プロローグ00 オフィスビルの異変
01 オフィスビルの異変
最初に警備員が気付いたのは、微かに鼻を突く異臭だった。
とある地方都市の中心部に建つオフィスビル。
彼はそのビルに常駐する施設警備員だが、その時は昼間の巡回時間だった。
(何だ……?)
「異臭」の原因はすぐに分かった。
数mほど先の共用廊下にいる少女。
ニット帽を目深に被り、衛生用の紙マスクで鼻から口許まで覆っているので年齢や細かい容姿までは不明だが、着ている紺色の制服からおそらく中学か高校の女生徒と思われる。
両手には何も持たず、ただぼんやりとそこに突っ立っていた。
(何でこんなところに女の子が?)
それだけでも充分不審だが、とにかく気になるのは「彼女」の体から漂ってくる(らしい)異臭である。
やむなく近づいていくと、少女に近づくにつれ異臭はますます濃度を増し、耐えがたい悪臭となって警備員の足を鈍らせた。
(いったい何の臭いだ……?)
仕事柄、毎日数多くの人間が彼の前を通り過ぎていく。
中にはよほど仕事が忙しいのか「ひと月は風呂に入ってないのでは?」と思わせるほど強烈な体臭を発散する者もいたが、「この臭い」は明らかに違った。
もし彼がある種の特殊な職業の人間、たとえば医師や警官であれば、すぐに気付いたことだろう。
――それが紛れもない人間の「死臭」であることに。
残念ながら彼は警備員だ。過去に人身事故の現場に居合わせた経験はあるが、搬送される遺体を遠目に見たくらいで、別に腐臭まで嗅いだわけではない。
吐き気を覚えるほどの悪臭に耐えながらも、警備員は少女にどう対応すべきかしばし悩んだ。
彼女が「不審者」であることに間違いない。
これがビルに侵入した大人のホームレスや酔っ払いであれば、当然注意して出て行ってもらうところだ。もし相手が反抗するなら警察への通報もやむを得ないだろう。
だがあいにく相手は未成年の少女。このビルにテナントとして入っている何処かの会社員の娘という可能性もある。
またこの異臭の原因が何かの病気や体質によるものなら、ひとつ対応を誤れば後になって保護者から「人権侵害」として訴えられかねない。
(どうしたものかな……)
ふと警備員は思い出した。今日は平日であることを。
つまり彼女は学校の授業をさぼってここに来ていることになる。あるいは家出少女かもしれない。
(仕方ない。いったん警備室まで来てもらって、保護者と学校に連絡するか)
このひどい悪臭を放つ少女を警備室に連れ込むこと自体、正直気は進まなかったが。
意を決して少女に歩み寄りながら声を掛ける。
「もしもし、ここで何してるの? 君、学生さんでしょ?」
少女がぎこちなく振り向いた。
その瞬間、警備員の全身にぞわっと鳥肌が立った。
ニット帽とマスクの間から除く少女の双眸。その瞳孔は黒い穴のごとく一杯に開き、白目の部分は濁った黄土色。
今度は警備員にさえすぐ分かった。
「彼女」が明らかに生きた人間ではないことに。
『ヴヴ……ヴヴヴ……』
マスクを通して、呼吸音とも呻き声ともつかぬ異音が発せられる。
「声」というよりは何か柔らかいものを突き破って吹き出すガスの噴出音に近い。
「あ……きっ、君……?」
『ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ』
少女の制服がにわかに膨らみ始める。
ぎぎぎぎぎ……
長身の警備員と比べれば胸の高さにあたる彼女の頭部が軋むような音を立てて変形し、帽子とマスクが床に落ちた。
「……!!」
露わになった少女、いや「少女だったもの」の素顔を目にした瞬間、警備員は正気が弾け飛ぶほどの恐怖に全身を硬直させた。
絶叫を上げてその場から逃げだそうとする。
だがその寸前、腹の辺りに激痛を覚え、開いた口から叫び声の代わりにゴボゴボと血の泡が吹き出た。
何か強い力で体が宙に浮き、視界が大きく回転して天井の蛍光灯が目の前まで迫ってくる。
それが、若い警備員の目に焼き付いた最期の光景だった。




