蝶の帰る場所
この作品は、所謂「歴史創作」です。史実とは異なる、作者の「創造」が含まれていますのであらかじめご了承下さい。
天正十年、一五八二年の六月。
夜明け前の闇を真っ赤な炎が照らしていた。
ゆらゆらと、あちらこちらで燃える炎。その妖しいまでに鮮やかな色彩は、空高く腕を広げた。
紅い腕が欲するのはこの地上に降りた天魔の骨と血。
反逆の旗は風に揺れ、ちらちらと見える桔梗紋がそれを促す。
本能寺の変。
天魔王を焼く紅蓮の炎は、この世に地獄を映し出した。
燃え盛る炎。爆ぜる木屑。
夜の闇をぬっとりとした風が駆ける。
雨の気配を宿した雲から、ポツリポツリと滴り落ちる雫。
柔らかな雨が炎を弱らせ、だがなお鈍く上がる色彩は本能寺を染め上げてゆく。
「夜明けは、まだ来ないのね」
キ……キィ……と、開け放たれた格子がか細い悲鳴を上げる。
全てを呑み込む紅い色に、今この状況に全く似つかわしくない声が響いた。
金の花咲く裾を捌き、ゆったりとした動作で、帰蝶――後の書に「濃姫」と記される姫は振り返る。
そこには彼女の夫たる人物が、つまらなそうに手にした扇を弄んでいた。
長い前髪に隠されて、ここからでは表情は良く見えない。
「人間五十年……下天の内を、くらぶれば」
だが、彼女がそっと呟いた唄に隠された瞳が持ち上がる。
「ねぇ、舞って?」
「こんなときに、何が楽しくて舞わねばならん」
そう、口では言いながらも、腰を上げた男の口の端には笑みが灯った。
「人間……五十年……」
節くれだった指が扇を操り、緩やかに軌跡を描く。
幸若舞――敦盛。
源平の世に若くして逝った、誇り高き武将の子。
その名を取った舞曲を口ずさみながら、信長は舞う。袴の裾が、火の爆ぜる音の中で小さく鳴った。
人間五十年
下天の内をくらぶれば
夢幻の如くなり
一度生を得て
滅せぬ者のあるべきか
下天とは、仏界における下層の天。
その天での一昼夜は人間界の五十年に相当する。それと比べれば、人間の生涯など儚きもの。
そして一度生を受けたものは、必ず死を迎えるのが理なのだ。
ゆるゆると、舞は終盤を迎える。
閉じられた扇の乾いた音が、それを告げる。
目線を彼女に戻せば、相変わらず楽しげな瞳が微笑んでいた。
「そろそろ、ここも落ちるぞ。まだ、帰らないのか」
「忘れたの? 言ったはずよ、わたしはもう決めたのだと」
そう言われて、男ははっきりと溜息をついた。
諦めたように先程まで泣き腫らしていた瞼を撫でる。
その慣れない手付きに、帰蝶の唇からはくすぐったそうな笑いが零れた。
女ながらに薙刀を構え、明智の軍に刃を向けた女性。
いつも通りのふわふわとした表情からは想像も出来ないが……ひとりで信長を追って、ここへ舞い戻って来たくらいだ。時々、とんでもない行動を起こす。
だが、泣き腫らした目で、それでもしっかりと双方の瞳を持ち上げて彼女は言った。
最後まで、あなたと共にいる――そのために、戻って来たのだと。
「ねぇ、信長」
いつもの調子で、楽しげに呟かれる言葉に信長は首を傾げる。
「あぁ、何だ」
裾が床と擦れて響く、シュルシュル……と言う音。彼女の香が一層強くなった。
腕の中の柔らかなぬくもりが、疲れた身体を癒す。
「最後の……最後の、わたしの我侭を聞いて」
つづく言葉はない。
けれどその沈黙に、ぬくもりに、全ての想いを知る。
「信長」
握り締めた掌をぎゅ……と掴む。このまま離れることのないように、強く。
「信長、わたしあなたと同じところへ堕ちてゆきたい」
「天魔王が堕ちるのは、地獄かもしれんぞ?」
冗談めかした返事に、だが彼女は真剣に頷く。
「えぇ、それでも構わない……あなたと一緒に堕ちるのなら、極楽浄土も地獄も同じだわ」
懐から鈴が鳴る。
茜染めの錦糸の飾り紐が、懐剣の鞘で揺れる。
彼へ嫁ぐときに共にやって来た、繊細な文様の懐剣。
彼と共に生きた歳月を静かに見守ってきたそれが、彼と共に生きる最後のときに濡れるとは……どんな因果だろう。
懐剣を、鞘ごと渡す。炎に照らされて、銀の色彩が金色に変わる。
最後の瞬間を思い、帰蝶はそっと信長を見つめた。
「信長、やっぱり最後にひとつだけ良い?」
「……注文が多いな」
呆れた声が頭上から降る。
けれど、その色はひどく優しい。
だから微笑む。彼に見えるように、とびっきりの笑顔で。
「信長……」
白く細い手が、信長の頬を包む。
愛しいぬくもりにされるがまま、彼は顔を傾けた。
「愛しているわ」
柔らかな吐息が、そっと重なる。
互いを求める掌の熱が強くなる。
「……帰蝶、……」
唇の間から漏れる切なく甘い響き。
そのあとにつづく言葉は、炎を反射させた白刃の輝きと共に消える。
けれど最後の最後、全ての音が遠くなる中で彼女は思う。
懐かしい故郷でも、選べた静かな生の道でもなく。
帰蝶――蝶の名を持つ自分が、最後に帰りたかった場所は……
あの頃から、彼の隣だけだった――と。
***
糸雨が、降っている。
天から降る涙は、下天の一昼夜にも満たずに消えた生命を嘆いてか。
だが、それさえも天魔王を焼く地獄の業火を消せはしなかった。
ただ、錆びた風が生き残ったものたちに虚しさを教える。
朝が、明けてゆく。戦も終わった。
茜染めの空に、夜明けを告げる金の光が眩しい。その中をちらちらと舞う姿。
紅い蝶が――いや、よく見ればただの火の粉だった。
だが、その姿が人々には蝶に見えた。
天魔王と共に地獄に堕ちた、美しい紅の蝶の姿に。
ひらひらと、季節外れの蝶は舞う。
花の紋に目もくれることなく、真っ直ぐに。
自らの意思を持って、自らの信じた場所を目指すように。
ひら……ひらり、ひら。
そして、蝶は朝焼けの空へと帰って行った。




