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蝶の帰る場所

作者: 白藤宵霞
掲載日:2013/05/06

この作品は、所謂「歴史創作」です。史実とは異なる、作者の「創造」が含まれていますのであらかじめご了承下さい。

 天正十年、一五八二年の六月。

 夜明け前の闇を真っ赤な炎が照らしていた。

 ゆらゆらと、あちらこちらで燃える炎。その妖しいまでに鮮やかな色彩は、空高く腕(かいな)を広げた。

 紅い腕が欲するのはこの地上に降りた天魔の骨と血。

 反逆の旗は風に揺れ、ちらちらと見える桔梗紋がそれを促す。


 本能寺の変。

 天魔王を焼く紅蓮の炎は、この世に地獄を映し出した。


 燃え盛る炎。爆ぜる木屑。

 夜の闇をぬっとりとした風が駆ける。

 雨の気配を宿した雲から、ポツリポツリと滴り落ちる雫。

 柔らかな雨が炎を弱らせ、だがなお鈍く上がる色彩は本能寺を染め上げてゆく。


「夜明けは、まだ来ないのね」


 キ……キィ……と、開け放たれた格子がか細い悲鳴を上げる。

 全てを呑み込む紅い色に、今この状況に全く似つかわしくない声が響いた。

 金の花咲く裾を捌き、ゆったりとした動作で、帰蝶(きちょう)――後の書に「濃姫」と記される姫は振り返る。

 そこには彼女の夫たる人物が、つまらなそうに手にした扇を弄んでいた。

 長い前髪に隠されて、ここからでは表情は良く見えない。


「人間五十年……下天の内を、くらぶれば」


 だが、彼女がそっと呟いた唄に隠された瞳が持ち上がる。


「ねぇ、舞って?」

「こんなときに、何が楽しくて舞わねばならん」


 そう、口では言いながらも、腰を上げた男の口の端には笑みが灯った。


「人間……五十年……」


 節くれだった指が扇を操り、緩やかに軌跡を描く。


 幸若舞(こうわかまい)――敦盛。

 源平の世に若くして逝った、誇り高き武将の子。

 その名を取った舞曲を口ずさみながら、信長は舞う。袴の裾が、火の爆ぜる音の中で小さく鳴った。



 人間五十年

 下天の内をくらぶれば

 夢幻の如くなり

 一度生を得て

 滅せぬ者のあるべきか



 下天とは、仏界における下層の天。

 その天での一昼夜は人間界の五十年に相当する。それと比べれば、人間の生涯など儚きもの。

 そして一度生を受けたものは、必ず死を迎えるのが理なのだ。


 ゆるゆると、舞は終盤を迎える。

 閉じられた扇の乾いた音が、それを告げる。

 目線を彼女に戻せば、相変わらず楽しげな瞳が微笑んでいた。


「そろそろ、ここも落ちるぞ。まだ、帰らないのか」

「忘れたの? 言ったはずよ、わたしはもう決めたのだと」


 そう言われて、男ははっきりと溜息をついた。

 諦めたように先程まで泣き腫らしていた瞼を撫でる。

 その慣れない手付きに、帰蝶の唇からはくすぐったそうな笑いが零れた。


 女ながらに薙刀を構え、明智の軍に刃を向けた女性。

 いつも通りのふわふわとした表情からは想像も出来ないが……ひとりで信長を追って、ここへ舞い戻って来たくらいだ。時々、とんでもない行動を起こす。

 だが、泣き腫らした目で、それでもしっかりと双方の瞳を持ち上げて彼女は言った。



 最後まで、あなたと共にいる――そのために、戻って来たのだと。



「ねぇ、信長」


 いつもの調子で、楽しげに呟かれる言葉に信長は首を傾げる。


「あぁ、何だ」


 裾が床と擦れて響く、シュルシュル……と言う音。彼女の香が一層強くなった。

 腕の中の柔らかなぬくもりが、疲れた身体を癒す。


「最後の……最後の、わたしの我侭を聞いて」


 つづく言葉はない。

 けれどその沈黙に、ぬくもりに、全ての想いを知る。


「信長」


 握り締めた掌をぎゅ……と掴む。このまま離れることのないように、強く。


「信長、わたしあなたと同じところへ堕ちてゆきたい」

「天魔王が堕ちるのは、地獄かもしれんぞ?」


 冗談めかした返事に、だが彼女は真剣に頷く。


「えぇ、それでも構わない……あなたと一緒に堕ちるのなら、極楽浄土も地獄も同じだわ」


 懐から鈴が鳴る。

 茜染めの錦糸の飾り紐が、懐剣の鞘で揺れる。

 彼へ嫁ぐときに共にやって来た、繊細な文様の懐剣。

 彼と共に生きた歳月を静かに見守ってきたそれが、彼と共に生きる最後のときに濡れるとは……どんな因果だろう。


 懐剣を、鞘ごと渡す。炎に照らされて、銀の色彩が金色に変わる。

 最後の瞬間を思い、帰蝶はそっと信長を見つめた。


「信長、やっぱり最後にひとつだけ良い?」

「……注文が多いな」


 呆れた声が頭上から降る。

 けれど、その色はひどく優しい。

 だから微笑む。彼に見えるように、とびっきりの笑顔で。


「信長……」


 白く細い手が、信長の頬を包む。

 愛しいぬくもりにされるがまま、彼は顔を傾けた。



「愛しているわ」



 柔らかな吐息が、そっと重なる。

 互いを求める掌の熱が強くなる。


「……帰蝶、……」


 唇の間から漏れる切なく甘い響き。

 そのあとにつづく言葉は、炎を反射させた白刃の輝きと共に消える。

 けれど最後の最後、全ての音が遠くなる中で彼女は思う。



 懐かしい故郷でも、選べた静かな生の道でもなく。

 帰蝶――蝶の名を持つ自分が、最後に帰りたかった場所は……



 あの頃から、彼の隣だけだった――と。


***

 糸雨が、降っている。

 天から降る涙は、下天の一昼夜にも満たずに消えた生命を嘆いてか。

 だが、それさえも天魔王を焼く地獄の業火を消せはしなかった。


 ただ、錆びた風が生き残ったものたちに虚しさを教える。


 朝が、明けてゆく。戦も終わった。

 茜染めの空に、夜明けを告げる金の光が眩しい。その中をちらちらと舞う姿。


 紅い蝶が――いや、よく見ればただの火の粉だった。


 だが、その姿が人々には蝶に見えた。

 天魔王と共に地獄に堕ちた、美しい紅の蝶の姿に。


 ひらひらと、季節外れの蝶は舞う。

 花の紋に目もくれることなく、真っ直ぐに。

 自らの意思を持って、自らの信じた場所を目指すように。



 ひら……ひらり、ひら。



 そして、蝶は朝焼けの空へと帰って行った。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 濃姫の織田信長に対する愛が素晴らしい。 [気になる点] 長編を閲覧したいです。 [一言] 私も未熟な小説家ですが、お互い読者に喜ばれる小説を目指して頑張りましょう。
2013/10/31 10:49 退会済み
管理
[良い点] 文章がとても綺麗で読みやすく、惹きつけられました。ところどころに擬音が上手に使われていて、それが独特の雰囲気を醸し出していたと思います。 登場人物の心情というか、行動に表れる心情が巧みに表…
2013/05/26 17:44 退会済み
管理
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