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G

作者: 中倉三利

 リクライニングの利かない座席に腰を下ろし、窓の外を眺める。緑色の芝生に灰色の空は似合わない。新天地に向けて出発する日にしては、まったく相応しくない天候だ。

 

 「お客様、お荷物は棚にしまわれますか?」

 

 客室乗務員がひとりひとりに声をかけていく。僕の荷物はすでに棚の中だ。手持ちには就職活動のときに買った、まったくよれていない黒いカバンだけ。小説と折りたたみ傘と財布しか入っていない。

 

 「お客様、失礼ですが、お荷物は寝かせて、前の座席の下に入れてください。」

 

 首元にスカーフを巻いた若い女性は、白い歯をのぞかせながら僕に言った。

 

 「ああ、失礼しました。」

 

 苦笑いをしながら言われたとおりにする。飛行機に乗り慣れていないことがバレたような気がして、気恥ずかしい。紛らわそうと外を見ると、雨が振り始めていた。小雨だから、たぶん、運転に支障はないだろう。

 

 

 初めて飛行機に乗ったのは、小学生のときの家族旅行だった。空を飛ぶとはどういうことなのか、楽しみで仕方なかった。こんなに大きく、重たいものが、なぜ浮かぶのか。なぜ飛行するのか。前の日から祖父になんども聞いたものだった。祖父は、そんな私に嫌な顔一つせず、優しく、小さな子どもでもわかるように説明してくれた。

 

 「坊、わかったか。」

 

 「わからんわ、じいちゃん。」

 

 「はっはっはっ、まあ乗ればわかる。」

 

 僕は祖父の隣に座り、離陸の瞬間を待った。力強いエンジンの音がしたとき、思わず祖父の手を握った。怖かったのだ。未知の力が、少年の興奮を奪い取る。祖父は、ゴツゴツとした手で握り返し、「大丈夫じゃ」と小さくこぼした。

 

 

 キィィというエンジン音が、ゴォゴォという唸るような音に変わった。

 

 「間もなく、離陸いたします。シートベルトを締めたことを確認してください。」

 

 機内アナウンスが、離陸する事を告げ、エンジンはどんどん力を溜め込んでいく。

 

 ゴォッ!


 エンジン音がさらに大きくなる。同時に機体はゆっくりと進みだし、お腹に圧がかかる。振動はどんどんと大きくなり、やがて静まった。

 

 ジェットコースターみたいだな。

 

 あの頃、小さかった僕はまだジェットコースターに乗ったことがなかった。乗る機会はあったのだが、怖くて乗らなかったのだ。今でこそ、ジェットコースターのようだと思えるが、あのときはどう思ったのだろう。遠い記憶の世界に入り込もうと、静かに目を閉じる。けれども、あまりに遠いのか、全く思い出せない。

 気がつけば雲の中にいた。雲の中は直視することが困難なほど真っ白だった。反射した光が網膜に焼き付き、眩しい。

 あの世はこんな感じなのだろうか。ふと思ったが、最初に思いついたのは別のことだった。

 太陽光を反射するほど真っ白いシーツと真っ白な壁。祖父が死んでいった病室のことだった。

 病院とあの世は近いから、自然と似てくるのだろうか。だとすれば、この真っ白な世界を作り出すこの場も、あの世に近い。


 

 祖父が亡くなったのは、出発する一週間前のことだった。軽い風邪かと思ったが、なかなか治らず検査入院したところ、肺癌であることがわかったのだ。癌とわかったあと、祖父は目に見えてやつれていった。大きくてゴツゴツしていた手も、しょんぼりとしぼんだ風船のように張りのない皺くちゃなものになってしまった。僕はそんな祖父が見たくなくて、学業が忙しい事を理由に病院から足を遠ざけていた。最後に見た祖父は、チューブに繋がれ、無理矢理にでも生かされているように見えた。

 

 「坊…。」

 

 力のない声で、祖父は僕を呼ぶ。

 

 「なんじゃ、じいちゃん。」

 

 「お前は、なんでも、聞きたがる、子じゃった。頭がいい子じゃ。」

 

 僕は祖父の手を握る。

 

 「お前なら、大丈夫じゃ。」

 

 握り返された力は、あまりに弱かった。

 祖父が眠ったことを確認したあと、僕は起こさないように静かに病室をあとにした。

 

 

 雲を抜けた。まだ青空は見えない。どうやら、雨雲の上にまだ雲があるようだ。けれども雨は降っていなかった。ある程度の高度になれば、雨が降らなくなるのだろうか。昔祖父に聞いたような気がしたが、思い出せなかった。

 ガラスの水滴は風によって飛ばされ、窓の汚れが白い雲で目立つ。雲は綿菓子みたいにふわふわしている。水滴が凝固し物質としては存在しないはずだが、なぜか、しっかりしたモノに見えてしまう。

 

 「すごいねぇ、綿菓子みたいだねぇ。」

 

 通路を挟んだ向かい側の少年が、父親に話しかけている。

 

 「雲は綿菓子なのかなぁ。」

 

 幼い考えが、自然と頬を緩ませる。あのときの僕も同じようなことを聞いたのだろうか。

 

 最高度に達すると、頭上には青空しかなかった。雲海は果てしなく続き、美しかった。しかし、20分もしないうちに、また雲の中に潜ってしまう。

 いつまでも飛んでいたいと思う。

 新天地に知り合いはいない。仕事をうまくやる自信もない。先の見えぬ不安が待っている下界にたどり着くなら、真っ白な世界で果ててしまいたい。

 飛行機は天国に近づける方法のはずだから。

 もう一度、祖父に会いたい。

 

 

 飛行機は再び雲の中に入る。眩しすぎる世界に目を背けるかのように瞼を閉じる。

 

 「どうじゃ、坊。飛行機は。」

 

 「すごかった!なんか、じいちゃんみたいじゃ!」

 

 「わしみたい?」

 

 「うん!じいちゃんとバイク乗っとるときみたい!」

 

 ああ、そんなこと、言ってたなぁ。

 

 

 「間もなく、成田に到着いたします。飛行機が止まるまで、シートベルトは着用したまま、お待ちください。」

 

 機内アナウンスで目が覚める。いつの間にか眠っていたようだ。窓の外は、雨足が強くなっていた。

 まだ、あの世には、行けそうにない。

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