第2章08 2人の秘密
08 2人の秘密
茨城県東方海上に浮かぶ人工島の上に築かれた久遠ヶ原学園。
学園施設はいうまでもなく、その周辺に近接する商工業施設や住宅街など、それ自体が完全に独立した「都市」と呼んで差し支えない。
そこは学園であることはもちろん、7万人を超す学園生徒たちの生活の場でもある。
彼らは原則島内の学生寮に住むことになっている。
一口に「学生寮」といっても、昔ながらの木造、風呂トイレ共同のような古屋敷から1Rマンションタイプ、もはや「寮」とは呼び難いゴージャスな新築物件まで様々だ。
基本的に家賃さえ負担すれば好きな寮を選べるが、コストパフォーマンスの問題から月1万程度で借りられるスタンダードな1Rマンションを選ぶ生徒が多い。
光騎と美凪もご多分に漏れず1Rの個室を借り、ラティエルはその年齢と「堕天」という特殊な立場ゆえ、保護者代わりの女性教師の自宅で寝起きしている。
自分にあてがわれた1室に戻り、光騎は熱いシャワーで依頼の汗を落とし、濡れた体と髪を乾かした後、室内のドレッサーの前に椅子を動かして座り、鏡に映る己の姿をじっと見つめていた。
身につけているのは女性用のワンピースドレス。姉の遺品として実家から運んできたものの1つだ。幸い光騎自身が男としては小柄な体型のため、サイズはちょうど合う。
「……ただいま、姉さん」
鏡のすぐ下に、今は亡き光代のポートレート写真を置いた。
洗顔の後、化粧水を両手に乗せて顔全体にゆっくり塗っていく。
さらに乳液、クリーム、ファンデーションを重ねて塗り、下地を整えた。
スポンジにパウダーを付け、軽く叩きながら肌になじませる。
そこまで済ませたとき、インターフォンのチャイムが鳴った。
「どなたですか?」
『美凪だ。ちょっといいかな?』
「どうぞ」
光騎はあっさり答えた。
この時間ばかりは他の生徒や教師、たとえ学園長であっても絶対に部屋には入れないが、美凪だけは別だ。
――彼女は既に自分の「秘密」を知っている。
ドアを開けて部屋に入り、女装中の光騎を見ても、美凪は特に驚く様子もなかった。
「おっと。お邪魔だったかな?」
「いや。別に構わないよ」
そういいながら、光騎は鏡を見つめたまま、平然と別の化粧道具に手を伸ばした。
背後から近寄った美凪が、その手をそっと止める。
「これからメイクか? よかったら手伝おう」
「助かるね」
5分ほど後――。
メイクを済ませ、セミロングのウィッグを被った光騎の姿は、写真に映った亡き姉と瓜二つに変わっていた。
美凪の目から見ても、本当に写真と同一人物としか思えない。
リップを塗った光騎の唇が僅かに開いた。
『こんにちは、山神さん。いつも光ちゃんがお世話になってます』
「え? あ、お、お久しぶりです」
ややうろたえつつも、美凪は鏡の中の「光代」に挨拶を返した。
『今日の依頼はお疲れ様。……それと、光ちゃんのこと冷たい奴だって思わないでね? この子も、本当は山神さんとおんなじで色々悩んでるのよ』
「分かってます。知らない仲じゃありませんから」
いわゆる「口寄せ」。
今の光騎はある種のトランス状態に陥り、身も心も姉の光代になり切っている。
ただしこれは撃退士のスキルでも、霊能力でもない。
生前の光代の思い出を元に、光騎自身が自己催眠で姉を「演じて」いるのだ。
だから光騎が知らない光代のプライベートな秘密を尋ねても、鏡の中の「光代」には答えられないだろう。
有名な恐山のイタコと同様、これはこれで一種の「特殊技能」と呼ぶべきだろうが。
なぜ光騎がこんな真似を始めたのか、美凪は知らない。
彼なりのやり方で亡き姉を偲んでいるのか?
それとも、もっと屈折した心理がなせる行為なのか?
そもそも美凪が光騎の「秘密」を知ったのは、つい半年ほど前。
まだ犬猿の仲だった頃、いつものように喧嘩をふっかけてやろうと光騎の部屋へ押しかけた時――たまたま施錠されていなかったため、そのまま中に踏み込み、女装中の少年とばったり顔を合わせてしまったのだ。
「笑いたければ笑っていいですよ? それと、用がないならすぐ部屋から出てってください」
それだけいうと、光騎はぷいと鏡の方に向き直り、何事もなかったかのように化粧を続ける。
唖然としてその光景を見守っていた美凪だが――。
やがて、思わず大声を出していた。
「――やり方が違う! ファンデーションを塗るのはもっと後だ!」
以来、この件は2人だけの「秘密」として現在に至っている。
『でも不思議ねえ。山神さんはこんなに詳しいのに、なぜご自分はお化粧しないの?』
「いえその……私は、そんなガラじゃないですし。毎日撃退士の訓練や依頼でそれどころじゃないですし……」
実は美凪自身も自室に化粧道具一式を揃えているし、女性誌やネットを通してメイクやファッションの勉強に余念がない。
ただ「なまじの男より漢らしい女撃退士」という評価が周囲に定着してしまったため、実行するのに躊躇しているだけで。
こうして光騎の女装を手伝っているときだけ、自分が撃退士ではなくごく普通の女の子に戻ったように不思議な安らぎを覚える――といったら彼は怒るかもしれない。
光騎自身にとって、これは趣味でも遊びでもなく、あくまで「光代」を一時現世に呼び戻すための神聖な「儀式」なのだから。
『もったいないわよ、こんなに美人なのに。それにたまには息抜きもしなくちゃ。うーん、そうねえ……今度、2人でどこかにお出かけしない?』
「ええ、ぜひ……といっても許さないでしょうね、光騎が」
頭をかいて苦笑いする美凪。
美凪にとって普段の光騎は「生意気なところもあるけど何故か放っておけない弟」というのが正直な印象だが、今会話を交わしている「光代」に対すると、不思議なことに何のてらいも無く己の本音を口に出せる。
まるで、自らの実の姉と談笑しているような。
口寄せで再現された「光代」が果たしてどこまで生前の光代に近いのかは分からない。
だがひとりっ子の美凪にしてみれば、こんな素敵な「お姉ちゃん」がいた光騎を心底羨ましく思う。
だから解るのだ。そんな姉を理不尽な運命に奪われた光騎の心の傷が、いかに深く癒やしがたいものであるかということを。
突然、室内のデスクに置かれた光騎のスマホが鳴った。
ハッと我に返った少年は素早く立ち上がり、電話に出る。
「はい、波間矢です。今ちょっと取り込み中で……えっ?」
外部からのちょっとした刺激で、光騎のトランス状態はいとも容易く解ける。
いや解けるようにしてあるのだろう。
たとえ寮の自室とはいえ、いつ何が起きるか分からないのが撃退士の……というより久遠ヶ原学園の生活だ。
「はい、はい。分かりました……20分ほどでそちらに伺います」
「どうした?」
通話を切った光騎に美凪が尋ねる。
「斡旋所のスタッフからだよ。今、応接室に土御門さんが来ているらしい……例の大津見市での事件に関して、新しい依頼を出したいそうだ」
「――!」
美凪は知らず知らずのうちに拳を握りしめていた。
「その依頼……私も参加できるか?」
「大丈夫だろう。僕から土御門さんに頼んであげるよ」
ウィッグを外し、クレンジングオイルで素早く化粧を洗い落としながら光騎がいう。
「……ところで姉さん、何かいってた?」
「ああ、『今日の依頼お疲れ様』……だってさ」
不思議なことに、トランス状態に陥り「光代」の口寄せをしている間の記憶は光騎本人に残らないらしい。
そのため、今回のように美凪が立ち会い人となり、後で会話内容を光騎に伝えることもしばしばある。
もっとも美凪としては複雑な立場だ。
「光代」との会話を通して、光騎が家出した当時の詳しい経緯や、さらには子供時代の(他人に知られるとちょっと恥ずかしい)数々のエピソードまで聞かされてしまったのだから。
さすがに光騎にも話せず、これらの件は自分1人の胸の内に仕舞っておくつもりだが。