小話 異世界文化交流
4月30日 アルティーア帝国 首都クステファイ
護衛艦「いせ」に設置された「総督府」が、この国の実権を掌握してから1ヶ月が経過していた。総督府の管理下に置かれたサヴィーアを首班とする暫定政府は、日本政府からの要求を処理する為、日夜懸命に働いている。
首都クステファイの治安を護っていた“首都警備隊”が上陸作戦で壊滅した結果、同都市の治安は急激に悪化した。よって総督府の指示の下、属領の“治安維持軍”など、対日戦に動員されなかったアルティーア帝国軍兵士が集められ、首都の治安部隊が再結成されていた。
それによってクステファイの治安は大分回復し、日中ならほぼ問題無く出歩ける様になっている。そしてある日、日本から派遣された2人の官僚が、疲弊した様子で街を歩いていた。
「くぁ〜、疲れた・・・」
「全くだ、本省にいた時よりもきついぞ」
彼らの名は壱川吉利と大河内忍と言い、2人とも外務省から総督府へ派遣された官僚だ。彼らは激務に愚痴をこぼしつつ、街の中を歩きながら外の空気を吸うことで、次なる仕事への英気を養っていた。
『お客さん! 困ります!』
「?」
その時、街中のある店で言い争う声が聞こえた。2人は声のした方へ視線を向ける。
「ただいま満席でして、少しの間お待ち頂くことになりますが・・・」
店員が3人の男性客の前に立って頭を下げている。どうやら満席の酒場に3人の男が無理矢理入ろうとしている様だ。
「何だ、ただのクレーマーか。どこの世界にもいるもんだな」
大河内はあまり興味がなさそうな様子でつぶやく。店員は困った客の対応に四苦八苦していた。すると3人のクレーマーは彼を押しどけながら、無理矢理店の中に入って行く。彼らは店の中を見渡すと、何かを見つけたように5人の男女が座っている席へと足を進めた。
「開いてない? いや、ここに席はあるだろう?」
1人の男はそう言うと、すでに5人が座って満席となっているその席を指さした。店員とその席に座っていた客は首を傾げる。その時、クレーマーの男が席に座っていた女性客の髪をいきなり掴んだのだ。
「!?」
「“極東の未開国”ごときに敗戦した三流国家のアルティーア人が、椅子を譲らぬとは何事だ! どけ!」
男はそう叫ぶと、女性の髪を引っ張り上げて彼女を椅子ごと床になぎ倒した。
「きゃあああ!」
「なっ!!」
女性の叫び声が響き渡る。同伴していた男性客が席を立ち、床の上に倒れた彼女にすぐさま駆け寄った。他の客たちもいきなり起こった騒ぎに驚き、一斉にその視線を彼らの方へ向ける。
「・・・! いきなり何をする!?」
もう1人の男性客が3人のクレーマー男に声を荒げて問いかける。しかし3人はにやついた顔を浮かべながら何も答えない。
「くそ・・・今まで帝国の属国民だった連中がいい気になりやがって・・・!」
女性に駆け寄っていた男性客が、悔しさを込めた目で3人を見上げる。アルティーア帝国が大陸から遠く離れた“未開国”に完敗したという事実は、アルティーア帝国民と元属国民の間に築かれたヒエラルキーの逆転を招いていたのだ。
「うわっ、えげつ無えなぁ・・・」
「・・・」
店の外からその様子を見ていた大河内は、大の男が女性に容赦無く暴力を振るう様子を見て嫌悪感を抱く。その時、無言でその様子を見ていた壱川が、一触即発の事態に発展しそうな酒場の中へ向かって突如走って行った。
「おい、ちょっ・・・待て!」
大河内は彼を呼び止める。しかし、聞く耳を持たない壱川は3人のクレーマー男のもとへ駆け寄って行く。
「おい、何をやっているんだ。君たち、やめないか!」
壱川は正義感全開の台詞を述べる。店の中全ての視線が突如現れた灰色スーツの男に集まる。
「ああ!? 何だお前?」
クレーマー男たちは、彼らからすれば奇妙な衣装に身を包んだ男の顔をなめ回すようにのぞき込む。
(ええ〜、あいつ何やってんの!? 俺たちがこんなところで乱闘騒ぎに関わっちゃまずいって!)
大河内は突飛な行動に出た同僚に頭を抱える。日本政府から派遣された外務官僚が民間人同士の喧嘩にむやみに首を突っ込んでは問題にされかねない。そんな彼の心配をよそに、壱川はクレーマー男たちに対して自らの素性を述べる。
「私は君たちが言うところの“極東の未開国”、日本の外務省から総督府に派遣された壱川良利という者だ」
「!!」
日本人・・・それは即ちアルティーア帝国を打ち破った国の民であった。先程の会話の中で日本国を罵っていた3人の男は、ぎょっとした様子で壱川を見る。
「これはこれは、あの大国ニホンのお方でしたか・・・。こいつはとんだ失礼を」
いままでの大きな態度も何処へやら。壱川の正体を知った3人のクレーマーはそそくさと酒場を退散して行った。
「大丈夫ですか?」
3人の男を見送った後、壱川はクレーマーにからまれていた店員と客の身を案ずる。
「あ、ありがとうございます・・・」
床に倒された女性は壱川に感謝の言葉を述べ、彼が差し出した手を握る。羞恥心からか、彼女は両の頬を真っ赤に染めていた。だが、周りの人々は壱川に対して、クレーマーに対するものとは別種の恐れの感情を抱いていた。
「?」
「おい、聞いたか?」
「あれがニホン人・・・」
「首都警備隊の生き残りが”悪魔”だって言ってたぜ・・・」
「『総督府』の人間だってよ・・・」
周りをみれば、突如現れた戦勝国の役人について皆がひそひそ話をしている。首都上陸作戦にて圧倒的な戦闘を行った日本国、それは首都市民である彼らにとっては、少し騒ぎを起こしたクレーマーなどすぐにかすむ程の恐怖の対象だったのだ。遅れて店に入って来た大河内が、その様子を見て少し呆然としていた壱川の肩を掴む。
「行こう、壱川。ここはどうやら俺たちにとってもアウェーらしい」
同僚に手を引かれ、酒場の一騒動を収めた官僚はその店を後にする。
・・・
港 総督府「いせ」 士官室(総督府幹部室)
その日の夜、総督府へ戻っていた壱川は、副総督である中村次郎の部屋に呼ばれていた。椅子に座る中村は彼を呼びつけた訳を説明する。
「交流祭・・・?」
「そう・・・アルティーア人と日本人との壁が少しでも下がればと、総督が提案されたものだ。安中防衛大臣も大いに賛同されたらしく、既に日本本土の朝霞駐屯地から『中央音楽隊』が派遣される手筈になっている」
それはおよそ3週間後に開催することが決定した総督府主催の催し物についての話であった。現地住民との宥和を図って立案・計画されたもので、日本の文化と技術をクステファイの人々へ大々的に宣伝するイベントとして企画されている。
「内容は2部構成、まず第1部で『いせ』を素材にしたプロジェクション・マッピングの実演を行い、その後に日本、そして地球の音楽を紹介する演奏会を行う。そこで・・・我々『総督府』も出し物をしようと思ってな、確か君は楽器が弾けた筈だね。是非、有志バンドのメンバーに加わってくれ」
祭りの後半に催される演奏会については、主に前述した陸上自衛隊の中央音楽隊による演奏が行われる予定になっている。だが最後のトリとして、総督府に勤める役人たちが出し物を行う時間が用意され、そこで有志バンドによる演奏を行うことになっていたのだ。
「分かりました」
壱川は副総督からの頼みごとを2つ返事で了承する。
「選曲は・・・まあ、任せる。あまり突飛なものじゃなければ良い。同じメンバーに入っている大河内や仲嶺と一緒に決めてくれ」
中村は追加の注意を告げる。壱川は彼に向かって一礼した後、士官室を退出した。
〜〜〜〜〜
5月2日・夜 「いせ」停留中の港
護衛艦「いせ」、すなわち“総督府”の周辺には、官僚たちを警護するために数人の自衛隊員がタラップや格納庫扉の前に警備員として常在していた。最初は不審者や官僚への襲撃阻止を目的としていたが、総督府の役人という実質的にアルティーア帝国を動かす立場にいる彼らに対して、その出入りを待ち構えて贈賄を画策する輩が後を絶たず、今となってはそちらへの対処が主任務となっていた。
「・・・あんた、ここで一体何してる?」
警備の自衛隊員の1人である上山田一等陸士/一等兵は、「いせ」の近くをうろうろしている1つの人影に気づき、その人影へ声をかけて近づく。目深なフードをかぶっており、いかにも怪しげな風体をしていた。
「あ・・・! すみません・・・あの・・・」
「・・・?」
その不審人物は警備員に声をかけられたことに驚く。その声は若い女性のものであった。その女性は俯きながら、1つの箱を上山田に差し出す。
「イチカワというお役人様に、こちらを渡して頂きたくて・・・」
(イチカワ? ああ、ヨシさんのことか・・・)
イチカワという名前の官僚は此処に1人しか居ない。上山田一士はある変人官僚の顔を思い浮かべていた。
「中身は何ですか?」
クステファイ市民から総督府に勤める日本人役人への差し入れ、もちろんテロや贈賄の可能性も否定出来ないため、上山田一士は箱の中身を尋ねる。
「この前のお礼として、蜂蜜酒をお持ちしました・・・」
「お礼・・・? 蜂蜜酒・・・?」
上山田一士は片眉を吊り上げながら箱を開ける。するとそこには確かに液体が並々入った一本の瓶があった。
「・・・貴方が蜂蜜酒だと仰ったこの瓶の内容物ですが、念のため本当に安全かどうかの検査を行いますが、よろしいですか?」
「はい、かまいません」
この街には日本への恨みを持つ者は大勢居る。故に毒物を盛られる可能性は否定できない。その為に官僚や自衛官が外部から何かを持ち込む時には衛生科による検査を通すことになっていた。
「イチカワ様にお伝え下さい。“あの時はありがとうございました”・・・と」
箱を渡した女性はそれだけ言い残すと、上山田の目の前から走り去って行く。
「ああ! ちょっと!」
上山田はまだ質問が終わっていなかった為に彼女を呼び止めるが、あっと言う間にその人影は夜の港街に消えていった。その時、彼女の頬が紅く染まっていたことを、上山田は気づかなかった。
「いせ」艦内 居住区画 壱川と大河内の寝台
この日も夜遅くまで職務を行っていた官僚たちがその心身を癒すため、振り当てられた乗船員用の寝台へと帰って行く。そして外務官僚が割り当てられている居住区画にも、若き1人の官僚が帰って来ていた。
「あ、大河内いたのか」
「うん、ちょっと早く終わったんでね」
業務を終えた壱川が居住区画へ戻る前に、大河内も帰って来ていた。ちなみに彼ら2人に割り当てられた寝台は3段で、上が壱川、中が大河内、下は荷物置き場になっていた。
「そういえば、首都市民からの差し入れがお前に届いている。ベッドの上に置いておいたから」
真ん中のベッドに寝転がっていた大河内はそう言うと、上段の壱川のベッドを指さす。
「差し入れ?」
「うん、何でも受け取った隊員が言うには、若い娘さんが届けてくれたってよ。何かのお礼らしい」
「お礼?」
「前の酒場でクレーマーに倒されていた子じゃないのか。それしか心当たり無いだろ」
壱川はスーツの上着を脱ぐと、1番上のベッドをのぞき込む。そこには確かに1つの木箱が置いてあった。その木箱を手に取ると、ふたの上にその内容物について危険性は無い旨が書いてあった。中身を確認する為に壱川はふたを開ける。
「・・・中には何が入っていた?」
「酒」
「へぇ〜、何の酒?」
「蜂蜜酒らしい」
蜂蜜酒とはその名の通り、蜂蜜を原料とする醸造酒のことだ。その起源は旧石器時代にまで遡るとされ、最古の発酵飲料と言われている。ビールやワインの台頭によって、現代の地球では一般的な酒類ではなくなってしまったが、未だ東欧やロシアが主な市場になっているのだ。
「・・・ふ〜ん」
贈り物の内容物について知った大河内は、にやついた顔でベッドから起き上がり、壱川に話しかける。
「・・・いつかの時代のヨーロッパでは、新婚夫婦は数ヶ月家に籠もって精力を付けるために蜂蜜酒を飲み続けたらしいよ。もしかしてその子はお前を好いているんじゃないのか? “子作りしよう”ってさ」
大河内は若い娘からの贈り物を貰った壱川を茶化す。
「冗談きついぞ・・・そんな訳無いだろ。大体彼氏らしい人いたよなあ、あの子」
壱川は大河内の言葉をしかめ面で否定する。
「あながちそうでも無いかもよ。手紙まで付いてる」
大河内は木箱の底に潜ませてあった一枚の紙を取り出した。
「・・・手紙?」
蜂蜜酒をグラスに注ごうとしていた壱川は、大河内の言葉を聞いて眉間にしわをよせる。飲みかけたグラスを台の上に置いた彼は、大河内が取り出した手紙を奪い返す様にして取った。
「読めない・・・この国の文字だな。・・・大河内、手伝え」
壱川は官僚全員に配布されていた簡易辞書をロッカーの中から取り出す。壱川と大河内は辞書を片手に手紙の内容を翻訳する作業に入った。その結果、手紙には以下の様なことが書かれていることが分かったのである。
“先日は危ないところをお救い頂き、ありがとうございました。あの時は満足にお礼も出来ずに申し訳ありません。一度に起こった様々な出来事に頭が混乱してしまったのです。しかし私はあの日から、瞼の裏に貴方の姿が浮かぶ様に成りました。そして今日この日まで、お役人という高貴な立場でありながら、一平民である私を救って下さった貴方のことを考えている内に、自分の感情を抑えられなくなってしまいました。そのなれの果てである貴方への私の想いを伝えます。
明日の夜、また港へ来ます。その時に御返事を聞かせて頂けませんか?
私はいつまでも待っています”
「・・・」
「恋文じゃないのか。これは」
大河内は手紙の内容を理解して呆然とする壱川に現実を突きつけた。その内容は誰が見ても明らかに恋文だった。
(いや、まだそうだと決まった訳じゃない。蜂蜜酒だってこいつが言う通りの意味を持つものだとは限らない・・・)
壱川はいきなりの出来事に驚くも少し考える素振りを見せる。そして考えが纏まった彼はそばにいる同僚の方を向いた。
「おい、お前明日空いてるよなあ・・・」
「いや、そりゃ俺もお前も非番だから・・・」
壱川の質問を聞いた大河内は“当たり前だろ”とでも言いたげな顔で答える。
「よし、じゃあ大河内・・・明日、また行くぞ!」
「お、おう! ・・・何処に?」
「決まっている、あの酒場さ」
斯くして2人は次の日、再び例のクレーマー騒動が起こった酒場へ行くこととなった。
〜〜〜〜〜
翌日 5月3日 クステファイ市街地 酒場
酒場の店員たちが夜の開店準備へ向けて準備をしている。その中の1人に一際若い店員が居た。彼の名はアトラと言い、日本国内で言えば中学生くらいの年齢である。彼は決して裕福ではない家の家計を支える為、13歳の頃からこの酒場で働いているのだ。
彼は今、店の外に設置するテーブル席の準備をしていた。野外に椅子とテーブルを置き、汗を拭ってため息をつく。その時、後ろから呼びかける声が聞こえて来た。
「やあ、君・・・4日前にクレーマーに絡まれていた店員だよね」
「?」
アトラは突然なれなれしく話しかけて来た声のする方へ振り向く。するとそこには見慣れない恰好を身に纏った2人の男が立っていた。
「あ、貴方は! せ、先日はどうも・・・お礼も出来ず!」
アトラは驚きを隠せない。4日前にクレーマー騒動を収めた戦勝国のお役人の姿がそこにあったからだ。
「別にいいよ、それよりこの前絡まれていた5人ってよく来るのかい?」
慌てふためく店員とは対照的に、壱川は落ち着いた様子で尋ねる。
「あ、ええ。毎日ではありませんが、いつもあの方たちは夕方頃に来られます。でも何故お役人様がそんなことを?」
「・・・いや、別に大したことじゃ無いんだ。ありがとう」
壱川は答えを濁しながら礼を言う。
「夕方っちゃ、もうすぐだろう。それまで待たせて貰えないか? 駄目なら別に良いが」
大河内は準備中の店に入って良いかどうか尋ねる。
「だ、大丈夫です! ど、どうぞこちらへ!」
アトラは言葉にひっかかりながら、2人を店の中へと案内した。その後、2人は目当ての客が来るまで席に座って待機することとなった。
店内
店内へ案内された2人の官僚は、ぐだっとした様子でテーブル席に座っていた。 彼らを案内した店員のアトラは彼らに視線を送りながら、店の主人であるバドスに現状を報告する。
「店長、どうしましょう!?」
「一体何をしに・・・もしや、この前のことが問題となって閉店命令とか・・・!」
「!!」
クステファイの市民にとって、自国の軍を完膚無きまでに打ち負かし、クステファイを戦場とした日本国は畏怖の対象であり、その“謎の国”から派遣された兵士や役人に対しては、“触らぬ神に祟り無し”と言わんばかりに関わらないことが不文律とされていた。その役人に対して関わりを持ってしまった先日の1件は、バドスの中で大きな不安のタネになっていたのだ。
アトラは店主であるバドスのあられもない予測に本気で震えていた。この店が潰れたら、生活が苦しい家計を支えることが出来なくなってしまう。
「と、とにかく粗相の無いようにするんだぞ! 他の店員たちにも大至急伝えろ!」
「は、はい!」
「ちょっと待て! ご注文は何と仰ってた?」
「・・・はっ! まだお聞きしていません」
アトラの答えを聞いた店主のバドスは顔を青くする。
「馬鹿もん! さっさとお伺いしろ!」
「も、申し訳ありません!」
上司の怒りを受けたアトラは、すぐさま2人が座っている席へと駆け寄るのだった。
それからおよそ1時間後、準備が終わって開店した酒場にはちらほらと客が入って来ていた。治安が回復したクステファイの街は、未だ占領下であるものの、すでにかつての活気を取り戻している。
「やあ、店員さん。あのお客さんはまだ来ないのかな?」
ラム酒を飲んでいた壱川は、側を通りかかったアトラに尋ねる。
「い、いえ! もうこの時間にはいつも入られているはずですが・・・何分、4日前にあのようなことがあったばかりですので・・・最近はあまり来られていないのです」
「ああ〜、成る程」
店員の説明を聞いた大河内はこくこくと頷いていた。例え店側に問題は無かったとしても、あそこまで悪質なクレーマーが出現した店には確かにあまり来たくは無いだろう。もしかすると無駄足だったか、2人がそう思い始めていた時、1人の男性客が入ってきた。
「あ、来られました! あの方です!」
アトラはその男性客を指差しながら壱川に耳打ちをする。その客の顔は確かに、4日前にクレーマーに絡まれていた男のものであった。
(・・・1人? 確か、倒された女性を抱きかかえていたヤツだな)
壱川と大河内の2人はその男を目で追う。そして彼がカウンター席に座って注文を出したのを確認すると、2人は飲んでいたグラスを片手に席を立ち、その男性客が座っている席へと近づく。
「やあ・・・隣いいかい?」
「・・・?」
壱川は後ろから男性客に向かって声を掛ける。その男は聞き慣れない声に驚きながら後ろへ振り返った。そこには奇妙な装束を身に纏う2人の男が立っていた。
「あんた、この前のお役人!」
「そう・・・憶えていてくれたんだ」
壱川はそう言いながら彼の左側に座る。たった1回会ったことがあるだけでかなり馴れ馴れしい態度を取る異国の役人に、その男性客は理解が追いつかなかった。
「君この前、妙なクレーマーに絡まれていたよね。女と一緒に」
「!!」
壱川が発したこの言葉を聞いて、彼の頭の中で踊っていた疑問符が全て払拭された。彼は一際不機嫌そうな表情を浮かべると、ぶっきらぼうな口調で壱川に言い放った。
「何だよ、自分の女1人守れなかったことを笑いに来たのか!?」
男性客は役人仕事そっちのけで個人的なことをつついて来た壱川を睨みつける。店の人間たちはそんな彼らの様子をはらはらした気持ちで見ていた。
「くそ・・・! お察しの通りここ最近会ってねえ・・・。だから何だって言うんだ! あんたらに関係あるか!」
男は頬と目を真っ赤に腫らしながら叫ぶ。
(やっぱり恋人だった訳か・・・)
壱川は予想通りといった表情を浮かべる。そして彼は懐に右手を差し込むと、内ポケットの中から1枚の紙を取りだした。
「これ・・・昨日の夜にある女性が蜂蜜酒と共に俺にくれた手紙なんだ。見てくれないか?」
「・・・手紙?」
壱川の話を聞いて嫌な予感が頭を過ぎっていた男は、壱川が取り出した手紙を奪うように手に取った。中身を開くと、そこには見覚えのある筆跡で恋文が書かれていたのだ。
「こ、これは・・・間違い無い、アテリーの字だ! てめぇ・・・よくも人の女を!」
「ぎゃあ!」
逆上した男は隣に座っていた壱川の胸ぐらを掴み、彼を床の上に押し倒した。後頭部を強打した壱川は堪らず苦悶の表情を浮かべる。見境を無くしていた男の方は、壱川の顔を殴ろうと右手を振り上げていた。
「止めろ!」
その様子を傍から見ていた大河内は、男の右腕を掴んで床にねじ伏せる。男はしばらく興奮して抵抗を続けていたが、次第に落ち着いていった。大河内はダウンしていた壱川に代わり、事の詳細を男に説明する。
「・・・と言う訳だ、分かったか? 俺たちも困っている」
「そんな、アテリー・・・くそっ!!」
その男は名をダグダスと言った。彼は悔しさと悲しみが混ざった表情を浮かべながら、握り拳を床に叩き付ける。属国民に馬鹿にされ、恋人の心も自分から離れ、彼の心は正に決壊寸前の様相を呈していた。
「彼女の心を・・・自分の下に取り戻したいか?」
いつの間にか起き上がっていた壱川が、ダグダスに問いかける。床の上で泣き臥せっていたダグダスは、両の目尻と頬に涙の跡を付けた顔で壱川を見上げた。
「・・・あ、ああ。勿論だ・・・だが」
ダグダスは自信なさげな表情を浮かべて目を反らしてしまう。壱川は彼の左腕を掴んで彼を立ち上がらせると、顔を寄せてアドバイスを与える。
「・・・3週間後、港で総督府と日本政府が共同で式典を開催する。その場にあのアテリーって娘が来る様に仕向ける。だからそこで何とかするんだ」
「で、でも・・・何とかって?」
「それは自分で考えろ。俺だって困っているんだ」
壱川はそう言うと、ジョッキに入っていたラム酒の残りを一気に飲み干す。彼はカウンターの上にお代を置き、ダグダスに一言“じゃあな”とだけ告げて、大河内と共にその場を立ち去った。
「・・・」
ダグダスと酒場の店員たち、そして他の客たちは、酒場を去って行く戦勝国の役人の後ろ姿を、様々な感情を以て眺めていた。
・・・
同日・夜 クステファイの港
壱川と大河内が酒場から「いせ」へと帰った後、「いせ」が停泊している港の一画にフードを被った女性の姿があった。どことなく落ち着かない様子を見せるその女性に、別の人影が近づく。
(彼女だな・・・)
その姿を確認した大河内が女性に近づく。何者かが近づいて来る気配を感じた女性は咄嗟に振り返ったが、その顔が待ち人とは違うものであることに気付き、思わず警戒心を露わにした。
「俺は壱川の同僚、大河内という者だ! あいつからのメッセージを預かっている」
大河内はそれを察したのか、落ち着けというジェスチャーを交えながら女性に話しかける。そして女性・・・即ち、ダグダスの恋人であるアテリーは、大河内の顔が4日前に壱川と共に居た人物であることに気付いた。壱川本人が現れることは無かったものの、思い人からの伝言を持って来たという大河内の言葉を聞いて、アテリーはかなり嬉しそうな表情を浮かべていた。
「“3週間後の夜、此処で行われる交流祭に来てくれないか?”だそうだ」
大河内はそう告げた後、此処で総督府主催の祭典が行われること、それにはクステファイの市民は基本的に自由参加であることを説明する。メッセージを聞いた彼女は心を弾ませながら家へと帰って行った。
(間違い無い、この前クレーマーに髪の毛を引っ張られていた子だったな・・・。しかし、これは不必要に期待させちゃったんじゃないか? あいつの真意は違うんだけどなあ)
夜の街並みに去るアテリーの後ろ姿を見ながら、大河内は少し申し訳無い気持ちになっていた。
「さて、俺も戻って演奏の練習しなきゃなあ」
やるべき事を終えた大河内はそう言うと、自分たちの本拠地である「いせ」へと帰って行った。
〜〜〜〜〜
5月24日 クステファイ港 埠頭 交流祭会場 貴賓席
それから3週間後、ついに「交流祭」の日がやって来た。夕方から始まるその祭りには首都に住まう多くの人々が集まっており、観客席は満員御礼状態となっている。別に設けられた貴賓席には、中心街に住まう皇族・貴族たちの他、暫定政府代表であるサヴィーア、そして総督である後藤の姿もあった。
『紳士淑女の皆さん、今宵はようこそお越しくださいました!』
副総督の中村が「いせ」の前に設けられた舞台上にマイクを持って現れる。彼に向かって数多のスポットライトが照らされた。
『最初に実演致しますのは“プロジェクション・マッピング”と呼ばれる技術です。この『いせ』をキャンバスとして様々な映像が流れます。その後には第2部として、日本陸軍が誇る音楽隊である『中央音楽隊』による演奏会が行われます。我が国の技術・文化の一部に触れて頂き、双方の理解を深める場となることを祈って開幕の挨拶とさせて頂きます・・・』
中村はそう言うと観客に向かって頭を下げる。それと同時にスポットライトが一斉に消え、会場は宵闇の中に包まれた。期待、緊張、そして不安・・・集まっていた現地民たちは様々な感情を抱えて「いせ」の方を眺める。
すると何処からともなく綺麗な音楽が流れて来た。楽団も楽器も何処にも見当たらないのにも関わらず、音楽だけが聞こえてくることに、聴衆は戸惑いを見せる。
「ヨシト殿・・・こ、この音楽は一体?」
「ああ、これは録音されたものを機械で流しているんですよ。ほらあそこ・・・あの機械から音が出ているんです」
総督の後藤は隣に座っていたサヴィーアにオーディオ機器について説明する。彼が指差した先には巨大なスピーカーが設置されていた。
「それより・・・ほら、始まりますよ!」
後藤はそう言うと「いせ」の方を指差した。交流祭の第1部「プロジェクション・マッピング」がついに始まったのである。
まず最初に「いせ」の側面に煉瓦造りの城が投影される。観客の目には無機質な外見である筈の「いせ」が煉瓦造りの城に変わった様に見えていた。
「ふ、艦が城に変わったぞ!」
「これは・・・見た事の無い魔法だ!」
貴賓席の皇族や貴族たちも感嘆の表情を浮かべていた。だが次の瞬間、その城は一瞬にして崩れ、その奥から光と花びらの世界が現れたのである。
「ウワアアア!!」
目の前で繰り広げられる人智を超えた光景を前にして、人々は悲鳴とも歓喜ともとれる声を上げる。後藤の隣に座っていたサヴィーアも、姿形、果ては性状をも次々と変えていく「いせ」の様子に唯々見入っていた。映像はBGMに合わせて次々と変化していく。そして曲調そのものが変化した時、見た事も無い様な大都市が映し出された。林立する高層ビル群の間を勢いよくすり抜けて飛び回る映像を、人々は唖然としながら眺めている。
「あれは我が国の首都『東京』の姿を再現したものですね」
後藤は映像の内容についてサヴィーアらに説明する。しかし、後藤の言葉はプロジェクション・マッピングに釘付けになっていた彼らの耳に届いていなかった。
そして合計10分の上映時間は瞬く間に過ぎて行く。プロジェクション・マッピングは大銀河、宇宙の映像で締めくくられ、全てが終わった後には上映開始前と何も変わっていない「いせ」だけが残っていた。
『・・・つかの間の時間でしたが、如何でしたか? 今回は立体映像も交えてより立体感・臨場感の溢れる映像を提供出来たかと思います。お次は“演奏会”の開演です。5分間だけ準備時間を頂きますので、しばしの間ご歓談くださいませ・・・』
進行役の中村が舞台上にいつの間にか戻って来ていた。彼が観衆に向かって頭を下げた直後、舞台の両袖から楽器を持ったスタッフが現れ、吹奏楽演奏の準備をしていく。
交流祭会場 一般用観客席
1人の官僚がクステファイの市民でごった返していた観客席の間を抜けていく。彼はある女性とある男性を探していた。
(あの2人・・・上手く会えたかなぁ。ああ・・・何処までお人好しなんだろう、俺は)
アテリーとダグダスの動向が気がかりになっていた壱川は、人混みの中で2人の姿を探していたのである。その時、スポットライトを吊している柱の側に見覚えのある人影を見つけた。
「あ、あれは!」
そこにはアテリーとダグダスの2人が居た。壱川は彼らがこの広い祭会場の中で運良く出会えていたのを見つけて一先ず安心する。だが、同時に事件が起こっていた。以前に酒場で絡まれた3人組に、此処でも絡まれていたのである。
「あ〜あ、何やっているんだよ・・・あいつは!」
居ても立ってもいられなくなった壱川は、人気の無いところへ連れて行かれる2人の跡を追いかける。彼は走りながら懐に入っていたPHSを取り出し、会場の警備に付いていた陸上自衛隊の本部へ連絡を入れた。
港 倉庫の裏
アテリーを強引にナンパし、連れ去ろうとした元属国民の男達の前に立ちはだかったダグダスは、数の差で返り討ちに遭い、彼女諸共人目に付かない場所に連れ込まれていた。
「負け犬の敗戦国民が生意気な! お前らはただ黙ってツラを地面に擦りつけてれば良いんだよ!」
3人組の1人はダグダスを罵倒しながら、彼に暴行を加え続ける。彼の身体はあちこちが痣だらけになっていた。
「止めて! 止めて、お願い!」
アテリーは泣き叫びながら暴行を止める様に訴える。だが彼女は他の2人の男に両腕を羽交い締めにされ、動くことが出来なかった。
「今までお前らアルティーア人が、俺たちの国に何をしてきたのか分かってるのか!? 俺の生まれた村は作物をごっそり徴収されてみんな飢え死にしたんだ!」
「“腹減った”って分かるか!? 何もかも根こそぎ持って行きやがって!」
「俺は元々、故郷から強制連行された鉱山奴隷だった! ニホンのお陰で俺は解放されたが、仲間たちは次々と死んでいったんだよ!」
彼らの素性はアルティーア帝国の元属国・属領から徴用された元奴隷である。アルティーア帝国の敗北、そして総督府による奴隷禁止宣言によって自由の身となった奴隷の中には彼らの様に、それまでの憂さ晴らしの為、かつての支配民であったアルティーア人に暴行や略奪行為を働く者が少なくなかった。
「そ・・・そりゃ、お上の連中がやっていた事だ。俺たちは関係無い!」
「そんなの関係有るか! どうせお前らもニホンで奴隷にされるんだろう。俺たちの今までの苦しみを精々思い知るんだな!」
ダグダスに暴行を働いていた男は、凶悪さと悔しさが入り交じった表情を浮かべると、地に臥す彼の腹に強い蹴りを入れる。
「カハッ・・・! ゲホッ、ゲホ・・・!」
ダグダスは身体中を駆け巡る衝撃に耐えかね、堪らず咳き込んでしまう。ぐったりとする彼の姿を見て一先ず気が晴れた様子の男は、今度はアテリーのもとへ近づいて来た。
「嫌・・・! 止めて!」
アテリーは下卑た顔で近づいて来る男から逃れようと名一杯暴れるが、彼女の両腕は男の仲間2人によってがっちりと掴まれており、男2人の屈強な腕力を前にして逃げ出すことなど出来なかった。男の手が自分の身体に伸びてくる。アテリーは堪らず目をつぶった。だがその時、啖呵を切るダグダスの声が聞こえて来た。
「そうはいかないぞ・・・その子に構うんじゃない!」
「!」
アテリーがゆっくり目を開けると、満身創痍になりながらも立ち上がったダグダスの姿があった。彼は右の瞼を腫らした目で、恋人に手を出そうとする男を睨み着ける。
「最後の忠告だ、回れ右して消えろ! 負け犬!」
「くそっ・・・!」
ダグダスはアテリーを助けだそうと、男に向かってパンチを繰り出した。だが、既に満身創痍の身である彼のパンチは弱々しく、男は彼の拳を軽く叩き落としてしまう。足もボロボロになっていたダグダスは、その拍子に地面の上に膝を付けてしまう。
「アハハハハッ、ハハハハハッ!」
男は高笑いを上げながらダグダスを見下ろす。他の2人もニヤニヤしながらその様子を眺めていた。
(好きな女1人守れないのか・・・俺は!)
ダグダスは悔しさの余り下唇を噛む。自身の非力さを恨む彼の耳には、啜り泣くアテリーの声が聞こえて来ていた。だがその時、彼の脳裏に日本国の役人が放ったある一言が過ぎる。
『彼女の心を・・・自分の下に取り戻したいか?』
「!」
何故自分が此処へ来たのか、その理由を今一度思い返したダグダスは、意を決した表情を浮かべると左の拳を強く握り締める。その直後、彼は立ち上がりながら、男の顔目がけて力の限り拳を振り上げた。
「なっ!?」
ドカッ!
完全に不意を突いたそのパンチは男の顎にヒットし、脳震盪を起こした男はふらふらと回りながら地面の上へ倒れ込んだ。
「お、おい! お前!」
「大丈夫か!?」
ノックアウトされてしまった仲間の姿を見て、アテリーの両腕を掴んでいた他の2人の男は大きく動揺していた。その刹那、数多のライトの光が彼らに向かって照らされる。
『我々は“総督府”の警備隊だ! 暴行の現行犯でお前たちの身柄を取り押さえる! 両手を上げて地面に伏せろ!』
それは壱川が呼んだ陸上自衛隊の警備隊だった。数多の銃口を向けられた男たちは、咄嗟にアテリーの身体から離れると、隊員の指示通りに地面の上で俯せの姿勢を取る。抵抗の意思が無いことを確認した隊員たちは男らの下へさっと近づき、彼らの両手を素早く拘束した。解放されたアテリーはすぐにダグダスの下へ駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
「!」
その時、アテリーの耳に聞き覚えのある声が聞こえて来た。声のした方をさっと見てみると、そこには自分が待ち焦がれていた筈の役人の姿があった。
「こりゃ酷い・・・」
遅れて現れた壱川は、手ひどくやられてしまったダグダスの姿を見ると、「いせ」の医務区画に勤務する衛生員たちにPHSで連絡を入れる。
「一先ず医務室へ運びます、君も来るだろう?」
「は、はいっ!」
PHSを切った壱川の問いかけに対して、アテリーは少し食い気味な様子で答える。その後、ダグダスは担架に乗せられて「いせ」の医務区画へ運ばれ、手当を受けることとなった。
交流祭会場 舞台
その頃、交流祭の会場では様々な楽器を持つ「中央音楽隊」の隊員たちが、著名なクラシック音楽や吹奏楽にアレンジされたJ−POP、アニメソングの演奏を行っていた。一般席に集まっている平民の他、特別席には首都の中心街に暮らす貴族や皇族たちが着席しており、異国の管弦楽団が奏でる音楽に浸っている。
『・・・では、最後の曲となります。これは我が国において“21世紀で最も売れた曲”として有名な楽曲でして・・・』
音楽隊による演奏はいよいよ最後の一曲に入っていた。舞台袖では、総督府に所属する官僚によって結成された有志バンドのメンバーたちが出番を待って控えている。サックス担当の大河内忍、ベースギターを抱える仲嶺聖、電子ピアノ奏者の師田皐月、ドラム経験者の神内一樹の4人は、ギターボーカルの壱川が中々現れないことに焦っていた。
「おい! 遅いぞ!」
大河内は貧乏ゆすりをしながらメインボーカルの到着を待ちわびていた。その時、壱川が息を切らしながら舞台袖に現れたのだ。
「やっと来た! 何処行ってたんだ!?」
「悪い・・・ヤボ用でね、でも準備は大丈夫だ、行こう!」
程なくして中央音楽隊の演奏が終わる。観客席からは割れんばかりの拍手が沸き上がっていた。壱川はギターケースに入っていたエレキギターを取り出した。因みにこのギターは彼が自宅から持って来た自前の品である。
『続いては・・・ついに最後のプログラム、総督府に勤務する職員たちによって結成された“有志バンド”の演奏です。普段は役人仕事に精を出す彼らが奏でる音楽をお楽しみください』
進行役を勤める中村の紹介文が聞こえて来る。その直後、有志バンドに名を連ねる5人の官僚が楽器を携えて舞台袖から現れた。普段着のスーツに身を包む彼らに、観客たちの視線が一斉に集まる。
メインボーカルを勤める壱川はエレキギターから伸びるコードをアンプに繋ぎ、スタンドに設置されたマイクの電源が入っていることを確認すると、マイクに口を近づけた。
『どうも、じゃあ早速・・・まず始めに昔流行った“オールディーズ”を。・・・ああ、僕たちの居た世界じゃ昔流行った曲だ』
壱川はそう言うと肩に掛けたエレキギターをかき鳴らし始める。彼の演奏に合わせて他のメンバーたちも楽器を鳴らし始めた。
そのイントロは1960年代のアメリカで広まった大衆音楽である「ロックンロール」の、スタンダード・ナンバーとも言うべき有名な曲だった。1985年に大ヒットした映画の劇中歌にも使用された他、著名なクラシックや民族音楽と共にボイジャー1号・2号のゴールデンレコードにも収録され、宇宙へと旅立った曲でもある。
(これは・・・!)
中央音楽隊のメンバーたちは意外すぎる選曲に驚き、一様に顔を見合わせる。日本の音楽を紹介する式典で、アメリカのロックンロールを弾き始めるとは思わなかったのだ。
「・・・!」
聞き慣れないロックンロールという音楽に、集まっていたクステファイの市民たちは戸惑いながらも身体を動かし始める。音楽祭は盛大なダンスパーティーの様相を見せて始めていた。
貴賓席から有志バンドの舞台を見ていたサヴィーアも、彼らの演奏に興味を抱く。
「これは・・・今までに無い音色ですね!」
「え、ええ」
後藤は若干戸惑いながらも笑顔で頷いていた。ロックンロールは確かに聴衆の心を捉えていたのである。
会場の雰囲気が盛り上がるのに比例して、壱川のテンションもヒートアップしていく。そして彼は徐々に暴走を始めてしまう。
片脚の膝と腰を曲げてアヒルの様に飛びはねながら舞台を横切るダックウォーク、テケテケテケ・・・のリズムで有名なクロマチック奏法、腕を大きく振り回して弦をかき鳴らすウィンドミル奏法、フィンガーボードの弦を指で叩き付けるタッピング奏法、ギターを頭を後ろに持って行き、フィンガーボードを見ないで弾く背面奏法・・・即興のアドリブを入れながら舞台上で暴れ回る外務官僚の姿を、中央音楽隊のメンバーたちは困惑しながら見つめていた。
「・・・」
困惑は観客にも広がって行く。20世紀後半の音楽界を風靡したそれらは、この世界では馴染みのないものであり、彼らの耳には雑音にしか聞こえなかった。完全に自分の世界に浸っていた壱川は、観客が静まりかえっていることに気付くと、苦笑いを浮かべながらマイクに向かって話しかける。
『君たちにはまだ早かったね・・・あと400年後くらいには流行る』
壱川はそう言うと背後の仲間達に向かって小声で指示を出す。直後、再び観客席の方を向いた彼は、再びマイクに口を近づけた。
『じゃあ・・・趣向を変えて次の曲を』
壱川はそう言うと再びエレキギターの弦に指を掛ける。他のメンバーも楽器を鳴らし始めた。彼らが演奏を始めたのは、2000年代初頭に日本の音楽界を風靡したある5人組ロックバンドが発表した楽曲だった。
その後、有志バンドによる演奏は滞りなく終了し、彼らには中央音楽隊の演奏が終わった時と同じく、拍手喝采が捧げられたのだった。
総督府「いせ」艦内 医務区画
結果として交流祭は成功に終わり、観客席に集まっていた市民たちは家路に付いていた。舞台を終えた壱川らも「いせ」の艦内に戻っていたが、2人の男女の様子が気になった壱川は医務区画を訪れていた。
「・・・彼氏は大丈夫かい?」
壱川はダグダスが眠る病床の側に座っていたアテリーを見つけて話しかける。壱川に気付いたアテリーは後ろを振り返った。
「は、はい・・・お医者様に診て頂きました。命に別状はないと・・・」
アテリーはそう言うと再び視線をダグダスへと向ける。彼女の頬には涙の跡が付いていた。その後、2人の間には沈黙が流れる。
「あ、あの・・・!」
「手紙のことなら俺は知らない。そして、あの蜂蜜酒はあの時のお礼の印・・・それ以上でもそれ以下でも無い、そうだろう?」
「!」
壱川は意を決した表情で口を開いたアテリーの言葉を遮り、一方的に言葉を伝えた。それは遠回しに“自分のことはもう忘れて、ダグダスに付いてやれ”と告げるものだった。
「あの拳には僕もしびれたよ。こんな良い男はそう居ない。それが分かっただろう。もう変な気の迷いなんか起こすんじゃ無いよ」
「・・・」
アテリーは無言のままに頷いた。自らの愚かさを改めて悔いた彼女は一筋の涙を流す。
「ああ、最後にもう1つだけ・・・。幸せにね・・・」
「!」
その場から立ち去ろうとしていた壱川は振り返り、微笑みを浮かべながら最後に一言だけ告げる。この一件によって仲を取り戻したダクタスとアテリーの2人は、この日の1ヶ月後に祝言をあげることとなった。
因みに彼女ら2人を襲った元属国・属領民については、逮捕後に“支配民であったアルティーア人に復讐したかった。どうせ奴隷にされると思っていたから何をしても大丈夫だと思った”と語り、この一件は同時に、アルティーア帝国が今まで積み重ねてきた恨みの深さを知らしめる結果にもなった。暫定政府を率いるサヴィーアは後に、独立を果たした元属国・属領との関係改善にも尽力することとなる。