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疑惑

厄介な話になってきた。

 ヒスイは、数々の山を越えたジープからその地に降り立ちながら、予想外の事態に戸惑っていた。

 この、今自分の前を行く妙齢の美女ローラが係わるこの映画撮影と称して人を集める現場は、大々的に募集をかける割に早く終わることで知られていた。

 実際に撮影の動きをする前に、速やかに目的を達成する為だが、今回は事情が違った。

 ヒスイがこの件に関わり始めたのは今回からなので、どこまで違うかは分からないが、初めから様子が違っていたのは、昨日から現地入りしているはずのアレクとジャンの様子からも察せられた。

 広い空間でトレーニングの真っ最中の役者たちを、男女二人が初日から厳しく指導する様を、金髪の若者と通訳の男から離れて見学している二人は、妙に小さくなって立ち尽くしている。

 遠目で様子を見ながら近づく護衛付きの女性とヒスイに気付いたのは、ヒビキだった。

 女に目配せされて動いたのは、見物していたセイだ。

 振り返って笑顔で迎える。

「おはようございます」

「おはよう。皆、早くから張り切っているわね」

「張り切らせるのも、仕事のうちですから」

 穏やかに微笑んで答える若者に、ローラは笑い返してから、用件を告げた。

「台本が完成したわ」

 セイの背後にいたレイジが、目を見張った。

「そうですか。我々の方がこの世界ではど素人なので、話の動きは早めに知っておきたいと思っていました。助かります」

 ヒスイが持っていた手提げ袋を受け取りながら言う若者は、全く動じていない。

 予想の範囲内と考えての事か、単に驚いてもそれを表に出すほどの素人でないだけか、本当に何も知らずに、何も聞かされずにここにいるからなのか、ヒスイには判断ができない。

 セイが他の二人に声をかけて役者たちにも集合をかけると、渡されたばかりの台本を配り始める。

 それを見ながら、ローラが呟いた。

「日本って、住む人の性格まで変えるのかしら? 挨拶も丁寧ね」

「国はあまり関係ありませんが、傾向としてはそうかもしれません。よく言えば、丁寧で控えめとも言えますが、弱腰で押しに弱いその姿勢は、悪い見本にもなります。それに、外面だけの人物が国の中枢を担っていますからね」

 だからこそ、昔から外の国からの評価はまずまずだが、国内では冷ややかな評価を下されることが多い。

 人間の世界は、矛盾で出来ている。

 それが面白いと、カスミはよく言っている。

 宗教家や革命家、政治家が声高に唱える思想はどこかに偏りがあり、弾かれた部分は部外者から見ると大きな矛盾となる。

 レンがここにいない場合、しめたと思う以上に、ここまでいい加減な子供になったのかと言う思いの方が強い、と言うのも矛盾な考えだろう。

 そう考えながらの答えに、女は小さく笑う。

「手厳しいわね。その考えだと、奥ゆかしさも、黒い腹の中を隠す小狡さってことになってしまうわ」

 しっとりと、色気のある笑いだ。

 着ているものの全てが、目の飛び出る値のブランドものであるのは、確認するまでもない。

 正真正銘の、大富豪の娘だった。

 父親が亡き今、さらに事業を拡げるやり手でもある。

 若々しい白い肌と美しいブロンドのウエーブがかかった髪は、同性からも羨望のまなざしを投げられていることだろう。

 しかし、広げられた事業の多くは、予想をはるかに超える異常なものだった。

 自分よりもかなり小柄なその姿から目をそらしながら、ヒスイは静かに尋ねた。

「いいんですか? あんなものまで用意してしまっても?」

 台本の事だ。

 ここに来るときにカスミに渡されていた物を、本当に使う羽目になるとは、思っていなかった男の念押しに、女はあっさりと答えた。

「ええ。真似ごとを、本当にしてみるのも面白いじゃないの。折角、今回は男がいるんだから」

「ですが、顧客の方々への対応の方は?」

「簡単にできるものではないと言うのは、承知して下さっている方々ばかりよ。少し遅れたところで、問題ないわ」

 まだ余裕の笑顔を浮かべながら、ローラは黙礼してジープの方へと歩いていくアレクとジャンを見送る。

 自分たちと都市部に戻る気の二人に眉を寄せる男に、女は説明した。

「昨日、面白いことがあったらしいわ」

 報告者は、役者たちと昨日到着し、様子をうかがっていた部下たちだ。

「アレクたち、昨日あの子一人にぼろ負けしたそうよ」

 熱い目線の先には、実戦では役に立たぬと高をくくっていた若者がいた。

「ぼろ負けって……論破された、と言う事ですか?」

「文字通り、ぼろ負け、よ。手合わせで、二人とも、一対一で涙目になったんですって」

 双方、杖術での手合わせで、若者の方は左手のみでの対戦だった。

 二人とも、自分よりも一回り以上小さな相手に、完全に敗退したらしい。

「人は見かけによらないわね。あなたの言うとおりだわ。いい人材を紹介してくれて、ありがとう」

「……気に入っていただけたなら、こちらもうれしいです」

 呆然としながらもなんとか答えるヒスイに構わず、ローラは続ける。

「それにね、今までの経験からして、見目だけの女はすぐに壊れるのよね。それが面白いし、清々する類の女もいるけど、壊れて使えなくなる頻度が多いと、また集めるのがここまで大掛かりになるでしょ? 最近忙しくてお姉さんとも時間が合わないし」

 聞き流しかかっていたセリフに目を剥いている男に気付かず、女はさらりとその意図を説明した。

「だから、集めた女を多少頑丈にしてもらった方が、こちらも都合がいいのよ。今回、それが成功しそうなら、正式にあの子を雇うわ」

 臨時から正式な部下への昇進を考えているらしいが、それは三人をと言う意味でもないようだ。

 つまり、演出の他の二人はこの現場限りの使い捨て、と言う事だ。

 それどころか、これから本当に撮影の真似事までするとしたら、カメラマンや衣装係、その他の細々とした道具を用意する人材も、場合によってはそうなるかもしれない。

 嫌な気分になってきたヒスイの表情に気付き、女は安心させるように明るく笑った。

「怪しまれる心配はないわ。消えてもあまり騒がれないアマチュアを使うし、地下の子たちが、そういう証拠は消してくれるから」

「そ、そうですか」

 そういう心配は、していない。

 思わず怒鳴りそうになったが、必死でそう答えたヒスイは、カスミが昔頭領をしていた団体を、一番初めに脱退するほどの常識派だと自認していた。

 だから、この話を聞いた時も、この女の異常な考えが全く理解できなかった。

 そんなヒスイに、腹違いの弟のカスミは真面目に言ったものだ。

「思い込みで動くのは、他の動物で言うところの、本能というものです。頭でいい訳を作って己を納得させ、自己満足に浸る。我々もそうでしょう?」

 ただのストレス発散だった行為に、偽善の言い訳を作り、数々の一族を滅ぼして来た。

 その一員だったことを悔いている兄が詰まるのを見て、カスミは小さく笑った。

「他人を陥れるためなら自分の事は棚に上げるのが、人間の特徴の一つです。そう気にしていては、年齢相応に老けてしまいますよ」

 弟なりの正論に反論も出来ないが、割り切ることも出来ない。

 親らしい威厳を息子に見せたい、そう相談しただけのつもりが、こんなことになってしまった。

 後味は悪いがそれほど長く時はかからない予定だったから、殆んどの後ろめたさを心の奥に押しやってここまで来たのに、全くの想定外だった。

 ここまでくると、自分ができるのは集められた者たちと必要以上に親しくならない事と、犠牲を最小限にとどめる計画に手直しできるはずの従兄弟に、客観的な報告をした上で意見を聞く事くらいだった。


 例の撮影現場のある国と日本では、一、二時間の時差があるが、今が夜である事には変わりがない。

 カスミは、例によって喫茶「舞」で、ぼんやりと時を過ごしていた。

 途中、水谷草太が夕食を取りに店に降りてきたが、準備中の店内は静かだった。

「巧の奴、どうもこれの現場への潜入に成功したらしい」

 双子の兄の葉太に、刑事の草太が切り出し、その最低限の情報の資料を見せて相談していた。

「へえ、その件は、中々潜入できなくて、対策を練り直していたんじゃなかったのか?」

「ああ。どんな手を使ったのやら。まさか、下手な変装で逆に返り討ちになりかかってるんじゃないかって、不安なんだ」

 興味のない話には全く乗ってこないカスミに葉太は夕食を出し、弟の相手をしていたがふと気づいて声をかけた。

「旦那」

「ん?」

「電話、鳴ってます」

 マナーモードに設定していた電話が、わずかに震えているのに気づき、カスミも軽く答えて食後のコーヒーのカップを置き、携帯電話を取り出した。

 最近の携帯電話は色々な機能が付き、その割に持ち歩きやすくなっているが、たいていの機能はカスミには必要ではない。

 だから、昔ながらのメールと電話の機能しか付いていないが、デザインはポケットに入れていても気づかれないほどコンパクトなものだ。

「はい」

 かけてくる人物も限られているため、名乗らずに電話に出るとやんわりとした声が答えた。

「今晩は、カスミちゃん」

「受信は良好のようだな」

「ええ。お陰様で。趣味とはいえ、よくこんな通信方法を考えたわね」

「暇なんだ」

 電話の相手がいるところは、まだ通信機器が整っていない、辺境の地だ。

 電波上の犯罪行為にならぬように考慮し、カスミは独自の方法で空気上のまだ知られていない、微細な電波を使用する通信機を作ったのだ。

 これなら、どこの組織にも盗聴される心配はないし、逆にどこかの盗聴をすることも出来ない。

 自分たちと同類の人間なら別だが、関係者のリストを見る限りではそれが出来そうなのは三人くらいだ。

「全員、無事に現場に到着したわ」

「そうか」

「それから、予定が少し変わって、撮影の準備が始まったわ」

「ほう」

「それほど動きに支障をきたすとも思えないけど、レンちゃんは、こちらに来ているのよね?」

「間違いない」

「じゃあ、キョウちゃんは?」

「ん?」

「実はね……」

 ロンは話しながら、どこかに顔を向けているようだ。

「今日、先に現地入りしたヒスイちゃんが、気になる話を持ってきたの」

 名のある格闘家だった二人の男を、たった一人で打ち負かした若者の話だ。

 それをやってのけたのが、動けないと高をくくっていた金髪の若者だったと聞き、ロンは眉を寄せた。

「だって、やりそうでしょ? 一度大きく動いておいて、後は殆んど動かないで高みの見物しながら報酬を得る、なんてことを?」

「しかし、鏡月はそれ以上に面倒臭がりだぞ。聞いたところでは、その男は片腕が利かないそうじゃないか。その時は使っていたのか?」

「報告にはなかったらしいから、何とも言えないけど……驚いて、両手使ったことに気付かなかったのかも」

 ロンや今その傍に集っている面々ならそんな心配はないが、報告者はそこまで見る必要を感じていなかったかもしれない。

 カスミは、警戒を強めている気配の幼馴染に答えた。

「鏡月の知り合いに、昔から懇意にしている金持ちがいるのだが、その家の顧問弁護士の娘が今臨月でな。出産が間近なのに突然姿を消してしまったと、慌てて周囲に協力を仰いで探しているらしい」

「じゃあ、レンちゃんがあの子を引き入れた可能性はゼロではないのね?」

「そうなるな。中々、面白い展開になったな」

「傍から見れば、そうでしょうね」

 大真面目に言うカスミの性格を知るロンはそう返し、改めて問いかけた。

「そちらは、何も変わりはない?」

 暗に何か別なことを問いかけている質問に、カスミは思わず笑みをこぼしながら答える。

「何の変りもない」

「そう……」

 僅かに落胆の色を滲ませる声に、カスミは更に笑みを濃くしながら言った。

「こちらのことは私に任せて、そちらに専念しろ。気を抜くと、どんな返しを受けるかわからん相手だ」

「ええ、分かってるわ。じゃあ、お休みなさい」

「お休み」

 電話を切って、カスミは黙りこくって顔を伏せた。

 幼馴染で親友でもあるロンが、今どんな心境で電話を切ったのか、想像できる。

 いつもなら、カスミに任せてしまった事がどんなに面倒なことになっていても、呆れるくらいで済ませる。

 むしろ、手ごたえができると笑う余裕も見せるくらいだ。

 だが、今回任されたというか、カスミが引き受けたのは、あの男にとって女房と天秤にかけて同等の重みを持つ者の安否の確認だった。

 まだそれが出来ていないと知ったロンの今の心境を思うと、カスミも平常ではいられなかった。

 黙ったまま小さく体を震わせる客の男に、草太は戸惑いの色を浮かべて兄を見た。

 葉太は小さくため息をついてから、呼びかける。

「旦那」

 その声には呆れが滲んでいる。

「我々以外誰もいないんですから。大っぴらに笑ったらどうですか?」

「そこまで人非人では、ないつもりなんだが」

「そこまででも充分ですよ。だって、探してもいないんでしょう?」

 話の見えない弟に構わずに返す男を見上げ、カスミは目を細めた。

「その必要がないのを分かっていてそんなことを言うお前も、相当人が悪いぞ」

 ちょうど空になっていた弟の夕食の器を片付け、コーヒーを淹れている葉太を見守りながら、男は続けた。

「お前が口封じされてなければ、ここまで他人ごとにはしていないんだがな」

「何を言っているんですか。オレは、逆に意外でしたよ」

 何の話かは分からないが、尋常な話ではないと気づき、聞かぬふりをしている草太の横で、カスミはマスターの落ち着いた笑顔を見上げる。

「あなたが本当に引いて全く動かないなんて。引くと言っておいて、全く別な立場から高みの見物、と言うのがいつものあなたの行動だと、思っていましたが?」

「その特等席なら、すでに獲得済みなのだ」

「そうだったんですか」

 目を見張る男を面白く見ながら、カスミは説明した。

「仕事の休みの日が、どうも暇でな。今では労働時間が細かく規定されているだろう? 休暇のない時期が多かった分、何かやっていないと落ち着かなくてな。ま、貧乏性、だな」

「はあ」

「面白い情報はないかと何気なくあの大富豪を調べていたら、たまたま裏の顔を見つけた」

 息子一人と娘二人を持つ、世間では家族思いの恰幅のいい男として知られていた、大富豪。

 だが、見る者が見れば、一目でそれと分かる裏の顔があった。

「娘の一人と接触して、間違いないと分かったから遊ばせてもらったのだが、今度は後を継いだ娘の方がオリジナルの遊びを作ってしまったのだ」

「それが今回の仕事の発端、ですか?」

「そうなのだ」

 ローラは素直な女だった。

 父親がやっていた事を教え、全く別な発想を植え付けてやると、すぐに染まった。

 その上、悪くない頭脳の持ち主だけに、オリジナルの遊びまで見つけてしまった。

 カスミとしては、大富豪の男を遊び道具とみなして、娘を利用しただけなので、これは予想外だったのだ。

「ヒスイの相談にかこつけて、清算してしまおうと思っているのだ」

「これはまさしく、あの人の大嫌いな、旦那の尻拭い、だったんですね」

 呆れ顔での指摘に、カスミは堪え切れなくなって声を立てて笑った。

 そう、向こうも気づいているはずだ。

 葉太を使った遠回しな脅しでカスミを引かせても、それは表向きだけのものだということも。

 だからこそ、何かしらのカムフラージュをしているのだ。

「ようやく、鏡月が絡んでいる可能性を疑い始めたらしい」

「そうですか」

 笑った顔を見上げて、カスミは感心して見せた。

「よく耐えたものだな。あの三人の悪巧みの計画を黙って見ているだけなのは、私でも難しいというのに」

「あなたの場合は、別な意味で黙っていないだけでしょう」

 もう付き合いの永いマスターが軽く返し、コーヒーを淹れ直したカップをカスミの前に置く。

「今回も、黙っている気はないがな」

 コーヒーの香りを楽しみながら、男は大真面目に答えた。

「選抜された役者たちがな、面白い事を気づかせてくれた」

「え?」

「男どもは、これから起こることに備えた人選だろうが……」

 カスミの顔がさらに真顔になったが、それは笑いをこらえ過ぎて厳しくなっているだけだった。

「セイはな、ついこの間までの三年間、全くこの手の仕事に関わっていなかった。だから、どこかにムラがあると思っていたのだが……三年のブランクは、侮れないものだな。とんでもないところに、それが出てしまっていたぞ」

 だから、映画撮影の真似事をするとローラから聞いて、カスミは脚本の大部分を書き換えた。

「反応次第では、ロンたちも気づくだろう。レンが現場にいるか否かどころか、あの三人がどういう役割でそこにいるのかもな。その後諦めるか、無駄な足掻きをするかは、決定権を持つ者次第だな」

 相槌を打つにも、どう打つか判断に迷っている双子の男たちに笑いながら、カスミはコーヒーを飲み干し立ち上がった。

「ありがとうございました」

 葉太はきちんと勘定を払って店を出る男の背にそう投げかけ、ドアが閉められるのを待って溜息を吐く。

 諦めを含んだ溜息だ。

 人間は自然死が一番、と主張しているあの男は、その主張を覆す類の犯罪に対してのしっぺ返しを趣味としている。

 あの男を知る多くの者は、それは建前の理由であると断じているが、葉太はそれほどひどい人とは思っていない。

 その主張が先に立ち動いている間に、どんどん楽しくなって歯止めが利かなくなり、結局大事になってしまって本来の主張は白々しく聞こえる代物になっているだけだ。

「なあ、さっき、話に出た、レンって人は? どんな人なんだ?」

 全く別なことを考えていた草太が、慎重に問いかけた。

「オレもこの間、初めて会ったんだが、妙に若い容姿の、小柄な人だ」

「……」

 黙ってしまった弟の反応に、葉太は問い返した。

「知っているのか?」

「ああ。会ったこともある。市原さんの紹介で」

 それどころか、仕事も手伝ってもらったことがある。

 一つ年上の市原刑事の知り合いとして紹介されたその若者は、十代前半にも見える童顔と小柄な体格で、強面で大柄な市原と並ぶと親子にも見えた。

 だが、市原の所轄内での事件の捜査で、その能力は舌を巻くものだと理解した。

「その人、勘が恐ろしく鋭いんだ。聞き込みに同行して怪しいと踏んだ人物の名を、市原さんに耳打ちしてた。後の地道な捜査はオレたちの仕事だが、一人に容疑者が絞れるのはありがたい話だ」

 偶然の産物だと言いきれれば、その程度の感想で終わったのだが、草太の所轄内の事件の捜査でも鉢合わせしたことがある。

 その時は、市原の女房の手伝いで犯人を追っていたそうだが、若者はその時犯人の共犯と思われていた人物をマークして、決定的な証拠を攫むために犯人と接触するのを待っていたらしい。

「警察の粘りは大したもんだ、と褒められた」

 幼い容姿とは裏腹の、包容力のある笑顔で言われ、どんな感情よりもまず単純に照れてしまった。

「市原さんもかなり実力ある刑事なんだが、その市原さんが信用している程だから、勘が鋭いだけの人でもないんだろう」

「旦那の言い方からしても、見た目通りの人じゃないようだな」

 葉太も先日知り合ったばかりの若者を思い浮かべ、頷いた。

 全く別な経由で、自分たち兄弟は他の二人の事も知っている。

 恐ろしく目が良く、先々を考えてどんな動きにも冷静に対処することを考えられるセイ。

 聴覚と嗅覚に優れ、どう動くか分からない俊敏さを持つ、鏡月。

 そして、小柄ながら抜群の勘と行動力を持つ、蓮。

 今回、その三人の計画の綻びを、カスミは見つけたという。

 しかも、セイの、ブランクのせいで起こったムラ、だという。

 ごく僅かなその綻びを、カスミはどう利用するつもりなのか。

 葉太はそこまで考えて、小さく笑った。

「最悪なことにはならないとは思うが、怒るだろうな。約二名」

「……だよな」

 同意した草太は、天井を仰いだ。

 聞いていないことにするにも少々無理があるが、ここ以外で誰に話せるというのか。

 自分にそう言い聞かせ、水谷兄弟は何とか己を納得させた。


 市原家にその電話がかかってきたのは、夕食時を終えて幼い子供たちを寝かしつけて、ようやく一息ついたころだった。

 久し振りの非番で、共働きの妻が食器を洗っている間にそれをやり遂げ、市原葵あおいが畳部屋に寝そべった時に、固定電話が鳴り響いた。

 手を洗って慌てて電話に出た妻の朱里が、受話器からの声を聞いた途端、彼女らしからぬ声を上げた。

「お兄様っ、今、どちらなんですか?」

 おっとり型の妻がここまで驚くのは珍しいが、その呼びかけに葵も身を起こした。

 朱里には兄と呼ぶ人物が三人いるが、その内の二人とここ一週間連絡がつかずにいたのだ。

 彼らの事だから大丈夫だとは思うが、連絡が全くない時期がここまで続くことは初めてだったので、夫婦共々気にしていたのだった。

 電話の傍に四つん這いで近づいた強面の大柄な夫に、正座して相手の言葉を聞いていた朱里が言った。

「蓮お兄様から。今、国外にいるそうよ」

「国外? 何だってそんな……」

 日本国内での仕事を主に取り扱っているはずだと知る葵は首を傾げ、すぐにはっとして顔を強張らせた。

「まさか、また何か、失態を犯しちまったんじゃあ……」

 国外イコール逃亡、そんな図式が頭をよぎった夫の叫びに、朱里がおっとりと笑った。

「お兄様がそこまで追いつめられる失敗なんか、するはずないわ」

 いかに信頼されているかわかる言葉だが、葵は厳しい顔で首を振った。

「甘い。あのな、あいつは一度キレたらどんなお偉い人相手でも、引きやしねえんだ。何か意に添わねえ事を言われて意見した挙句一悶着あって、命を狙われちまったからやむを得ず国外に逃げてんだっ。オレらに火の粉が降りかからねえようにと、今まで連絡を取らなかったんだ。そうに決まってるっ」

「……お前、そんな昔の事を、よく恥ずかしげもなく引き出せたもんだな」

 拳を握って力説していた葵に冷ややかな声をかけたのは、電話の受話器越しの若い声だった。

「気がすんだなら、説明するぞ。あまり時間がねえんだ」

「何だ? 国外逃亡以外に、国を出る理由があるのか?」

「仕事でって考えはねえのか、この馬鹿は」

「お前に限ってはねえだろ? 外国語、読めねえんだから」

「話せねえわけじゃねえし」

「って、本当に、仕事かよっ?」

「お前、オレをそこまで馬鹿だと思ってたのか。自分の馬鹿さ加減を棚に上げて、大したもんだな」

 素直な驚きに、何百倍の棘付きで返すと、蓮はこれからの予定を告げた。

「しばらくそっちに戻れそうにねえんで、一応連絡を入れとこうと思ったんだ」

「しばらくって、どの位だ?」

「そうだな……永くて二か月、短くて一か月。相手次第だ」

「では、年末には戻れるんですね?」

「ああ」

 念を押した朱里が安心し、受話器を夫に手渡した。

「そんなに難しい仕事なのか?」

「ああ。何せ、あの赤毛のおっさんが持ってきた仕事だからな」

 蓮は答え、今回の仕事の内容を許せる範囲内で葵に話した。

「……ヒスイさんか。あの人はどうしても、お前を見た目相応の子供としか、見れねえみてえだな」

「あの人の気持ちなんざ、全く分からねえが、血迷いそうなあの人を止めるのも、一応オレの務めだろ?」

「そうだなあ」

 答えながら、自分の所はと考えた。

 今や二児の父親となった葵の心配事と言えば、長子で長女に当たる子供が外見に似合わぬような怪力に目覚めてしまい、これでは嫁に取ってくれる男がいないのでは、と言うくらいだ。

 小学生になって間もなく、どう考えても自分の方からの遺伝の力を発揮し始めた娘に頭を抱えた大男に、セイはあっさりと言ったものだった。

「どうしても貰い手がつかないなら、今度こそ蓮に盥を回せばいい」

 犬猫の事を話すように言うセイは、半分血がつながっている朱里を預かった時、いずれは蓮と、と考えていたらしいから、外見が母親に似た娘の嫁ぎ先を第一に蓮へと向けたらしいが、朱里が選んだ自分も朱里の父親も大柄の強面で、蓮とは全く似ても似つかない。

 好みまで遺伝するかは分からないが、こちらは母親の方に似てしまっているかもしれない。

 それに、葵は知っていた。

 蓮が本当に心から愛し、今でも思い続けている女を。

 今後再会したとしても、昔幼かった女の成長と、自分の体形や年齢の差を考え、その気持ちを押し隠してしまい、ごく普通に接してしまうのだろうが、その思いは全く揺らいでいないと、元相棒だった葵は思っている。

「ま、そういう事だから、暫く連絡出来ねえが、心配するな」

「分かったけどよ……始はじめが、半狂乱でお前を探してるぜ」

「……誰だ、そりゃあ?」

 こちらでの出来事を口にすると、蓮は暫くの沈黙の後問いかけた。

 その声は若干冷たい。

 その気持ちは分かる葵が、苦笑して宥めた。

「少し前に会ったけどよ、あいつ、心底反省してるぜ。それに、仕方ねえだろ。あいつは、速戦型で、長々と体力づくりするタイプじゃなかった」

「別に気にしてねえよ。人が忙しい合間を縫って鍛えてやってたってのに、家を継ぐとか何とか言い訳して姿を消した上に、家に戻らずどこかの国の女孕ませて困っているような奴なんざ、今の今まで忘れてたぜっ」

 忘れていたにしては、詳しく並べて吐き捨てた蓮に、苦笑したまま葵が頷いた。

「よく知ってるじゃねえか。その、生まれたガキを預かって欲しいらしい」

「冗談じゃねえ、他を当たらせろ」

「そう言ってその時は帰したんだけどよ。どうもあいつ、弟が家出しちまったらしくて、それを探すために一時身軽になりてえらしい。エンに頼むとしたって、結局お前が絡んじまうし、高野の方に頼もうにも、無理みてえだし」

 蓮はこうして連絡をくれたが、他にも音信がない者がいた。

「最近、セイとの連絡は途絶えがちなんだと。上野さんの所は、それこそ半狂乱だぜ。カガミさんが、どこにも見当たらねえって」

「そうか。そういう事なら、あの人にも連絡するよう言っとく。一定の目星がつくまでは、周囲への連絡は控えてたんだ」

「一緒なのか? カガミさんも?」

「ああ」

 鏡月、と言う法名にありそうな本名の若者は、その頭文字の漢字の読みで呼ばれる。

 葵と蓮とでは呼び方が違うが、違和感なく話は通じるのだった。

「それとも、お前が上野さんに知らせてくれるか?」

「いくら面倒だからと言って、伝言で済まさせる気か? どんだけ、あの人が心配しているか……」

「分かった。連絡するよう伝える」

「しかし、カガミさんも一緒か。気をつけろよ」

「ああ。絶対あの人の思い通りにはさせねえ」

 やりすぎる方を心配しているのだが、葵は聞き流して言った。

「帰る日が決まったら、教えてくれ」

「ああ」

 短いやり取りをして話を終え電話を切った葵は、受話器を戻しながらふと思い当たった。

「なあ、朱里」

 すでに家事に戻っていた朱里が振り返る。

「なあに?」

「蓮の声、妙に小さくなかったか?」

 いつもは怒鳴る場面でも、何故か控えめに済ませていたような気がする。

「そういえば、混線しているようでもなかったのに、いつもより小さかったような……」

 まさか、と葵は思い当たり、溜息を吐いた。

 意識して声を潜めて話す必要のある場所での、電話連絡。

 仕事中でそんな場所にいるとすると、どこかで誰かの会話を盗み聞ぎしている最中、と言う事だ。

 どう考えても、普通は息を殺して注意するべき場所だった。

 いくらこちらが心配していると気にしてくれたからと言って、そんな場所からの連絡は期待していなかった。

 むしろ、もう少し弁えろと言いたい気分だ。

 呆れはしたが、蓮の声には呑気な響きがあり、緊迫する状況でもないようだった。

 一人納得した葵は、再び寝転がった。

 何にせよ、時差ボケを心配するほどこちらと時差のある国ではないらしい。


 合宿所として使われている建物から数キロ離れた、林の奥深くで立ち尽くしている数個の人影がある。

 静かに立ち尽くして、大柄な男が電話を切るのを見計らい、それより少し小柄な男が声をかけた。

「……どうだって?」

「何も変わりなし、ですって」

 短い問いに短く答え、残りの人物たちに目を移す。

 赤毛の大男は頭を抱え込んでいた。

 それを、栗毛の小柄な女が呆れ顔で見上げている。

「キョウちゃん、日本にはいないかもしれないって」

「……」

「ま、考えられねえ話でもねえな。レンと結構仲がいいし」

「でも、その金髪の子がキョウちゃんだって決めつけるのは、早計かもしれないわ」

「そう言ったのは、お前だろうがっ」

 声を上ずらせ、赤毛の男が反論するのを宥めながら、色黒の男は苦笑した。

「だって、ヒスイちゃんがあんまり楽勝ムードでいるから。帯を引き締めたかったのよ」

「だからって……」

「何度も言わせないで。レンちゃんは、あなたが思っている程、世間知らずじゃないの。それどころか、世間ずれし過ぎてるくらいなんだから」

 ヒスイが話を持ってきた時から、レンは疑っていたはずだ。

 その後ろに、カスミがいる可能性を。

 今思えば、どうしてカスミが突然この件から手を引いたのか引っかかるが、それは後で問い詰めればいいし、あの幼馴染の事だから、形だけの可能性が高い。

 どこかの役回りでひょっこり出てくることが予想されるから、その時に大方の事情は分かるだろう。

 だから今は、レンが連れてきたもう二人の正体を探ることに専念する。

「キョウちゃんでなくても、あたしたちがよく知る人物である可能性はあるわよね」

 だからこそ、ヒスイがまだ到着していない時に動いた。

 杖術で流派云々が分かる場合があるから、それを懸念したのかも知れない。

「それは、考え過ぎじゃないのか? 今の状況は、あいつらにとっても予想外なはずだし、首尾よくあのアレクたちに喧嘩を吹っ掛けられるとも、思っていなかったはずだ」

 全く別な心配をしながら、オキが反論するのに頷いて言う。

「それに、あのレンちゃんが、本物かどうかもまだ判断できないものね」

 よく仕事で顔を合わせている二人の言い分に、メルも考え込んだ。

「違う奴に化けて、あそこにいる可能性は?」

「大いにあるわよね。ただ、あの子に身長まで変えられるかと言うと……」

 そうなると、その可能性のある人物は限られる。

 背の低い男女。

 今回集まった役者は、体格もまちまちで、背丈も高中低と様々だ。

 容姿がそのままの演出の若者の他、数人に絞られる。

「女に化けるとなれば、誰かの手を借りる必要があるが、キョウが一緒なら難なくできる」

 単なる女装では、いくらヒスイでも気づく。

「それなら、身長だって変えられるんじゃねえの?」

 メルの指摘に、東は首を振った。

「キョウちゃんが、頼まれたからってそこまで複雑な事をするはず、ないわ。自分になら渋々するかもしれないけど」

 カスミなどは慣れているから、子供から年寄りまで難なく化け、他人すらも必要とあれば化けさせるが、鏡月は自他ともに認める面倒臭がりだ。

 他人の体は複雑で、慎重に扱わなければならないから、それをするくらいなら自分が化ける方を選ぶだろう。

「他には、何か変わったことはなかったのか?」

 もう少し情報が欲しいとオキが尋ねると、ヒスイは大きく唸りながら報告した。

「台本を役者に配った時、あの金髪が言っていた」

 話の折々にある色恋の話は、各自で掘り下げてくれ。

「……演出じゃなかったのか、そいつら」

「そのはずなんだがな」

 当然、役者たちは反論していたが、若者はけろりとして言った。

「あんたたちは、私たちがそんなに恋愛経験があるように見えるのか? 二十代の私たちが?」

 その言葉に驚きの声が上がったが、それは全く別な驚きだった。

 それに気づいたのか、セイは笑顔に少し別な色を浮かべながら告げた。

「レンは、私よりも年上だ」

「ええっ」

 全員の声が揃った。

 ヒスイも驚いたが、レンが本物ならそうなる。

「だから、レンがいる、いないにかかわらず、あの三人はレンの知り合いであるというのは確かだと思う」

 つまり、仕事の内容もその裏側も知らされたうえで、現場にいる可能性はあると言う事だ。

「しかし、二十代にもなって、恋愛経験があまりないって……見目はいいんだろ?」

「ああ。だが、あの容姿が借りものなら、見目がどうなのかは分からねえし。事実かもしれねえ」

「借り物なら、ね」

 もし、本物、もしくは、単に姿を入れ替えているだけなら。

「レンちゃんがそう言い切ったのなら、どう考えても嘘だわ。あれでも、結構昔はもててたもの」

「まあなあ……」

 メルも苦笑して頷く。

 今は亡き、カスミの長女との騒動は、よく知っている。

 ちらりと一瞥されたオキは、電話をかける前に渡されていた台本と、役者たちの履歴を記した書類を流し読みしている。

 その目が、あるページで止まった。

「……」

「キョウちゃんなら、事実と言ってもいいんでしょうけど、ねえ」

 目を凝らしているオキの様子を見ながら東は話を進め、幼馴染とその母親に笑顔を向けた。

「どちらにしても、油断は禁物。ヒスイちゃんは引き続きローラと行動を共にして、メルちゃんは……」

「他の奴が、命令以上の事をすることがないように見張っとく」

 ローラがボスではあるが、部下の大部分は荒くれ者と言ってもいい。

 命令に背いて、予想外の動きをされては、こちらとしても困る。

 メルもその可能性に同意し、頷く。

「じゃあ、何か動きがあったら、その都度教えてね。どんな些細な事でも、残さず」

「わ、分かってる」

 念を押されてヒスイも不本意そうに頷き、一同は解散した。

 同じようにその場を離れようとするオキを呼び止め、東は親子を見送った。

 何かに不安を覚えている様子の男に、東はのんびりと声をかけた。

「セイちゃんから、連絡があったわ」

「本当かっ。どこにいるんだっ?」

 目を見張るオキに、男はいつもの笑顔で答えた。

「今、飼い主に放って置かれた、ペットの世話をしているんですって」

「だから、どこのっ?」

「お仕事の詳しい内容は、流石に聞き出せないわよ」

「そりゃあ、そうだが……」

「元気そうだったから、一安心ね」

 戸惑うオキを宥める東の方も、いつもより戸惑いの色が濃い。

「あの日、呼び出した理由は、それ絡みだったって言うのよ」

 やんわりとした言葉に、思わずその顔を見直す男に、大男は続けた。

「そこで飼われている猛獣が、どういう生き物なのか、前もって知っておきたかったんですって」

「……猛獣?」

「結局、それが出来なくなったのは、そんな悠長な下準備が出来る余裕は無くなったと、連絡を受けたかららしいのよ」

「……」

「今夜ようやく一段落したから、真っ先にあたしに謝りたいって、連絡をくれたのよ」

 途中から唖然とした顔で聞いていた男が、溜息を吐いて呟いた。

「相変わらず分からん。どこまでが本当で、どこまでが嘘なんだ?」

「本当にねえ。あたしもその判断が出来なくて、ただ受け答えるしか出来なかったのよね」

 しみじみと返して同じように溜息を吐く東に、オキは疲れた声で確認した。

「だが、そこまで話したということは、嘘であろうが本当であろうが、仕事の終了は近いんだな?」

「そうみたいね。後は、そのペットたちの受け入れ先を探すだけみたい。世界中のその手の施設か、安全にその子たちを放せる場所を紹介して欲しいって」

「……」

「まずは健康管理できる施設がいいんだろうけど、虎みたいに数が減っているならまだしも、獅子なんかは珍しくないものね。だから、保護施設を数件と、自然に戻すとしたらどの辺がいいかとか、どういう生態なのかとか、聞かれたことには分かる範囲で答えておいたわ」

 まだ思考顔の男に、東はそこで一拍置いて話を続けた。

「ただね、一つだけ、あたしが答えた話で念を押してきたことがあるのよ」

「?」

「虎と言う生き物は、餌を獲るときも単独なのか、って」

「……」

「妙な偶然も、あるものよねえ」

 人を食った後のような笑顔を見つめ、オキはこの大男が行きついた答えを口にした。

「・・・つまり、この現場ではないが、この国のどこかで仕事をしている可能性は、十分にある、と言う事か? ペット云々は只の言い訳だと?」

「もしくは、あの件を調べるために、姿を変えてこの現場に潜り込んでいるか、ね」

「と言うことは、あの夏の事件は、ただの不運な事故ではなかった、と言う事か?」

 ここに来るにあたって、一応の下調べをしていたオキの問いに、東は首を振る。

「さあ、あたしはその辺りは興味ないから。ただ、動物に関する研究者や詳しい人たちの多くは疑問視している事故ではあるわね」

「ったく、随分ハードな仕事を引き受けたもんだな。しかも、言い訳が回りくどい」

 その言い訳の不自然さに違和感を覚えていたが、オキはそれを押し隠してぼやいた。

「本当よね。ここ数年は、年末年始もお盆も顔を見てたから、もうそんな危ないお仕事はしていないと思ったのに」

 頷いてから、東は釈然としない気持ちでいるらしい自分より少し小柄な男を、笑顔で見据えた。

「オキちゃん、何か、知ってるの?」

「何をだ?」

 気のない問いを返す男に、笑顔のまま詰め寄る。

「さっきから、歯切れが悪いじゃないの。もしかして、セイちゃんが、どうしてしばらく危ない仕事を控えたのか、知ってるんじゃないの?」

 詰め寄られて思わず後ずさりながら、オキは慌てて答えた。

「事情は知らんっ。ただ、この数年、どこで仕事をしていたかを知っているだけだっ」

「特定できるような職場にいたの? どこかの社員になってたわけじゃないわよね?」

 それなら、どこからか聞こえてきそうだ。

 セイを気にかけているのは自分達だけではなく、その中にはそれこそ色々な世界で幅を利かせている者もいる。

「そうじゃない。律りつが、自分の家の家事手伝いで雇っていたんだ」

「はあ?」

 意外な名前を聞き、東が思わず間抜けな声を上げた。

 オキの一番身近な女、律の職業はボディガードだ。

 今はある政治家に雇われていたはずだが……。

「その政治家って、三年ほど前に突然、引退しなかった?」

「ああ。だが、随分永く政界に君臨していたんで、引退した後の諸々の後片付けで、家事が疎かになってしまったそうだ」

「そう。何があったのかしら。あの政治家の事だから、よほどの事情よね」

 一応、その人物を知る東が納得した時……空気が、変わった。

 僅かな変化だったが鋭くオキが顔を上げ、東が振り向きざまに鋭くナイフを投げる。

 そのナイフを追って行ったオキが、騒ぎ出した野鳥たちが落ち着きを取り戻そうとする中でその場所にたどり着き、自分たちがいた場所にほど近い大ぶりの木の高い位置の枝に、深々と刺さったナイフを引き抜いた。

「……どう?」

 その下にゆったりと近づいた東に、男は答えた。

「痕跡はないな」

「でしょうね。流石に忍び慣れているもの。あの子は、この手の事には年季が入っているわ」

「逃げた……わけでもないか」

「ええ。今まで気づかなかったのよ。どういう理由であそこまで存在をさらしてしまったのかは知らないけど、そうでなかったら、あたしたちがここを去るまで、その場で聞き続けていたでしょうね」

 ヒスイが知らないレンの偉業、それは当時自分たちのいた組織の頭領だったカスミの寝所に侵入し、寝首をかいたことだった。

 首を切り取られるまで気づかなかったとカスミは驚いていたが、持っていかれては困ると首のない体に捕まえられたレンの方も仰天していた。

 だから、仲間内でのレンの評価はかなり高い。

「他の話は支障ないけど……」

 セイがここにきている可能性を、そう考えていることを知られてしまった。

「専念してもいいか? あいつを探して、レンに接触しないようにしてみる」

 引き抜いたナイフを返し、手にしたままの資料を握りしめて伺いを立てるオキに、東はすぐに頷いた。

「そうしてちょうだい。接触後に妨害しても、こちらの後味が悪くなるだけだから」

 その場を動いて林を抜けて二人は分かれ、気配なく立ち去る東の背中を見送ったオキは、再び資料を開いた。

 しみじみとあるページを見つめて、東とは逆方向に歩き出した。

 この資料の気になる部分の意味するところを、深く考えてくれる人物に連絡を取ることが、一番初めの作業だった。



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