3章(3)第17話 〜盤面の裏側〜
3章(3)第17話 〜盤面の裏側〜
フーガは、夜明け前に馬を替えた。
王都へ――それだけを口にして、部下の目を一度だけ撫でるように見た。
返事を待つ必要はない。ここで迷う者は、最初から連れていない。
「……怠りはないか」
問いは低い。だが、背後の空気が一段締まる。
「こちらです、小公爵様」
黒い外套の男が一歩前に出て、革袋と封筒を差し出した。
封蝋はすでに割られている。読むのは移動中でいい。
「船は?」
「一刻前に押さえました。積み荷は“薬草”名義で通してあります」
フーガは鼻で笑った。薬草だろうが塩だろうが、通すべきものは通す。
問題は速さだけだ。
馬の腹を一度だけ叩く。
小さく嘶いた馬が、冷えた地面を蹴った。
「お前ら、気張れよ」
前を向いたまま言う。
「俺が遅れりゃ、殿下が詰む。――寝るな」
街道は湿っていた。
夜の露が残り、蹄が踏むたび泥が薄く跳ねる。
だが、速度は落とさない。落とせない。
道端の焚き火が、遠くで一つ二つ消える。
夜番の兵が顔を上げ、こちらを認めるより早く、影は過ぎ去った。
途中、関所が見えた。
門の前で待つ役人が声を上げかけるが、横から別の男が先に出る。
「リモージュ家の通行だ。帳面はこっちだ」
紙束が差し出され、役人が目を落とす。
その“目を落とした”一拍で、フーガは門を抜けた。
追ってくる声はない。
追う理由もない。
追えば、相手の名が残る。
昼、港に着く。
潮の匂いではなく、冷たい川の匂いがした。
船は小さい。だが、必要なのは豪奢さではない。
「小公爵様、すぐ出ます」
船頭が帽子を押さえ、短く言う。
「出せ」
フーガはそれだけ返し、甲板の端に立った。
水面が割れ、船が滑るように進む。
風が強い。顔を刺す冷気が痛い。
ニカの外れで、船を降りた。
港の喧騒はまだ眠っている時間帯だが、
石畳の向こうから、かすかに血と塩の匂いが漂ってくる。
フーガが足を止めた先には、
簡素な看板を掲げた倉が並んでいる。
――ヴァルニエ商会。
表向きは、食肉と塩漬けを扱う中堅の商いだ。
扉が開く前に、向こうが気づいた。
内側から足音が走り、鍵が外される。
「小公爵様」
低く、早い声。
フーガは一瞬だけ口角を上げた。
「……相変わらず、騒がしいな」
「ええ。ハンサン出征を蹴ってからは。」
それだけで十分だった。
ニカは“何か”をもくろんでいる……。
「領主は?」
「何も。ですが……」
一拍、間が置かれる。
「ニカは少し動いています」
フーガは頷いた。
「……サリムの名も聞こえます」
フーガの視線がわずかに動いた。
「……あの狸か」
それだけ言うと、もう興味を失ったように地図へ視線を落とす。
「あとでいい。まずは王都だ。凱旋を成功させる。」
部下は手早く地図を広げる。
「アンジュール領の山道が近道なのですが、雪溶けで一部土砂が崩れたそうです。アザンクールの公道を行きましょう。脚の強い馬を用意しました。」
「やむを得ん。確実をとる。」
――六日で着く。
そう言葉にしないまま、胸の奥で繰り返す。
エルドウルフが帰る。
凱旋は“自然に湧く”。
ならばその熱を、こちらの都合のいい形に整えるだけだ。
王家は派手な舞台を欲しがる。
貴族は群がる。
民は熱狂する。
その全部を使って――
王太子宮の人と荷が、静かに王都を出ていく。
民衆が見るのは凱旋だ。
誰も、空になった宮には気づかない。
フーガは、用意された馬の手綱を掴んだ。
「……間に合わせるぞ」
呟きは風に消えた。
だが、背後で部下が短く返す。
「はい」
その一語だけで十分だった。
フーガは、公道の先へ視線を投げた。
――王都は、もう近い。
◇◇◇◇◇◇◇
王都リノン中心街から真東へ五キロ。
ロワール太公の邸宅は、王宮に次ぐ規模を誇る大宮殿だった。
大小七つの屋敷が緩やかに連なり、私騎士団と使用人を合わせて百名余りが常駐する。
外周を囲むのは、樹齢を重ねた針葉樹林。外界の喧騒を遠ざける、静かな防壁だった。
西門を抜け、案内も断って中庭へ進む。
フーガは勝手知ったる道を歩いた。
応接の間にいたロワール太公――王家の外戚にして、王都の古老マティス・ド・ロワールは、
書簡から顔を上げると、まず深く息を吐いた。
「……ずいぶん早かったな」
「最短で来ました」
礼も簡略に切り上げ、フーガは正面の椅子に腰を下ろす。
「殿下からの伝言です。
――三ヶ月、待て」
ロワール太公は一瞬、目を細めた。
すぐに意味を理解し、口元にわずかな笑みを刻む。
「――静養、という名目か」
「ええ。表向きは」
窓の外で、フクロウが一声鳴いた。
深夜の森の音は、王宮よりも正直だ。
ロワール太公は、ゆっくりと指を組む。
「裏は?」
「クワルノーの地盤固めと、次の一手です」
短い沈黙。
ロワール太公は答えず、蜜蝋の燭台に視線を落とした。
炎が一度、ぱちりと音を立てる。
ロワール太公は椅子に深く凭れ、腕を組んだ。
「……で、凱旋の熱を使え、と」
「はい」
フーガは淡々と、だが一切の遠慮なく続けた。
「凱旋は派手に。国庫は使わないでください。
王家の金で、と進言して下さい。」
「第一王子殿下の株が上がる」
ロワール太公は小さく笑った。
「帰還兵には、温かい食事と風呂、屋根のある寝床を。
賃金は――少し多めに」
「なるほど。
“王家が兵を労った”という形にするわけだな」
「ええ」
フーガはわずかに肩をすくめた。
「ですが、民衆は舞台より主役を見るものです」
ロワール太公の目が細くなる。
「……王家の威光で舞台を整え、
主役だけを奪うつもりか」
「ええ。
王都の歓声は――クワルノーまで届く音にします」
蜜蝋が受け皿に落ちる音がした。
「凱旋では――あいつの顔を使いましょう」
フーガは淡々と言った。
「民衆は、顔のいい英雄が好きだ」
「……王太子を飾りに使う気か」
「飾りじゃありません」
フーガは短く答える。
「旗です」
ロワール太公は、ゆっくりと笑った。
「それは愉快になりそうだ。――人の流れは?」
「入ってくる者は絞ってください。
治安と物資の名目で」
「出て行く者は?」
「その分、緩く。素通しで」
「凱旋の歓声は王都に残ります。
王太子宮は残りませんがね」
「……なるほど」
ロワール太公は、そこでようやく声を出して笑った。
「派手に騒がせて、静かに消す……か」
「王都を守るためですからね」
「便利な言葉だな」
視線が交わる。
そこに、疑念はなかった。
「行軍から戻る兵の中で、クワルノー方面の者は荷馬車の運搬に使えます。きちんと賃金を払えば、命令しなくても動きます」
「……王太子の兵だな」
ロワール太公はそう言って、ゆっくりと頷いた。
「獅子宮の人間は?」
「すでに動かしています。
執事長以下、使用人も含めて」
ロワール太公はゴブレットを持ち上げ、
一口だけ喉を潤す。
そして、静かに置いた。
「通行証は私が出そう」
短い会話だった。
だが、国一つを動かすには十分すぎる。
ロワール太公は、ふと苦笑する。
「お前、若いのに、やることが老獪だ。
――誰に似た?」
フーガは肩をすくめた。
「さあ。誰でしょうね」
ロワール太公は、机の端に置かれた指輪を外した。
それを置く音は、驚くほど小さい。
「三ヶ月、だな」
老将は天井を見上げる。
「その間、王太子派も第一王子派も、私が抑えよう。
……勇み足を踏む愚か者が出たら、叩く」
「お願いします」
「安心しろ」
ロワール太公は、低く言った。
「この国で一番、戦の後始末が得意なのは――
戦場に出なかった人間だ」
フーガは立ち上がり、一礼する。
「殿下に伝えます。
“任せておけ”と」
「伝えろ」
ロワール太公は、はっきりと告げた。
「王太子は、戻る場所を失わん。
たとえ今、王都を離れてもな」
フーガは扉の前で一度だけ立ち止まり、静かに頷いた。
凱旋は、まだ先だ。
だが、すでに盤面は――動いていた。
凱旋の熱は、刃にも盾にもなる。
使い方を誤れば、王家を裂く。
◇◇◇◇◇◇
エルドウルフと、その兵が広間を去り、
場が落ち着き始めた、その時。
誰かが、
中央通路へ一歩、踏み出す。
足音が、やけに大きく響く。
「――恐れながら、発言を」
一瞬、空気が張り詰める。
止める者はいない。
止められる者が、いない。
彼は、声を張らない。
あくまで“理性的”に語る。
「此度の勝利、まことに慶賀すべきことであります」
「しかしながら――」
「王太子殿下の御身に宿る“力”」
「それが、果たして王国にとって
吉となるのか、凶となるのか」
ざわ、と小さな波。
「神力は、畏れるべきもの」
「王都に留め置くには――いえ、王家に留め置くには
あまりにも過ぎた力にございます。
……すでに殿下ご自身も、王位を離れるお覚悟あってのご移動ではと。」
ここで彼は王家を守る側に立ったつもりでいる。
そして――言ってしまう。
「かつて、第二王妃殿下も
同じ懸念をお持ちだったはず」
この瞬間。
空気が、完全に死ぬ。
誰かが息を呑む。
誰かが視線を逸らす。
彼は気づかない。
自分が何を踏み抜いたかを。
「ヨルダーネス殿下」
低く、落ち着いた声だった。
ロワール太公は、
杖に両手を添えたまま、玉座の方を見上げている。
「今の発言――
アンドレース家の御意思として、
公式に受け取ってよろしいものでしょうか」
広間が、静まり返った。
ヨルダーネスは、わずかに眉を動かす。
「……何を言う」
「いえ」
ロワール太公は、首を横に振る。
「ただの確認です」
ゆっくりと、一歩前に出る。
「王太子殿下は、
ご自身の発言を極めて慎重になさるお方。
それを“代弁”したとあらば――」
視線が、問題の男へ向けられた。
「それは、王家の意思を騙る行為に等しい」
男が慌てて口を開く。
「ち、違います! 私はただ、
殿下のお立場を思って――」
「殿下?」
ロワール太公の声は穏やかだった。
だが、その一語で、男の言葉が止まる。
「どの殿下のことでしょう」
逃げ場が、消えた。
男は反射的に、ヨルダーネスを見た。
「だ、第一王子殿下の御威光のもと――」
その瞬間。
「――黙れ」
ヨルダーネスの声が、広間を貫いた。
怒気を抑え込んだ、王子の声だった。
「貴様は今、
王太子の名を借り、
王家の意思を捏造し、
あまつさえ、私の名まで使った」
一歩、踏み出す。
「誰が、
そのような越権を許した」
男は青ざめ、膝をついた。
「も、申し訳ありません! 殿下のお力になりたく――」
「力?」
ヨルダーネスの口元が歪む。
「このような愚行で、
王家の正統性を揺るがしかねぬ者を、
私は側に置かぬ」
視線を、衛兵へ。
「連れて行け。
この者は、シュバリエ王家の名を汚した」
即断だった。
迷いはない。
衛兵が男を引き上げる。
引きずられていく背に、
ロワール太公は、何も言わなかった。
ただ一度だけ、
ヨルダーネスへ向けて、深く頭を下げる。
――それ以上、言葉は無かった。
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