死ぬ直前
――なあ、俺は君を幸せにできただろうか。
すでに目の前がかすみつつある俺は、うわ言のように言い続けている。
妻は、俺の横の椅子に座っているようだが、もはやどのような表情をしているのかがわからない。
――君が幸せなら、俺も幸せだ。
俺はそう言ったつもりだ。
ちゃんと妻に届いているか、確かめるすべは、すでに失われた。
今はただ、黄泉の国への片道切符を受け取った身だ。
どうあがこうが、時間はごくわずかしか残されていない。
ふとした瞬間、俺は急に体が軽くなるのを感じた。
「ようこそ」
黒フードの少年が、いつの間にか妻の横に立っていた。
「君は誰だ」
「まあ、いろんな名前で呼ばれていますが、ここでは死神と、読んだほうが自然でしょう」
「…俺を連れて行くのか」
「ええ、名残は惜しいですか」
「いつかは死ぬ身だ。これからの妻がどうなっていくのかが、とても気になるが。それぐらいだな」
「死ぬのは怖くないと」
俺は泣いている妻を見つめた。
そして、少年の前に立ち、すぐ後ろに横たわっている俺の亡骸をさらにみた。
「…怖くはない、そんなことはないんだがな。ただ、いつかは死ぬことを知っているだけだよ」
「そうですか。では、鬼士にこれからの奥さんの様子を聞かせましょう」
「鬼士?」
「黄泉の国の官僚だと思ってください。では、こちらへ」
連れて行かれたのは、部屋の扉の前だった。
「よろしいでしょうか、ここを過ぎたら、もう戻れません」
「妻の様子は」
「泣いております」
「そうか」
俺は、もうためらわなかった。
扉のノブに手をかけ、一気に向こうへと向かう。
そこは、小さな部屋だった。
「鬼士、この方の妻のこれからの説明を」
「ええ、わかりました」
死神に命じられて、鬼士は、分厚い冊子を持ってきた。
「これが、すべての記録です。生まれてから死ぬまでの」
「…全員分があるっていうことか」
「ええ、あなたの分もありました。いまは、閻魔王のところへ回付されてます」
「そうなのか」
「それで、ご所望の、奥様のこれからなんですが、110歳を超えて、亡くなられるようです」
「具体的には」
「ええっとですね…113歳と2か月と5日ですね。玄孫の誕生を見届けて、亡くなります」
「そうなのか…病気とかは」
「いいえ、健康そのものです。これからも息災ですよ」
「なら、安心だな。これで、いい」
横で黙っていていた死神が、俺の言葉を聞いて、やっと動いた。
「では、こちらへ来てください」
ゆっくりと意識がなくなっていき、死神の手にひかれるままとなった俺は、いよいよ死んだようだ。