演出? のお仕事
それが起こったのは、遮断機が下りきった踏切内の線路の上、だった。
その日、急いで踏切を横切ろうとしたある母親がよたよた歩きでおぼつかないものの、懸命に歩く子供の手を引いて歩いていたのだが、それがこの出来事の発端になってしまった。
おぼつかない足取りで、踏切内に入った子供の足が、線路のわずかな隙間に入り込んでしまったのだ。
その瞬間鳴り響いた警報機に、飛び上がった母親は焦って子供の足を引っ張ったが、うまい具合にはまり込んでしまったらしく、引き抜けない。
混乱してなかなかわが子を助けられない母親の心が伝染してしまったのか、べそをかき始めた子供と、助けを求めて周囲を見回した母親は、線路の振動とともに巨大な鉄の塊をその直ぐそばで迎えることになった。
この都市は素通りする列車が目の前に迫り、轟音のみが耳に響く。
そして、警報機の音だけが周囲に残った。
「……おい」
ふいに、ぶっきらぼうな言葉遣いの、のんびりした声が母親にかかった。
知らず閉じていた目を開け、すがりつくように抱きしめていた子供を見下ろした母を、幼い目がきょとんと見上げている。
全く知らない声の主を探して顔を上げると、そこに一人の若者が立っていた。
何かの陰から見える日の光の逆光で、シルエットがはっきりとして男とわかるが、十代後半に見えるその体格は、この国でも男としては小柄だった。
短めの黒髪なのに乱暴かつしっかりと後ろで束ねたその若者は、見上げた女を見ないまま言った。
「一分だけ止めといてやる。さっさと子供を連れて、行け」
そう言われて、母親はやっと気づいた。
日が遮られている訳を。
若者が手を添えている大きな物体が、太陽の光を遮っているのだ。
時々耳障りな機械音を立てるそれは、線路の内側で立ち往生する母子の前で、ぴたりと止まっていた。
「……」
目の前のことが信じられず、動けない女の目の先で若者はため息を吐く。
「……ったく、オレは何をやってるんだっ。厄介ごとから逃げてる最中のくせに、人助けかっ? つくづく、らしくないっ」
自嘲気味に吐き捨て、まだ固まっている二人を見下ろした。
その目と目が合い、どきりとした母親に若者が吐き捨てた勢いのまま怒鳴った。
「早くしろっ。次の列車が来たら、もう知らんぞっ」
びくりとして頷き、それでもまだ夢のように感じて女はのろのろと動き始めた。
先ほどできなかった子供の足を溝から引き出す作業を再開したのだが、夢うつつの今の状態では余計にうまくいかない。
焦れた若者が再度怒鳴ろうとする気配に首を竦めたとき、助けの手が添えられた。
母親の手を、透き通るような白い手が、軽くたたいた。
「落ち着いて。引っ張るだけじゃあ、その子が痛い思いをするだけだ」
先ほどとは別人の、無感情な声がそう言い、その声の主がその場に膝をつく。
顔を上げた母子が、二人とも思わずぽかんとその容姿を見てしまった。
手と同じくらい白い顔の、美少年といっても言い過ぎではない、そんな若者がそこにいた。
くせのない薄色の金髪を短くしているその若者は、子供すら見とれているのに気付いていないのか、全く自然に女に手を貸し始める。
それをちらりと見た黒髪の若者が列車に手を添えたまま、首を傾げた。
「お前、こんな所も放浪しているのか? ここで鉢合わせは珍しいな」
それを受ける方は、顔を伏せたままだ。
「あんたは珍しく人助けの最中か。あんまり珍しかったんで、思わず来てしまったんだ。蓮を撒いてる最中なのに」
「蓮? お前もか。……絶対そうだと思って逃げたんだが、お前を巻き込もうとする位だから、相当の厄介ごとらしい。逃げて正解だったな」
一人頷いている若者に、ようやく顔を上げた若者が問いかけた。
「そう思うなら、何でこんな所でこんなお節介やってるんだ? あの人、まだ追いかけて来るぞ、珍しく怒ったみたいで」
「あいつを無闇に怒らせるな。ただでさえ厄介な奴だというのに、余計厄介だ」
「うん。普段なら、あれで怒らないんだけどな……」
言いながらも顔を上げながら立ち上がっていた若者は、仕草でまだ座り込んでいる母子を促して立ち上がらせる。
それを察して黒髪の男は少し身を引き、呟くように言った。
「まあ、別にさしたる理由はないんだが……強いて言えば、目と鼻の先で血生臭いことが起こるのは、後ろめたかったんだろうな」
他人事のような、先ほどの問いへの回答に、踏切の遮断機を下からくぐって母子を線路から避難させていた若者は、笑いもせずに頷いた。
「まあ、そんなところだとは思ったよ。あんたなら、その目と鼻の先で何かが起こる前に、逃げる方を選ぶはずだというのは、この際考えないでおいてやるよ」
「ほっとけ」
線路内の若者が言った直後、轟音が起き、列車が通り過ぎた。
その巨体の起こした風と音が去った後、母子は踏切の外に取り残されていた。
傍にいたはずの金髪の若者も、線路内にいたはずの黒髪の若者も、消えている。
今起こったことは、夢だったのか……ぼんやりと座り込んでいる母親と、線路内で脱いだ靴を傍らに見つけ、おぼつかない手つきで持ち上げた子供の方に、踏切の向こう側から小柄な若者が走ってきた。
先ほどの二人より少し年少でさらに小柄な若者は、全力で走って来たのか、今時珍しいほど長く伸びた黒髪を束ねた背中を揺らし、肩で激しく呼吸をしている。
母子の傍で立ち止り、息を整えながら言葉を吐き出した。
「くそっ、滅多にねえチャンスを、思わず見送っちまったっっ」
意味不明の言葉をぼんやりと聞き流し、母親は子供に急かされるままに靴を履かせてやり、立ち上がった。
子供のズボンの砂を払ってやり、その手を取って歩き出す。
その背を、立ち尽くしたまま小柄な若者が見送った。
短気は損気。
その言葉が身に染みる現在の状況を、蓮は母子を見送りながらしみじみと噛みしめていた。
いつもなら素通りできる行動や言葉でも、その時の事情や心境で反応が違ってしまうのは、人という生き物としては当然の話だ。
だから、相手がその時々で捕まらないのも当然なのだが……。
今日の自分は、短気だ。
冷静になった頭で、蓮は自分をそう評価した。
いつもなら、こんなことにはならない。
今日、蓮はある男に呼び出され、仕事を頼まれた。
緋色の髪と翡翠色の瞳の外見を名前の漢字に当てたその男は、極々普通の護衛じみた仕事を持ってきた。
しかし、勘の良さには定評のある蓮は、緋翠の背後で動く人物の陰に気づいた。
その人物と係わるというだけでも厄介だと考えて断る気配を見せた若者に、緋翠は痛い所をついて嘆いて見せる。
考えさせてくれと逃げて来るのが、精一杯だった。
断る気は充分にあるが、その後の男との関係が拗れると厄介で、途方に暮れていた。
実は、あの男と初めて会ったのは、ごく最近だ。
こんな小さな若者を息子と紹介されて向こうも戸惑ったろうが、突然引き合わされた蓮も、どう接していいのか分からずこれまで来ていた。
真剣に悩みながら街中に出た蓮は、本当に偶然、あの二人を見つけたのだった。
両者別な場所で、全く別方向を向いているが、距離を考えると互いの存在には気づいている、そんな距離感の位置に、二人はそれぞれいた。
黒髪の若者は、ベンチに腰かけて細長い白杖を抱え込み、珍しく何か考え込んでいるようだった。
金髪の若者は、時計塔の傍の街灯の下に立ち尽くして、無感情に携帯機器を操作していた。
話し相手にもってこいの二人で、思わず安堵のため息を吐いた蓮の目の先で、黒髪の方が動いた。
不意に顔を顰め、故意に顔を背けて立ち上がり、逆方向へ足早に去って行く。
相変わらずの露骨な反応に、蓮は思わず苦笑した。
面倒事には、最初から係わらない、それがあの黒髪の若者の方針だ。
仕方ないともう一人に目を向けると、こちらは表情も変えず、自分に背を向けて立ち去ってしまう。
これもいつもの事なのだが、蓮は思わずそれでカチンと来てしまったのだ。
大体、自分が人を頼る時は厄介な物事を持っている時だから、それを知る若者は手持無沙汰でない限り、逃げてしまう。
いつもなら、仕方ねえか、で済ますのだが、今日は違った。
真剣に悩んでいる上に、金髪の若者とは実に三年顔を合わせていなかった。
だから、懐かしい気持ちも少しはあったのだが、相手の方はそんな心情をあっさり無視して走り去ってしまった。
今思うと、それが一番カチンときた理由だったが、ともかく蓮は思わず我を忘れて追いかけてしまったのだった。
いつもなら、逃げ足の速い相手にすぐ撒かれてしまうか、向こうが今自分の持つ用件との優劣を考えた後足を緩めてくれ、すぐに捕まえられるかの決着がつくのだが、今日は違った。
何の前触れもなく、追いかけていた若者が立ち止ったのだ。
蓮の目線の先で、若者は僅かに目を丸くして、踏切の方を見ている。
そして、表情に呆れを滲ませながら、ゆっくりとそちらに向かって行った。
珍しいその行動の隙に間を詰めようと足を速めた蓮も、そこの珍事を見つけて立ち止ってしまった。
警報機が鳴り響く中、踏切内の線路で、意外な人物が立って列車を止めているのが見えたのだ。
思わず呆気にとられ、線路内にいた母子らしい二人を、金髪の若者が促して向こう側の踏切を潜り出、列車が轟音を立てて走り過ぎるまで、蓮はそのまま立ち尽くしてしまっていた。
目の前を列車が横切った時、我に返って踏切に近づいて線路を渡ったが、二人の姿はなかった。
呼吸を整え、母子の背を見送りながら、蓮はしみじみ思う。
今日の自分は短気で、確かに頭の冷静さは欠いていた。
だが。
蓮はいつの間に手にしていたのか、右手にある自分の携帯電話を開きながら、にやりとした。
さっきの二人の行動をつぶさに撮った動画が、そこにあった。
長年の経験が、頭で考えるより、手を無意識に動かしていたのだ。
良心は、こんな盗撮まがいな行為するもんじゃないと言っているが、そう思うのなら無意識でもこんなもの撮るはずがない。
心の葛藤はすぐに打消しながら、蓮は誰にともなく呟いた。
「結構うまく撮れてんな。このまま週刊記者に売っちまうか。それとも、ネットで流しちまうか」
合成ではないが、どちらにしても信ぴょう性を論議されそうな代物となるだろう動画入りの携帯機器を持つ蓮に、先に近づいたのは黒髪の方だった。
女が現実味を忘れるのも、無理はない。
今は不機嫌に細められた目の瞳の色は恐ろしく薄く、視力がないために白くなった瞳孔が、更に瞳の色を薄く見せていた。
基本的に優しいこの若者は、どんなに怒っていても知り合いである蓮に、力づくで来ることはない。
来るとすれば……。
蓮は、迫りくる気配を避けながら、携帯電話を守った。
横合いからの不意打ちを避けられた金髪の若者は、小さく舌打ちして蓮を睨んだ。
その、瞳孔と変わらない黒々とした瞳を見返しながら、蓮は冷静に言った。
「悪いな。こっちも、手段を選ぶ気がなくなっちまった。出来れば、話くらいは聞いて欲しいんだが?」
二人は黙ったまま蓮を睨んでいたが、先に目を逸らしたのは黒髪の方だった。
深々と息を吐いてから、口を開く。
「場所を変えるぞ。この辺は、そろそろ通行量が増える」
「……」
まだ隙を伺いながら、金髪の方も頷く。
蓮も頷いて二人に続いて歩き出しながらも、警戒は続けていた。
返事もなく、脅迫にも屈していない。
自分の出方次第で、逃げられる可能性はいくらでもある。
表面上は不敵に笑いながら、蓮はこの後どう話を進めるか、考え始めていた。
何なんだ、これは。
たった今、注文されたコーヒー三つを客三人に出した喫茶店のマスターは、カウンター内に入りながら身を縮めた。
入って来た三人の内、二人は時々来る客と常連の客だったが、今日は二人共軽い会釈のみで黙ったまま店の奥に行ってしまった。
いつも愛想がいい人たちではないが、今日は剣を帯びている気がする。
残りの一人は、初めて来る客で、自分にも愛想よく会釈して二人に続いて奥へ歩いて行った。
どうやら、険悪な空気の原因はこの初対面の客のようで、マスターから見ると命知らずにも不敵な笑みを崩さない。
マスターが知る限り、この二人を怒らせて平常心を保てるものはいなかった。
だが、二人より少し年少に見えるその若者は、全く怖じける様子は見えなかった。
内心感心しながら、我関せずの姿勢を作ってグラスを磨き始めたマスターは、視線の端で初対面の若者が携帯電話を手元で弄んでいるのを見ていた。
「まさか、こんなもんを撮る隙を作ってくれるとは、オレも思ってなかったぜ」
「……」
楽しげに言う若者とは対照的に、向かいの黒髪の若者は苦々しく舌打ちした。
何も言わない隣の若者の代わりに、金髪の若者が無感情に、しかし目だけは相手の隙を伺いながら低い声で返す。
「しばらく会わない内に、あんたに盗撮癖が出来てたなんて、私も知らなかったよ」
「んなもん、あるかっ」
これにはむっとしたらしく、若者は言った相手を見据える。
「キョウはともかく、お前まで一目散に逃げやがるから、思わず撮っちまっただけだろうが」
その目を見返して、金髪の若者はゆっくり首を振った。
「私も仕事が入ってるんだ。そっちには係われない」
その答えに、相手は懐疑的な目を向けた。
「その割に、あんな場所でのんびりしてたじゃねえか」
「ロンと待ち合わせ中だったんだよ」
根が正直な若者の答えに、小柄な若者が目を見張り、代わりに鏡と呼ばれた若者が、目を丸くして隣に顔を向けて尋ねた。
「何だ、お前の方も厄介な仕事なのか? その状態で危ういほどに?」
「出来ないほどではないかもしれないけど、厄介な依頼なんだ」
「ほう」
仕事の内容にまで興味を抱かず頷いた鏡の向かいで、幼い若者が顔を曇らせた。
「そうか。まあ、元々、仕事を手伝ってもらうつもりでも、なかったんだけどな」
呟いた声に、向かいの二人が顔を上げ、若者を睨んだ。
「こら、レンっ」
「あんたな、だったら、どういうつもりでそんなもの撮ったんだよっ?」
「さっきも言っただろうがっ。思わず撮っちまったって」
「思わずっ? お前なあっ」
「元々は、厄介な仕事をどう断ればいいか、相談したかったんだよっ。なのに、あんたはともかく、こいつまで逃げやがるもんだから……つい」
「ついって……今までだって、無理なら逃げてただろっ。何で今日に限って・・・」
鏡が隣に怒りを向ける前に、向けられかかった若者が反論すると、蓮と呼ばれた若者は天井を仰いだ。
「それは……まあ、心の余裕の有無の問題で、思わずカチンってな」
その様子を見て、金髪の若者は肩の力を抜いた。
「……珍しくしつこいから、おかしいとは思ったけど、そこまで余裕がなかったのか」
力なく呟く若者の前で、蓮は携帯電話を操作した。
「動画はこれが一件だけだ。今消す」
脅迫材料をあっさりと消去するさまを見て、マスターは少々残念に思いながらも、興味のない振りをしていた。
「あんたをそこまで困らせる仕事か。どんな仕事なんだ?」
無感情な声で切り出した若者の隣で、蚊帳の外になったはずの鏡も頷き、話くらいは聞いておこうという姿勢でいる。
いつもの声に促されて、蓮は話し出した。
蓮という若者は話すことに集中して、鏡もいつものように相槌を打っている。
金髪の若者は目を伏せて眠っているように見えるが、それでもマスターは慎重に眼鏡を定位置に戻した。
話に耳が向いてしまうのを、必死でこらえての動作だ。
興味はあるが作業を続けるマスターの様子を気にせず、話し終えた蓮はコーヒーを啜った。
そのまま相手の言葉を待つ若者の向かいで、鏡が目を伏せたまま黙っている隣の若者を、肘で小突いた。
「おい、お前の仕事とやら、先送りは出来んのか? せめて、掛け持ちで出来る物ではないのか?」
「キ……キョウ?」
一瞬間を置いた呼び掛けが、この蓮という若者と鏡の付き合いが、短いものではないと言っていた。
相槌は、鏡の癖、だ。
その相槌のお蔭で、話はするすると出来てしまうが、鏡本人は条件反射でやっているだけで、話の内容は聞き流してしまっているのだ。
いつもなら、半分も内容を理解していないはずなのに今日は違うようで、それだけでも驚きだというのに……。
「何だ?」
聞き返した鏡に、蓮が恐る恐る尋ねた。
「まさか、仕事を、手伝ってくれる、のか?」
「ああ。構わんぞ」
マスターがカウンター内でグラスを取り落し、カウンターテーブル上に落ちたグラスの音と、蓮が思わず立ち上がる音が重なった。
勢いが過ぎて、椅子が派手に倒れるのに構わず、蓮は喚くように言った。
「あんた、正気かっ?」
遠慮の見えないその物言いに、慌ててグラスを拾ったマスターは目を丸くしたが、構う者はいない。
怒る様子もなく、鏡はいつも通りのんびりと返した。
「正気でないなら、何だという気だ?」
「当然のこと、聞いてんじゃねえよっ。気が違っちまったんじゃねえのか? さっきの踏切の件と言い、何か変じゃねえか」
話が見えない問いに、鏡は重々しく頷く。
「ああ。あれは、我ながら変だった。自覚はある。だから正気だ」
「いや、自覚があるから正気と言われてもな。一体どういう風の吹き回しだ?」
「別に・・・」
当然の問いに、鏡は少し躊躇ってから答えた。
「出来れば、一時身を隠した上で、この地を離れたいのだ。それをするにはここでの守備を広げ過ぎて、オレ自身だけでは収集しきれない。金がなさ過ぎてな」
「・・・何か、あったのか?」
椅子を立て、座りながらの問いにただ頷く若者をしばらく凝視してから、蓮は頷いた。
「そうか。助かる」
「その仕事、赤毛が係わっているのだろう?」
「本当によく聞いてたな。ああ、あの人が持って来たんだ」
「あいつが係わる仕事はろくなもんではないが、その分、どこからでも搾り取ろうと思えば搾り取れる場合がほとんどだ。だが、オレとお前だけでは、あの赤毛がどんな企みをしているか先読み出来ん分、成功確率は三分の二にしかならん。どうせなら、確実に成功したいだろう?」
「ああ。オレもそう思う」
頷いた蓮は、先ほどから話に加わらず、目を伏せたままの若者を見た。
「おい、セイ」
呼び掛けながら右手をテーブル上に滑らせ、流れるような仕草で添えつけの灰皿を取り、呼び掛けた若者の頭を攻撃した。
容赦の一かけらもない一撃に、マスターはぎょっとしたが、蓮は構わずきっぱりと言った。
「寝てねえで、答えろっ」
流石にテーブルに突っ伏したセイと呼ばれた若者が、身を起こしながら文句を言う。
「……あんたな、店の備品で、何てことするんだっ?」
「うるせえっ。お前はこの位しねえと、返事もしねえじゃねえかっ……て、灰皿の方が変形しちまったぞっ。お前、弁償しろよっ」
「自分で勝手に使っておいて、何言ってるんだよっ。板金を加工した百均で売ってる奴なんだから、それくらいあんたが弁償したらどうだっ?」
その言葉に、蓮はきっぱりと返した。
「分かった。その辺の金の話はお前に任す。それより、話を戻すぞ」
あっさりと話を戻す蓮に、連れの二人は慣れているらしく、呆然としているのはカウンター内のマスターだけだ。
それでも溜息を吐きながら、若者は先の言葉に答えた。
「寝てないよ。話もちゃんと聞いてたけど、話を聞いて相談に乗るだけでいいんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったんだけどよ。この人が珍しくやる気になってんだぜ。百年に一度あるかないかの偉業に、箔を付けねえ手はねえだろ」
しれっとしてコーヒーを飲む鏡を見ながらの言い分に、セイもそちらを一瞥してから言った。
「そうだな。やってみようか」
鏡がコーヒーを口から吹いた。
勿体ないとは言えない。
マスターの手から落ちたグラスが、今度は床に落ちたのだ。
慌てて拾って無事を確かめるマスターと、激しく咳込む鏡に構わず、蓮は身を乗り出してセイの額に手を当てる。
「お前、どっかで頭でも打ったか?」
「打ったというより、打たれただろ、さっき。自分で持って来た話を受けた相手に、よくそこまで言えるな、あんたは」
眉を寄せる金髪の若者セイは、根は頑固だが事によっては意外にぽっきりと折れてくれるのだが……。
「お前が、一度は断った話を、全く渋らずに受けるとは。世紀末はまだ先なはずだが、何かの前触れかもしれんぞ」
ようやく何とか立ち直り、少し咳込みながらしみじみと言う鏡の言葉に、全く持って同感だった。
しかし。
「ちょっと待てよ。何であんたにまで、そこまで言われるんだっ?」
思わず反論したセイの続く言葉にも、マスターは共感できた。
「あんたはどうなんだよ。ろくに逃げもせずに、いつもなら聞き流す話もしっかり聞いて理解した挙句、少しも嫌がらずに受けるなんて。カスミあたりが聞いたら、この星を出る算段をし始めるぞ」
「……それは、もしかして、オレの方が、お前よりも変だと言っているのか?」
どんよりと問う鏡に、相手もどんよりと返す。
「自覚がないとは、驚きだな」
「なるほど。お前とは一度、きちんと白黒つけないといかんらしいな」
不毛な言い合いで、険悪な空気が店内に漂い始めてしまった。
先ほどより物騒な空気を、あっさりと笑って蓮が散らした。
「やめとけよ。どっちがより面倒臭がりかなんて、比べて何の意味があるんだよ。第一どう張り合う気だ?」
「楽そうな争いになるな」
少し考えて答える鏡に苦笑し、その隣の若者に目を移した蓮は、話を戻した。
「で、何で受けてくれる気になった? それなりの理由があるんだろ?」
機嫌を戻した隣の若者とは逆に、セイはどっと疲れたらしく、げっそりと答える。
「やっぱり、やめとく」
「もう遅えよ」
「そうだ、もう遅い。一度受けたんだ。もう引き返せんぞ」
「最初は断っただろっ」
「それはそれ、これはこれ、だ」
普段は単独で動く二人だが、連携すると相手としては厄介らしく、セイはため息を吐いて反論を試みた。
「あのな……」
「話を逸らそうとしても、無駄だぜ。分かってんだよな、セー?」
言いかけた若者を遮り、蓮が笑った。
幼さの残る顔が、一切そのあどけなさを消し、物騒にも見える笑みだ。
その表情に慄いてというより、図星を指されてたじろいだセイは、目を伏せてため息を吐いた。
「ちょっと、都合がいいかなと思ったけど、よく考えたら、あんたらと一緒じゃあ、逆に大変だから、やめとく」
「どう都合がいいんだ? ちゃんと話して見ろ」
「蓮、頼むから、自分事に集中してくれ。多分その仕事、カスミが絡んでる」
「そう思うなら、何で手伝ってくれねえんだ?」
「二人揃えば充分だろ」
「充分なものか。あの馬鹿親父が絡んでいるのなら、お前も絡めっ」
「冗談じゃない。こっちも……」
あんまりな言い分に反論しかかった若者が、突然口を閉じた。
向かいの若者がその不自然な沈黙に眉を寄せ、再び身を乗り出す。
「おい」
呼びかけに顔を上げた相手を見据え、蓮はきっぱりと言った。
「吐けよ」
「……」
「その状態で危うい何を、お前は引き受けたんだ?」
見返したまま逸らせない視線を受け、セイは重い口を開いた。
重い口ぶりながらも、自分の話を始めるセイにマスターは驚いたが、その内容にも驚いた。
話し終えたセイに頷き、鏡が笑った。
「なるほどな、そういう仕事か」
「確かに、オレの方の仕事は都合がいいな」
納得して言う蓮は、軽くセイの頭を叩いて姿勢を戻すと、もう一人の若者を見る。
鏡も頷き、考え込みながら口を開いた。
「しかし、まずいな。あの馬鹿親父が絡んでいる話だとしたら、出し抜くのは難しい」
「ああ。だから、最悪、あんたかこいつを引き込めねえようなら、断ろうと思ってたんだ」
「オレじゃあ役不足だ。あの親父の変さ加減は、並ではない。お前がそこまで感じたのなら、なおさらこいつを引き込んで正解だ」
「だから、あいつと一緒くたの、変人扱いはやめてくれ」
蓮と頷き合う鏡に顔を顰めたセイだが、声には力がない。
そんな若者に、盲目の若者は平然と言う。
「褒めたんだが」
「本当か?」
疑わしいその言い分に疑いの目を向けつつも、何とか自分を取り戻し始めたセイは、表情を戻して首を傾げた。
「でも、カスミを出し抜けというなら、もう手遅れだぞ」
思わず、カウンター内で固まったマスターに構わず、鏡も頷いた。
「そうだな。まあ、それは、仕方あるまい」
「? 何だ? 話が見えねえんだけど?」
「それは、後だ」
話が見えない蓮にはそう返し、セイは話を戻した。
「出し抜くのは手遅れだけど、この後あいつを引かせる手なら、ないこともない」
「本当か」
「ただ、今の段階で引かせるにしても、これまででカスミの計画が実行されているかもしれない」
「されているだろうな。あの赤毛が、蓮をそこまで悩ませる話を持ち出せるわけがない」
「そうなんだよ。あの人が持ってくる仕事ってだけなら、やりやすいんだ」
しみじみと頷く若者に、セイは続けた。
「だから、その計画を出来うる限り予想して、それの上を行く計画を考えるしかないな」
「ああ。頼む」
真面目に頷いた蓮に頷き返し、セイは不意に声を改めた。
「じゃあ、話を深く進める前に……」
無感情のままなのに何かの含みを感じるその声音に、マスターがそちらに目を向けると、無感情な黒い瞳がその目を見返していた。
ぎょっとして後ずさり、思わずグラスを取り落すマスターを見て、セイはゆっくりと笑みを浮かべたが、その目は全く変わらない。
背後の食器棚にへばりつく喫茶店の店員に目を向けたまま、セイは言った。
「口封じをしておこう」
悲鳴は、上げられなかった。
この話は、フィクションである。
「まあ、言われるまでもないことだな、これは」
脚本の原型になる原稿のコピーの冒頭を読み上げ、金髪の若者が穏やかに笑った。
そこに居合わせているレイジも、言われるまでもなくそれは分かっている。
雇主に紹介された後、堅苦しい豪華な昼食を一緒に済ませ、レイジは現在顔合わせしたばかりの三人と、雇主のお供で来た赤毛の男から渡されたそれを読んでいたところだ。
レイジはそのコピーの束に真面目に目を通していたが、他の二人は金髪の若者に音読させる気でいるのか開いてもいない。
それを不服とは思わないのか、金髪の若者は一通り目を通してからまず冒頭を読み上げたのだった。
十代の後半に見えるその若者は、この国の言葉を全く訛りなく話し、昼食の席でも無口な二人の代わりに愛想よく受け答えしていた。
色白の完璧に整った顔立ちは、無骨な眼鏡がなければ、レイジと同じ裏方よりこの物語の主人公を張っても不自然でないように見える。
セイ、と名乗った若者は、ゆっくりと左手でページを捲り、黒縁の眼鏡の縁を指で押し上げた。
「ジャンルは何になるんだ?」
気楽、かつ乱暴に問うのはセイと同じくらいの年恰好の女だった。
こちらも、日本人の娘としては美人の域なのに、その乱暴な口調とどこか茫洋とした目線が印象を曖昧に変えてしまっている。
不揃いな黒髪を乱暴に掻きながら問う娘は、ヒビキと名乗った。
「一応現代もの、だな。簡単に言うと」
本当に簡単にまず答え、セイは詳しく説明を始める為、少しコピーに目を走らせた。
「だが主役は、安土桃山時代、つまり、戦国時代の有名な武将だ」
「は?」
興味なさげに聞いていた、もう一人の若者が間抜けな声で返した。
他の二人より更に若い十代半ばに見える、レンと名乗った若者だ。
小柄で童顔な上に、腰まである黒い髪をしっかりと後ろで束ねていたから、レイジは実際に話すまでヒビキと性別を逆に取り違えていた。
無感情で昼食の場でも殆んど口を利かなかった若者が、眉を寄せてセイを見る。
その目を見返して首を傾げながら、セイは続けた。
「天下統一を目の前にして、命を落としたとある武将と、その側近たちの話を、そのまま現代の話にしている」
「どういう意味だ? まさか、その死にざまを、現代に置き換えてやるってんじゃねえだろうな?」
「そうらしいが、少し解釈が違うな」
「?」
「その武将は部下の下剋上で、とある場所にいるところを襲撃されたことになっているが、その部下がそこまでするに至った動機は未だ謎となっている。だがこの話では、その武将は討たれていない」
「? 生き延びたってのか?」
「それも違う」
穏やかに笑ったまま、セイは答えた。
「そもそも、問題の場所には行かなかった。いや、行けなかったんだ。すでに、病死していたがために」
「……」
無感情なレンの表情が、僅かに引き攣るのを不思議そうに見ながら、金髪の若者は続けた。
「自分が病弱で先が短いと分かっていたとある武将が、死ぬ気で考えた国の在り方に同調していた部下やその周囲の武将、支え続けてくれていた他の側近たちの力を仰ぎ、自分の死を利用した手っ取り早い国の取りまとめの計画を実行した結果が、あの襲撃になった、と」
あんぐりとした小柄な若者の横で、ヒビキは少し考えて口を開いた。
「その武将の死体が出なかった謎に、引っかけてんのか?」
「そうらしい。出なかったのは、すでにその時には病死して、とある寺に弔われていたせいだ、と。あの下剋上と世に知られる襲撃は、側近たちの殉死の場だった」
新鮮な、というより、突拍子のない説だ。
「……脈絡がない話だな」
それを、無感情に口にしたのは、レンだった。
「オレもその武将の事は良く知らないけど、聞いたことはあるよ。随分酷いことした奴らしいじゃないか?」
言葉を受けてレイジが頷き、学校に行っていないらしい三人に説明した。
「日本の歴史上の人物の中では、残虐なのではと思われる所業を学校では習いました」
「鳥を使った句位なら、話に聞いたことあるな」
「はい。三人の武将の性格をよく表していると解釈されています」
鳴かぬなら……で始まり、野鳥の名で終わる、名だたる武将三人が詠んだとされる、有名なものだ。
鳥の事は詳しくないレイジに代わり、セイが説明した。
「地味な鳥だ。姿や踊りで求愛する鳥ではない。鳴き声でメスを惹きつける鳥の方だ」
だから、当時はその鳥を献上品として貰うこともあったのだろう。
「その三人の武将が、同じ鳥を前に詠んだのか、全く別な場面で詠んだのか。想像する気もないが……」
レンを見返し、セイはまた首を傾げた。
「それで量れる性格が、正確とも思えない。そもそも、この句で残酷だのという結論が出る方が、私には不思議だ」
「ですけど、殺すという言葉を口にするほど短気だったという事は、事実では?」
レイジは思わず反論してから、現在の日本人の中にも、よく口走る者がいるのを思い出したが、昔はそうではなかったのだろうと思い直す。
その一連の考えを見透かすように凝視したまま、セイはゆっくりと返した。
「昔の人間が、どの程度で性格を量っていたのかは、私も知らない。だが人によっては、慈悲の心でその言葉を口にする者もいたのでは、と思ったんだ」
「慈悲?」
「ああ」
ヒビキが納得の声と共に頷いた。
「例えばその鳥が、年老いていて鳴けなくなっていた場合、鳴けなくなったオスは、生きている意味がねえな」
そこまで深読みするか、と内心呆れる男に構わず、女はセイに問いかけた。
「お前はその三人の中で、誰が一番残忍な男だと思う?」
「考えようによっては全員だな。じっと待たれても鳴けないものは鳴けないだろうし、何が何でも鳴かせるのなら、悲鳴でもいいわけだ。誰が一番残忍なのかは、時代の考え方で変わるものだろ」
身もふたもない答えを出し、若者は話を戻した。
「時は、未来の日本。国が荒れ、領地を巡って軍人たちが再び力をつけ始めたという設定だ」
「笑えねえ」
げっそりと呟くヒビキと、頭を抱えるレンに構わず、セイは続けた。
「その中で、日本の未来に危機感を抱き、再び一つにまとめることを夢見た男がいた。それが……」
「その武将ってことか」
雇主の女監督も、脚本を書いている男も、よその国の英雄的な武将をそのまま使うことに、全く頓着していないようだ。
「頓着してちゃあ、話なんざ作れねえだろうな」
日本人として、その事に少し思うところがあったレイジは、その心境をヒビキにすら見透かれてしまったらしい。
自分を見てにやりとする女に首を竦め、通訳とその他雑用で雇われた男は咳払いをした。
「登場人物は、その武将と下剋上を実行したとされる部下、後の二人の天下人、その他、彼らを取り巻く武将や側近など」
セイは、その他脇役を次々と読み上げた後、少し間をおいて続けた。
「映画の定番として、何個か、らぶろまんす的なものも、用意される予定らしい」
レイジは首を傾げた。
今の言葉の中で、やけにぎこちない単語があった。
その部分が分かっているらしい二人が、それぞれ笑った。
「お前な、定番な上に、それが見どころの映画が多いのに、それを演出するお前が懐疑的のままってのはどうなんだ?」
呆れた笑いでヒビキが言う傍で、レンが苦笑する。
「まあ、オレも、恋愛沙汰に詳しいわけじゃないから、気持ちは分かるけど」
それにセイが、目を丸くして返す。
「そうなのか? 私はこの手は分からないから、あんたに任せようと思っていたのに」
「オレも同じだ。女と付き合ったって言ったって、殆んど相手の勢いに押されてだし。お前もそんな感じだろ?」
「私は付き合った事すらないし、相手は女の人ですらなかった」
平然とそんな会話を交わす二人に、ヒビキが顔を引き攣らせた。
「こらっ。そういう話は、もう少し遠慮して話せっ。通訳の坊主が引いてるぞっ」
引き合いに出されたレイジは、引いてはいなかった。
また、変な人と知り合いになってしまった、と内心嘆いていただけだ。
自分より、むしろ引き合いに出した娘の方がその手の話題に抵抗があるらしく、血相を変えている。
そんなヒビキを、他の二人はしばらく見つめ、セイが頷いた。
「そうか、一番年長のヒビキなら、その手の事に詳しくても不思議じゃないな」
「まあ、年長者がそうだと決めつけるなら、そうかな」
「こ、こらっっ、待てっ」
あっさりと話が落ち着きかけ、たまらずヒビキが叫んだ。
その声を受けて再び娘に顔を向けた二人が、声を揃える。
「何だ?」
「い、いや、あのな……」
面と向かっての問いに、しどろもどろになってしまったヒビキを、暫く首を傾げて見ていたセイが、不意に言った。
「選んだ役者に、任せるか」
演出者としてあるまじき言葉に目を見張るレイジの前で、ヒビキがすかさず頷いた。
「そうしろっ。役者ってのは、そういう修羅場をいくつもくぐっている奴が、多いはずだからなっ」
「まあ、無責任すぎる気はするけど、仕方ないか」
レンも溜息をついて賛成し、役者丸投げ論はあっさり成立してしまった。
この人たち、大丈夫なのか?
ただの通訳で雇われたレイジが不安げにしている内に、一通り話を終えたセイが姿勢を正した。
「ヒスイさんから話は行っているとは思いますが、我々は映画界とは無縁の人間です」
慌てて自分も姿勢を正して、レイジは頷いた。
「普段は、警備のお仕事をしておられるそうですね」
「はい。ここにいるレンに協力を頼まれまして……」
小柄な若者を一瞥してから、セイはゆっくりと言った。
「演出というより、警備の方を重点に考える方が、こちらとしてはやりやすいのですが、役者陣以外の人材には、余り金銭をかけたくないとのことで、無茶を承知での人事なのだとか」
「はい、私もそう聞きました。ただ、監督のローラさんは英国の方で、日本語を含めたアジア系の言葉は分からないそうで、私は仕方なく雇う羽目になったとか、そうおっしゃっていました」
「おいおい、本人にそんなこと言ったのか、あの女」
娘が露骨に眉を寄せ、それに慌てたレイジが付け加える。
「監督に選抜されたお二人です。私は監督に取り入るつもりはないのですが、どうもそう見えたようで……」
「……ああ、あの二人か」
主役二人は、すでに監督によって選ばれている。
スタントなしで動ける中で、見栄えのいい男を選んだと言っていたが、この三人との顔合わせに同席した彼らは、必死で動揺を隠していた。
演出として雇われた者達より、格下の役者、というのも、苦しいものがある。
もっとも、世界の役者の中で、どの位この三人に勝てる者がいるのか、怪しいものだが。
「監督にも言いましたが、明日の最終審査では、危惧される妨害にも屈しない、図太い神経の役者を選ばせていただきます」
もう少し言葉を選んでほしいが、セイは監督にもこの言い分で最終審査での選抜権を勝ち取った。
通訳の自分を通さずに英語で監督と取引したところを見ると、やはり容姿通りの出身なのだろうと思うが、日本語での言葉も遠慮がない。
「容姿は、二の次でもいいでしょう。あの主役二人が、見劣りしてはいけませんからね」
「はあ、その辺りの所は、私にも分からないので、お任せします」
「予定は、審査の結果発表から二週間後より二か月間。撮影と稽古を含んでの期間と聞きました。我々も初めての仕事となりますので、多少他の方々と違うやり方になると思いますが、余りお気になさらないで下さい」
「はい。私の方も、映画の撮影は見るのも参加するのも初めてですので」
というより、バイトをするのも、これが初めてのレイジは、曖昧に頷いた。
セイはああ言っているが、三人とも黙っているだけで、その手の業界に係わりはしないものの、一度くらいはスカウトされたことがあるかも知れない。
「……まあ、仕事柄、名の知れた役者のガードは請け負ったことはあるから、撮影現場自体は初めてじゃないよ」
レンが表情を僅かに緩ませ、またまた顔に出ていたレイジの考えに答えた。
「でも、こいつすら、一度もスカウトされたことないんだ」
指をさしての言葉に、さされたセイが首を傾げて返す。
「私は確かにないが……あんたは、断ったことがあるんだろう? つまりは、誘われたことはあるわけだ」
そのやんわりとした指摘に、小柄な若者は首を竦めた。
「何で知ってるんだ? 黙ってたのに」
「ヒスイさんが言っていた。よりによって、アイドル歌手にならないかと言う誘いだったそうだな。即断って、脱兎のごとく逃げたと、ヒスイさんが残念がっていたぞ」
「歌手?」
ヒビキが、吹き出して笑い出した。
「いいじゃねえか、音痴でも音声係が誤魔化してくれる、あれだろ?」
「世の中の歌手が、全員その手だと誤解されそうな台詞は、吐くなよっ」
「でもよ、お前を誘う位だから、その会社は相当それなんじゃねえの?」
軽口を叩くヒビキの言い分に、セイが笑顔で首を傾げる。
「見た目で、音の外れ具合が分かるスカウトマンがいるのか? 私はレンには一度、受け狙いで歌番組に出てほしいと思っているが」
「思うなっ。受け狙いでもお断りだっ」
こんな調子で脱線しながらも話は進み、明日の予定を確認し合った後、今日は解散となった。
最終審査の結果発表は明後日。
その半月後から、撮影現場での仕事が始まる予定だ。
このレイジにとっての初めてのバイトが、今回この仕事を紹介してくれた男の思惑通りに動くか、二度と故郷の地を踏めなくなるかは、今の段階では分からない。
だが、分かれた三人の背を見送りながら、レイジは一つだけ予想できることがあった。
この仕事、裏の事情は脇に置いても、必ず何かが起こる。
相当の覚悟を持って臨まなければ、命がいくつあっても足りない気がして、男は一人身震いをしていた。
東辰巳と名乗る男が、喫茶店「舞」に到着したのは、夕方だった。
現在は差し迫った仕事がなく、もう少し早く着いても良かったのだが、昨日から気になることがあり、今日も未練たらしく町中を探索していて、この時間になってしまった。
未だ、後ろ髪引かれる思いで友人たちとの待ち合わせ場所である喫茶店の、「準備中」の札の下がったドアを開けると、見渡せる広さのカウンター内の男と、カウンター席の男が同時に振り返った。
カウンター内の男、水谷葉太がにこやかに声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
「……」
何やら違和感を感じ、東は無言で会釈してカウンター席に近づいた。
それを見守っていた、葉太の双子の弟、草太が振り返った姿勢を戻しながら声を掛けた。
「どうしました?」
「いや、今、一瞬、お二人が同じ人間に見えてしまって。分身の術、初体験かと思っただけです」
東よりは小柄だが、長身の童顔な男がその言葉に目を丸くした。
「分身の術、見たことないんですか? あなた方なら、やれそうな気もするのに」
苦笑する小麦色の肌の大柄な美男子の東に、席を勧める仕草をした葉太が、弟を窘める。
「そんなはずあるわけないだろ。そんな虚ろな存在を作るより、この人たちはクローンの一人位持っていそうだ」
「どういう認識ですか」
そんな技術も持ち合わせていない東は即座に否定してから、コーヒーを注文した。
「はい、いつものですね」
葉太は笑顔で受けて付け加えた。
「何なら、夕食も召し上がって行きますか?」
「いや、今日はこの後、家に戻る予定で・・・」
「じゃあ、持ち帰りで奥さんの分と持って帰ったらどうです? この後夕飯作るの、面倒でしょ?」
「そうですね、お願いします」
また苦笑して答え、席に腰を落ち着けた男の隣で、草太は兄の手作りパスタを豪快にかき込んでいる。
東が妻持ちで、その妻が病弱で殆んど家事をこなせないと知る水谷兄弟の気遣いをありがたく受け、出されたコーヒーの香りを無言で楽しんでいると、夕食を終えて紅茶を啜っていた草太が、不意に問いかけた。
「巧を見ませんでしたか?」
問いは東に向けていたが、カウンター席の男ももう一人の客と顔を見合わせた。
「河原さんが、どうかしたんですか?」
「先週から休み取ったまま、出て来ないんです」
河原巧は、草太の後輩である。
都会に就職した後、なぜか故郷のこの地に戻った草太も、その後輩の巧も、出世組の刑事だったが、数年の警視庁勤めの後、あっさりと都会の出世の道を捨ててしまった。
そして、現地の刑事たちに交じって地道な調査や、事件を追いかけている。
「何か、気になる事案でも、あったのでは?」
時々、気になる企業や団体に命がけで潜入し、犯罪者の摘発に一役買っているのを知る東の言い分に、草太は首を振った。
「今の所、そこまで詰めた事例はないんです。もう少し確定したものなら、それもあるんですが」
溜息をついた刑事の心配は、別な所にあった。
「もしかしたら、また、あの病気が発症したのではと……」
「病気?」
「こらこら、あれを病気って言い切ってもいいもんか?」
真面目な弟の言葉に葉太は苦笑してから、東に説明した。
「いや、あいつ、時々精神状態が不安定になるんですよ」
「複雑な家庭に生まれたもんだから、元々ぐれ気味だったんですけどね。落ち着いてからこっちも、たまーに我に返って鬱状態になってしまうんです」
何事に対しても後ろ向きになり、母親の事を思って落ち込み、水谷兄弟は見ているだけで気分が暗くなると言う。
「最近は、忙しさもあって、そう頻繁ではないんですけどね、一度そうなったら、立ち直るのに相当の日にちがいるもんで、それで休みを取ってるのかなと」
休んで落ち着いてくれるのならいい。
「でも、時々落ち着く前に本当のどん底に行くことがあって……その時は、自殺の危惧もしてやらないといけないんですよ」
「まあ、うちはそう忙しい地域じゃないですからね。あいつ一人いなくても、仕事の方は変わりありませんが、もしものことを考えると、やはり心配で」
形だけは突き放しているが、やはり心配の方が大きいようだ。
「なるほど」
頷きながらも、東は全く別な人物を思い浮かべていた。
別なことを心配しながらも、水谷の相談への返答をする。
「余りあの人と会う機会はないですが、気に留めておきます。もし、顔を合わせた時は……」
「仕事山積みだから、早く戻れと伝えて下さい」
忙しくないと言った傍からの伝言内容に苦笑しつつ頷くと、草太は立ち上がった。
「じゃあ、オレは上に上がります。お疲れ様です」
挨拶して上の自宅へと、カウンターの奥のドアから向かっていくその背を見送りながら、東は小さく息を吐いた。
持ち帰りの夕食を作ってくれている、葉太の背をしばらく見守り、手持無沙汰でカウンターの上にある夕刊に手を伸ばして引き寄せ、斜め読みし始める。
興味のない記事を目で追いながらページを捲っていたが、ある文面で目が留まった。
『国鉄の運転手、運転途中に錯乱?』
ごく小さな記事だが、この近くの踏切内での出来事だったので、東の耳にも入っていた。
昨日の昼過ぎ、特急列車が踏切内で急停止したと、運転手が報告した。
停止時間は一分ほどで、その後の運行に障りはなかったそうなのだが、停車駅で体調不良を訴えたその運転手は、更に奇妙な出来事を報告したのだった。
その踏切内で立ち往生していた若い母親とその子に気づいたが、ブレーキは間に合わなかったはずだったのに、実際は間に合って母親もその子も無事だった。
混乱気味のその報告に、国鉄の上司は首をひねった。
最近は、不慮の事故や悪戯防止の為に、踏切や線路を映す防犯カメラを設置しているのだが、それには列車が急停止した事実すら残っていなかったのだ。
乗客からの苦情も全くなく、結果運転手の錯乱ということに話は収まり、その運転手は治療次第では休職することになるらしい。
場合によっては、大惨事を招きそうだった運転手に対する処置としては優しいが、東は結果で納得するほど、単純な性格ではなかった。
この地は、少々変わり者の知り合いが多く住み着いている。
東の幼馴染で従弟に当たる男を筆頭に、列車が近づく踏切内で立ち往生している者をあっさりと助けられる知り合いなら、頭に浮かぶ限りでも何人かいる。
まあ、その内の数人は現場に居合わせても、「おや、轢かれるな」だけで傍観するだろうが、他の者は思わず助けに入るだろう。
しかし、あくまでもそれは、立ち往生している者を連れ出す、と言う方法で、だ。
列車を、乗客に障りなく止めると言う方法で、助けられる者は一人しかいない。
だが、その人物は、その現場に居合わせたとしても、行動に移すよりも係わりとその後の惨事を目のあたりにするのを避けるべく、逃げる方を選ぶはずだ。
もし、百歩譲って助ける方を選んだとしても、防犯カメラの映像の件は疑問のままだ。
映像の改竄なんてものを、その人物は出来ただろうか?
あっさりとそれをやってのけそうな者にも、何人か心当たりがあるが、列車を止めた者とそこまで親しい者はいなかった。
他にそれが出来そうな人物と言えば・・・。
東がそこまで考えた時、店の扉がベルと共に開き、来客を告げた。
振り返らない男の隣のカウンター席に腰を落ち着けると、新たな客は東の手元を覗いた。
「随分珍しい行いをしたものだな。世紀末はまだまだ先のはずだが、この星を出る算段を始めた方がいいかもしれん」
真面目に声を掛けたその客を振り返り、東はまず問いかけた。
「いつから宇宙規模の、大袈裟な話が出来るようになったの?」
「昨日、昔の映画を観てからこっちだ」
あくまでも真顔で答えるのは、同年の男だった。
この国のいつの時代にもしっくりと馴染む、長身の真面目そうな男だが、この男の幼馴染で従兄に当たる東は、そんな外見に惑わされることは当然のことながらない。
カスミと名乗っているその男は、ついつい昔の言葉使いに戻る東の言葉を気にすることなく、カウンター内で注文せずとも自分に出すコーヒーの用意を始める、葉太の動きを目で追いながら、真面目に言った。
「最近、シノギ叔父が、この地に落ち着いた」
「あら、どこにおられるのかしら?」
父方の叔父の呼び名に目を丸くした男に、カスミは答えた。
「松本と言う、建設会社の社長を気に入ったらしい」
気に入られた、ではなく気に入った、だ。
大概がその理由で落ち着き先を見つけるが、東はその名前を聞いて顔を顰めた。
「どうして、あの松本を?」
松本建設は、今でこそ堅気の仕事をしているが、その堅気になる為の必要経費は昔からやっていた稼業で稼いだものだったと、噂の域を超えた話があった。
「知らんのか、松本は、昔から古谷の寺の檀家なのだぞ」
古谷の寺とは、江戸の初期からこの地を守る仏教寺の通称である。
「知ってるわよ。昔はぎりぎりの所で堅気の仕事だったらしいわね。今はそれも辞めてしまって、叩いただけじゃあ埃は出ないって話だわ」
それだけ怪しい家柄の社長を気に入った、その叔父の気性を知る東は、話に聞いているだけで顔合わせしてないその男の印象を、少し改める必要を感じた。
それほどに、叔父への信頼は厚い。
「それを、鏡月は最近、人づてに知ってしまってな」
「……それが、原因だっていうの? この、不可解な事件は?」
父方のその叔父と、カスミの最初の妻の連れ子だった鏡月は師弟の間柄だったが、とある事情で弟子である鏡月が師の元を離れ、未だに逃げ続けている。
東もその時の事情は承知しているが、永い年月と共に逃げる若者の気持ちが分からなくなってきている。
それは、当の本人がなぜここまで意固地になって逃げ続けているのか、自身でも分からなくなってきているようだと、顔を合わせるたびに分かるからだ。
呆れる男に、友人で従弟に当たる男は真面目に続けた。
「まあ、ともあれ、手加減までは忘れなかったようで、何よりだな。本当に心非ずであったら、列車は崩壊の上、乗客も無事ではなかったろうからな」
「あの子、映像の改竄なんて、出来たかしら?」
東が引っかかっていた疑問を、カスミはあっさりと否定した。
「出来るはずないだろう。あれは、映像を見ることも出来ん」
「そうよねえ」
師匠と別れる前のある衝突が原因で、鏡月は全盲になっていた。
だから、監視カメラと言うものの存在は知っていても、そこまでの気は回らないだろうし、気づいたとしても、改竄する能力はないはずだ。
あっても、そこまでやるほど慎重な若者ではない。
首を傾げる東の隣で、出されたコーヒーの香りを楽しみながら、カスミはしみじみと葉太の顔を見つめる。
見つめられている葉太の方は、故意にその視線を合わせないようにグラスの手入れに集中していた。
「……」
しばらく、その動きを見守っていた男が不意に小さく笑った。
不審に思う東が声を掛ける前に、またドアに取り付けられたベルが来客を告げた。
「いらっしゃいませ」
準備中の断りを入れるまでもない相手と一瞥で判断した葉太の挨拶に、軽く答えて奥に入って来たのは、二人の男女だった。
「もう来てたのか。早いな」
軽くそう先客に声を掛けたのは、まだ十代の半ばに見える小柄な女だ。
明るい栗色の髪を今は短くして、瞳と同じ水色がかった緑色の小さな石のついたピアスのついた耳を見せるようなカットにしている。
「相変わらず、集めた当のあの人が一番遅いんだな」
不機嫌に言いながら、カウンター席に来る男は、カスミと同じくらいの長身だが、黒づくめの為に色白に見える無愛想な男だ。
連絡を受けた時、久し振りにこの二人と顔を合わせることになるとは知っていたが、男の方は予想以上に不機嫌に見える。
その理由を知る東は、二人に短い挨拶を返しただけに留め、時計を見た。
約束の時間はあと五分後だ。
そう確認した時、再びドアのベルが来客を告げた。
先ほどよりも勢いよく開かれたために、鋭い音になったベルの音を聞き流しながら、大柄な男が店の奥に入ってくる。
見ただけで印象に残る容姿の男だ。
燃えるような緋色の短い髪のその男は、深緑の瞳を輝かせて奥で座っていたカスミに突進した。
「すげえよ、カスミっ。お前、やっぱり、悪巧みの天才だなっ」
飛びつきかねない勢いの男を上手に避け、カスミは真面目に応じる。
「ありがとうございます。ヒスイがそこまで喜んでくれたのなら、悪巧みした甲斐もあったと言うものです」
「あのレンが、あそこまで、やけくそで仕事に参加するんだ、これが喜ばねえでいられるかっ」
手放しで喜ぶ男の言葉に、カスミ以外の客が懐疑的な反応を返した。
「やけくそ? レンが?」
女が眉を寄せ、出されたコーヒーが冷めるのを待っていた男も天を仰いでいる。
「・・・想像できん」
その呟きに同意しながらも、東は微笑んで幼馴染に声を掛けた。
「あのレンちゃんが、そんな珍しい状況になるような、どんな悪巧みをしたの?」
「それほどの企みでもない。ただ、ヒスイに断れないような言い方を教えて、事実断れない事情を用意しただけだ」
裏を取って嘘がばれるようなら、それは失敗だ。
だが、今回集結した理由の事案で、そんな事情が作れるのか。
東は少し考えて、納得した。
「なるほど。映画の撮影なだけに、その映画の内容を快く思わない者の妨害を仄めかしたのね?」
「まあな」
「自由な発想を妨害するのを防ぐ役を、レンちゃんに振った訳ね。断ったらそれこそ、ヒスイちゃんは嘆けばいいものね」
それだけで、蓮の方は後ろめたくなる。
べたなやり方だが、根っからの悪人ではない若者には効果がある。
外見からは想像もできないが、蓮は知り合いの中でも若手ながら、味方なら頼もしく敵なら厄介な相手となる者の五本指に確実に入る人物だ。
この国の戦国の世から今まで生き延びているからには、それ相応の処世術を身につけている上にまだまだ成長を続けているから、表面の事情で安心するわけにはいかない。
手放しに喜んでいるヒスイに苦笑しながら、東はやんわりと言った。
「あなたは、レンちゃんを過小評価してるわね、相変わらず」
「そうか? まあ、確かに奴らを見た時は、焦っちまったが、今回はそうでもねえ気がするぜ」
「奴ら? レンちゃんだけじゃなかったの?」
意外な話に眉を上げた東に、男は説明した。
「昨夜の内に電話で引き受けた旨を伝えて来たんだが、そん時に一人で全員のガードは難しいから、後二人連れて来てもいいかって伺いを立てて来たんだ。問題は特にありそうもねえから、許可した」
確かに、一人で複数の人間を守るのは無理だ。
自然な申し出に頷く一同に、ヒスイは笑いながら言った。
「しかし、あの人選では、心許ないぜ。何考えて、あの二人にしたんだか」
「焦った割に、余裕な台詞ねえ」
「ああ。最初に見た時は、ギョッとしちまったぜ。まさかレンが、セイだけならまだしも、キョウまで引っ張り出して来れたのかと思っちまったからな」
客全員が目を剥き、その中で物足りなさそうにコーヒーを啜っていた黒ずくめの男が、むせて咳込んだ。
「セイだとっ、あいつが出て来たのなら、オレは降りるっ」
そのまま立ち上がり、勢いのままそう言い切ったのは無理もなかった。
男にとって、セイは唯一敵に回したくない人物なのだ。
蓮が仕事の成功率を上げる為にコンビを組むなら、これほど最強な相棒はいないし、個別でも敵に回すと厄介な若者だ。
その上、鏡月まで引っ張り出せたとなると……。
「こら、オキ。早まるんじゃねえ」
東が考え込む中で本当に店を出て行こうとしていた男を、ヒスイは笑って呼び止めた。
「初見ではそう思ってギョッとしちまったってだけだ。話して見たら全然違った。全くの別人だった」
「どういうこと?」
立ち止って振り返る男オキの代わりに問う東に、赤毛の男は笑いを濃くして答える。
「レンは殆んど喋らずに、もっぱら金髪の奴に喋りを任せてたんだが、その金髪、目元が分からねえ程のキツイ度数の眼鏡をかけていやがった。伊達かとも思ったが、脚本の下書きのコピーを読むあの眼の近さは、間違いねえ、ど近眼だ」
黙り込む一同に、ヒスイは軽いノリで続ける。
「それにそいつ、人当たりが柔らかくてな、どいつにも愛想を崩さねえんだ。多分ありゃあ、体力じゃなく、対人の方の腕を買ったんじゃねえかな」
「本当はすごい子なのかもよ?」
用心深い言葉も、ヒスイは笑い飛ばした。
「そりゃあ、ねえな。いや、まあ、ある意味すげえのかもしれねえ。片手だけで器用に手元の事をこなしてたからな。だが、そんなハンデのある奴が、今回の仕事の対人関係以外で役立つと思うか?」
「ハンデって……腕が一本しかないとか?」
「いや、両腕揃ってはいたが、右腕が動かせる状態じゃなさそうだった」
セイがもし蓮を手伝うことになったとして、その依頼主がヒスイと分かっていてなお、そんなハンデを持ったまま仕事に臨むだろうか。
ヒスイの悪巧みの裏には、必ずと言っていいほどカスミがいると、承知しているはずだ。
昨日から引き摺っている心配事と合わせて、深く考え込んだ東の耳に、ヒスイの話の続きが入ってくる。
「それからキョウ似の奴だが、そいつヒビキって名乗ってて、上から下まであいつそのままだった。すげえよな、最近のコンタクトレンズは」
「いや、それの方があり得ねえことないか? あいつの目、薄いのは瞳だけじゃねえ。コンタクトレンズで再現したら、見えなくなっっちまう」
女が意地悪な笑顔で否定する。
ヒスイがどちらかというと鏡月の方を苦手視しているのを、知っているせいだ。
だが、赤毛の男は笑いながら首を振った。
「しかもそいつ、女なんだ」
一同が考え顔になるのを見まわし、ヒスイは言い切った。
「あいつなら確かに、女になって仕事に臨むこともあるかもしれねえ。だが、カスミが動いていると疑えるような仕事で、それはあり得ねえだろう?」
話題の主の一人セイは、外見年齢は十代後半から二十代前半の、男にしては小柄な若者である。
小柄な体格と色白の肌の、中性的で完璧といってもいい位に整った顔立ち、今は時代の流れに乗って短くした薄色の金髪と対照的な黒々とした瞳を持つ、一部では「無自覚の人間殺し」の異名を持つその若者は、東とオキ、そして女メルが所属していた、今の世では組織、と一括りにできる集団の、三代目の頭領だった。
親戚が多くいた初代の頃から比べると、かなりの人数に膨れ上がっていた集団を束ね続けていたその実力は侮れず、そうでなくてもオキのように敵にはしたくないと元仲間たちの多くは尻込みする相手だ。
もう一人の鏡月は、セイと同じくらいの背丈の若者なのだが、色が正反対の若者だ。
東洋系の色合いで、元々薄い琥珀色の瞳なのに、瞳孔が白くなったために更にぼんやりとした印象を与えるが、実際は知り合いの中では一二を争う程、潔癖な一面を持つ若者だ。
幼い頃はその容姿の目をつけて、ちょっかいをかけた者が瞬時に切り刻まれた、ということはまだ序の口で、すれ違いざまに肩が掠っただけでも刀に手が伸びる、危険極まりない子供だったのだが、年を重ねるごとに落ち着き、代わりに並みの犬よりも鼻と耳が利く、油断のならない若者へと成長してしまった。
東とヒスイは鏡月の兄弟子に当たるのだが、体力ではともかく、その技量と嗅覚と聴覚を駆使した戦術には、今まで勝てたことがない。
二人の容姿は比較的すっきりとしているから、メルが指摘した瞳の問題も、「変装」ではなく「変化」なら簡単に真似できるだろうが、その二人を今回推挙したのが蓮、というところで引っ掛かりがある。
うなるメルと天井を仰ぐオキ、静かに考え込んだ東を見まわし、カスミがようやく口を開いた。
「本命は、どうだったんですか?」
「ん? 本命?」
「レンですよ。あの子には、常と変わった様子はなかったんですか?」
体力勝負にのみ自信のある兄だが、それでも長年の観察眼は信用できるからこその問いに、ヒスイは少し考えてから答えた。
「あいつは、ずっと黙ってて、はっきりと口をきいたのは、最初の挨拶の時だけで、あとは始終無愛想だった。仕事で直接接するのは、これが初めてで何とも言えねえけど、あれがあいつの仕事モードなのか?」
「ちょっと、それ、本当に、レンちゃん?」
思わず顔をあげた男二人のうち、声をあげたのは東の方だった。
「ん? 何だ?」
きょとんとした男に、オキも意見する。
「あいつ、自分は傍目にどう見えているか、よく分かっているぞ」
「? どういう意味だ?」
「自分の外見では、初対面で印象を伝えないと信頼を得られないと、十分に分かっているのよ、あの子」
見た目が若い、というより幼い蓮は、小柄な己の体と童顔をとても嫌っている。
それならせめて、昔から切ったことがあるのかと思える、あの腰まである髪を一度切ってみてはと突っ込みを入れたくなるのだが、蓮は嫌ってはいるがこれは努力ではどうしようもないものだと割り切ってもいた。
だから、仕事の相手には必要最低限の笑顔を向け、その中に頼りになる要素と自信を印象づけるために、不敵さを同居させるのだ。
それを虚勢と取る輩もいるが、受けた仕事はほぼ確実に成功させ、一緒に仕事をした者たちからの信頼も勝ち取っていた。
ヒスイの前だからと言って、信用を得ることを放棄するような若者ではない。
「しかし、名は同じだし、約束の時間に現れたぞ」
「他人に名乗らせて、当の本人は隠れて様子を見ているのか、あるいは……」
反論する男に真面目に返したのは、カウンター越しの葉太の作業を、頬杖をついて見守っていたカスミだったが、こういう時のこの男は一言多い。
「他人に押し付けて、当のレンはこれ以上の係わりを拒否したのかも知れませんね」
長年の経験で、その気配を察した東の制止は間に合わず、声を発する前にヒスイが反応した。
思わず立ち上がった赤毛の大男の声と、勢いよく倒れた椅子の音が重なる。
「あいつ、そんないい加減な気持ちで仕事をしていやがるってのかっ?」
そんな反応に頓着せず、弟は変わらず真面目な顔で返す。
「今回はやむを得ず、かも知れませんね。断ってもヒスイに何か言われることも承知しているはずですから」
黙り込む兄に、さらに言った。
「まあ、あの子の性格では、あり得ないことですが。ヒスイが会ったその人物の態度からすると、そのあり得ぬことをしているかもしれませんね」
真面目に言う言葉は、兄への遠慮が一切ない。
「……カスミちゃん」
言葉を選べ、と暗に言っている東の呼びかけに、カスミはやんわりと微笑みとってつけた言葉を続ける。
「つまり、この仕事の成功確率が、大幅に上がったということになりますね」
「そうか?」
「はい。この仕事を成功させた後に、仕事放棄したレンは後々までヒスイがいじめればいいだけです」
結果良ければ、というやつだ。
確かにそうだが、真面目なヒスイは、無責任な蓮の行動に複雑な表情である。
それでも、何とか気持ちを切り替え、集まった昔馴染みたちを見回した。
「乗りかかっちまってるから、後戻りも難しいんだ。もしかしたら、レンはいないかもしれねえ。それでも、協力してくれるか?」
「この間も言ったが、オレはあいつが係わっていないなら、断る理由はない」
即答したのは、オキだ。
次いで、メルも迷いつつ答える。
「オレも、もし、レンが参加しているとしても、出し抜けるって確実に言い切れるんなら」
「カスミもいるんだ、大丈夫だ。相変わらず、心配性だな、お袋は」
弟を信用したヒスイの軽い言い分に、とてもその母親には見えない女は反応した。
「その呼び方はやめろって、何度も言わせるなっ」
いつもの言い分も笑って流し、考え込んだままの幼馴染に目を向けた。
「ロン、お前は?」
「……そうねえ。まあ、お仕事自体はそう難しくないから、協力してもいいけど……今、この国を離れたくないのよね」
「? 何でだ? 連絡入れたときは、乗り気だったじゃねえか」
本名を呼ばれての問いかけに歯切れの悪い答えを返した後に、東は昨日からの気がかりを口にした。
「実はね、昨日の昼間、待ち合わせの約束してた子が、時間になっても現れなかったのよ。三時間は待ってたのに」
「お前、どんだけ暇なんだ?」
ヒスイは呆れただけだが、オキは眉を寄せた。
東が約束の時間を過ぎても、それだけの時間待とうと思う相手は、あまり存在しない。
「セイと、連絡が取れたのか?」
「ええ。昨日の朝方、電話があったの。近々五分でもいいから会えないかって。だから、午後の時間に待ち合わせたんだけど……結局来なかったの」
「何でだ? 一体、何の用で?」
食いつくオキに男は首を振った。
「それは、会ってから尋ねるつもりだったから、分からないわ。ただ、約束を破る子じゃないから、気になって……」
「ちゃんと探したのか? どこかの溝に嵌まっているとか、ゴミ箱の中とか・・・」
葉太とヒスイが、そんなところまで? という顔をする中、東は真顔でオキの真剣な問いに答える。
「探したわよ、ちゃんと」
昔、井戸に落ちてしまった過去がある若者で、勿論もうそこまで小さくないが一応探してみたのである。
「でも、どこにもいなかったわ。今日まで姿を見せてくれないし……」
「……」
唸る男二人から、葉太の顔に視線を向けたカスミが、そのまま東の方に真面目に問いかけた。
「あいつのことだ、待っている間に男に絡まれて、半殺しにしている内に、待ち合わせていたことも忘れて帰ったのではないのか?」
前半はあり得るが、後半はあり得ない。
色黒の男は溜息を吐いて、まず前半部分に頷く。
「それは真っ先に思ったから、周囲の路地は確認しました。それらしい痕跡は、なし」
きっぱり言い切ってから、少し強調して続けた。
「そのまま忘れるなんて、あの子に限っては、ないわ。カスミちゃん、あなたじゃないのよ」
「そうか」
小さく笑いながらも、カスミは葉太を見上げたままだった。
「案外、半殺しにできない男に絡まれたのかもしれんな」
「え、どういうこと?」
「いや、こちらの話だ」
控えめに笑うその表情は、付き合いの長い東からすると、かなり底意地の悪い類の笑顔だ。
だが、それを指摘する前にカスミが呼びかけた。
「ロン」
「何?」
「あれのことは、私が気にかけておくから、お前はヒスイに協力してやってはどうだ?」
予想外の言葉に、ヒスイが反応する。
「おい、まさかお前、放棄する気かっ?」
「ロンが協力するなら、私などいなくても大丈夫でしょう」
「あのなあっ」
「心配しなくても、この先もしものことがあった時の備えはあります。危ないと感じた時点ですぐに引けるように、お膳立てもできていますから」
兄を宥めるカスミに、軽い驚きから覚めた東が慎重に問いかけた。
「つまり、後は、場合によってあなたの作った経路に色付けすればいいだけってこと?」
「そういう事だ」
少し考える幼馴染の顔を覗き込みながら、カスミが言う。
「お前、最近この手の事から遠ざかっているだろう? たまには息抜きに、参加してみてはどうだ?」
気遣う表情は、恐ろしく胡散臭い。
だが、一度身を引くと宣言したカスミが、自分が参加しないと言ったところで、前言を撤回するとは思えない。
もし、危惧する三人の誰か一人でも計画を邪魔する方についているとしたら、残りの人材で対処できるか、大いに怪しい。
「……それもそうね。最近頭を使うお仕事していないから、逆に変になりそうだったのよ。気晴らしに、やってみるわ」
すべての疑問と不安を無理に押さえつけ、東はやんわりと笑ってみせた。