「ある程度、量を努力してみなければ分からない」という言葉自体が、必ずしも正しくない。
「やってみなければ分からない」
実に素晴らしいと評価される言葉である。
挑戦する勇気を与え、失敗を恐れる人間の背中を押してくれる。世の中には、この言葉に救われた人も大勢いることだろう。
だが、私はこの言葉があまり好きではない。
なぜなら、世の中には「やってみなくても、だいたい分かること」が山ほどあるからだ。
例えば、私の中学校時代の話をしよう。
当時の私の走力は、学年で下から二番目という輝かしい成績だった。
重ねて言うが、下からである。
そんな私が、オリンピックの100メートル走で金メダルを目指すと言い出したら、皆さんはどう思うだろうか。
「努力すれば夢は叶う!」
「諦めるな! 可能性は無限大だ!」
「まずは10年間、死ぬ気で練習してから判断しろ!」
などと励ましてくれるだろうか。
いや、そんな人がいたら、私はその人の判断力を心配する。
私がオリンピックを諦めるのに、10年間の練習も、専門家による判断も、最新鋭のトレーニング設備も必要ない。
義務教育の授業だけで、十分な判断材料が揃っているからだ。
無論、努力すれば多少は速くなるだろう。
だが、努力によってほんの少し足が速くなることと、世界最速の人間になれることは、まったく別の話である。
ところが、日本社会には、この区別を嫌う人が少なからず存在する。
「努力は必ず報われる」
「量をこなして初めて質が分かる」
「挑戦する前から諦めるな」
実に立派なお言葉である。
しかし、ここで一つ質問したい。
努力すれば必ず報われるのなら、努力した人間は全員、東大に合格するのだろうか。
もちろん、そんなことはない。
残念ながら世の中は残酷で、同じ時間勉強しても、あっという間に理解する人もいれば、何時間かけても苦労する人もいる。
生まれ持った才能も、育った環境も、本人の適性も違う。
それなのに、早めに見切りをつけた人間に対して「量的な努力が足りない」と言うのは、少々乱暴ではなかろうか。
そもそも、努力の量を誇ることと、努力の成果を評価することは違う。
我々に与えられた時間は有限である。
才能に恵まれない分野で何十年も努力するより、より早めにあきらめて、自分に適した分野を探した方が、よほど良い結果につながる場合が多いのではないか (。´・ω・)?
もちろん、ある程度やってみなければ、自分の適性が分からないこともある。
だから、私は挑戦そのものを否定するつもりはない。
ただ、何事にもある程度の量を挑戦しなければ判断する資格がない、という考え方には賛成できないのだ。
料理を食べなくても、腐敗臭がすれば危険だと判断できる。
橋を渡らなくても、橋桁が崩れていれば危険だと分かる。
投資しなくても、財務諸表を読めば避けるべき企業を見つけられる。
人間は、経験だけでなく、知識や観察、推論によって判断できる生き物なのである。
それをすべて「やってみなければ分からない」で片づけるなら、人類が積み重ねてきた知識とは一体何だったのだろう。
もちろん私は努力を否定しない。
努力によって成長する喜びも、積み重ねた経験の価値も理解しているつもりだ。
しかし、努力とは目的を達成するための手段であって、それ自体が目的ではない。
大切なのは、どれだけ苦労したかではなく、人生においてどのような成果を得たかである。
そして、見込みが薄いと判断したなら、早めに挑戦しない英断もあってしかるべきだ。
最後に、量的努力万能主義を信奉する方々へ、一つ提案したい。
今からオリンピックの100メートル走で金メダルを目指してはいかがだろうか。
年齢も運動能力も関係ない。
まずは10年間、全力で練習していただきたい。
……何しろ、やってみなければ分からないのだから ( ˘ω˘ )
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