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北浅間村日記

北浅間村日記 人物掌編 3 刑事牧野剛

掲載日:2026/02/05

牧野剛は群馬県警捜査一課の警部で、北浅間村物語におけるいわば”切り札”のような存在です。

凶悪犯と直接対峙して、被害者を無事救出したり、絶妙なタイミングで犯罪者を追い詰めて、逮捕したりすることを常に期待されている敏腕刑事です。

テレビドラマでもイケメン俳優がこのようなヒーローを演じていますが、状況分析能力に優れ、ハードなアクションもこなし、クールな印象の主役に視聴者は憧れを抱きます。

そして、本物語の主役でもある牧野警部も、事件の解決における重要な役割を果たしますが、常に後輩刑事麻山や同僚の雲野警部補などとバディを組み、自分のチームと一緒に動く事で、最前線で最善の行動を取って事件を解決していきます。筆者もこの心優しく、捜査能力や逮捕術にも優れた、頼りになる牧野警部の活躍に期待しており、難事件の解決には欠かせぬ存在であり、事件後の被害者の心の中での解決にとっても彼の存在は大きいのです。そして、事件を犯した犯人のその後にとっても、良い影響を及ぼす存在であって欲しいと思っています。

そんな牧野剛の生い立ちや刑事を志した経緯などを知っていただきたく、「人物掌編」としてご紹介いたしました。

 刑事牧野剛は、現在は群馬県警本部刑事部捜査一課の警部である。群馬県警で警察官として採用された彼は警察署の巡査として交番での勤務を数箇所経験し巡査部長に昇格後に、自ら異動希望を出し刑事課に配転となった。警察官としての適性は高い方で、正義感が強く体力もあり、強面の外見とは裏腹にコミュニケーション能力が高く、多くの事案や事件で成果を出してきた。それほど早くはないが、先年警部に昇格し、県警本部内でも優秀な刑事として有名な存在となっている。プライベートでは同じ警察署に勤務していた警察事務職の女性原静香はらしずかと結婚し、娘が一人いる。中学、高校まで柔道部に所属し、高校時代は国体の個人戦予選で群馬県でベスト四まで勝ち残ったほどの実力があり、その優れた体術を生かし、警察実務の中でも大いに貢献している。


 ただ、中学生の頃は学校一を自慢する腕っぷしで昔でいう“《《番長》》”を気取っており、他校の不良ともいざこざが絶えなかった。彼は彼の両親としては、遅くに生まれた次男で、長男巌いわおとは十五の年の差があり、かなり甘やかされたようで我儘な性格だった。両親は兼業農家で父は町役場の関連の仕事をしながら、狭い農地を持ち主に自ら食するための野菜を育て、母も家事の傍ら畑仕事をする毎日で、幼い剛は近隣で唯一ある保育所に預けていた。長男巌は県内有数の進学校に通うために、高崎に下宿していたので、彼が休みで帰宅した際には弟剛の面倒を見ていた。しかし、巌は高校卒業後東京の私立大学に進学することになり、ますます剛の面倒を見ることができなくなり、剛は持ち前の正義感が少し暴走し、小学校ではちょっとした“《《いじめっ子》》”に分類されるようになり、時々父母が学校に呼び出されることもあった。学校の先生は同じクラスの子の親からのクレームを剛の父母に伝えるのであるが、この父母も剛の親らしく、先生の前ではしおらしく頭を下げるのだが、息子の性質を知っており、家に帰るとさりげなく


「剛、何か学校で困ったことはあるか?」と聞くと、剛は自慢げに

「この前、亮一君が健太に虐められていたから、助けてやった」と言うのを聞いて、

「そうか、でも健太君は怪我しなかったか?」と探りを入れると、剛はまたまた自慢げに

「ううん、手加減したからたんこぶぐらいだよ」と言うので、父は優しい目つきで

「今度、健太君に謝っておきなさい」と諭すと、

「分かった」と言うような感じで終わってしまっていた。


 父母はこの正義感が強い剛を可愛がり、将来は警察官にさせたいと既に思っていたようだ。しかし、人間関係はそんなに単純ではなく、剛が中学校に上がるとこの正義感がまたまた暴走し、学校同士の喧嘩に発展した。


 事の発端は、剛が中学二年生になった春に、同じ中学校の野球部に所属する部員が学校の帰り道で他校の生徒に恐喝を受けたことだった。彼は町でも大きいスポーツ用品店にグローブを買いに行き、途中でその他校の生徒たちにいわゆる“カツアゲ”をされそうになり、走って逃げたが多勢に無勢で捕まり、結局、財布の中身の一万円を取られたのだった。彼は、翌日すぐにこのことを警察でも教師でもなく、同級生の剛に相談した。剛は仲間数人と協力し、その相手を特定するべくそのスポーツ用品店を中心に数日間、部活動の終了後に偵察に出た。少人数のグループに分かれてで現地周辺を調べると、五、六人の他校生徒が大きくない商店街のスポーツ用品店や洋服店の近くをうろうろしているのを発見した。そのことをリーダー格になっていた剛に伝えた。剛はすぐに彼らがいそうな場所に同じく五、六人の味方とともに駆けつけ、他校の生徒たちに対峙した。一万円を脅し取られた野球部の同級生に剛は、

「お金を取られたのはあいつらか?」と尋ねると

「そうだ」と言うので剛は

「よし、見つけたぞ」と安堵のため息をついた。その相手のボスらしい、当時流行していたいかにも不良のヘアースタイルいわゆるリーゼントヘアーの背の高い学生が、

「なんじゃ、おめえら。喧嘩でも売ってるのか?」と凄んできた。剛もこの態度に少し躊躇ったが、

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、この間そこのスポーツ用品店の前で、うちらの学校の生徒が金を脅し取られたと言っているのだけど、何か知っているか?」と真っ直ぐそのボスの顔を見ながら言うと、そのリーゼントヘアーは

「何!お前は俺たちがそいつから金を取ったと言っているのか?何か証拠があんのか?」と凄んだ。剛は腹は立っていたが冷静に

「ああ、当人がここにいて、取ったのは君らだと言っている」と告げると、

「はあ、そんなことが証拠になるか!誰か他にも見た奴はいるのか?」と罪を認めない。剛もだんだん声を荒らげて

「一人いれば十分だろう。取った金を返せよ」と言い放った。

「ふん、嫌だと言ったらどうする」とそれでも開き直るように言うので、もともとそんなつもりではなかったが、つい権力を利用するように

「警察に言うさ」と自分でも不思議な声色で結論を言った。その言葉の意味は不良にも大きな意味を持つようで、相手は黙ってしまった。剛は、「へえ、警察ってすごいな」心の中で感心しながら、少し優位に立ったことを実感しながら他校の連中を観察した。彼らはボソボソと勝手に話し出し、リーゼントヘアーのすぐ後ろに取り巻きの一人も小声で、

「隆、まずいよ、お金を返そうよ」言いだすと、隆と呼ばれたその背に高い不良のリーダーは

「馬鹿野郎、もう使っちまったよ」剛にもそれが聞こえて、

「今日じゃなくても良いから、返せよ!」と相手に助け舟を出した。これには、お金を取られた当人が、

「あいつら、絶対に返さないよ」と不平を言った。剛もそうは思っていたが、この後の展開が分からずに

「じゃあ。どうする」と小声で黙らすように言ってしまい、その子も項垂れてしまった。

「いつまでに返してくれる?約束を守ったら警察には言わない」と剛は言い出した。すると、その隆は即答してきた。

「今度の日曜日に中央公園で返してやるよ」剛は嘘だと思ったが、

「分かった」と言うしかなかった。そして、二つのグループは来た道を引き返していった。


 その日の帰り道、剛たちのグループは自宅のエリアがある公園で作戦会議を開いた。皆が口々に、

「あいつら今回よりも多い人数で来るに決まっている。中央公園に行ったらボコボコにされるよ!」

「もう警察に行った方が良いよ」

「剛だって、柔道部の規則で喧嘩をしたら退部だよ」と弱気な発言ばかりだった。剛も喧嘩をするつもりはなく、ただここで警察に言えば学校にも知られるし、弱虫と思われるのも癪だったので、

「とにかく、約束したんだから、今度の日曜日に中央公園に行く。だから、もう少し人数を集めよう」と皆の顔色を見ながら説得した。そして、約束の日曜日になった。前回のメンバーに加えて、剛は野球部と柔道部の部員を二人ずつ加えて、総勢九人で中央公園に向かった。中にはイキリ立っている仲間もいたが、最初に剛ともう一人の柔道部員でこっそり偵察をした。公園の入り口には二人ほどの相手グループの見張りがいたので、公園の脇の木が林立しているところから見つからないように公園の中の広場を覗いた。そこには二十人以上の相手校の生徒たちが、手に棒を持ってゾロゾロと待ち構えていた。流石に剛もこれでは勝ち目はないと思い、味方の集まっている場所に戻って状況を報告した。皆は、

「ええっ、それじゃあ勝負にならないよ。逃げようよ!」とか、

「やっぱり警察に届けようよ」と言う声が大半だった。剛は、同じ柔道部のある部員の顔を見つめながら、

「約束を守らずに引き下がるのは嫌だよ。でもみんなに怪我をさせたら申し訳ないから、ここは俺と高柳で奴らのところに言って話をつけてくる。だから、公園の入り口で見張って、もし俺たちがやられたら警察に届けてくれ」と言って高柳の肩を叩いた。高柳は同級生の中でも一番体が大きく、柔道も三年生を含めても最も強い方だったが、この剛の宣言には少し逡巡したが、“しょうがねえな”という風情で同意し、剛の頭をポンと叩いた。剛は首を少しすごめるような仕草でにっこりと笑い、二人はスタスタと公園の入り口に向かった。公園の入口で見張りをしていた他校の二人は慌てて公園の広場に走っていった。そして、集まっていた輪の中の中心にいる例の背の高いリーゼントヘアーの学生に、

「隆さん、あいつら来ました。でも、立った二人です」すると隆と呼ばれた例のリーダーは、

「なにい、たった二人だと!頭狂ってやがる」と言って剛たちが来ると、二十人以上のメンバーで取り囲んだ。

「おう、お前ら。いい度胸じゃないか、二人で来るとは」と隆は大勢の味方がいるせいか勝ち誇ったような大声を出した。剛は半ばヤケクソで、

「ああ、金を返して貰うだけだからな」

「ほう、返してもらえると思っているのか?」

「ああ、そうだ」

「お前らに返す金なんて、ねえよ」

「そうか、じゃあ金を脅し取ったことは認めるんだな」

「ああ、もし返して欲しければもっと強そうな仲間を集めて来い」と金を取ったことを認める発言をした。すると、彼らの輪の中でも一際大きな男が隆の前に進み、

「おい、隆。金がどうのこうのと言うのは本当か?」「俺は喧嘩に負けそうだから助っ人に来てくれと言われたから来たんだぞ。」と言うと、隆は流石にこの男には頭が上がらないのか、

「あいつらは、勝手にいちゃもんをつけてくるんだ。俺は金なんか取ってねえよ」と今度は否定をし始めた。すると、黙っていた高柳がその大きな男に向かって、

「山田、久しぶりだな」と声をかけた。すると、その大きな男も振り返り、高柳の顔をじっくり見て

「おお、高柳。久しぶり」剛は高柳に

「知り合いか?」と尋ねると、高柳が

「ああ、こいつは俺のライバルの山田だ」と答えるので、剛は少し驚き

「へえ、高柳と互角ということか?」と反応すると山田は

「子供の頃はそうだったけど、今は俺の方が強い」と嘯いて、高柳の前に立った。なるほど、山田の方が数センチ背は高いが、横幅は同じようで兄弟のような体系だった。今度は山田が高柳に、

「こいつは、お前らのボスか?」と剛を見て質問をした。高柳は

「そんなところだ」山田は

「じゃあ、ボス同士で戦わせれば良いじゃないか?」と、とんでもないことを言い出した。高柳は剛が強いことを知っているので、

「ああ、そうだな。それなら他の関係のない人間を巻き込まないで済む」と話を進めるので、背は高いが細い体の隆は焦って

「おい、山田。勝手に話をつけるんじゃねえぞ」と山田に凄むと、山田は少しもその脅しを気にせず、

「なんだ、隆。こいつとやるのが怖いのか?」と意地悪なことを言い出すので、剛は喧嘩は御法度なのでこれ以上拗らせると規則違反をする危険があると思ったので、

「俺は喧嘩は出来ない。ただ、友達が取られたお金を返してくれれば、それで良い」と言って、話をまとめようとした。すると、隆が

「ふざけるんじゃねえぞ、みんなこいつらをやっつけろ!」と号令をかけた。剛も高柳も一瞬ビクとしたが、山田が両手を挙げて

「待て!」熊のような仕草で恫喝すると、動きかけたメンバーが全員動きを止めた。

「もし、やるんなら、俺もこいつらの味方をするぞ。それに、こいつは俺と同じぐらい強いぞ。そして、もう一人もボスらしいから本気出すとどうなるか知らないぞ。怪我しても知らねえからな」と大声を出すと、メンバーの動きは完全に止まった。


 その時に、公園の入り口から走り寄る警官が二人と後ろから五、六人の中学生が結構な大きな音を立てながら近づく姿が彼らの目にも映った。そこに集まったメンバーは所詮寄せ集めで、統率も取れていないので、「やばい、警察だ。逃げろ!」と散り散りに逃げ始めた。剛は咄嗟に隆の抱き抱え、逃げられないようにしようとした。隆は思った通り棒で剛に殴りかかったが、棒が当たるより早くに剛は動いた。彼の体は痩せていて剛の両手を解く力はなかった。そこに到着した警官は最初、剛が隆に暴力を振るっていると勘違いして、剛を引き剥がそうとしたが、交番に駆け込んだ同じ中学校の生徒が、

「お巡りさん、違うんです。彼は味方で、悪いのはそっちの背の高い方です」と慌てて警官に縋り付くので、警官は慌てて隆を取り押さえた。他の生徒は逃げ足早く公園の森を抜けてしまっていた。隆を二人の警官が両側から腕を抱えて逃げられないようにして、一人の警官は逃げ足の早さに驚き、

「カラスのようだな。もう誰もいない」もう一人の警官が、

「誰も怪我はしていないか?」と剛と高柳と山田に声をかけて、改めて彼らのガタイの良さに驚いて、

「それにしても、君らは良い体をしているな!」と感心していた。

「スポーツは何をやっているんだ?」と三人に聞くので、声を合わせるように三人は

「柔道です」と答えるので、警官たちは笑い、そして、隆と三人に向かって

「詳しい話は交番で聞くよ」と言って公園の入り口に置いてあるパトカーに向かって歩き出した。


 こうして、恐喝事件は幕引きとなり、隆の親からの謝罪と脅し取った一万円が返却された。この件は剛の中学校にも報告され、体調を壊していた剛の父に代わり、母と兄の巌が学校の呼び出しに応じて剛を伴って放課後に校長室を訪れた。母は学校に着く前から、剛に余計なことは言わずに謝りなさいと言い含めたが、兄の巌はすでに社会人となり日本全国や外国での折衝の経験を踏んできており、言うべきことは言おうと思っていた。校長室に入ると、校長は巌が在籍していた時は学年主任だった先生で、巌を見ていきなり

「おう、牧野。久しぶりだな。あれ、牧野剛君は牧野の弟か!そうか、そうか、どうりで」と言って笑っていたが、すぐに場の空気に合わせて厳粛な顔に戻った。皆が席につくと教頭先生が話を切り出した。

「牧野君のお母さんとお兄さんですよね。今日、お呼び立てしたのは牧野君が先日警察のお世話になった件です。事情はお聞きになっていると思いますが、彼の正義感から同級生が脅し取られたお金を取り返そうとしたのが理由だと聞いています。そのことは相手方も謝罪をしており、お金も戻ってきていて、被害者の彼の同級生もご両親も示談とすると言っていますので、これで終わりにしたいと思います。」これに母は、頭を下げて

「ありがとうございます。ご面倒をおかけいたしました」と話、剛も頭を軽く下げた。その後に教頭先生は、

「でも、これからのこともあるので、牧野君には言っておきます。もし、このような事件になるようなことが今後もあれば、必ず、先生に相談するようにしてください。君も柔道部で今後も活躍したいなら、社会のルールも守るようにしなさい。良いですか?」と指導をして、剛を見つめた。剛は口を真一文字に結んで、少し頭を下げて

「わかりました」と少し涙ぐんでいるような声を振り絞った。悔し涙だろう。兄の巌は剛の心境を慮ったが、教頭先生の言うことは正論だと思った。もし、喧嘩が大きくなって、両校の生徒に怪我人が出たら、剛の責任が問われるだろうと思った。教頭先生からの話はこれで終わりで、剛と母も退室したが、校長先生から巌は残るように言われて、二人で昔話や巌の現況を報告することで一時間ほどの時間を過ごした。校長は


「牧野君、君の弟は君と比べると勉強は大したことないが、正義感は人一倍強いし、柔道も大したもんだよ。将来はそういう特徴を活かせる仕事を目指したら良いね。たとえば、警察官とか」それには、巌も

「はい、家でも父母もそう言っています。あいつも大学に行くより早く就職したいと言ってますので、そうなるかもしれません」校長はさらに

「しかし、二十人以上いる連中を相手に、二人で向かっていくとは驚きだね。本当に度胸が良いよ。きっと、良いリーダーになると思うよ」と褒めるので、巌は嬉しくなって、

「ありがとうございます。いつも一緒にいることはできませんが、見守っていきます」と話を締めて、校長室を後にした。

 牧野剛は中学生の頃からこのような生き様を見せていた。


 そして、地元の高校に進んだ剛は、やはり柔道部に入り練習に励んだ。同じ高校には中学の時に出会い、試合でも対戦相手として戦った山田がいて、やはり、同じ柔道部に入ることとなった。中学時代の柔道仲間の高柳は、高崎にある私立大学の附属高校に入学した。今度は対戦相手として戦うことになる。所属する学校が変われば、味方が対戦相手となり、敵が味方となる関係であるが、好敵手であることには変わりはなかった。中学時代は剛より高柳や山田ははるかに大きな選手だったが、高校生になる頃には身長も体重もさほど変わりないまでに、剛は大きく成長していた。そして、高校二年生となると三人とも学校の代表選手となり、県の大会でも相見えることが出てきた。秋の県大会の個人戦では三人ともベスト八まで勝ち進み、山田は高柳と対戦した。互角の戦いを続け、延長戦となった。ほとんど同時に仕掛けた技で、山田の体が崩れ、有効の判定となった。ほんの少しのタイミングの差なのだろうが、高柳の技が勝った。試合の判定を真っ直ぐ前の対戦相手である高柳を見据え、綺麗な礼をした高柳だったが、試合後は拳を床に叩きつけながら悔しがった。同じく、剛も判定で某強豪校の三年生に僅差で敗れた。高柳も準決勝では剛を破った某強豪校の三年生に判定で敗れた。試合後更衣室で一緒になった三人は、春の大会でのリベンジを誓い合い母校での練習に励むこととなった。しかし、このような三人のスポーツにかける青春を邪魔する事件が三年生になった彼らを襲った。


 その原因はまたしても、中学時代と同じ不良たちによる嫌がらせだった。

 剛と山田は地元の高校にバスで通っており、それぞれ反対の方角から高校のある最寄りのバス停から高校へ向かう道で一緒になるのだが、彼らの通う高校は偏差値は平均より少し上で、上位の生徒は大学に進学し、中位以下の生徒は専門学校や就職をすることが一般的であった。しかし、この高校では数年前からタチの悪い卒業生が在校生にちょっかいを出したり、悪い遊びに誘ったりすることが問題となっていた。その卒業生たちは決まって朝の通学時間帯に、最寄りのバス停から高校に繋がる道で屯しており、女子生徒や顔見知りの在校生に声をかけては、嫌がらせをすることが多かった。剛や山田のような厳つい生徒は無視して、少しチャラい感じの男子生徒や女子生徒に声をかけて、

「今度、面白いところに連れて行ってやる」などと声をかけていた。それを無視すると、睨みつけるといったヤクザの下っぱのような振る舞いに、教師も気付きその通学路に登板で見張りをするようにしていた。しかし、ある時その見張りの先生がいないのを見計らって、ガラの悪い卒業生たちが、剛と山田の同級生の女子高生に声をかけた。かなりしつこく声をかけるのを、二人は我慢できずに剛が

「嫌がっているんだから、もう止めてくれませんか」と声を荒らげていった。先輩だから、やめろとは言わずに気を遣ったつもりだったのだが、相手の反応はかなり激しく、剛の学ランの襟首を掴み、

「なんだとてめえ、もう一編言ってみろ」と怒鳴りつけた。剛はこの程度で臆する性格ではないが、喧嘩は御法度が柔道部の規則なので、抵抗せずに相手の目を睨み返した。すると、その男の仲間が数人で剛と山田を取り囲んだ。周りの生徒の誰かが慌てて、学校に走り込み校門にいた先生にその事を報告した。その先生はその生徒に職員室にいる先生に言うように言って、自分は剛と山田が因縁をつけられている場所まで大急ぎで向かった。しかし、遅かった。そこに着いた時には、剛と山田は卒業生四人を投げ飛ばしていた。一人は背負い投げ、一人は巴なげ、一人は払い腰だったそうで、もう一人は袈裟固めで締め上げられていた。先生が到着すると、山田は締め上げている技を外してやり、その卒業生はゼエゼエ言いながら、「てめえ、覚えてろ!」と捨て台詞を言いながら立ち上がった。他の投げ飛ばされて強かに腰や背中をコンクリートに叩きつけられた不良卒業生たちは、肩を貸し合って逃げて行った。一件落着したように思えたがそれは間違いだった。その日、二人はやはり校長室に呼び出された。柔道の顧問の先生が同席しており、大声で怒鳴られた。


「馬鹿野郎!絶対に喧嘩はするなと言っているのにどう言うことだ!」と教師にあるまじき剣幕で二人を怒鳴りつけた。教頭先生が顧問を宥めるように、

「まず、二人からどんな事情かを聞きましょう」

 二人は交互にかなり冷静に事情を話した。相手の卒業生が殴り掛かってきたので、《《正当防衛》》で投げ飛ばしたと言うのが彼らの主張だった。周りにいた在校生も同じ証言をしており、間違いはなさそうだったが、柔道の顧問は彼らが学校の代表選手で、春の大会での活躍を期待している目をかけて育てている選手たちであったので、親心で怒っているのも明白だった。

 この件も警察に届け出ることとなったが、警察も調査し、不良卒業生たちからは被害届が出ていないし、彼らに非がある事も明白なのでこれ以上調査を続けることはしないとの結論だった。しかし、恥をかかされた卒業生たちはこれでは収まらなかった。


 ある日、山田が腕に包帯を巻いて通学してきた。それを見た剛は急いで駆け寄り、

「あいつらか?」と尋ねると

「そうだ。夜ランニングをしていたら、暗がりで五人の男が棒で殴りかかってきた。腕で避けたのでこの様さ」

「警察には行ったのか?」

「ああ、すぐに親父が駆け込んだ。多分、今日学校に警察の人が来ると思う」

「そうか、骨は折れたのか?」

「いや、でもヒビは入ったようだ」

「じゃあ、しばらくは練習できないな」

「ああ、でもすぐに治るさ」

「剛、次はお前が狙われるぞ、気をつけろ」


 その日の放課後、二人はまた校長室に呼び出された。今度は、警察官が三人同席していたせいもあり、顧問の先生も同情の眼差しで二人に接した。まず、警察官から山田が襲われた経緯を説明し、山田に間違いはないかと尋ねた。山田は

「はい、間違いはありません」と答え、校長先生が

「次に牧野君が狙われる可能性があると思うのですが、どうしたら宜しいでしょうか?」と心配そうに尋ねた。中年の私服の刑事らしい人が、

「ええ、その可能性がありますね。牧野君は自宅からどうやって学校に通っているの?」と聞かれ、剛は通学経路と時間を伝えた。その刑事はそれを聞いて、

「暫くは通学時間帯に私服の刑事を張り込ませて安全を確保します。牧野君は通学以外での一人での外出はなるべく控えて下さい」と指示を伝えた。剛は素直に

「はい、わかりました。よろしくお願い致します。」と頭を下げた。そして、その日はその刑事と警官一人がパトカーで剛を自宅まで送ってくれた。牧野家では両親が何が起こったのか分からず驚いたが、事情を説明されホッとしたが、今後も息子を狙われることに心を痛めた。その後、通学路や家の周りを警官が警備する姿が目に入り、剛も顔馴染みとなった警官に挨拶をするようになった。二週間ほど同じ状態が続き、何事もなかったので警官の警備も三日に一回に減らされ、雨が続いた日の夕方に剛はトレーニング不足を補うために近所をランニングするべく家をでた。その日は警官の警備はなく、剛は少し不安を感じながらもランニングを始めた。薄暗い農地の間を走る県道を走っていると、前方に複数の黒い人影を見つけた。剛は

「しまった、奴らだ」と直感し、すぐにきた道を引き返した。しかし、その方向にも黒い人影を発見した。剛は瞬間的に来た道の先を左に曲がった一キロほど先に交番があることを思い出していた。そして、前方の影は多分三人以上いて、引き返す先の影は多分二人だと思い、仮に殴られても交番にたどり着けると踏んで、少し格闘となった時に息が上がっていない様に少し走るスピードを抑えつつ、引き返した。案の定二人の男が手に一メートル以上ある棒を持って、彼を待ち受けていた。剛は咄嗟に二人が右利きであると思い、二人の左がわの隙間を狙いダッシュした。しかし、真横を通り過ぎようとした瞬間に左の脇腹に棒の打撃を受けた。構わず横を走り抜けた。そこから数百メートル走ると交番につながる交差点に着いた。後ろを振り返ると彼らが追ってきていたが、距離はある程度あるのを確認し、上がった息を整えながら交番に向かって走り続けた。その時やっと左の脇腹の痛みに気がついた。もし、交番に誰もいなかったらどうしようとも考えたが、痛みと呼吸の苦しさで

「とりあえず、交番まで行くんだ」と自分を励まして走り続けた。交番の赤い明かりが見えてきた。頼もしい光だと思い、涙が出てくるのを感じながらたどり着いた。交番の入り口で、咳き込みながらたどり着くと、時々警備にきてくれる警官が驚いて彼を向かい入れた。

「おおう、牧野君、どうした?」剛は呼吸を整えながら、少し涙声で

「奴らに襲われました」

「怪我はないか?」

「はい、脇腹を棒で殴られました。でも、大丈夫です」と言って自分で脇腹に触れたが、かなりの痛みがあった。警官はすぐに警察署に連絡を入れた。そしてその警官は

「すぐに応援が来るから、奥の部屋で休んでいなさい」と言って、交番の外を見に行って応援が来るまで見張りを続けてくれた。奥の畳の部屋で剛は呼吸が整ってくると、脇腹の怪我の具合を触りながら、多分脇腹の骨が折れたか、ヒビが入った程度だろうと判断した。十分ほどでパトカーが到着した。数人の警官と例の刑事が交番に入ってきて、口々に剛に大丈夫かと気遣ってくれた。その都度、

「はい大丈夫です。脇腹を棒で殴られたので、肋骨にヒビが入った程度です」と答えたので、すぐに救急車を呼んでくれた。剛の自宅には例の刑事が連絡をしてくれたので、軽トラックですぐに父母が駆けつけてきて、そのすぐ後に救急車が到着した。経緯はその間で刑事に説明をしていたが、もう少し詳しく確認したいのと、今後のことを相談するために、病院へ両親はパトカーで向かった。


 救急対応の病院での診察の結果、やはり肋骨にヒビが入っていることが分かり、包帯でぐるぐる巻きにされた。全治一ヶ月とのことで、運動は禁止と言い渡され、剛は一ヶ月後に迫った大会への出場を山田と共に欠場することとなった。


 その後、犯人グループは一週間後には全員が逮捕された。半数が剛と山田が通う高校の卒業生で、リーダー格の男は暴力団と関係がある建設会社の契約社員で、その他のメンバーも同じ会社や関連会社の社員やアルバイトであることがわかった。警察も高校側も事態を重く受け止め、再発防止に努めたので、これ以降事件は起こらなかったが、剛や山田には怪我以上に大きな傷を残した。まず、大会への出場を断念せざるを得なかったことやそれに伴う、山田の場合は大学への推薦入学の選考に漏れたことだった。一方、剛は今回親身になって守ってくれた刑事や警察官と顔馴染みとなり、高校卒業後は警官になることを決めた。彼は高校での勉強は苦手だったが、決して頭の悪い生徒ではなく目標が定まれば努力をする子で、『警察官採用試験の筆記試験』の勉強も通常の教科以外に過去問題集などを入手して勉強した。さらに、司法試験に合格している兄巌に勧められて、刑法に関しても学んだ程だった。


 そのように怪我からのリハビリ過程で勉強もしたが、剛と山田は初夏のインターハイの予選の時期には間に合わなかったが、秋に開催される国体の県予選にはなんとか間に合い、学校の代表として参加した。二人とも県のベスト四まで勝ち進み、そこで高柳と某強豪校の選手とそれぞれ対戦した。山田は二年生の時に高柳に苦杯を舐めておりリベンジ戦となり、見事に勝利して決勝へ進出した。剛は強豪校の優勝候補の選手と五角に渡り合ったが、判定で敗れた。悔し涙を流しながら、山田にエールを送った。決勝戦はやはり互角の技の出し合いとなり、互いに有効を一つずつ取った後に、終了三十秒を切ったところで、優勝候補の選手の捨て身の技が決まり有効を取られ、山田は敗退した。優勝した選手はインターハイでも全国でベスト四に残った将来を嘱望される大型選手で、山田はその選手と互角に渡り合ったのだ。顧問の先生は彼らが高校最後の試合に間に合ったことを心から喜んだ。


 そして、剛は警察官採用試験に合格し、卒業後は警察官になる道を選んだ。高柳は私立高校から推薦で東京の私立大学に進学し、山田は受験で群馬県内の大学に進学した。


 剛は警察学校でも体力や防衛術では優れた評価を受け、必要なコミュニケーション能力や知識を積極的に身につけ、配属先でも順調な警察官人生を始めた。しかし、警察というある意味特権を持った立場で、犯罪者に対して暴力には力で対抗するようなことには否定的で、自分が経験した弱い立場の人の味方である警察官を目指した。剛の上官はそんな剛を頼もしいと思う反面、危険な仕事でもあるので、彼が大きな怪我を負ったり、命の危険に晒されることがないことを心配するほど、剛は正義感の塊のような警官となっていった。


 そんな剛に転機が訪れた。あまりに悲惨な転機だった。彼が尊敬する、高校時代に彼を助けてくれた警官の殉死だった。


 その事件は、剛が巡査部長に昇格し本部刑事部に異動となった際に、お世話になった警察署の先輩警察官に挨拶に行った後に発生した。その先輩警察官は歳は二十歳ほど上で、剛は彼の警察官としての姿勢や人物を心から尊敬しており、彼が高校生時代に地域に巣食う不良な若者に待伏せされて暴行を受けた際にもお世話になり、事件の前には彼の自宅の見回りをしてくれていた。彼が警察官になった後も、事あるごとに声をかけてくれて、直接同じ交番勤務となった際には、警察官としてのイロハを丁寧に教えてくれた人だった。その後剛は幾つか違う交番勤務を経た後、巡査部長への昇格試験への合格を機に、刑事課への異動を希望しそれが実現したのを応援してくれていた。非番の日に先輩警察官の勤務する交番を昼の時間に訪れたのだった。先輩は訪問を喜んでくれたが、何か浮かぬ顔をしていた。

「高槻さん、具合でも悪いのですか?少し、お元気がなさそうですが」と剛は失礼だとは思ったが尋ねてみた。すると、先輩警察官である高槻は、

「うわあ、牧野君に見破られるとは、さすが刑事」

「えっ、やはり何かあるんですね」との質問に高槻は心配事の理由を白状した。彼の話では、管轄する地域の一般人の家庭で父親による家庭内暴力から夫婦は離婚したが、その後も父親による娘へのストーカー被害が出ており、高槻が自らこの父親に接近することを禁止することを警告しているにも関わらず、父親はストーカー行為を続けているそうだ。警告を無視して行動を続けているので、公安委員会から禁止命令を出す予定だが、この父親のことは先輩警官も昔から知っている人であることから、禁止命令までは出したくはないと考えているそうだ。なぜなら、禁止命令の後に行為を続けると逮捕することになるからだ。この件を高槻は心から心配している様子で、隣町にある新しいこの父親宅を、本日夕方勤務後に訪問しようと思っているらしい。剛はこの先輩警官の人柄と豊富な経験ならば、何とか再発防止をできるように思っていた。明日は早朝から任務に就く予定なので、剛は高槻に別れを告げて家路についた。


 その夜、剛が食事をした後に父母と団欒していた時に、突然、携帯電話の呼び出し音が鳴った。それは高槻の携帯の番号だったが、携帯の向こうの声は刑事としての上司になる人からだった。剛はその事にも驚き、

「警部補、何かありましたか?この番号は警部補の番号ではありませんが・・」すると警部補は鎮痛な声で、

「実は高槻さんが刺された。救急車で緊急搬送されたが、かなり重症だと思う。牧野、お前は高槻さんに可愛がられていたよな。もしもの事があるかも知れないので、一応連絡した。」剛は驚くのと共に、今日高槻から聞いたあの男の仕業だと確信した」その上で、

「高槻さんを刺したのは、例のストーカーの父親ですか?」と尋ねると、警部補は

「ああ、そうだ」と言い、黙った。剛はその瞬間に自分が同行していれば良かったと後悔した。そんなことを自分から言う訳にはいかないので、

「犯人は逮捕されたのですか?」

「ああ、逮捕して取り調べのため署に連行中だ」

「そうですか、これから病院に向かいます」と言って携帯を切った。彼は食事中に飲酒することもあったが、今日はしていなかったので、父母に簡単に事情を説明した後に車で救急病院に向かった。到着してロビーに入ると、数名の警察関係者が無言で下を向いていた。彼の上司の警部補は剛の到着を見て、奥から出てきて

「牧野、残念だが、高槻さんは亡くなった」と告げると、剛は病院の天井を仰ぎ、大きなため息のような喚き声をあげた。警部補は

「面会はもう少し待って欲しいと鑑識が言っている」とボソリと感情のない声で剛に告げた。


 鑑識の調べが終わった後に、高槻巡査部長の家族が集中治療室の隣の安置所に入って行った。剛は奥さんや家族とも面識があるので、顔をしかめ、項垂れて見ていた。数十分後に家族が出てきたので、剛は家族にお悔やみの言葉を述べた後に、仏様となった高槻に面会した。安らかな死に顔だった。剛は身体中の生気が失われ、体温が下がったように震えた。今まで感じたことのない悲しみに、目の前が真っ暗になった気がしてその場にしゃがみ込んだ。不思議と涙は出ず、ただただ絶望するのみであった。誰かに後ろから促されその場を後にしたが、しばらく病院のロビーの椅子に座り何も考える事が出来ずにいた。

 事件の顛末は高槻が病院に運ばれる救急車の中で同乗した刑事へ話した内容と、犯人の父親と被害者の元妻とその娘の供述で明らかになったが、以下のようなことだった。


 牧野に話したように、予定通り父親のアパートを訪れた高槻は父親の不在に不安を感じて、大急ぎで以前の彼の自宅であり今は妻と娘が住むマンションに向かった。マンションに到着すると案の定、父親が茂みからマンションを伺っており、高槻が注意をしようと近づいた瞬間に父親はマンションの階段に向かっていった。夕陽があたりを微かに照らしており、父親の手に光るものを握っているのを高槻は確認していた。まさかと思ったが、慌てて後を追うようにマンションに走り出したが、父親と高槻の間の距離は百メートルほどあり、高槻がマンションの入り口についた時には、父親がマンションの階段を駆け上がり妻と娘の住む三階に着いていた。高槻は精一杯の体力で階段を駆け上がったが、すでに娘がドアを開けて父親はマンションに入っていた。高槻がドアを叩くと部屋の中から悲鳴が聞こえ、中に入ると父親が妻にナイフで切付け、妻は血を流してしゃがみ込んでいた。娘は横で悲鳴をあげており、父親は今度は娘にナイフを向けようとしていた。高槻は捨て身で娘の前に立つと、

「吉田さん、絶対だめだ!ナイフをしまいなさい」と大声で制止すると、吉田と呼ばれた父親は、

「あんたか!邪魔をするな!こいつらは俺を裏切って逃げようとしているんだ」と涙ながらに声を出した。高槻は部屋の中に段ボール箱が積み上がっているのを見て、妻と娘が部屋を出て行こうとしていることを理解したが、今はこの男の犯罪をこれ以上広げないことに集中しようと、男を説得するつもりでいた。しかし、それは甘かった。吉田は高槻に

「どけ!お前も刺すぞ!」と血走った目でナイフを高槻に向けて近づけてきた。高槻は片手で娘を誘導しながらドア側に後退りして、血路を開こうとしていた。娘がそれを理解すれば、ドアを開けて脱出出来たかもしれないが、娘はその場でしゃがみこんでしまった。高槻は娘の上に腰を下ろすようにして倒れ、吉田が突進してきたので、吉田を抱え込むような形になった。その時、鋭利なものが高槻の腹部を抉った。高槻は吉田がそのナイフを抜いて、次のターゲットに向かおうとするのを抱き抱えることで阻止した。吉田は

「手を離せ、そこを退け!」と何度も怒鳴り離れようとしたが、高槻は頑なに吉田を抱き抱える手を緩めなかった。結果として、高槻の腹部からは大量の血が流れ、意識が薄れてきた。娘は二人の男の下敷きの状態から何とか抜け出し、涙で顔を濡らし、血だらけの服で玄関のドアを開け、廊下に這い出してきた。廊下に出ると、大声に驚いた両隣や階下の住民が心配して出てきており、血だらけで廊下を四つん這いでいる娘を見て、大変な事件を理解した。すぐに、誰かが110番通報し、娘は保護された。事件の起きた母子の部屋からはしばらく怒鳴り声が聞こえていたが、いつの間にか静かになった。そしてそこから、血だらけの女が出てきた。上半身の服は真っ赤に染まり、ふらふらとしながら廊下を歩いてきて、膝から倒れ込んだ。隣室の主人がそれを抱き抱え、家人にタオルを持ってくるように言い、

「奥さん、しっかり!」と声をかけた。さらに、

「何があったの?」と必死に問いかけると、

「あの人がナイフを持って入ってきて、いきなり切り掛かってきたの」と言って、

「家の中にもう一人刺された人がいる。刑事さんが倒れている」と言うので、集まってきた男たちが手にバットなどを持ちながら、部屋を覗いた。そこには、倒れた男とその横で胡座をかくように座っている男がいた。一人が勇気を出して、少しそばによると座っているのはついこの間までここに住んでいた男で手にはまだナイフを持っていた。もう一人は、呼吸をしているのかどうかもわからず、横たわっていた。

 十五分後にパトカーと救急車が相次いで到着した。事件は決着していなかったので、まずは刑事と警官が部屋に用心しながら突入した。ナイフを持ったまま呆然としている男を逮捕し、高槻の救急処置をはじめた。高槻は最初はかなりはっきりと喋っていたが、何せ出血が大量で次第に意識を失っていった。すぐに救急車に運び入れられ、救急病院に向かった。牧野もよく知っているベテランの刑事が同乗したが、高槻は自分から経緯を話し出したが、救急隊員が生命の維持を優先するため、それ以上の話を止めた。そして、集中治療室に入ったが程なく亡くなった。大量の出血による失血死だった。


 剛は翌日、所属警察署にまだ充血した目で初出勤をした。晴れがましい気分での出勤となるはずが、最悪の気分での出勤だった。警察署全体がどんより沈んだような雰囲気で、剛はまず配属された刑事課に挨拶に行った。刑事課長も何度か話をしたことがある人で、剛と亡くなった高槻との関係を知っており、剛の挨拶に僅かな笑顔で応え、肩をポンと叩いて、課員の前で剛に挨拶をさせた。剛は昨日の不幸な出来事を顔に出さないように心がけて、なるべく元気に挨拶をしたつもりだったが、いかんせん目が充血しており百戦錬磨の先輩たちにはお見通しだったようで、皆が同情するような雰囲気となっていた。しかし、そこはプロの集団で、すぐに剛への現場レクチャーの予定をこなし始めた。そして週末には、高槻巡査部長は殉職が承認され、県警本部が支援する形で葬儀が行われた。

 剛の刑事としての初仕事は、この高槻の事件後の様々な聴取や手続きを経験することで始まった。その後も彼は多くのトラブル対応や事件捜査にあたり、一つ一つを丁寧に解決することで頭角を表していった。


 彼はこの警察署で警務係をしていた原静香はらしずかと交際し、結婚することなった。結婚後、二年後に娘幸子こうこが生まれ、そして、刑事として実績を積み、警部補となる頃に兄巌と北浅間村で同居することとなる。

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