三話 避難する
流石にこの事態になってまだ学校があるなんて言うのは、流石に無かった。インフルエンザの流行とはわけが違う。一部の国では国家非常事態宣言を発令するほどの脅威が、日本で広まりつつあるのが確認されたのだ。作者の思っていることを考える場合でもなく、数式が美しいなどと妄言を垂れ流す輩は早々に死ぬだけだ。
とはいえ、現在地は徳島県徳島市。人口は少ない。それにまだ四国には感染者は確認されてはいないが、時間の問題なのは、多分共通の理解だ。
また全国に無差別殺人症候群――通称、ランキリが広がったのを知ると、すぐに四国を出る人が出た。
感染者が出た付近に家族がいる人たちだ。
大学は地元だけではなく、もちろん他県から来た人がいる。知り合いはここより地元に多いのが当然だし、なにより家族のもとに向かいたいというのは、当然の事だった。
だから、昼のニュースでこの事が分かると、コウキの研究室仲間はすぐに地元に帰る人がほとんどだった。高藤も帰って行った。
残ったのは、コウキだけだ。
コウキは迷っていた。
両親は名古屋に住んでいて、感染者は名古屋でも確認されている。
帰るべきだ。
帰ろうと思えば、いくらでも金を使って帰れるだろう。
でも、時期もタイミングも悪い。この時期だと平日に高速バスの名古屋便が無い。それにあったとしても、早朝か深夜ですぐには帰れない。
大阪に行って、新幹線で名古屋に行くという手もあるが、当日に大阪行きのバスはすでに満席だ。
さらにコウキは免許は持っているが、車は無い。もっというなら、免許を取ってから4年が経過するが、一度も運転していない。もはや運転の仕方を忘れていると言っても良い。レンタカーを借りて、初めての運転が高速道路なんて悪夢だ。名古屋に着く前に事故死してしまう。
そういう事情もあって、結局ここ徳島に留まっていた。
現在時刻、午後9時。
政府からの発表があった。
概要を掻い摘めば、この国は無差別殺人症候群の感染拡大が認められ、初期対策が今後を左右する。感染拡大を抑えるために、不必要な外出は控える事。また、感染した人は最寄りの大きな病院に行き、治療を受ける事。
など、会見は短かった。意図的に切り上げて、余計な追及を避けたいのが目に見えていた。
国武首相は、三枝官房長官はどうなっているのか。感染者は具体的に何人なのか。未だに分からない事が多い。
会見が終わると、テレビは外出を控えること。また各教育委員会は休校する事を発表した。大学も恐らく休校になるだろう。
コウキはすぐに外に出て、近くのスーパーに向かった。出来るだけ立て籠るために食料を買いに来たのだが、考える事は大体同じのようだ。しかも少し出遅れてしまったようで、あまりえり好みできるような状況でもない。
調理したことのある野菜類と、個数制限のかかったカップめん類を買えるだけ買いこんだ。工夫すればなんとかもつだろう。
精算を終えて家に帰る途中に、携帯に母から電話がかかってきた。
「もしもし」
「あんた、どーすんの? こっち戻ってくる?」
すぐに本題に斬り込んでくれるだけ、コウキの扱いを分かっている。
というか、コウキもいつのまにか徳島に留まるための準備をしていることに、今気付いた。勝手に名古屋に帰るという選択肢を消していたのか。もう買っちゃったし、処分するのはもったいない気もする……。というか、行って帰るだけでも相当な金がかかってしまって、奨学金暮らしのコウキにはきつい出費だ。帰るのは盆と年末と春休みだけで良い。
「帰らない。こっちにいる。金ねーし」
「お金位出してあげるわよ」
そう言われると、弱い。名古屋に戻りたいというのもあながちウソではないのだが。
「帰れるなら帰る。土曜まで名古屋の直行便内から帰れない」
「大阪から帰ればいいでしょ」
「大阪便なんてどこも埋まってるって」
「電車使って、岡山からでもいいから」
「ええ……」
確かにその手は考えていなかったが、滅茶苦茶面倒だな。
「ていうか、そっちがこっちに来たら? 名古屋に感染者いるんでしょ? 徳島、まだいないよ」
「あんた、外に出るなって言われているのに、私達に外でろって言うの?」
「オレは良いのかよ……」
中々の名案だと思ったのだが、外に出たくないのも分かる。その論だと、コウキが名古屋に行くのも相当危険だと思うのだが。
もういい、決めた。
「戻んない。外でるの危ないなら、引きこもるから、オレ。わざわざ危険犯す必要ないし」
「……あっそ。じゃあ、気をつけんのよ」
それだけ言うと、切ってしまった。あっちには父も弟もいるし、コウキがいなくたってどうってことはない。なんなら死んだところで、そう迷惑もかけないだろう。
変なこと考えているな、と思いながら部屋に戻って、戸締まりを確認した後、エネルギー消費を抑えるために夜10時に就寝した。
太陽が昇り、徐々に部屋の中が明るくなるのにつれて、覚醒した。
今日から学校は無いし、やることはない。
イマイチ、実感がわかない。本当に日本で無差別殺人症候群が流行しようとしているのか。前に見た早朝から銃撃戦が始まってしまうような状況になるのが、コウキの想像力では追いつく事が出来ない。
テレビをつけ、そのままトイレに行き、その流れで食事を作る。
ワンルームなので台所からでもテレビは見えるが、料理の音がうるさくてテレビの音は聞こえない。
今日も鶏肉のステーキと、すでに仕込んでおいた味玉を二つが朝食だ。
さらに盛って小さなテーブルにそれを置いて、テレビを眺めた。
コウキは裸眼ではものが見えない。さっきは顔を洗うために眼鏡をかけていなかったから、ただテレビをつけてみている気になっていたのだ。だから、眼鏡をかけ直して、改めてテレビを見つめると、身近ではないが、手を伸ばせばすぐそこに死の脅威がある事を思い直した。
テレビの見出しは『国武首相死亡』と淡々と事実を語っていた。
死んだ。発表した。いや、死は確定事項だ。政府が発表したのか……?
テレビを見ると、そうではないようだ。未確定情報を流している。政府は否定しているが、どこからか国武首相が死亡したというリーク情報が出てきたのだ。
でも大きな変化だ。国民はどう動くだろう。予想できない。
この際、死んでなくても関係ないのだ。
国武首相は表に出てきていない。
それなら生きていようが、死んでいるのと同じだ。少なくとも末端の一市民のコウキはそう感じる。官房長官も出てこない。他の大臣はどうだろう。
「ネットも荒れてるな」
混乱の極み、とまでは言わないが、言いたい放題だ。
海外に逃亡したくたって、まだ日本の方がまし。ここから広げなければ、まだ日本は安全圏になれる。大丈夫だ。
「それって、見通し、甘くない……?」
楽観的、前向きなのはいいけど、それって現実逃避だよね。思考停止と同じだと思う。対策はするべきだけど、まさか駄目だった時の事を全く想定しない訳にはいかないんじゃ?
だけど、コウキにできることなんてまったくない。皆無だ。ゼロだ。塵芥すらない。
「結局引きこもってろって話だろ」
やることはない。外には出ない。テレビなり、ネットなりしていれば、時間も過ぎる。騒ぐ事じゃない。外に出なければ、騒ぎは収束する。
そのはずだ。
だけど、結局コウキも最終的には希望的観測に縋っていたのだ。最悪を考えろと言ったけど、結局大丈夫だという考えてになっていた。
すでに午後の三時を回っているが、外は凄い事になっていた。
たった半日で本州のほぼ全ては感染者が確認され、日本の島国である四国にも感染者が確認された。
十分ごとに更新される感染者の数を見ていると、数年前の東日本大震災を思い出した。
あの時も、被害者の数が爆発的に増える訳では無いが、徐々に、確実に、じわじわと取り返しのつかない数の人が死んでいくのが、数字として表れていた。テレビ画面には日本地図が表示され、感染者が確認された県が真っ赤に塗りつぶされている。水と森林の国である日本が、真っ赤に燃え盛っていた。
そして報道は徐々に加熱し、それと同時に沈鬱な状況に陥っていることを如実に表していた。
増える数は時間が経つごとに加速度的に膨れ上がる。それはつまり、日本がいつの間にか無差別殺人症候群を発症する何かに侵攻されていることを表していた。
日本人は、久方ぶりに思い出していた。
圧倒的な敵を前に、為す術なく敗北していく未来をリアルに思い描いていた。
戦後初めて、二度目の日本壊滅の憂き目にあっている。
テレビの向こうでは逐一入る情報をアナウンサーが読み上げ、状況がまだ最悪でない事を告げるだけだ。
ここは最低じゃない、底は、まだ下にある。
「やっべー、やっべー、やっべーよ……」
コウキは徳島にも感染者が現れたことにかなり動揺していた。四国に入るにはいろいろ手段はある。けど、そのどれも面倒で、金がかかる。陸を通っても、瀬戸大橋などのでかい橋は、通るだけで金がかかるし、高速を通らなければならない。一般道など存在しないと思っていたから、こっちに来るだけでも金銭的ハードルが高い。金のない大学生のコウキの感覚では、四国にわざわざ非難する奴なんていいなんだろうとか思っていた。
だけど、どうだ。最初の感染が確認された後、四国四県は真っ先に次の感染者を確認した。
たぶん、四国は安全圏だと思った人がここに殺到したのだ。その中に感染者がいた。それだけ。それだけなのに……。
どうすんの、これ? 逃げる? どこに? 外出たら感染者がいるかも……? そもそもどうやって感染すんの? 何が感染すんの? バイオハザード的な噛まれたら終わり? そんな都合のいい事ある? 攻撃性が増すってどういうこと? 殺しに来るの? え、やばい。混乱してる……? してる。絶対してる。もう訳わかんなくなってきた。
仮に、噛まれたら終わりなら外出れない。でも食料だってそう多くない。インフラだっていつか止まるかも……。実際、外国だと止まっている所も少なくない。
「あ、み、水……」
水道が止まる前に水だけでも確保しないと。
コウキはユニットバスに直行して、風呂に勢いよく水をためる事にした。ドバババッと快音が狭い風呂場に響く。
水だけは、ある程度確保できた。
一定のリズムで出る音が、少しだけコウキを落ち着かせた。
コウキにできることはない。静観するしかない。慌てなくても、数日なら食料はある。水もある。風呂には入れないけど、体なんて拭けばいい。
特に自治体からの指示が無い限り、動くのは自殺行為だと愚考する。
「……けど」
その手のゲームとか漫画を参考にする訳では無いが、動き出しが遅いとすでに詰む可能性もある。なにより、一人というのが怖い。遅かれ早かれ一度は外に出ないといけない。
今なら動く事だけは簡単だ。
コウキの考えは末期的には確実に詰む。外に感染者が一杯になれば、その攻撃性から殺される。だからそれに対抗するために、軍隊が出張って、弾丸をまき散らしている。
自主的避難か……。
悩みどころだ。でも結構重要な場面だよね……?
コウキの住んでいるマンションは五階建てで、今は四階に住んでいる。
一階に降りる手段はエレベーターと階段の二つ。けど、出入口は一つだ。そこを押さえられると正規の手段では、脱出できない。
この立て籠もりという手段は安全なように見えて、すでに王手がかかっている……? あと一手でほぼ詰む要素が完成していると言っていい。
その点、外に行けば、目の前の危険は増えるけど、自由は増す。
現状維持か、変化を求めるか。まだ死が目の前に無い段階だからこそ、迷える。
水はある。食料もある。けどいつか外に出る。その時までに無差別殺人症候群が収束していると言えるか? それは希望的観測だとさっき学んだばかりだ。駄目だったと仮定する。脱出するとき、コウキは一人。そとにはそれなりに感染者がいる。銃器を持って制圧するべき相手だ。武道の心得の無いコウキでは、制圧する事は出来ないし、囲まれたら終わる。
怖いなあ……。一人で決めるって、怖いなあ……。相談したい。たっぷり相談したい。できたら、流れに乗りたい。他人の言う通りにすれば、考えなくて済む。もう、自治体何してんだよ! 指示出せ!
すると、コウキの願いが届いたのか、大音量が外から響いてきた。
「町内の皆さま。無差別殺人症候群の流行が確認されています。戸締まりをしっかりと行い、外出は極力控えてください。もしくは、近くの避難所に避難をしてください。繰り返します――」
結局どうすれば良いんだよ。自己責任ってこと? 自分で判断してくださいね、あとはよろしくって? 公僕ども、体と命を張って国民の生命と健康を守りやがれ!
絶対面と向かっては言えない事を心の中で絶叫したら、風呂場の水を止めた。
一人は怖い。
避難すれば誰かいる、と思う。誰かに頼れる。駄目だったら、逃げればいい。家に帰ればいいんだから。考えに縛られて行動できないのは、多分駄目だ。
行こう。
自己責任だとしても、それは当たり前の事なんだ。
だって、自分の命だ。誰のものでもない。責任なんか取ってもらう必要もない。
「まあ、でも、もうちょっと仕事して欲しいよ……」
高い税金払ってるんだからさ。コウキはあんまり払ってないけど。
正直言えば、家に残りたいけど、一応自分で決めたことだ。迷いながらも準備を開始した。
幸い、一人暮らしする際に防災グッズとして、一式がそろった物を買っている。リュックサックに食料など、役立つものが入っている優れものだ。食料も二、三日程度入っているからこれを持っていけば良い。
あとは、歯ブラシとか、服とか、邪魔にならない範囲で詰め込んだ。
所詮は男の一人暮らしだから、持っていくものは少ない。十分かそこらで、準備は終わった。
三時二十分。
散らかった部屋を残し、玄関から出た。
そーっとドアを開けて、マンションの廊下に誰かいないか確認するが、杞憂に終わった。
もしもの時を想定して、鍵はかけない。
外はすでに日が傾きかけていて、オレンジ色に染まろうとしている。この時期には五時半には真っ暗だ。避難所の小学校までは目と鼻の先だ。まさか、二時間もかかる要素などない。
「さて……」
くつ紐をぎゅっと結び直して、あえて階段で一回まで降りる。念には念を入れて、もしもの時に備えよう。
あまり足音が鳴らないように注意しながら、4階分の階段を無事おりきった。
「……いない、よね?」
マンションの粗末な出入り口を見回して、人の気配が無いか確認する。いない。大丈夫だ。
……ていうか、いたとしても感染者かどうかなんてどうやって見分けていたんだ?
海外だと見かけた瞬間即射殺みたいな感じだったから、感染者の特徴が分からない。
テレビに映る感染者はすでに物言わぬ骸になり、そしてモザイクがかかっていた。動いている、または生きている感染者を見たことある日本人はかなり少ない。
そうだとしたら、海外の人間はどうやって見分けたんだ……?
まさか悠長に検査なんてしているわけもない。一目でそれとわかるような風貌でもしているのだろうか。想像上の不死者――ゾンビだとでもいうのだろうか。
「行くしかないよね……」
不安要素を思い出してしまったが、このまま止まっていても状況が動かない。
元々人通りの多い場所ではなかったが、異様に静かだ。車の音がかなり少ない。皆無ではなく、少ない、だ。今日も仕事に出ている人がいる。日本を継続させるために戦士たちが働いているのだ。感謝である。
働いている場合じゃないだろうとか、心の中で突っ込みながら、通りに出た。
コウキの住んでいる所はただの住宅地だが、ちょっとした商店街みたいになっていて、何故か店が点在している。
しかし、今日はどこも休業だ。それが不気味さを加速させている。
でも全く人がいないという訳じゃない。コウキと同じように避難しようとしている人がいる。
「良かった……」
避難する人がコウキしかいなかったら、避難所に行ってもすぐに引き返すところだ。
コウキもちょっとした安心感に包まれながら、堂々と通りに姿を出して避難所に向かって歩き始めた。
「静かだ……」
静まり返る道路を歩く。遠くには家族連れが一緒に歩いている。
一人じゃないというのがこれだけ安心感を与える。大げさに言えば、もう助かったという感じだ。
コウキの家から避難所である小学校は遠くない。三分も歩けばついてしまうほどだ。これも避難を決めた要因だ。もっと遠かったら、流石に外に出なかったかもしれない。
コウキが歩いている間にも一戸建てから家族が出てくる。この辺りの人は避難を選択する人が多そうだ。
その家族連れのお父さんと目があった。咄嗟に目を逸らそうとしてしまうあたり、恥ずかしい奴だと思ってしまう。
少し恰幅の広いお父さんが「どうも」と少しだけ頭を下げた。
「どもっす……」
もうちょっとはっきり言ったらどうなんだよ、オレ……。なんか感じ悪いだろうが。
そうやってそそくさと歩いてしまって、案の定心の中でああすれば、こうすれば良かったと後悔をして、注意散漫になりながらも歩いていた。
だけど、それが良かったのかもしれない。
一点を見つめるんじゃなくて、どこにも焦点を当てず、視界の全てを見ているようで、見ていないような状態だったから、視界の端で何かが動いているということに気付いた。
ゆっくりと左に顔を向けた。
「ん……ぅ?」
すぐそこだ。人がいる。普通だ。ただ着の身着のまま外に出て、ちょっとコンビニにでも行くかという感じの服装の中年男性。
なんか、変だ。
荷物を持っていない事は、どうでもいい。本当にコンビニに行くのかもしれない。避難ではなく、自分の家に立てこもるのも選択の内だ。今のうちに食料を再調達しようとしているのかもしれない。こんな状態でもコンビニは空いている、かもしれない。
それはいい。
いいけど。
コウキは立ち止まってよく男性を観察する。
なにが変だと思った……? 普通だ。歩いている。けど、変だ。おかしい。不気味とすら感じる。一番近い例えは、そう。体に障害がある人が、無理やり体を動かしているような……?
いや、違う。
まるで|体を動かす経験が足りていないようだ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。
ギクシャクしている。不自然だ。手と足が連動していない。視線が動き過ぎている。関節の動きが硬すぎて、まるで人形だ。
あれは、人間に似ている何かだ。
直感だ。分かる。あれだ。あれは人類じゃない。
「感染――!?」
ヤツと目があった。バッチリあってしまった。
途端に、ヤツの動きが変化した。
「んまぁ、そぅ」
「ちょ、待って……!」
ヤツはおおよそ人間の動きから逸脱した走り方で、こちらに向かってきた。手をぶんぶんまわし、足はバタバタしていて、とても無様だ。それが逆に恐怖心を与える。左右対称ではない動きが、嫌悪感を与えて、コウキは少し何が起きているのか分からなくなった。
そうやって突っ立って、ヤツがもう一秒もしない所まで来て、ようやく逃げないとという判断が付いた。
すぐに真っ直ぐ、全力で走った。だけど、おかしい。まったく前に進んでいない。体がぎくしゃくしている。スムーズに走れていない。あんな変な声出してるオッサンが追いかけてきてる状況でスムーズになんか走れるか!
「んまぁ! まあ! まあ! てててってえええええ!」
ドタドタ後ろから追いかけてくる。チラッと振り返ると、もうすぐそこまで来ていた。ていうか、裾に手が届いている。嘘でしょ。
そのままグイッと引っ張られて、尻餅をついてしまった。
「んお、お。おお!?」
ヤツは止まる方法が分かっていないようで、コウキからちょっと離れた所まで勢い余って走っていった。だけど、止まり方がわかると、こちらを向いて、にたぁっと笑い、「んほ、んほ、んほ」と鼻息を荒くしている。
やややややばい。頭イッてる、こいつ。
見た目普通の格好なのに、確実におかしい。
ヤツが一歩一歩近づく。
コウキは慌てて立ち上がって、逆方向に走り始めたが、ヤツの方が速くて、背中に思いっきり蹴りを食らった。
「んぎゃ――痛ぁっ……!」
そのままアスファルトに突っ込む形になって、肘を擦りむいた。膝も痛い。でもそんな感傷は一瞬で吹き飛んだ。吹き飛ばざるを得ない。
コウキが振り返りざま、ヤツが躍りかかってきたのだ。
もみくちゃになって、どこもかしこも痛くなって、腹の上に重みを感じる。それも相当な。
「うわっ……!! ちょ、どけって!」
ヤツはコウキの腹の上にまたがって、そのままグルングルン腕を振り回して、コウキを殴り始めた。コウキは咄嗟に両腕で顔を守ったが、ヤツはお構いなく力の限りと言った感じでガツガツ殴る。息もつかせず殴る。
「痛い、痛いから! やめて!」
「ごおおう、はぁん」
コウキのお願いなんて聞いてくれるはずもなく、淡々と殴る。
ようやくこの頃になって、周りが騒がしくなった。
避難所に集まり始めていた人たちが、襲われているコウキを見て、早々に逃げ始めた。
「だ、誰か、助けて! だ、誰かー!! どうにか、してよ!」
コウキは顔を庇いながら、近所の人や外に出ている人に呼び掛けるが、誰も来ない。
ヤツはコウキにのしかかって、ずっと殴るし、誰も来ないし。
「ちょっと! 誰か、お願いします!? 助けてよ! 痛い、痛いんだって! ホント、お願いだから!」
声を出せる限りだすが、もう殴られまくっていて、周囲の事なんて全然分からない。
助けてよ。関係ないってこと……? コウキがどうなろうが、自分たちの命が大事だってこと? そりゃ、そうかもしれないけどさ。『絆』とかいう感じが大好き日本人なんだから、大事にしようよ。助けあい? そういうのをさ。
「んっ、ん、ん、あふふ」
コイツはもう頭おかしいしさあ。いつまで殴ってんだよ。いい加減にしろよ。腹立ってきた。
ヤツの攻撃は単調だ。ただ腕を交互にぶんぶん回しているだけだ。幼稚園児だ。殴られまくった甲斐あって、タイミングは掴めている。右、左、右、左。次で行く――!
「おッ――!?」
気合を入れて顔面にでも張り手を入れようとしたら、ヤツは突然コウキの上からどいた。
いや、違う。
誰かがヤツを羽交い絞めにして、引っ張っている。
「君! 大丈夫!?」
恰幅の良い優しそうな男性だ。ていうか、さっき挨拶してくれた人だ。
その人ががっちりヤツの両脇に腕を通して、強引にコウキの体から引きずっているのだ。
「あ、ありがとうございます……」
助かった……? でもあいつ、拘束されてもバタバタ暴れている。
「うぉ!? 大人しくしないか!」
そう喝を入れても、ヤツが止まる事はない。
その内、ヤツはピタリと動きを止めた。え、何で……。
「うまうま、そ」
そうやってヤツは大口開けて、コウキを助けてくれた男性――おじさんの腕に噛みつこうとした。
「離れて!」
「……ッ! 危な……!」
おじさんはヤツの背中を突き放して、距離を取った。ヤツはコウキとおじさんを両方ぐるぐる見る。
「ど、どうしますか……?」
コウキはつい、そう訊いてしまった。
「私もどうすればいいのかは分からない」
ですよね。分かってたら、そうしている。
コウキは質問した。
「あの……。なんでこんなことしたんですか?」
無視。
「聞いてるんですか」
無視。
「聞けよ。オイ。何回殴ったと思ってんだよ。傷害罪で訴えるぞ」
無視。
やっぱり、普通じゃない。
「この方、感染してるかもしれませんね」
おじさんがそう判断した。
「そう思います、よね……。噛まれませんでしたか。いや、噛まれたら感染するとかは知らないんですけど」
「噛まれてはいない」
おじさんはさっきの噛みつきを辛うじて躱していた。どういう感染経路を取るか知らないが、コウキとおじさんは濃厚感染者になってしまった。
心の底からおじさんに謝りたい。
するとコウキの背後から女性が二人来た。
おじさんが「下がっていなさい」と強い口調で言った。
家族のようだ。奥さんに、娘さんだ。
「あなた大丈夫なの」
「これくらいなんともない」
そうやって警戒しながら会話をしていると、ヤツが動き始めた。
こっちだ。コウキの方に来た。いや、違う。奥さんの方に行った。
「そっち行くなって!」
コウキは慌ててリュックを脱いで、それで「おらっ!」とヤツをぶん殴った。
懐中電灯とか、ペットボトルとか入っていて、割合重いリュックだ。それが奴の頭に、ゴッと鈍い音をたててこめかみに直撃した。
「あっ……」
やっちゃった。
ヤツはそのまま昏倒したように、地面にぶつかる勢いで倒れてしまった。
「せ、正当防衛……。で、ですよね? こいつが、その、奥さんに、き、危害を加えようとしたから……」
コウキはきょろきょろ挙動不審になって、おじさんやその奥さん、果ては娘さんにまで勝手に話しかける。
「だ、だって、もしかしたら、怪我してたかもしれないし。それに、襲ってきたのはこいつだから……。ね、見てましたよね?」
コウキはチラッとおじさんを見る。
おじさんは「う、うむ……」みたいになって、コウキは続いて奥さんと娘さんにも、自分は悪くないという事を肯定してもらった。
「え、えへ、えへへ……」
コウキは気持ち悪い笑い声を出しながら、リュックを背負う。
おじさんがこっちに来た。
「妻を助けてくれてありがとう」
「あの、いえ。こちらこそ……。さっきは助けてもらって……」
コウキはぺこぺこ頭を下げる。常に下を見ていたから、気付いた。
「うおっ!?」
コウキがびっくりして急に動いたので、おじさんたちも釣られて離れた。
ヤツだ。ヤツがもう起きている。
「いたぁあい。いたあぁぁい」
わんわん泣きながら立ち上がって、そのままふらふらとどこかへ行ってしまった。
いたあぁぁい、いたあぁあい……。
コウキたちは身動き一つとれず、その場に縫いとめられていた。
外見と内面が釣り合っていない。
何もかもが不均衡で、気味が悪い。
ヤツの姿が見えなくなるまで、その場を動く事は誰にもできなかった。
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