3章(2)第16話 〜主導権の移動〜
典礼官の声が響いた。
「国王陛下はご静養中につき――
本日の儀は、第一王子ヨルダーネス殿下が執り行う」
静かな宣言だった。
王宮大謁見の間は、朝の光に満ちていた。
片側の壁一面を占める高窓から、白い光が斜めに差し込む。
天井は三層分の高さがあり、梁の間には金で縁取られた王国旗が垂れている。
白地に銀のユニコーン。王冠と巻物を掲げた紋章が、静かに揺れていた。
玉座へ続く中央には深紅の絨毯がまっすぐ伸び、
その左右に貴族席が半円状に並ぶ。
大謁見の間には、王都の有力貴族がほぼすべて集っていた。
壁際から柱の影まで、立つ場所を探す方が難しいほどだった。
王族席、貴族席、軍席。
本来ならば秩序正しく分かたれるはずの空間が、
この日だけは異様な密度で満たされている。
それでも――
誰一人、中央へ踏み出さない。
そして赤絨毯の中央。
甲冑のままの王太子が立っている。
その背後には、間隔を揃えて兵が並んでいた。
凱旋に同行を許された精鋭たち。
数えれば、百。
磨かれた鎧は一糸乱れず、
槍も剣も掲げられてはいない。
ただ静かに、直立している。
だがその沈黙は、
どんな怒号よりも重かった。
さらにその最前列、
王太子のすぐ後ろには腹心たちが並ぶ。
エラン。
ゴディエ。
フーガ。
アンリ。
ルーソル。
誰一人として前へ出ない。
だが――誰も、王太子を一人にはしない。
玉座は空いている。
だが、その空席は“不在”ではなく、“存続”を示していた。
玉座の脇、一段下がった席から、
第一王子ヨルダーネスが前へ進み出る。
第一王子ヨルダーネス。
エルドウルフの異母兄。
王家に多い淡い金髪と、整えられた体躯。
剣よりも、政務と儀礼で磨かれた姿だった。
「オルミーナ、ならびにハンサンでの戦における功――
シュバリエ王国を代表し、労をねぎらう」
声はよく通り、言葉に淀みはない。
あくまで、正規の手順。
あくまで、王家の式次第だった。
広間に、わずかな安堵が広がる。
――その時だった。
「恐れながら」
低く、しかしはっきりとした声が、空気を切った。
誰のものか、すぐに分かった。
アンリ・ド・ランベール。
「この場は、戦勝報告の儀。
王太子殿下が列する前に、
他の方が言葉を発するのは――順序が違います。」
一瞬。
音が消えた。
ざわめきではない。
理解が追いつかない沈黙だった。
「……何を言うか、ランベール卿」
貴族席の一角から、鋭い声が飛ぶ。
「序列を弁えよ」
「ここは王家の儀だ」
その言葉を、アンリは振り返らない。
「――だからこそ、です」
視線は、玉座の前。
ただ一人、甲冑のまま立つ青年へ向いている。
「この場の序列一位は、
我が主君――エルドウルフ王太子殿下だ」
ざわめきが、今度こそ広間を満たした。
怒号。
非難。
息を呑む音。
だが、そのすべてが、
彼の背後に立つ“百の軍”に阻まれる。
国王不在の謁見では、緊張は珍しくない。
だが――
誰も、前へ出られなかった。
貴族席の何人かが、視線を落とした。
誰も、反論しなかった。
それが答えだった。
誰も、反論しなかった。
誰も、前へ出られなかった。
これは緊張ではない。
**主導権の移動だ。**
「双方、静まれ」
沈黙していたエルドウルフが、よく通る声で告げた。
声量は大きくない。
だが、広間の隅まで、等しく届いた。
彼は兜を左手に持ち、
首も、膝も、折らない。
兄たちを見上げる位置に立ちながら、
視線だけは、対等に――いや、まっすぐ前を向いていた。
「責務を果たし、ただいま帰還した」
それだけだった。
感情も、誇示も、ない。
報告として、必要な言葉だけ。
玉座の脇で、第二王子コグットの喉が小さく鳴った。
甲冑の軋む音さえ、やけに大きく聞こえる。
視線が合った瞬間、
そこにいるのが“弟”ではなく、戦を連れて帰った男だと悟った。
第一王子ヨルダーネスは、微かに目を細めた。
何も言わない。
だが、その沈黙が答えだった。
エルドウルフはわずかに視線を動かした。
誰にも気付かれないほど小さく――
ほんの一度だけ、後方の隊列を確かめる。
続いて、戦果と論功が読み上げられる。
地名、兵数、損耗、捕虜、戦利。
数字が並び、記録官の声が反響する。
その間も、
エルドウルフの周囲には、淡い光が揺らめいていた。
空気が、わずかに張り詰める。
呼吸が、ひと拍遅れる。
戦場でのみ現れるはずのそれは、
消えもせず、強まることもなく――
ただ、そこに在り続けている。
誰も、それを指摘しなかった。
「――しばし、暇を賜りたい。」
その言葉は、唐突だった。
だが、軽くはなかった。
ざわめきが起きる前に、エルドウルフは続ける。
「この度の戦で、闘神の力を幾度となくお借りした」
次の瞬間――
彼の背後、わずかに遅れて、
淡い光が一筋――羽根のような形を成して弾けた。
矢でも、刃でもない。
ただ、放たれてしまった光。
それは数歩離れた第二王子コグット――
同じく淡い金の髪を持つ異母兄の肩口をかすめ、天井へと突き抜ける。
次の瞬間、爆ぜるような光。
乾いた破裂音。
悲鳴。
石片が降り注ぐ――はずだったそれらは、
床に届く前に、光へと溶けて消えた。
広間が、凍りついた。
コグット王子は、
肩口の熱を感じながら
自分が無傷であることを理解するまで、動けなかった。
エルドウルフは、振り返らない。
「……その力は」
静かに、言葉を選ぶ。
「王都に留め置くには、過ぎる」
誰も、否定できなかった。
先ほどの光が、
“威嚇”ではなく、
“制御の外にあるもの”だと――
全員が理解していたからだ。
「よって本日をもって、王都を離れる」
宣言は、簡潔だった。
「静養を名目とし、
力を鎮めるため、地を移す」
沈黙。
異を唱える者はいない。
この場で反論することは、
政治的敗北である以前に――
命知らずの所業だった。
「だが」
エルドウルフは、最後に一言だけ添える。
「シュバリエに戦あらば、
いつでも剣を取ろう」
それは誓いではなく、事実の提示だった。
彼は踵を返す。
腹心たちが、無言で道を開く。
その最後尾――
フードを深く被った小柄な女性の肩に、彼は何事もなかったように手を添えた。
光は、もう揺れていない。
広間に残ったのは、
破壊ではなく――
理解しきれない“重さ”だけだった。
◇◇◇◇◇◇
扉が閉じる音が、やけに大きく響いた。
一拍遅れて、
謁見の間に、ざわめきが噴き出す。
「今のは……どういうことだ」
「王太子が、王都を離れる?」
「静養? あれほどの力を見せておいて?」
「……だが、戦を止めたのも殿下だ」
「王都を守ると宣言された」
「去るのではない。退いたのだ」
声は小さい。
だが、否定だけではなかった。
貴族たちは立ち上がり、囁き合い、互いの顔色を探る。
先ほどまでの威勢はどこにもない。
天井を見上げる者。
床に残る、砕けたはずの痕跡を探す者。
誰もが、同じことを考えていた。
――もし、あれが“本気”だったら。
第一王子ヨルダーネスは、
深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「……静まれ」
その一言で、ざわめきが波のように引いた。
彼は玉座の脇に立ったまま、広間を見渡す。
怒りも、動揺も見せない。
ただ――現実を受け入れた顔だった。
「王太子は、責務を果たした」
短く言う。
「そして王家に、選択肢を残した」
ざわめきが止まる。
誰もが意味を考え始める。
「王都に力を置かないという選択。
王家に剣を向けぬという選択。
そして――」
わずかに間。
「王家が責任を背負うという選択だ」
広間の空気が変わる。
これは言い訳ではない。
王家としての解釈の提示だった。
「今、騒ぎ立てることが誰の利益になる?」
返答はない。
ヨルダーネスは頷いた。
「ならば、この話は終わりだ」
声は低いが、揺れていない。
即座に、沈黙が落ちた。
その隣で、
第二王子コグットは、蒼白な顔のまま立ち尽くしている。
「あ、兄上……」
ようやく声を絞り出す。
「今の……今のは……」
「見ただろう」
ヨルダーネスは、視線を前に向けたまま答える。
「彼は、力を誇示したのではない。
――抑えていた」
コグットは、息を呑んだ。
「じゃ、じゃあ……」
「王都に留めれば、
いずれ“抑えきれなくなる”」
冷静な分析だった。
「だから、去った。
我々に、責任を残してな」
しばしの沈黙。
コグットは、震える声で言った。
「……勝てない、ですね」
計算するように、天井を見上げる。
「最初からだ」
ヨルダーネスは、短く答える。
「だからこそ――」
一瞬だけ、言葉を切る。
「今は、敵に回すな」
それは、兄としての忠告ではない。
王家の一員としての、判断だった。
貴族たちは、ようやく理解し始めていた。
王太子エルドウルフは、
王都を去ったのではない。
――盤上の外へ、移ったのだと。
更新 月曜日/木曜日 20:00
X更新情報/活動報告など発信してます
たまにイラストも
https://x.com/REANNEcreative




