第7話 次に向けて
ここでの暮らしも気付けば一ヵ月が経とうとしてた。
相も変わらず午前中は勉強、午後は運動という形になっている。
今日も今日とて、眠そうで怠そうな雰囲気でライザーが紙を抱えて、机の前に座っている僕らのところへとやってくる。
「今日はこれだけでいいからな。追加はなし。これくらいなら余裕だろ?」
「うそだろ!?」
「ほんとですか!?」
「こんな程度ならすぐ終わるわ!」
ドサッという効果音を添えて置かれた紙の束。一か月間毎日異常な量をやっていると目の錯覚というか、頭がおかしくなるというか、洗脳というか、そういったものが働いて、普段やっている量が量だけに、今までなら無理! と拒絶していたモノがとても楽に見えてしまう。
さらに今日は追加がない。この一言は神のお告げのようにありがたい言葉である。この一ヵ月でどれほど「はい、追加課題」の一言で地獄を見てきたことか。そのせいで午前中には終わらず、死ぬほどきつい午後の訓練の後に、体に鞭を打ってその課題をこなすこともしばしばあったのだ。
それらを思い出して、そして目の前の量の少なさに涙が出てしまいそうになりながら、手を付けようとするがビタッと動きが止まってしまう。
この男がただ単に量を減らすわけがなかったと、今更ながらに思い出させる。
「ああ、言い忘れてたけど、今回のは跳ね上がって難しくなってるからな。その紙の説明を見てわかんなかったらどんどん聞いてくれ」
この一か月間でかなり頭の回転が速くなってきた。なんというか、ライザーの説明の上手さが、僕らの要点を掴む能力を上げているのだと思う。
あの国の普通なら、みっちりと教育を施し二年ほどかけて生活に最低限必要な算術を覚える。加法、減法、乗法。そして三年目に受けたい人だけを募って除法を覚えさせる。
だというのにライザーという男は僕らに三週間ほどでそれらの四則演算を叩き込んだ。
理解できたことを実感した時は、本当に驚きを隠せなかった。
それと同時にライザーからの教育を受けることで、将来自分たちがどれくらい頭がよくなっているのか恐ろしくもなった。
そういうわけもあり、ビタッと動きが止まったのは束の間のこと。書いてある説明を読み込み、必死で頭を回転させ、すぐに手を動かし始める。
三者同様に手を動かしていく様子を見たライザーの口端は、少しだけ吊り上がっているように見えた。
☆
午後になると、いつも通り外に出て体を動かす。
普段やっているトレーニングは相変わらずきついが、なんとかついていけるようにはなってきていると思う。
「今のは惜しかったねー」
そう言って目の前に立っているのは、僕たちにかぶせていた帽子をくるくると器用に三つ同時に回すティアさんである。
今の発言から分かるように、追いかけっこの訓練は一か月経ったというのに、未だに成功できずにいた。
最初のころと比べれば、それなりに逃げている時間は伸びているが、一ヵ月経って成功できていないという事実は、胸に突き刺さるものがあった。
そんな風なこともあり俯いている僕を見かねたのか、ティアさんの指に従うように動いていた帽子がぴたりと止まり、下に落ちる。そして、その帽子を気にした様子もなくゆっくりと近づいてくる。
何だろうかと思いながらそちらに目を向けた瞬間だった。
「ふっ!!」
ティアさんの右の拳が僕の顔面に向かって迫ってきていた。目にも止まらない速さなので、動いたと認識した瞬間に、反射的に上半身をそらしていた。なんとなく来ると感じ取れたから取れた行動である。そのお陰で完全に避けることはできなかったが、ダメージを最小限に抑えることに成功する。
「な、何するんですか!?」
現状の把握は一瞬のこと。
ティアさんが僕に向かって攻撃してきた。しかもいきなり、唐突に。
そんな僕の怒号など全く気にした様子もないティアさんは、無理な姿勢をとったことで倒れている僕に視線を向けると、表情を突然笑顔に変え、ぐっと親指を突き出してサムズアップ。
「レイも合格!」
「……はい?」
取っている行動から言動まで全く理解ができなかった。
「だから、合格だよ。ご、う、か、く。やったね、おめでとう!」
「はあ」
あまりの脈絡のなさに、いきなり攻撃を仕掛けられた怒りもどこかに抜けてしまい、生返事を返すことしかできない。
「いやーこれで三人とも次にいけるよ。ここまで長かったなぁ」
「あの、合格って三十秒逃げることじゃないんですか?」
「うん」
あっさり頷かれたことに軽いショックを受ける。
今までどうやればいいか頭を悩ませていた自分が馬鹿みたいに思えてきてしまう。
「まあ、あなたの場合は三十秒逃げ切るでもいいんだけどね」
僕がティアさんからの言葉にショックを受けているのを見かねたのか、そんな風に言葉を添えてくる。
「あなた自身が最終的に目指す方向的にあれくらいの攻撃をよける必要があったのよ」
「……つまりどういうことですか?」
「そこあたりはおいおいと話していくから気にしないでおいて。とりあえず場に戻りましょ?」
気にするなと言われてもな……。そう思いながらも、差し出された手を借りて立ち上がり、僕は屋敷のほうに戻っていった。