3章(4)第18話 〜人の街〜
3章(4)第18話 〜人の街〜
フェギスノーラの胸の奥には、“重さ”が残っていた。
歓声が遠のいても、祈りだけは遅れて追いついてくる。
「名演説だったな」
アンリが、わざと拍手する真似をした。
数十名の見張りを立たせた王宮内の控えの間で、エルドウルフは先ほどまで身につけていた白金の甲冑を外していた。
集中を解いた身体から、戦場の光はもう漏れていない。
扉の向こうでは、王太子に謁見を願う貴族たちの気配が、濁流のように渦巻いている。
「褒めても何も出ないぞ。それに……重いし暑い」
甲冑を椅子に預け、エルドウルフは短く息を吐いた。
「こんな物を戦場で着る奴の気がしれない」
ぼやきは、ルーソルに向けたものだった。
「はあ?」
即座に返ってくる。
「重いって分かっててハンサンで着せたくせに。今さら言うな」
そう言いながら、ルーソルも濃紺の甲冑を脱ぎ捨てる。
癖のある動作は、少年の頃から何一つ変わらない。
「分かってる。世話焼き」
エルドウルフはルーソルの癖毛を乱雑に撫でた。
その仕草もまた、昔とほとんど同じだった。
「あー……」
アンリが、今度は深く息を吐いた。
二人は顔を上げる。
「……外じゃ、あれだけの空気を背負わせておいて。
中に入った瞬間、いつもの顔で軽口叩きやがって」
苛立ちは、声を荒げるほどのものではない。
だが、確実に積もっていた。
エランとゴディエは、別室で貴族と役人に捕まっているはずだった。
アンリは二人を見て、ふたたび短く息を吐いた。
――こういう時ほど、こいつは無防備になる。
「――遊んでる場合か!」
低く、苛立ちを噛み殺した声。
「時間がない。今すぐ動け」
後方の扉が乱暴に開き、フーガが入室した。表情は険しく、苛立ちを隠す気もない。
「……クソ。お前やりすぎだ。」
エルドウルフを一瞥してから、吐き捨てるように続ける。
「――お前の周りはもう動かした。執事長も使用人も出立済みだ。――アンリ、ルーソル――屋敷に戻れ。抜けがあったら承知しない」
アンリは短く頷き、ルーソルは肩をすくめた。
「俺はいいよ。」
「駄目だ。確認しろ。今は一つの綻びが致命傷になる」
言い切りだった。
フェギスノーラは、少し離れた場所でその様子を見ていた。
怒っているようで、
守っているようで、
楽しそうでもある。
視線が、話す者の口元から、肩、そして背中へと移る。
声の強さと、身体の向き。
それが一致していないことに、気づく。
(……声だけじゃ、ない)
人間は、近しいほど声が荒くなるらしい。
「……次に戻るのはいつになるかわからない」
エルドウルフはそう言って立ち上がる。
「俺が外に出る。群衆の注意は引けるだろう」
フーガは一瞬だけ眉を寄せたが、否定しなかった。
――それが一番、早い。
エルドウルフは、フェギスノーラの手を取った。
「神さま。王都を散歩しよう。案内する」
命令ではなく、誘いだった。
――少しだけ間を置いて、彼は付け足す。
「外は人が多い。重くなったら、すぐ言え」
短い。だが、逃げ道を先に作る言葉だった。
「じゃあ、フードは深くね」
ルーソルがそう言って、マントの留めを整える。
「ありがとう」
フェギスノーラは静かに微笑んだ。
扉が閉じる音がして、
控えの間に残ったのは、三人だけになった。
「……置いていかれた気分だな」
ルーソルが肩を回す。
「文句を言う暇があるなら、動け」
フーガは苛立ちを隠さず、言い捨てる。
「王太子が目立つほど、裏は急ぐ。
遊びじゃない」
「わかってるよ」
ルーソルは軽く返した。
「俺は外を抑える――貴族どもが動き出す前にな」
フーガが続けた。
「了解」
ルーソルは即答した。
「派手な方は任せた」
「派手なのは、あいつだ」
フーガは、扉の向こうを睨むように言った。
◇◇◇◇◇◇◇
回廊へ続く扉を開けた瞬間、空気が変わった。
扉の外では、護衛騎士たちを取り囲むように、
四重、五重に貴族たちが押し寄せている。
声を上げる者。
名を名乗る者。
視線だけで機会を探る者。
「――俺は自領クワルノーで静養する」
エルドウルフの声は大きくなかったが、
不思議と通った。
「用があるなら来たらいい。
いつでも歓迎する」
その一言で、護衛騎士が動いた。
剣を抜くこともなく、
ただ一歩、半歩と位置をずらす。
それだけで、人の流れに“切れ目”が生まれる。
生まれた隙間を、
二人は軽やかに走り抜けた。
貴族たちは一瞬、呆気に取られ、
追いかけるという判断を失った。
回廊の中央、
大階段の下で二人は立ち止まる。
二十段ほど上がった踊り場に、
闘神を讃える大きな絵画が掲げられていた。
白い二枚の羽。
水色の髪を持つ女神。
エルドウルフは、その絵を見上げてから、
ふっと息を吐いた。
「子供の頃から思っていたんだ」
視線を外し、
隣に立つフェギスノーラをまじまじと見る。
「この闘神さまは全然似てない。」
「……そう?」
「本物の神さまの方が、ずっと――――。」
真剣な顔で、言い切る。
「やっぱりこの絵は間違いだ。
後世に残しちゃいけない。
――消してくれ」
「え?――消すの?」
エルドウルフは、大きく頷いた。
フェギスノーラは少しだけ困った顔をして、
それから指先で円を描き、
中心を軽く弾いた。
一瞬だった。
絵画は光の羽根に包まれ、
粉々に砕け、
きらきらと散って消えた。
「……やっと正しくなったな」
エルドウルフはそう言って、
彼女の手を取る。
二人はそのまま走り出した。
声を上げて笑うエルドウルフ。
状況はよく分からないが、
彼が楽しそうなら、それでいい。
フェギスノーラは、
そう思って、握り返した。
◇◇◇◇◇◇
祝勝祭に沸く王都の通りは、昼間から異様な熱を孕んでいた。
焼いた肉の脂の匂い。
甘い酒と香辛料。
人いきれと、笑い声と、嗚咽に近い声。
通りの両脇には露店がひしめき、肩が触れ合う距離で人が行き交う。
歩くたび、誰かの肘が当たり、裾が引っかかり、視線が突き刺さる。
「――殿下だ!」
声が上がるたび、人の波が揺れた。
「ありがとう、殿下!」
「息子が……生きて帰ってきました」
「父ちゃんが、帰ってきたんだ」
泣きながら叫ぶ声。
笑いながら頭を下げる声。
言葉にならないまま、手を伸ばす者。
エルドウルフが歩く先々で、声が重なっていく。
「殿下、これ食べていってよ! ブルドロ!」
「まだやってたのか。この店」
女店主は顔をくしゃっとさせて笑った。
「当たり前だよ。殿下が帰ってくるって聞いたら、休めるわけないだろ」
そのやり取りを、フェギスノーラは黙って見ていた。
敬意でも、畏怖でもない。
生きて戻ったことへの、まっすぐな感情。
エルドウルフは立ち止まらない。
声を受け取りながら、前へ進む。
――だが、手は引かない。
半歩だけ前に出て、群衆の流れを肩で割る。
背を向けるのではなく、壁になる位置だった。
「ここは狭い。俺の後ろ」
短い指示。
フェギスノーラは言葉の意味を完全には理解しない。
けれど、彼の背中が“道”になっていることだけは分かった。
露店の熱、酒の匂い、人の感情。
それらが直接胸に触れなくなる。
少しだけ、息がしやすい。
「ほら、熱いからな」
軽く息を吹きかけて、差し出されるパイ。
「……うん」
フェギスノーラは受け取り、小さく齧った。
甘さと塩気。
温度と食感。
それらは味としてではなく、ただの情報として胸を通り過ぎていく。
だが――
この通りに満ちているものは、情報ではなかった。
視線。
願い。
感情。
歩くたび、それが身体に触れてくる。
フェギスノーラの歩みが、ほんの少し遅れる。
それに気づいて、エルドウルフの歩幅が目立たない程度に短くなる。
立ち止まらない。
だが、置いていかない。
「殿下、恋人かい?」
「可愛いねえ」
「異国のお姫様みたいだ」
冷やかしの声が飛ぶ。
「まだ恋人じゃないのか」
「頑張れ、殿下!」
人々は笑い、道を譲る。
フェギスノーラは、その意味を理解しないまま、もう一口齧った。
それでも胸の奥が、じんわりと重くなる。
熱が内側から滲み出すようだった。
足元がわずかに浮き、視界の縁が揺れる。
エルドウルフは、背後の気配の“薄さ”で分かった。
声ではない。
呼吸の抜け方が変わった。
「――待て」
低い声だった。
遅れたのではない。
気づいた瞬間に、間に合わなかった。
「……むり」
掠れた言葉が落ちる。
次の瞬間、エルドウルフは人の流れへ肩を入れた。
視線だけで護衛が動く。
前に立つ者が一人、横に立つ者が二人。
道ではなく“切れ目”が生まれる。
喧騒が、ひと息ぶん遠のいた。
路地だった。
堪えきれず、吐き戻す。
ほとんど消化されていないそれを見て、
エルドウルフは眉を寄せた。
「無理をさせた。……すまない」
低い声だった。
誰に向けた言葉かは、言わない。
「違う」
フェギスノーラは首を振る。
「楽しかった」
本心だった。
走ったことも、
群衆の中にいたことも、
食べたことも――
すべてが初めてで、眩しかった。
けれど、身体は正直だった。
人の営みを、
この量の感情を、
そのまま受け止められる器ではない。
路地の入口に、影が動く。
アストロフだった。
視線だけで状況を把握し、短く息を吐く。
「……ここまでです」
それだけで十分だった。
「これ以上はお控えを。獅子宮へ戻りましょう」
誰も異を唱えない。
それが最善だった。
エルドウルフは、彼女の歩調に合わせて踵を返す。
「……少し、休もう」
それから先の記憶は、ひどく静かだった。
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