本に目を落とし、呟くように次の文を読み進める。

「男、言いながら女の首に金細工のペンダントをかける……? 金細工?」

 エンが目を細めしばし思考した後、そっと前のページをめくる。

「男『これは、私の父親が残した石を、この間亡くなった主が無くさぬようにと、細工を施してくれたもので、言うなれば、親と主君の形見みたいなものだ』男の首から外され、手に乗せられているのは、二つの丸い色違いの天然石を金細工で包んだ装飾のトップを通した、小粒の金の鎖のペンダント……」

「こら、エン。これ以上、読むんじゃねえっ」

 思わずドスを利かせて怒鳴り、葵は台本を取り上げた。

 取り返すどころか、台本を手にしていた形のまま固まったエンが、ぎくしゃくと葵を見上げた。

「葵さん、この話、まさか……」

「ん? 何だ? 知った奴のエピソードがあったのか?」

 その様子に、凌が笑いながら問いかけた。

「カスミの事だから、面白おかしく、知り人の話を盛り込んでるんだろ?」

「そうらしいですね」

 様子がおかしくなった葵とエン同情しつつ、律が頷いた。

「鏡月と誰かさんの話もありますよ」

「……何だって? 何であいつの話が盛り込まれるんだ?」

 ぎょっとした凌に、律はやんわりと答えた。

「知らないのですか? その現場に、鏡月もいます」

「ちょっと待て。何で、コウヒの兄弟と、あいつが一緒にいるんだ?」

 凌が慌てて問うが、答える方には余裕がある。

「それは、よく組んで仕事をしているからでしょう」

「はあっ? という事は、まさかあいつ……」

「ええ、この辺りが縄張りなんです」

 男はあんぐりと口をあけ放ち、次いで叫んだ。

「しまったっっ。近すぎる場所を、縄張りにしてしまったっっ」

「ご愁傷さまです」

 この国に根を下ろそうと凌が考える理由は一つだから、律としては親切心で教えたまでだ。

 弟子の一人の鏡月を探し出して、目障りにならぬ所で見守るところから入る予定であった凌としては、根を下ろした場所の悪さに頭を抱えた。

 そんな大男を横目に、律は困惑しているエンと溜息しか出ない葵を見た。

「蓮と言う子の話らしきものもあると聞いていました。真実と半々の話だと耳にしていましたが、もしかして事実の話なのですか?」

 そうだとしたら、めでたい話だとオキは言っていたが……。

 問い掛けにエンはぎくしゃくとしたまま、口を開く。

「……葵さん、まさか、あの時、蓮は、本当にあいつと……?」

「ああ、間違いねえ。えらく親密になってたんだ。このセリフ、間違いなく、蓮が言ったセリフだ」

 それを聞いて男が大きく息を吐く。

「親父さん、いくら何でも、この話を持ち出さなくても。蒸し返されても蓮が恥ずかしいだけでしょうに」

 嘆いて同情されているのは、現場の読み合わせでこれを聞く羽目になったであろう蓮だ。

「相手は、絶対に平然としていますよ。ああいう奴なんですから」

「だよなあ。てか、それが目的かも知れねえよな。あの人は、元々蓮を落とし込む画策をしてんだろ?」

 意味不明な会話だが、エンがあいつと呼ぶ人間に心当たりがある者達は、律を含めて一斉に考え顔になる。

「何だ、蓮と言う子は、もう心に決めた相手がいたのか。ヒスイやメルは複雑な心境になるな」

 心当たりのない凌は微笑みながら頷いたが、葵が複雑な顔で答えた。

「いや……相手は、あの時幼かったんで蓮とつり合いが取れてたんです。しかも、寿命が人並と思われてたんで、その時限りの相手で……今じゃあ、蓮より成長しちまって、蓮本人が諦めちまってます」

「……市原さん、あの人が成長してしまった今、全く脈がないんですか? あの人本人は、相手が小さかろうが気にしないのでは?」

「蓮が気にするんだよ。それに……あの時あいつは、今の姿じゃなかった」

「うちの親父さんの頼み……にしては強引だったんだが、渋々答えて慰めに向かったんだ。その時には親父さんによって、体を変化させていた」

 カスミによって女の体になった、本来いないはずの幼い相手。

 これでは見当もつかない凌だが、律の方は予想したことの決定打だった。

「旦那も酷な事をしましたね」

 思わず呟いて、それから首を傾げた。

「そんな暴挙を許した周囲の者の気持ちも、分からないんですが。どういった事情だったんですか?」

 真っすぐな問いかけに、エンが一瞬詰まった。

 穏やかな笑みを戻しながら、当時の事情を話す。

 はるか昔の、まだこの国に入るのにも人の目を気にしなければいけなかった時代の話だ。

「用事を終えて国を出ようと船を出したら、波風は異常ないのに全く別方向に進み始めまして、海の真ん中で立ち往生する羽目になったんです。舵も効かないし何かの思惑に引っかかったのではと疑っていたら、案の定……」

 夜が明けて見知らぬ船が浮かんでいたら、いくら田舎の役人でも不信に思うだろう。

 そんな言葉でカスミは真面目に脅した。

「夜が明ける前に岩陰にでも船を隠せれば問題なかったんですが、そう出来ない絶妙な動かなさ具合で……そういう事には、匙加減を慎重にするんですよ、あの親父さんは」

 笑みに苦いものを含めながら、エンが説明し溜息を吐いた。

「ですけど、市原さん。蓮さんは、最近……」

「ん? 何だ?」

 高野が自信なさげに口を出し、市原が聞き返すと躊躇いながら続けた。

「いえ、気のせいかもしれないんですが……あの人、最近目線の位置が、会う度に変わっているように感じるんです」

「目線の位置が? って、あいつ、縮み始めてんのかっ?」

 市原が青ざめ、頭を抱えた。

「あれ以上小さくなっちまったら、歩いてても踏んづけちまうかも……」

「いえ、そうではなく……どうして、縮む方に持っていくんですかっ」

 一応そう返しつつ、高野も確証がないので話に区切りをつけ、水谷とさっき練った計画を口に出す。

「……まあ、それが無難ですね。その旨、オキに伝えておきます。あ、その資料……」

「こちらで処分しておきます」

 資料を取り返そうとした律をやんわりと避け、エンが穏やかに答えた。

 やんわりとはしているが、頑なな表情が伺え、律はその言葉を信じてそのまま資料を預けておくことにしたのだった。


 塚本勇の隠居先で、男が大きなため息を吐いた。

 大柄だが雰囲気は柔らかな、それでいて目つきは鋭い男だ。

 仕事で組むことの多い男との電話連絡の後で、携帯電話を手にしたままでの溜息だ。

「当たりだと思ったんだがなあ」

 癖のある短く切った黒髪をかきむしりながら呟いた。

 ある女の消息を、探っていた。

 もう一つ付け加えると、これは仕事ではない。

 相方の恋人だった女の消息が知れそうだと、ある国に入る手はずを整えたのだ。

 本当は何かあった時の為、自分が行くつもりだった。

 相方は、その連中に顔が知られているかもしれないと思ったからだが、逆に危うい立場になると判断したのは、その国で行動を共にする者たちをじかに見た時だった。

 ある映画の最終選考で会った、三人の若い男女。

 部屋に入ってその三人を見つけた時、男は危うく踵を返して走り去りそうになった。

 それをしなかったのは、一重に相方の真摯な思いを知っているからだが、多少の負けん気もあったと自覚していた。

 だが、それ以上は無理だった。

 自分の名に一文字足した偽名を相方に貸し、強引な言い訳をして交代した。

「そこまで君が苦手視しているのも珍しいね」

 仕事の話ではないので気楽に話した男に、勇が淹れた茶をすすりながら感想を述べたのは、静かな雰囲気の娘だった。

 長い黒髪を後ろに流し、ラフな服装ながら、一枚の絵画のような美少女だ。

 姉貴分と言う贔屓目を差し引いても男を引き付けるその娘は、先日勇と警察へ相談に行った娘だ。

 今日は久しぶりに暇になったと言う弟分を、塚本家の隠居宅で迎えたところだった。

 暇と言うよりも待機中と言う状況らしいと察しつつも、雅は静かに感想を述べた。

「オキの奴が、絶対に奴と敵対するなと忠告して来たからな。言われんでもするかっ」

「奴?」

 物足りなそうに茶を啜りながらそう答えた男に首を傾げ、雅はもう一人の人物に目を向ける。

「敵対したくない相手って、私は、この人くらいしか思い浮かばないけど」

 そう言われて顔をわずかに上げたのは、小柄な人物だった。

 雅を同じくらいの年齢で、背丈はその胸元当たりまでしかない程小柄な娘だが、姿かたちよりも、色合いで目立つ。

 勇が淹れてくれた茶に手を付けず、ぼんやりと見下ろしていた娘が、雅の言葉で顔を上げて薄く笑った。

「光栄に思った方がいいのか? 君ら程度にそんな称賛されても、嬉しくないんだけど」

 癖のない長い髪は老人のように白いが、それが年のせいではないと言うのは艶やかで張りがある事で分かる。

 雅を見返すその目は、日本人の瞳にしては赤みがかって見え、目立って仕方がないはずだが、何故か塚本家の創立者として未だに君臨している女だ。

「それに」

 思わず目を細めた同年代の娘に、塚本家の面々には『シロ様』と呼ばれている娘は付け加えた。

「私は逆に、そう言わしめる者が、何人も思い浮かんだんだけど」

「へえ、そんなに苦手な人が多いの? ぜひ教えてほしいなあ」

 やんわりとした雅の問いかけに、一人男の弟分が首を竦めているが、シロは構わずに答えた。

「教えたところで、君らにどうこうできる連中じゃない。でも、確実にそのうちの一人に、

(かい)君の言う人はいるだろうね。あの子を敵に回すのは、私も二度と御免だ」

 その答えで目を剝いた男戒は、身を乗り出した。

「何か、知ってるのかっ」

「知っていると言っても、調べた限りでしかないけど、戒君の言う当たり外れの話なら、あながち外れでもない」

「どういう意味だっ?」

 更に身を乗り出してくる男に、シロは慄くこともなく答えた。

「その現場に目的の女は、今はいない、という事だ」

「今、は?」

 聞き返す男から、勇の方へ視線を流しシロは確認する。

「言ってしまってもいいのか? この子に?」

「……まだ聞いていない情報ですので、何とも判断できませんが」

 目を丸くしている老女に頷き、シロは再び戒の方へ視線を向ける。

「その先は、秘密だ」

「おい……」

「すまないな。横道にそれてしまっていたのは分かっていたんだが、あの子が伊織(いおり)の他にどんな奴を揃えたのか気になって、ついつい調べ過ぎた」

「あの子って……ちょっと待って、戒の言う敵対したくない奴って……」

 目を細める男に構わず勇の方に言い訳する娘の言葉に、雅が思い当たって声をかけた。

「あいつを枠外に考えられるあんたも、オレは恐ろしいんだが」

「そうかな? 敵にする気がないから、考えないだけだけど」

「そう、あの子に一度も敵意を抱かないってのも、不思議な話なんだよ、君の場合」

 塚本家も、元々は古谷家を抹殺するつもりで動いた挙句、返り討ちに合ったのが、セイとの馴れ初めだった。

 しかも、塚本家の面々を飛び越えて、影で命令を下していたシロを直接、攻撃対象にして来た。

 当然、返り討ちにする気はシロの方にもあったのだが、結果は今の状況なのだった。

「抱かなきゃいけない理由が、一つもないからね。私は、やましい事してないし」

 言い切る雅を少し尊敬しているのだが、そう見られていないのが残念に思う事だった。

「という事は、戒の知り合いがいる所は、伊織君がいる場所で、例の、警察関係者が入り込めなくて難儀していた件の場所、なんだね?」

「そうなるのかな」

 勇が何処まで調査しているのかは分からないが、シロの調べではそう出ていた。

 だから曖昧に答えて勇を見ると、老女はゆっくりと頷いた。

「その上、若は頼もしい方々と一緒のようです」

 これは、厳が持って来た話だった。

「まさかあのお二人と行動を共にしておられたとは。一気に肩の荷が下りた思いでおります」

 久し振りに気が抜けた笑顔で言う老女に、雅はやれやれと首を振った。

「簡単に下ろしてもいいものかは、疑問だね。だからこそ、セイも何人か使えそうな男を選出したんだろうし」

「一応、相方には奴らに逆らうなとは言っておいた。セイは喧嘩腰にはならんが、蓮は売られた喧嘩はその場で買う奴だからな」

「……」

 その会話を黙って聞いていたシロが、考える顔になった。

「レン……か。確かに、その傾向はあるな」

 そう落ち着かせてから、勇に目配せしてメモを取らせる。

 すらすらと情報を口にし、それを勇が筆で紙に走らせていく。

 出し終えると、いつも通り釘をさす。

「覚えたら、すぐに焼き捨ててくれ」

「はい、承知しております」

 すぐに頷く老女の前に置かれた紙に、雅と戒が身を乗り出して内容を吟味する。

 その間に勇が厳から仕入れた話を、シロに報告している。

「……それ、今日の昼間の話か?」

「はい。最新の話です」

「じゃあ、一つ付け加えておこうか。その刑事、拳銃の実弾を隠し持ってあの国に入国できていたぞ」

「え……?」

「付け加えると、もう一人、女でそれが出来た者がいる。いつ使うかは知らないが、その映画の台本次第でうまく使えるだろうね。時間稼ぎするにしろ、自棄になるにしろ」

「……ああ、今日、女が一人実弾で死にかけたらしい」

 戒が思い出したように告げ、雅がぎょっとした後弟を睨んだ。

「何で、それを早く言わないんだっ?」

「無事だったから心配ないと言って来たからな。何にせよ、こちらの動きに支障はない」

 その剣幕に身を竦めつつも、男はきっぱりと言い切った。

 確かにその通りなので、雅もそれ以上責めないが気になるようだ。

「その刑事が、時間稼ぎに撃ったのかな?」

「どうだろうね、その辺りは、その刑事の心境を知らない限りは分からない。ただ……」

 当然の返しをして、シロは湯気が出なくなった湯飲みを見下ろした。

「死にかけたと言う話し方が、気になるな。実際に撃たれたのか、撃つ前に止められて、確認したら実弾になっていたのか。後者なら問題ないが前者だったら……職務怠慢で、揶揄うネタが出来たな」

 薄く笑って呟く娘に、雅は呆れたように首を振った。

 こういう人だから、油断できないのだ。


 ようやく部屋の中で寛いだ女は、大きくため息を吐いて呟いた。

「結構、女とは難儀だったのだな……」

 動きやすい服装で、出来るだけ素が出ないように行儀よくしているが、本日の騒動も含めてどんどん疲れが溜まってきている。

「その割には、随分と女子の仕草がお上手ですな、あなたは」

 誰もいないはずの部屋で真面目な声がそう褒めても、女は驚くことなく答える。

「男っ気が多い場所で生きてはいましたが、女子がいなかったわけではありませんからね。真似ぐらいはできます」

「時々、そういうお姿で、隠密でもしていたのでは?」

「それは、私の臣下がやっておりましたよ。中々に優れた者が、数人いましたので」

 足を崩しながら答えて、女は真面目な男の声を振り返って笑いかけた。

「予定よりも早い合流ですな」

「巻き込んだ手前、気になりましたもので。問題はありませんかな?」

「私の方には、これといった問題はありませんな。この女子を知る者は、ここにはおりませんので、襤褸も出ておりません」

「おや。あの話には、あなたも動揺するかと思ったのですが、それ程でもなかったですかな?」

 男の微笑む顔に、女は小さく笑った。

「こちらとしては、あのうつけの殿を、病弱に仕立てた訳位は聞きたいと思っておりましたが」

「ご自身や、盟友方をあのように偽ったのは、何も思われておりませんか?」

「カスミ殿」

 女は真面目に問う男カスミに呼び掛け、うっすらと笑った。

「事実はどうであれ、歪めると決めたのは私自身です。それに、私が知らぬと思っておるのですか? 世間には、もっととんでもない話が出回っておることを?」

「はい。最たるものでは、陰謀絡みではと疑いを持つ者もいます」

 女は苦笑しながら首を振った。

 カスミと再会したのは、偶然だった。

 天寿を全うし、肉体が荼毘に付された数日後、気が付くと永眠した寺の離れで正座していた。

 若い頃の姿の己が魂のみらしいと言う事と、殆んどの者に自分が見えぬこと、死んで意識を取り戻すまでの間が、思ったよりも開いていないことにもすぐに気づいたが、だからと言って知り人に接触を試みようとは思わなかった。

 寧ろ、いい機会だと思ったのだ。

 今現在は戦国時代と呼ばれるあの時代で、殿がやり残してしまわざるを得なかった夢。

 それが出来るかを、この目で確かめたかった。

 だから、今回辺境のこの地である墓の前で捕まっていなければ、カスミと鉢合わせする事もなかっただろう。

 温和な国、争いばかりの国、様々な国を見守っていたが、単に人目を避けるために通った墓地の中の墓の一つで、強い力に縛りつけられてしまったのだ。

 何年縛られていたかは分からないが、同じように人目を避けてその地の墓地を通り抜けてきたカスミと、図らずも鉢合わせしてしまった。

「……妙な場所でお会いしますな」

 墓地の真っただ中に立つ和服の男を見て、流石に呆れ顔になったカスミに、苦笑してしまった。

「奇遇、と喜んでもいいのですが……カスミ殿は、何故にこのような場所を通り抜けようとしておられる?」

「そちらこそ、そのような場所に、どのような経緯で縛られておいでなのですか? というよりも、あなたは当の昔にお亡くなりなのでは? いつから、化け出ておられる?」

 聞かれるままに答えると、カスミも少し考えてから事情を話した。

「成程、余暇の過ごし方に迷われての旅、ですか」

 しかも余興付き、だ。

 納得して頷き、手を振った。

「良い旅を。この辺りはあなたからすると物騒という程ではないようですから、気を付けては野暮ですかな。それでも社交辞令とやらで言わせていただきます」

「……いや、ここまで会話して、あなたを放って行けとおっしゃるか?」

「? 何か問題がありますか?」

「……」

 この辺りの住民は、自分が見えない。

 だから驚かすこともないし、いずれはこの縛りも解けるだろうと言う見立てで、誰かの手を借りるまでもないと思ったのだが、カスミは溜息を吐いて首を振った。

「やはり、あなたと一人で会話をするには私はまだ未熟のようだ。だが、もう代わりに話してくれる者はいない。だから、辛抱して言わせていただこう」

「……そこまで思い詰めて話す必要は、ないように思いますが」

「それは、術の類の呪縛では、ありません」

「ええ。執念の類の、私はいわばこの墓の主の藁で、すがられてしまったのでしょうな」

「それが分かっているのなら、なぜ、その執念に縛られたままでいるのですか?」

 兄弟や幼馴染たちを煙に巻くような行動しかとらないカスミだが、昔からこの人には振り回されている気がする。

 後にカスミの相棒となったこの男の友人が存命の時と、その逝去後自分の娘に丸投げしていた事の代償が今一気に来ている気がして、げっそりと問いかけた。

 すると、名が知れた武将の家臣だった和服姿の男は、やんわりと答えた。

「その執念の元を訊きだしている最中なのですよ。ぽつぽつとしか話してくれないですし、言葉も分かりにくいので難儀してはおりますが、解放される糸口もぽつぽつと分かって来ると思います」

 恐ろしく気が長い話だ。

「それに何年かけるおつもりですか」

「何年でも、私には問題はないでしょう」

 確かにそうだが、カスミは再び溜息を吐いた。

「その間に、執念の元になったものがいなくなる、もしくは無くなったらどうするのですか? その墓の主は大体二年以内の死者です。病を経ての死のようですが、怨念に似た心残りが、あなたを縛ってしまったのでしょう」

 縛られている当人は急に答え合わせをされて少し不服そうだが、カスミは構わず続けた。

「三十代の女性のようだ。恐らくはこの地から巣立った売れない役者です。そして、その隣の墓には……遺体も何も入っていません」

「カスミ殿」

 和服姿の男が溜息を吐いた。

「余り刺激をしないでいただけるか? 縛りが強くなった」

「ほう。困ったあなたは珍しいな。ついでに言うと、遺体のないその墓は、子供と夫婦の親子の墓のようです」

 今度は明確に顔を顰め、男は縛られていない手を上げた。

 土饅頭を抑えて、力任せに自分の体を引き離す。

「……暇つぶしは結構ですが、つぶし方は選んだほうがよろしい。あなたは平気でしょうが、見ている方の体が固まってきます」

 今の間に本当に肩が凝って来ていたカスミは、心底真面目に窘めたのだった。

「別に、暇つぶしで捕まったわけでは……」

 ぶつぶつと言い訳する男に構わず、真面目な男は改めて墓を見直した。

「この親子とこの女子は親族のようです。恐らく遺言で自分の墓の隣に、親子の墓を作らせたのでしょう。遺体は見つからなかった親子の墓だけは、作ってやりたかったと言うところか」

 そこまで言ってから、和服姿の男を振り返った。

「なぜ、遺体がないのか、それが執念の元でしょうな。先程の反応からすると」

「では、それを調べて、遺体を探し出すか、事件ならばそれを解決するか、どちらにしても私では無理だな」

「そうでもありませんよ」

 言われて振り返った男と目を合わせ、カスミは微笑んで見せた。

「私が、あなたの器を用意します。その墓の主の容姿に似せた器を」

 というより、と男は笑みを濃くした。

 その笑みに何かを感じた和服の男が身を引く前に、カスミはその腕を捕えていた。

 ぎょっとする男に、真面目な男が言い切る。

「その体に肉付けして、加工した方が速いようですな」

「ち、ちょっと待てっ、なぜ、触れるんだ、あなたはっっ」

 当然の驚きの声は無視して、肉付けして加工した結果が、今部屋でのんびりとしている女の姿である。

「役者選びの最終審査とやらまで残った上に、無事目的地に入れる立場を手に入れられるとは、思っていなかったんですが……」

 疑われもしないとは、驚きだったと言う女に、カスミは微笑んで答えた。

「当然でしょう。あなたは、元より見目が良かった。中身はともかく外側だけならば、男女どちらでも放ってはおかぬでしょう」

「中身はともかく、というのが引っかかるのですが」

 気になった言葉に文句をつけてから、女は思い出したように言った。

「ところで、気づいておりますか? あなたのお目当ての男、来ていますよ」

「人聞きの悪い言い方を。目当てというより、あの男の性格からすると、どうにかしてこの地のこの場所を調べたかったであろうと思っていただけでございますよ」

「あなたはあなたで、あの姿でその男と会うおつもりでしょう?」

「遅からず、そうなるでしょうな」

「それまでに、妨害とやらが誰かを死なすことがない事を、祈っておきましょう」

「ああ、それは、大丈夫でしょう」

 疑わぬ答えに、女は男を凝視した。

 そして、やんわりと笑って見せる。

「カスミ殿は、ご自身の幼馴染や兄上殿よりも、演出の三人の方を気に入っておられるようですな」

「分かりますか?」

「分かりますとも。あなたの相棒であった男も、そういう奴でした。気に入った相手を散々揶揄って怒らせて楽しむ。似てしまわれましたな」

「あれは、そう見せぬ天才であったはずですが、よくお分かりになったものですな」

 楽しげに笑い合い、暫く昔話に花を咲かせた後、女が笑いを残したまま言った。

「一つだけ気になっているのですが」

「何ですか?」

「その演出の一人に、気づかれておるかもしれません」

「ほう。どの若者ですか?」

 答えを聞いたカスミは頷いた。

「やはり、あれを欺くのは、難しかったか」

「あなたの孫に似た若者の方に気を取られてしまっていて、余り用心していなかったのですが、あちらの方が要注意人物でしたか?」

「そちらも、あれも、同じくらいに要注意です」

「肝に銘じましょう」

 一瞬、女の顔を見直した男だったが普通に答え、次いで首を傾げる。

「やはり、解けているのか? この人が分からぬのなら、目を疑う程の成長速度だな」

「……? 何の話ですか?」

「いえ。何でもありません。私はそろそろ失礼します」

「そうですな。私もそろそろ、食堂の方へ行かねば」

 こうして、誰にも知られる事なく会談が終わった後、女の行先の食堂で一つの言い争いが勃発しようとしていた。


 レンは若干悔しそうに告げた。

「オレは、英語の綴りが分からない」

「はあ」

 間抜けな返事はレイジのものだ。

 先にあった読み合わせで、それは承知しているから今更な告白だ。

「だから、気になる話を読み直すってことが、出来ないんだ」

「大変ですねえ」

 そうとしか返せなくて、困る男を睨みながらレンは台本をレイジに差し出した。

「今日の、サラが怪我した場面を、読んでほしいんだ」

「初めから、ですか?」

「ああ」

「そんなこと、セイさんに頼んでは……」

「今回は、駄目だ」

 戸惑う男に若者はきっぱりと言い切り、一瞬躊躇ってから続けた。

「あいつとヒビキが、動くタイミングを見逃すなんて、滅多にないんだ。しかも、理由が話にのめり込んでなんて、あり得る話じゃない。よほどの話だったんだと思う。オレは、台詞を聞いてないからよく分からなかった」

「漫画なら十分にありえるストーリーでしたけど……」

「一応、読み聞かせてほしい。引っかかる話かどうかは、後で考えるから」

「……分かりました」

 妙に迫力のある頼みにレイジは頷き、緊張気味に文面を読み始めた。

 だが、無感情なレンが、読み進めるごとに表情を曇らせていくのを見て、不安になって来る。

 読み終わる頃には、頭を抱え込んでいた。

「何だ? どこに、固まる要素があるんだ?」

「あのう……そんなことより、妨害者の特定を急いだほうがいいのでは?」

 そっと声をかけると、また鋭く睨まれてしまい、レイジは身を竦めた。

 そんな男の様子に溜息を吐き、気を取り直して答える。

「そんな分かり切ったこと、急ぐ必要ないだろ」

「分かってるんですか、犯人が誰か?」

「犯人ってな……消去法で、一目瞭然だろ」

 無感情なその答えに、レイジは顔を曇らせて確認した。

「コウさんを、疑ってるんですか?」

「弾丸一つに関しては、な」

「別に、あの人の国の話じゃないのに、どうして?」

 世の中には、他の国の歴史すらも偽証を許さぬ者がいるかもしれない、とは思いつつも信じられずに呟くと、レンは小さく笑った。

「それは、全く関係ないな」

「え?」

「オレたちが雇われた言い訳はそれだけど、そんな事実は何処からも聞こえてこない。あんたの雇い主の方からも、聞いてないだろ?」

「……」

「まあ、別な意味での妨害は、あいつ自身が考えてるかもしれないけどな」

 笑いを濃くしてレイジを見返す若者に臆され、男は目を泳がせた。

「何のことですか?」

「聞かされてないのか? リヨウから?」

 やんわりとした問いかけは、更に動揺するに充分な破壊力だった。

 わたわたと慌て始めるレイジを、不敵な笑いを浮かべて威圧したレンが凝視し、すぐに表情を戻した。

「聞かされてはいないんだな。本当に、只の通訳か。リヨウも酷な事をする」

「あなたは、リヨウさんの何なんですか?」

「……その聞き方は、怪しくないか?」

 思わず聞いた男の言葉に突っ込みを入れてしまったが、そんな意図はないとすぐに気づき、レンは答えた。

「血の繋がりはないと思うけど、親戚かな」

「じゃあ、あなたが、あの人から頼まれてきてくれた人なんですかっ?」

「いいや、違う」

 勢い込んでの問いに即答し、明らかに落胆した男に苦笑する。

「違うが、関係なくはないから、そう落ち込むな」

「はあ……」

「目的は全員違うけど、ここを片付けない事には、次に進めないと分かってくれただろうから、ああいう事もなくなるんじゃないかな」

 レンは軽く言いながら手元に戻った台本を軽い仕草でめくった。

「やっぱり、危険な現場なんですね、ここ」

 全く知らない国の辺境に飛ばされてしまい、おかしいとは思っていたが自覚しないようにしていた。

 改めて含みのある話を聞かされ、レイジははっきりと自覚してしまった。

 深い溜息を吐く男に、レンは少しだけ優しい声で言った。

「あんたはあんたの仕事をしてくれればいいよ。土産話に怪談のオチをつけて、親兄弟に話してやればいい」

「その兄弟が原因で、こういう羽目になったのに、楽しく笑い合えと? 兄の行方が分からなくなって、リヨウさんに相談したのが、このバイトを引き受けたきっかけなんですよ」

「ふうん」

 相槌は打っているが、明らかに興味がない声に構わず、レイジは更にぼやく。

「始兄さんは、僕と違って頑丈な人なんで、連絡を入れてこないって言うのは、よっぽどの状況なんだとは思うんです。でも父は、兄の安否よりも後継ぎの心配をしてて……」

「……ハジメ?」

 興味はないのに話は聞いていたレンが、聞きとがめて呟いた。

「そういえば、あんたの苗字、金田(かねだ)、だったか?」

「は? はい」

「……リヨウが派遣した人間という事で、経歴には目を通してなかったな。そうか、そう考えてみれば、あいつを引き込んでいれば、あんたを早々と撤収させられたかも知れないな、リヨウは。ってことは、やはり、別口、か」

 何の話かと怪訝な顔をする男に構わず、レンは軽い挨拶をして席を立った。

 廊下に出た若者をドアの前まで見送りに立ったレイジは、どこからかの喧騒に気づいた。

「ん? 何だ?」

 レンもすぐに気づいて声がする方を伺う。

「食堂の方だな」

「はい」

 躊躇いなく歩き出す若者に、レイジは慌ててドアを閉めて続いた。


 レンがレイジを訪ねていたころ、ヒビキは自分にあてがわれた部屋で、女役者たち全員と対面していた。

 額に痛々しいガーゼを貼り付けたサラをヒビキの前に座らせ、他の四人はテーブルを挟んでまだ娘と言ってもいい位の若い女を見下ろす。

 その真剣な目に、ヒビキが深い溜息を吐くのを見て、マリーの目がさらに剣を帯びた。

「お話の内容は、分かってますよね?」

「分かってはいるが……オレにどうしろと? 確かに先程の対応の遅れはオレたちの失態だ。だがな……」

「犯人は放って置く気ですかっ?」

 アンが思わず声を上げ、シュウも同調する。

「ティナの時は、はっきり分からなかったけど、サラの時は完全に分かり切った奴だったじゃないかっ」

「あなた達が放って置く気なら、私たちであの男を拘束しますよ。このまま撮影や稽古をするのはいいとしても、どういう細工をするか分からない奴を、一時たりとも野放しにしておきたくないので」

 マリーの厳しい声に、二人が頷いている。

 被害者になりかかったティナと、一人座らせてもらっているサラは、若干居心地悪そうに首を竦めた。

 その様子に気付いているのか否か、ヒビキは天井を仰いで言った。

「あんたら、刀の細工も、コウの仕業と思ってんのか?」

 ぼかした容疑者の名をはっきり言われ、三人は一瞬たじろいだがすぐに頷いた。

「あの男以外、考えられないよ」

「男の人たちは、全員素人で怪しいけど、銃を持つあの姿勢、本物だったわ」

「そうですよ。それとも、他にも怪しい人がいるんですか? それを知ってて選考したんですか? 監督が決める時、反対しなかったんですか?」

 次々に意見を言い、アンがヒビキに質問すると、女は薄っすらと笑った。

 面倒臭そうなその仕草に、思わず窘めようとするマリーの口を、ヒビキは視線で黙らせた。

「あんたらな、よく男どもの事ばかり言えるな。オレたちは、別に男どもばかりに怪しい奴を選った訳じゃねえぞ」

「何だってっ?」

「ちょっと、まさか、私たちを選考したのって……」

「ああ。オレ達だ。入念に調べた上で、これと言った人材を、最悪な事態の対策も出来る人材をオレ達が選考した」

「調べたって、何をっ?」

 ぎょっとしたのはマリーだった。

 動揺を隠せない長身の女に、ヒビキはにんまりと笑って見せた。

「出身地から経歴、その他諸々、に決まってんだろうが。幽霊さんよ」

 固まったマリーから視線を逸らし、同じように固まっているアンにも笑いかけた。

「まあ、幽霊はあんた一人じゃねえがな」

「……」

「何なら、調査結果を並べてやろうか? アンと言う通称で呼ばれていた舞台女優は、現在は行方不明で、生死も定かでない。マリーに至っては、三年前病で死去して、この地の山奥の墓地に埋葬されている。どういう経緯でその名を名乗っているかは知らねえが、怪しい奴らではあるな」

「そのマリーとは、別人よ。この地に入るために、その経歴を使ったのは認めるけど、名前は同じよ」

 あっさりと認めたマリーは、驚く女たちに微笑んだ。

「名前が同じってことで、あの人にはお世話になってた。死ぬ間際に、切に頼まれたことがあるの。だから、何とか、この地に来たかった。こういう映画に関わってみるのも勉強だと思っただけで、あんな細工を、ましてや弱い女を狙うなんて事、私はしないわ」

「私だって。アンとは知り合いなの。とても大切な存在だった。行方が分からなくなって心配して調べた結果、最後の仕事がここの同じような撮影だって分かって、ここに来たんです」

「……じゃあ違うじゃん」

 シュウがあからさまにほっとしてから、少し考える。

「もしかして、あたしが選考されたのも、何か意味あるのかな? アクション女優ってくらいしか、取り柄はないんだけど」

「選考理由はそれに限らねえが……」

 面倒臭そうに手を振り、正面に座るサラを見た。

「あんたの旦那が、英国で殉職した刑事だってのは、引っかかる話だな」

「……」

「刑事?」

 マリーが目を見開いて椅子に座る女を見る。

 周囲の驚きに構わず、ヒビキは黙ったままのティナを見た。

「あんただけは、特殊だったな。Z国の国民。小さな国を維持するために、子を残せる者は僅か。出国できる者も僅か。身を守るため全国民が戦闘能力を持ち、女は武器を製作、修理する技術を持つ。そんな国の女が、どんな理由でこの地に来るのを望んだのかは知らねえが、ここで望みをかなえるのは、難しいと思うぜ」

「あんた、自分の責任問題を棚上げにするために、そんなこと言ってるんじゃ、ないよね?」

 鋭い問いに、ヒビキは笑って答えた。

「責任云々もだが、あんたらの問題も絡んできちまってるから、言ってんだ。自覚はしてんだろ?」

 色素の薄い瞳に見つめられ、前のめりになっていたシュウがたじろいで身を引く。

「妨害とやらも、オレにとっちゃあ予想外だったが、あの程度ならどうとでも対処できる。今後も何とかなるだろう。今日のようなギリギリな対処はしないようにすると、ここに約束しとく」

「……分かりました」

 まだ何か言いたそうな二人の代わりに、サラを見下ろしていたマリーが静かに言った。

「全盲のあなたが、この後の対処を本当にきちんとできるのか、お手並み拝見と行きますね」

 やんわりと笑って言う女に、ヒビキは目を見開く。

「夜分、失礼いたしました」

 見送りを期待せずに女たちは部屋を辞し、ぞろぞろと廊下に歩いていく。

 座ったままこちらを見る演出の女に頭を下げた時、その喧騒が聞こえた。

 深い溜息を吐いているヒビキを残して、ドアを閉めながら方角を伺うと、どうも食堂の方からだ。

「喧嘩?」

 シュウが眉を寄せて呟き、アンがうんざりとした仕草で吐き捨てる。

「こんな時に怪我したら、予定がさらに狂うじゃないのっ」

「これから何が起こるか分からないってのに、本当に手のかかるっ」

 シュウも頷いて、アンと連れ立って食堂の方へ足を向けた。

「つかみ合いや殴り合いの喧嘩なら、男の人も連れて行った方が良くない?」

 ティナも言いながら続き、他の二人もその後に歩き出した。




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