二話 正常化の偏見
無差別殺人症候群――元々は外国が最初にRandom Killing Syndromeと名付けた奇病だ。それを日本語にすると無差別殺人症候群になっただけ。
分かっていることは少ない。とても少ない。皆無に近いレベルだ。
混乱の中無差別殺人症候群の機構を解明する余裕なんてどこにもないし、守りに入るだけで精一杯なのだ現状だ。
唯一分かっていることは感染後72時間以内に、人格の消失が認められ、凶暴化し、その後周囲の人間を襲い、殺害もしくは感染させることが確認されている。
それに国武首相が感染した。
これは大事件だ。その辺の一般市民が感染したのとはわけが違う。
ほぼ確実に、国武首相は72時間以内に殺処分するしかない。
日本のトップを事実上、処刑する。
「……やっぱ、ヤバいのか……」
コウキはすでに家に帰っている。
何のかんの言っても、大学から帰宅命令は出なくて、定時まで研究する羽目になった。頭おかしいだろ。ふざけんな。この根性がブラック企業を云々……とか呟きながら、テレビをつけ、パソコンでも情報を収集する。
「あんまないけど、ね」
テレビでも国武首相が感染したとは言ったが、続報は無い。首相はどうなった。死んだ? 即死? けど、72時間で人格を消失すると言っていた。本当かどうか知らないけど。又聞きの、それに不確定な情報だ。72時間というのも疑わしい。
それでも一つだけ言えるのは、感染者は即抹殺するのが今現在の世界の対応だ。それだけ現地では無差別殺人症候群を恐れているのだけは確かである。
「おそロシア、おそロシア……なんて」
えへ、とか一人で呟きながら、心底気持ち悪い奴だと、少し、いやかなり落ち込んだ。
テレビから流れる情報も、イマイチ新鮮味に欠ける。それに異常事態が発生していると思うのだが、特に政府からの指示はない。強いて言うなら、混乱しないでくださいという事だけだ。官房長官が先程会見を開いていた。それに加えて無差別殺人症候群は抑え込みに成功したとも言っていた。
この一言が余計だったと思わざるを得ない。
その一言を聞き逃さなかった現地記者が、鋭い質問を飛ばしたのだ。
「それはつまり感染源と感染者がすでに死亡しているという事ですか!?」
この一言に官房長官は数瞬黙り込み、「現段階では何とも言えない」という発言に留まった。そのせいで、官房長官の言葉に信憑性が欠け始めたというのも否めない。
現段階で無差別殺人症候群を抑え込むには、感染者を殺処分するしかない。隔離しても良いのだろうが、72時間経てば人格が消失して、凶暴性が増してしまう。それは生物兵器と変わらない。
倍々ゲームで増える感染者を抑えるには、元を立つのが今は一番いい。だから、海外は軍隊を自国の至る所に配置して、苦渋の決断で、自国民を超法規的処置で殺している。
でも、それって海外の事であって、日本で出来んの……?
ネットの海をさまよっても、そんなことを書きこんであるのが散見された。
その前に、官房長官が大丈夫って言ってるし、大丈夫だよね、とか。嘘言う訳ないし、とか。いやいや、都合の悪い事は誰だって隠すでしょ、とか。個々人の考えが、ずらっと書いてあって、やっぱりみんな不安なんだと再確認できる。
もし感染爆発――パンデミックが起こったとしたらどうするか。引きこもる……? 避難する……? 打って出る……? 逃げる……? 観念して自殺する……? いっそのことやりたい放題する……?
状況に対応するための素人考えがあふれかえり、どれが正しいのか、そもそも正しい事なんてあるのか分からなくなる。
コウキはパソコンをやめて、テレビの画面に目を移した。
緊急特番が組まれるものの、最新情報が更新されることはない。
動くのが吉なのか。というか、ここは四国の一角であって、感染源は東京だ。何かあってもすぐに被害が来ることはない。焦らず、状況を見た方が……?
すると、珍しく携帯が鳴った。
ちょっとだけ何が起こったのか分からなくなったが、誰かが連絡したいのだとすぐに思い直し、携帯を手に取った。
ディスプレイを見ると、親――母のようだ。
画面をタッチして、耳に当てる。
「なに」
開口一番これなのだから、愛想が無い。我ながらもう少しあるだろうに。
「あんたニュースとか見てんの?」
言いたい事は分かった。
「見てるよ。あれでしょ。感染したやつ」
「それよ。そっちは大丈夫なの」
「いや、あれ東京だし。ここ徳島だよ。めっちゃはなれてるのに、何も起こらないから」
「そうだけど。もっとなんかあるでしょ」
「……言われても。オレにできることなんて、無いし」
「まあいいわ。それで、あんた明日も大学あるの?」
「さあ……? あるんじゃね?」
コウキもあるのかどうか分からないが、なんとなく休める気がしない。
「やっぱり理系って厳しいのね。まあ、いいわ。ちゃんとニュース見て、非難するときはちゃんとするのよ」
「いや、まだ避難とかそういう話出てないし……」
そこからは肉とかいる? とかそういう話になって、んー、いるとかそういう普通の会話をして、普通に終わった。
とくにする事も無いし、どうせ明日も大学あるし、寝た。
寝れば起きるしかないから、いつも通りの時間に起きてテレビで情報を収集する。
「変わってねーじゃん」
国武首相がどうなったのかもまだわからない。そんな訳ねーだろとか思いつつ、タンパク質中心の食事を簡単に作る。
食べながら大学のホームページに飛んでみたが、やっぱり休校措置とかそういうのは無かった。一国の頭がやばいときに普通に大学あんのかよ、とか、やっぱりねとか思って、いつも通りの時間に家を出て、そのまま研究室に入った。
すでに何人か研究室にいて、実験を始めていた。
異様な光景だと思いつつも、コウキもここにいるので変わらない。
首相が死ぬのだって、日本の歴史上初めての事じゃない。たしか任期中に死んだ人がいたような、いなかったような……。歴史にはあまり頓着しないので、わからない。それに理系だし、歴史嫌い。
自分の椅子に座れば、やることやらないと来た意味が無い。
席に座れば、高藤が話しかけてきて、コウキも返事をしながら、パソコンを弄る。
いつも通りだ。話題が少し無差別殺人症候群に偏っているが、それが普通だ。そこから波及して、なんで今日休みじゃねーんだよとなる。それが大学生だ。でも小学生も休んでないのに、大学生が休めるかっていう話だ。日本の社畜根性は半端ねーぜ、と言って高藤はガハハッと笑った。コウキも少し笑った。
お昼になって皆で食事をしながら、テレビを見ても別段変わった事はない。外国の事はいつも通り報じられているけど、日本に関する事は少ない。
「なんも起きないってことは、ランキリ抑え込めたンすかね」
高藤がテレビを見ながらそう言った。
先輩の一人が「んだよ、ランキリって」と問うた。
「いや、Random Killing Syndromeだから、略してランキリ。いちいち無差別殺人症候群って面倒じゃないっすか。ネットとか見てても、ランキリで通ってるし。かっこよくないっすか?」
「別にかっこよくはねーよ」
「そうっすか。呼び方はまあ、どうでもいいんですよ。どう思います?」
そこからは今までの情報を統合して、皆でちょっとした推論大会になった。暇な昼休みの時間を潰すただの話のタネだ。それでも東京から遠く離れた徳島にいる大学生数人が、適当な知恵を絞ったところで、真実に至る事は出来ない。それに真実も事実も知らないのだから、答え合わせも出来ない。
そうやって時間を潰し、あとは時間になれば研究を再開する。
そのまま定時になって、特に何も起こらなかった。
首相が感染しただけで、抑え込みには成功したのだろうか。
そもそもなぜ首相が感染した……?
インパクトが大きすぎて、忘れてた。ていうか、首相が感染するレベルなら、他の大臣とか大丈夫なわけ……?
という不安は的中した形になった。
前日まで政府報道官の役割のある三枝官房長官がテレビに露出していたが、今日に限って体調不良で官房副長官の一人である甘粕官房副長官が会見に臨んでいた。
三枝官房長官の状態を質問しても、「ただの体調不良で、療養中です」という返答しか返ってこない。まさかいつでもネタに飢えている記者たちがそれを逃すはずがない。
帰って早々テレビをつけると『三枝官房長官も感染か!?』という見出しで、様々な憶測が飛び交っていた。
これが本当なら日本のナンバー1と2が、実質いなくなったのと等しい。いや、副首相とかいるのかしらないけど、他の大臣とかもいるし、テレビもそんな事を言っている。二人がかけても危急が迫っている訳では無い。と言ってはいるけど、指揮官がいないだよ? それって駄目過ぎない? とか思うのはコウキの知識が不足しているからなのだろうか。
結局、一市民であるコウキにまで重大な情報など回ってくるわけもなく、その日も寝た。
事態が変わったのは、翌日の昼。
札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡で同時多発的に感染者の出現が確認された。
政府は、嘘を吐いていた。