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三話 避難する

 流石にこの事態になってまだ学校があるなんて言うのは、流石に無かった。インフルエンザの流行とはわけが違う。一部の国では国家非常事態宣言を発令するほどの脅威が、日本で広まりつつあるのが確認されたのだ。作者の思っていることを考える場合でもなく、数式が美しいなどと妄言を垂れ流す輩は早々に死ぬだけだ。


 とはいえ、現在地は徳島県徳島市。人口は少ない。それにまだ四国には感染者は確認されてはいないが、時間の問題なのは、多分共通の理解だ。


 また全国に無差別殺人症候群――通称、ランキリが広がったのを知ると、すぐに四国を出る人が出た。


 感染者が出た付近に家族がいる人たちだ。

 大学は地元だけではなく、もちろん他県から来た人がいる。知り合いはここより地元に多いのが当然だし、なにより家族のもとに向かいたいというのは、当然の事だった。


 だから、昼のニュースでこの事が分かると、コウキの研究室仲間はすぐに地元に帰る人がほとんどだった。高藤も帰って行った。


 残ったのは、コウキだけだ。


 コウキは迷っていた。


 両親は名古屋に住んでいて、感染者は名古屋でも確認されている。

 帰るべきだ。

 帰ろうと思えば、いくらでも金を使って帰れるだろう。


 でも、時期もタイミングも悪い。この時期だと平日に高速バスの名古屋便が無い。それにあったとしても、早朝か深夜ですぐには帰れない。

 

 大阪に行って、新幹線で名古屋に行くという手もあるが、当日に大阪行きのバスはすでに満席だ。

 

 さらにコウキは免許は持っているが、車は無い。もっというなら、免許を取ってから4年が経過するが、一度も運転していない。もはや運転の仕方を忘れていると言っても良い。レンタカーを借りて、初めての運転が高速道路なんて悪夢だ。名古屋に着く前に事故死してしまう。


 そういう事情もあって、結局ここ徳島に留まっていた。


 現在時刻、午後9時。


 政府からの発表があった。


 概要を掻い摘めば、この国は無差別殺人症候群の感染拡大が認められ、初期対策が今後を左右する。感染拡大を抑えるために、不必要な外出は控える事。また、感染した人は最寄りの大きな病院に行き、治療を受ける事。


 など、会見は短かった。意図的に切り上げて、余計な追及を避けたいのが目に見えていた。


 国武首相は、三枝官房長官はどうなっているのか。感染者は具体的に何人なのか。未だに分からない事が多い。


 会見が終わると、テレビは外出を控えること。また各教育委員会は休校する事を発表した。大学も恐らく休校になるだろう。


 コウキはすぐに外に出て、近くのスーパーに向かった。出来るだけ立て籠るために食料を買いに来たのだが、考える事は大体同じのようだ。しかも少し出遅れてしまったようで、あまりえり好みできるような状況でもない。


 調理したことのある野菜類と、個数制限のかかったカップめん類を買えるだけ買いこんだ。工夫すればなんとかもつだろう。


 精算を終えて家に帰る途中に、携帯に母から電話がかかってきた。


「もしもし」

「あんた、どーすんの? こっち戻ってくる?」


 すぐに本題に斬り込んでくれるだけ、コウキの扱いを分かっている。

 というか、コウキもいつのまにか徳島に留まるための準備をしていることに、今気付いた。勝手に名古屋に帰るという選択肢を消していたのか。もう買っちゃったし、処分するのはもったいない気もする……。というか、行って帰るだけでも相当な金がかかってしまって、奨学金暮らしのコウキにはきつい出費だ。帰るのは盆と年末と春休みだけで良い。


「帰らない。こっちにいる。金ねーし」

「お金位出してあげるわよ」


 そう言われると、弱い。名古屋に戻りたいというのもあながちウソではないのだが。


「帰れるなら帰る。土曜まで名古屋の直行便内から帰れない」

「大阪から帰ればいいでしょ」

「大阪便なんてどこも埋まってるって」

「電車使って、岡山からでもいいから」

「ええ……」


 確かにその手は考えていなかったが、滅茶苦茶面倒だな。

 

「ていうか、そっちがこっちに来たら? 名古屋に感染者いるんでしょ? 徳島、まだいないよ」

「あんた、外に出るなって言われているのに、私達に外でろって言うの?」

「オレは良いのかよ……」


 中々の名案だと思ったのだが、外に出たくないのも分かる。その論だと、コウキが名古屋に行くのも相当危険だと思うのだが。

 もういい、決めた。


「戻んない。外でるの危ないなら、引きこもるから、オレ。わざわざ危険犯す必要ないし」

「……あっそ。じゃあ、気をつけんのよ」


 それだけ言うと、切ってしまった。あっちには父も弟もいるし、コウキがいなくたってどうってことはない。なんなら死んだところで、そう迷惑もかけないだろう。


 変なこと考えているな、と思いながら部屋に戻って、戸締まりを確認した後、エネルギー消費を抑えるために夜10時に就寝した。


 太陽が昇り、徐々に部屋の中が明るくなるのにつれて、覚醒した。


 今日から学校は無いし、やることはない。


 イマイチ、実感がわかない。本当に日本で無差別殺人症候群が流行しようとしているのか。前に見た早朝から銃撃戦が始まってしまうような状況になるのが、コウキの想像力では追いつく事が出来ない。


 テレビをつけ、そのままトイレに行き、その流れで食事を作る。

 ワンルームなので台所からでもテレビは見えるが、料理の音がうるさくてテレビの音は聞こえない。


 今日も鶏肉のステーキと、すでに仕込んでおいた味玉を二つが朝食だ。

 さらに盛って小さなテーブルにそれを置いて、テレビを眺めた。


 コウキは裸眼ではものが見えない。さっきは顔を洗うために眼鏡をかけていなかったから、ただテレビをつけてみている気になっていたのだ。だから、眼鏡をかけ直して、改めてテレビを見つめると、身近ではないが、手を伸ばせばすぐそこに死の脅威がある事を思い直した。


 テレビの見出しは『国武首相死亡』と淡々と事実を語っていた。


 死んだ。発表した。いや、死は確定事項だ。政府が発表したのか……?

 テレビを見ると、そうではないようだ。未確定情報を流している。政府は否定しているが、どこからか国武首相が死亡したというリーク情報が出てきたのだ。


 でも大きな変化だ。国民はどう動くだろう。予想できない。

 この際、死んでなくても関係ないのだ。


 国武首相は表に出てきていない。

 それなら生きていようが、死んでいるのと同じだ。少なくとも末端の一市民のコウキはそう感じる。官房長官も出てこない。他の大臣はどうだろう。


「ネットも荒れてるな」


 混乱の極み、とまでは言わないが、言いたい放題だ。

 海外に逃亡したくたって、まだ日本の方がまし。ここから広げなければ、まだ日本は安全圏になれる。大丈夫だ。


「それって、見通し、甘くない……?」


 楽観的、前向きなのはいいけど、それって現実逃避だよね。思考停止と同じだと思う。対策はするべきだけど、まさか駄目だった時の事を全く想定しない訳にはいかないんじゃ?


 だけど、コウキにできることなんてまったくない。皆無だ。ゼロだ。塵芥すらない。


「結局引きこもってろって話だろ」


 やることはない。外には出ない。テレビなり、ネットなりしていれば、時間も過ぎる。騒ぐ事じゃない。外に出なければ、騒ぎは収束する。


 そのはずだ。




 だけど、結局コウキも最終的には希望的観測に縋っていたのだ。最悪を考えろと言ったけど、結局大丈夫だという考えてになっていた。


 すでに午後の三時を回っているが、外は凄い事になっていた。


 たった半日で本州のほぼ全ては感染者が確認され、日本の島国である四国にも感染者が確認された。


 十分ごとに更新される感染者の数を見ていると、数年前の東日本大震災を思い出した。

 あの時も、被害者の数が爆発的に増える訳では無いが、徐々に、確実に、じわじわと取り返しのつかない数の人が死んでいくのが、数字として表れていた。テレビ画面には日本地図が表示され、感染者が確認された県が真っ赤に塗りつぶされている。水と森林の国である日本が、真っ赤に燃え盛っていた。


 そして報道は徐々に加熱し、それと同時に沈鬱な状況に陥っていることを如実に表していた。


 増える数は時間が経つごとに加速度的に膨れ上がる。それはつまり、日本がいつの間にか無差別殺人症候群を発症する何か(・・)に侵攻されていることを表していた。


 日本人は、久方ぶりに思い出していた。


 圧倒的な敵を前に、為す術なく敗北していく未来をリアルに思い描いていた。


 戦後初めて、二度目の日本壊滅の憂き目にあっている。

 テレビの向こうでは逐一入る情報をアナウンサーが読み上げ、状況がまだ最悪でない事を告げるだけだ。


 ここは最低じゃない、底は、まだ下にある。


「やっべー、やっべー、やっべーよ……」


 コウキは徳島にも感染者が現れたことにかなり動揺していた。四国に入るにはいろいろ手段はある。けど、そのどれも面倒で、金がかかる。陸を通っても、瀬戸大橋などのでかい橋は、通るだけで金がかかるし、高速を通らなければならない。一般道など存在しないと思っていたから、こっちに来るだけでも金銭的ハードルが高い。金のない大学生のコウキの感覚では、四国にわざわざ非難する奴なんていいなんだろうとか思っていた。


 だけど、どうだ。最初の感染が確認された後、四国四県は真っ先に次の感染者を確認した。

 たぶん、四国は安全圏だと思った人がここに殺到したのだ。その中に感染者がいた。それだけ。それだけなのに……。


 どうすんの、これ? 逃げる? どこに? 外出たら感染者がいるかも……? そもそもどうやって感染すんの? 何が感染すんの? バイオハザード的な噛まれたら終わり? そんな都合のいい事ある? 攻撃性が増すってどういうこと? 殺しに来るの? え、やばい。混乱してる……? してる。絶対してる。もう訳わかんなくなってきた。


 仮に、噛まれたら終わりなら外出れない。でも食料だってそう多くない。インフラだっていつか止まるかも……。実際、外国だと止まっている所も少なくない。


「あ、み、水……」


 水道が止まる前に水だけでも確保しないと。

 コウキはユニットバスに直行して、風呂に勢いよく水をためる事にした。ドバババッと快音が狭い風呂場に響く。


 水だけは、ある程度確保できた。

 一定のリズムで出る音が、少しだけコウキを落ち着かせた。


 コウキにできることはない。静観するしかない。慌てなくても、数日なら食料はある。水もある。風呂には入れないけど、体なんて拭けばいい。


 特に自治体からの指示が無い限り、動くのは自殺行為だと愚考する。


「……けど」


 その手のゲームとか漫画を参考にする訳では無いが、動き出しが遅いとすでに詰む可能性もある。なにより、一人というのが怖い。遅かれ早かれ一度は外に出ないといけない。


 今なら動く事だけは簡単だ。


 コウキの考えは末期的には確実に詰む。外に感染者が一杯になれば、その攻撃性から殺される。だからそれに対抗するために、軍隊が出張って、弾丸をまき散らしている。


 自主的避難か……。


 悩みどころだ。でも結構重要な場面だよね……?

 コウキの住んでいるマンションは五階建てで、今は四階に住んでいる。

 一階に降りる手段はエレベーターと階段の二つ。けど、出入口は一つだ。そこを押さえられると正規の手段では、脱出できない。


 この立て籠もりという手段は安全なように見えて、すでに王手がかかっている……? あと一手でほぼ詰む要素が完成していると言っていい。


 その点、外に行けば、目の前の危険は増えるけど、自由は増す。


 現状維持か、変化を求めるか。まだ死が目の前に無い段階だからこそ、迷える。


 水はある。食料もある。けどいつか外に出る。その時までに無差別殺人症候群が収束していると言えるか? それは希望的観測だとさっき学んだばかりだ。駄目だったと仮定する。脱出するとき、コウキは一人。そとにはそれなりに感染者がいる。銃器を持って制圧するべき相手だ。武道の心得の無いコウキでは、制圧する事は出来ないし、囲まれたら終わる。


 怖いなあ……。一人で決めるって、怖いなあ……。相談したい。たっぷり相談したい。できたら、流れに乗りたい。他人の言う通りにすれば、考えなくて済む。もう、自治体何してんだよ! 指示出せ!


 すると、コウキの願いが届いたのか、大音量が外から響いてきた。


「町内の皆さま。無差別殺人症候群の流行が確認されています。戸締まりをしっかりと行い、外出は極力控えてください。もしくは、近くの避難所に避難をしてください。繰り返します――」


 結局どうすれば良いんだよ。自己責任ってこと? 自分で判断してくださいね、あとはよろしくって? 公僕ども、体と命を張って国民の生命と健康を守りやがれ!


 絶対面と向かっては言えない事を心の中で絶叫したら、風呂場の水を止めた。


 一人は怖い。

 避難すれば誰かいる、と思う。誰かに頼れる。駄目だったら、逃げればいい。家に帰ればいいんだから。考えに縛られて行動できないのは、多分駄目だ。


 行こう。

 自己責任だとしても、それは当たり前の事なんだ。


 だって、自分の命だ。誰のものでもない。責任なんか取ってもらう必要もない。


「まあ、でも、もうちょっと仕事して欲しいよ……」


 高い税金払ってるんだからさ。コウキはあんまり払ってないけど。


 正直言えば、家に残りたいけど、一応自分で決めたことだ。迷いながらも準備を開始した。


 幸い、一人暮らしする際に防災グッズとして、一式がそろった物を買っている。リュックサックに食料など、役立つものが入っている優れものだ。食料も二、三日程度入っているからこれを持っていけば良い。


 あとは、歯ブラシとか、服とか、邪魔にならない範囲で詰め込んだ。


 所詮は男の一人暮らしだから、持っていくものは少ない。十分かそこらで、準備は終わった。


 三時二十分。


 散らかった部屋を残し、玄関から出た。


 そーっとドアを開けて、マンションの廊下に誰かいないか確認するが、杞憂に終わった。


 もしもの時を想定して、鍵はかけない。

 

 外はすでに日が傾きかけていて、オレンジ色に染まろうとしている。この時期には五時半には真っ暗だ。避難所の小学校までは目と鼻の先だ。まさか、二時間もかかる要素などない。


「さて……」


 くつ紐をぎゅっと結び直して、あえて階段で一回まで降りる。念には念を入れて、もしもの時に備えよう。


 あまり足音が鳴らないように注意しながら、4階分の階段を無事おりきった。


「……いない、よね?」


 マンションの粗末な出入り口を見回して、人の気配が無いか確認する。いない。大丈夫だ。


 ……ていうか、いたとしても感染者かどうかなんてどうやって見分けていたんだ?

 海外だと見かけた瞬間即射殺みたいな感じだったから、感染者の特徴が分からない。


 テレビに映る感染者はすでに物言わぬ骸になり、そしてモザイクがかかっていた。動いている、または生きている感染者を見たことある日本人はかなり少ない。


 そうだとしたら、海外の人間はどうやって見分けたんだ……?


 まさか悠長に検査なんてしているわけもない。一目でそれとわかるような風貌でもしているのだろうか。想像上の不死者――ゾンビだとでもいうのだろうか。


「行くしかないよね……」


 不安要素を思い出してしまったが、このまま止まっていても状況が動かない。


 元々人通りの多い場所ではなかったが、異様に静かだ。車の音がかなり少ない。皆無ではなく、少ない、だ。今日も仕事に出ている人がいる。日本を継続させるために戦士たちが働いているのだ。感謝である。


 働いている場合じゃないだろうとか、心の中で突っ込みながら、通りに出た。

 コウキの住んでいる所はただの住宅地だが、ちょっとした商店街みたいになっていて、何故か店が点在している。

 しかし、今日はどこも休業だ。それが不気味さを加速させている。


 でも全く人がいないという訳じゃない。コウキと同じように避難しようとしている人がいる。


「良かった……」


 避難する人がコウキしかいなかったら、避難所に行ってもすぐに引き返すところだ。


 コウキもちょっとした安心感に包まれながら、堂々と通りに姿を出して避難所に向かって歩き始めた。


「静かだ……」


 静まり返る道路を歩く。遠くには家族連れが一緒に歩いている。

 一人じゃないというのがこれだけ安心感を与える。大げさに言えば、もう助かったという感じだ。


 コウキの家から避難所である小学校は遠くない。三分も歩けばついてしまうほどだ。これも避難を決めた要因だ。もっと遠かったら、流石に外に出なかったかもしれない。


 コウキが歩いている間にも一戸建てから家族が出てくる。この辺りの人は避難を選択する人が多そうだ。


 その家族連れのお父さんと目があった。咄嗟に目を逸らそうとしてしまうあたり、恥ずかしい奴だと思ってしまう。


 少し恰幅の広いお父さんが「どうも」と少しだけ頭を下げた。


「どもっす……」


 もうちょっとはっきり言ったらどうなんだよ、オレ……。なんか感じ悪いだろうが。


 そうやってそそくさと歩いてしまって、案の定心の中でああすれば、こうすれば良かったと後悔をして、注意散漫になりながらも歩いていた。


 だけど、それが良かったのかもしれない。


 一点を見つめるんじゃなくて、どこにも焦点を当てず、視界の全てを見ているようで、見ていないような状態だったから、視界の端で何かが動いているということに気付いた。


 ゆっくりと左に顔を向けた。


「ん……ぅ?」


 すぐそこだ。人がいる。普通だ。ただ着の身着のまま外に出て、ちょっとコンビニにでも行くかという感じの服装の中年男性。


 なんか、変だ。


 荷物を持っていない事は、どうでもいい。本当にコンビニに行くのかもしれない。避難ではなく、自分の家に立てこもるのも選択の内だ。今のうちに食料を再調達しようとしているのかもしれない。こんな状態でもコンビニは空いている、かもしれない。


 それはいい。

 いいけど。


 コウキは立ち止まってよく男性を観察する。


 なにが変だと思った……? 普通だ。歩いている。けど、変だ。おかしい。不気味とすら感じる。一番近い例えは、そう。体に障害がある人が、無理やり体を動かしているような……? 


 いや、違う。


 まるで|体を動かす経験が足りていないようだ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。


 ギクシャクしている。不自然だ。手と足が連動していない。視線が動き過ぎている。関節の動きが硬すぎて、まるで人形だ。


 あれは、人間に似ている何かだ。


 直感だ。分かる。あれだ。あれは人類じゃない。


「感染――!?」


 ヤツと目があった。バッチリあってしまった。


 途端に、ヤツの動きが変化した。


「んまぁ、そぅ」

「ちょ、待って……!」


 ヤツはおおよそ人間の動きから逸脱した走り方で、こちらに向かってきた。手をぶんぶんまわし、足はバタバタしていて、とても無様だ。それが逆に恐怖心を与える。左右対称ではない動きが、嫌悪感を与えて、コウキは少し何が起きているのか分からなくなった。


 そうやって突っ立って、ヤツがもう一秒もしない所まで来て、ようやく逃げないとという判断が付いた。


 すぐに真っ直ぐ、全力で走った。だけど、おかしい。まったく前に進んでいない。体がぎくしゃくしている。スムーズに走れていない。あんな変な声出してるオッサンが追いかけてきてる状況でスムーズになんか走れるか!


「んまぁ! まあ! まあ! てててってえええええ!」


 ドタドタ後ろから追いかけてくる。チラッと振り返ると、もうすぐそこまで来ていた。ていうか、裾に手が届いている。嘘でしょ。


 そのままグイッと引っ張られて、尻餅をついてしまった。


「んお、お。おお!?」


 ヤツは止まる方法が分かっていないようで、コウキからちょっと離れた所まで勢い余って走っていった。だけど、止まり方がわかると、こちらを向いて、にたぁっと笑い、「んほ、んほ、んほ」と鼻息を荒くしている。


 やややややばい。頭イッてる、こいつ。


 見た目普通の格好なのに、確実におかしい。


 ヤツが一歩一歩近づく。

 コウキは慌てて立ち上がって、逆方向に走り始めたが、ヤツの方が速くて、背中に思いっきり蹴りを食らった。


「んぎゃ――痛ぁっ……!」


 そのままアスファルトに突っ込む形になって、肘を擦りむいた。膝も痛い。でもそんな感傷は一瞬で吹き飛んだ。吹き飛ばざるを得ない。


 コウキが振り返りざま、ヤツが躍りかかってきたのだ。

 もみくちゃになって、どこもかしこも痛くなって、腹の上に重みを感じる。それも相当な。


「うわっ……!! ちょ、どけって!」


 ヤツはコウキの腹の上にまたがって、そのままグルングルン腕を振り回して、コウキを殴り始めた。コウキは咄嗟に両腕で顔を守ったが、ヤツはお構いなく力の限りと言った感じでガツガツ殴る。息もつかせず殴る。


「痛い、痛いから! やめて!」

「ごおおう、はぁん」


 コウキのお願いなんて聞いてくれるはずもなく、淡々と殴る。

 ようやくこの頃になって、周りが騒がしくなった。


 避難所に集まり始めていた人たちが、襲われているコウキを見て、早々に逃げ始めた。


「だ、誰か、助けて! だ、誰かー!! どうにか、してよ!」


 コウキは顔を庇いながら、近所の人や外に出ている人に呼び掛けるが、誰も来ない。

 ヤツはコウキにのしかかって、ずっと殴るし、誰も来ないし。


「ちょっと! 誰か、お願いします!? 助けてよ! 痛い、痛いんだって! ホント、お願いだから!」


 声を出せる限りだすが、もう殴られまくっていて、周囲の事なんて全然分からない。

 助けてよ。関係ないってこと……? コウキがどうなろうが、自分たちの命が大事だってこと? そりゃ、そうかもしれないけどさ。『絆』とかいう感じが大好き日本人なんだから、大事にしようよ。助けあい? そういうのをさ。


「んっ、ん、ん、あふふ」


 コイツはもう頭おかしいしさあ。いつまで殴ってんだよ。いい加減にしろよ。腹立ってきた。


 ヤツの攻撃は単調だ。ただ腕を交互にぶんぶん回しているだけだ。幼稚園児だ。殴られまくった甲斐あって、タイミングは掴めている。右、左、右、左。次で行く――!


「おッ――!?」


 気合を入れて顔面にでも張り手を入れようとしたら、ヤツは突然コウキの上からどいた。


 いや、違う。


 誰かがヤツを羽交い絞めにして、引っ張っている。


「君! 大丈夫!?」


 恰幅の良い優しそうな男性だ。ていうか、さっき挨拶してくれた人だ。

 その人ががっちりヤツの両脇に腕を通して、強引にコウキの体から引きずっているのだ。


「あ、ありがとうございます……」


 助かった……? でもあいつ、拘束されてもバタバタ暴れている。


「うぉ!? 大人しくしないか!」


 そう喝を入れても、ヤツが止まる事はない。

 その内、ヤツはピタリと動きを止めた。え、何で……。


「うまうま、そ」


 そうやってヤツは大口開けて、コウキを助けてくれた男性――おじさんの腕に噛みつこうとした。


「離れて!」

「……ッ! 危な……!」


 おじさんはヤツの背中を突き放して、距離を取った。ヤツはコウキとおじさんを両方ぐるぐる見る。


「ど、どうしますか……?」


 コウキはつい、そう訊いてしまった。


「私もどうすればいいのかは分からない」


 ですよね。分かってたら、そうしている。

 コウキは質問した。


「あの……。なんでこんなことしたんですか?」


 無視。


「聞いてるんですか」


 無視。


「聞けよ。オイ。何回殴ったと思ってんだよ。傷害罪で訴えるぞ」


 無視。


 やっぱり、普通じゃない。


「この方、感染してるかもしれませんね」


 おじさんがそう判断した。


「そう思います、よね……。噛まれませんでしたか。いや、噛まれたら感染するとかは知らないんですけど」

「噛まれてはいない」

 

 おじさんはさっきの噛みつきを辛うじて躱していた。どういう感染経路を取るか知らないが、コウキとおじさんは濃厚感染者になってしまった。


 心の底からおじさんに謝りたい。


 するとコウキの背後から女性が二人来た。


 おじさんが「下がっていなさい」と強い口調で言った。

 家族のようだ。奥さんに、娘さんだ。


「あなた大丈夫なの」

「これくらいなんともない」


 そうやって警戒しながら会話をしていると、ヤツが動き始めた。

 こっちだ。コウキの方に来た。いや、違う。奥さんの方に行った。


「そっち行くなって!」


 コウキは慌ててリュックを脱いで、それで「おらっ!」とヤツをぶん殴った。

 懐中電灯とか、ペットボトルとか入っていて、割合重いリュックだ。それが奴の頭に、ゴッと鈍い音をたててこめかみに直撃した。


「あっ……」


 やっちゃった。

 ヤツはそのまま昏倒したように、地面にぶつかる勢いで倒れてしまった。


「せ、正当防衛……。で、ですよね? こいつが、その、奥さんに、き、危害を加えようとしたから……」


 コウキはきょろきょろ挙動不審になって、おじさんやその奥さん、果ては娘さんにまで勝手に話しかける。


「だ、だって、もしかしたら、怪我してたかもしれないし。それに、襲ってきたのはこいつだから……。ね、見てましたよね?」


 コウキはチラッとおじさんを見る。


 おじさんは「う、うむ……」みたいになって、コウキは続いて奥さんと娘さんにも、自分は悪くないという事を肯定してもらった。


「え、えへ、えへへ……」


 コウキは気持ち悪い笑い声を出しながら、リュックを背負う。


 おじさんがこっちに来た。


「妻を助けてくれてありがとう」

「あの、いえ。こちらこそ……。さっきは助けてもらって……」


 コウキはぺこぺこ頭を下げる。常に下を見ていたから、気付いた。


「うおっ!?」


 コウキがびっくりして急に動いたので、おじさんたちも釣られて離れた。


 ヤツだ。ヤツがもう起きている。


「いたぁあい。いたあぁぁい」


 わんわん泣きながら立ち上がって、そのままふらふらとどこかへ行ってしまった。


 いたあぁぁい、いたあぁあい……。


 コウキたちは身動き一つとれず、その場に縫いとめられていた。


 外見と内面が釣り合っていない。

 何もかもが不均衡で、気味が悪い。


 ヤツの姿が見えなくなるまで、その場を動く事は誰にもできなかった。

twitterのアカウント作りました。

よろしくです。


https://twitter.com/tempester08

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