第13話 〜境界を渡る〜
その夜は冷え込んだ。
夕食を終える頃には、前後の隊から伝令が戻り、その日の行軍について報告が交わされた。
報告が途切れると、焚き火が小さく爆ぜた。
誰かが立ち上がり、夜番の交代を告げる。
兵たちは故郷の話をしていた。
帰れば何を食べたいだとか、誰が待っているだとか。
どこかの出身者が、聞き慣れない土地の歌を小さく口ずさむ。
フェギスノーラは何も言わなかった。
焚き火を見てはいるが、その話が自分へ届いているようには見えない。
「……行こうか」
エルドウルフが声をかける。
フェギスノーラは顔を上げ、それから立ち上がった。
天幕へ向かう途中、七夜の月が雲の切れ間に浮かんでいた。満ちきらない月明かりが、野営地を淡く照らしている。
天幕には、簡素な寝台が一つだけ用意されていた。野営地で、もう一つ用意させるほどの余裕はない。
フェギスノーラは迷わず腰を下ろし、外套を握ったまま横になる。
「……ここでいい?」
「ああ」
エルドウルフも反対側へ身体を横たえた。
灯りを落とす。
天幕の外から、兵の足音と馬の鼻息が聞こえていた。
フェギスノーラはほどなく眠った。
エルドウルフはしばらく天幕の天井を見ていたが、やがて目を閉じた。
◇◇◇
夜明け前、野営地は湿った空気に包まれていた。
浅い流れが石に触れる音が、低く続いている。
焚き火の残り香に、濡れた草の匂いが混じっていた。
兵たちは順に川縁へ向かい、顔を洗い、手を浸す。
水をすくう音。
鎧の留め具が触れ合う音。
誰かの短い咳。
その中で、フェギスノーラだけは昨夜とほとんど変わっていなかった。
髪も乱れず、衣も崩れていない。
ルーソルが横目で見て、少し笑う。
「……神さまは、朝の支度がいらないんだね」
フェギスノーラは流れる水を見る。
「みんな、冷たい」
「目が覚めるでしょ」
ルーソルはそう言いながら外套を羽織った。
ほどなくして、行軍再開の合図が回る。
今日は、もっと大きな水へ出る。
しばらく進むと、地面の感触が変わった。
湿り気を含んだ土に、小さな石が混じりはじめる。
風の匂いも、少し違う。
草の青さに、水の冷たさが混じった匂いだ。
「……来たな」
誰かがそう言ったわけではない。
だが、隊列の中に同じ予感が走る。
やがて、視界が開けた。
低木が途切れ、その先に――
水があった。
大河セシールだった。
幅は広く、流れは緩やかだった。
だが、水の量が違う。
岸辺で騒がしく音を立てることもなく、灰色の水面が遠くまで続いていた。
河岸には、丸みを帯びた石がごろごろと転がっている。
葦が群れ、風に煽られて擦れ合い、乾いた音を立てていた。
水面は灰色の空を映し、向こう岸は――
遠く、霞んでいる。
「……大きい」
フェギスノーラが、ぽつりと言った。
それは感嘆でも、評価でもない。
ただ、事実を確認する声だった。
時折、水面が一瞬だけ乱れ、すぐに元へ戻る。
水鳥が羽音を立てて飛び立ち、
流れに沿って、低く滑るように去っていった。
「これが、セシール川だよ」
ルーソルが、彼女の視線に合わせるように言う。
「南へ流れてる。ここから三日ほど、ずっと一緒だ」
フェギスノーラは川を見つめたまま頷いた。
「……ながい」
「国も、街も、これに沿ってできてる」
ルーソルは川上から川下へ指を動かした。
「それに、本流は広くて深い。軍が好きな場所から渡れる川じゃない」
「……わたるの?」
「二回ね」
フェギスノーラがルーソルを見る。
「ハンサンからシュバリエへ戻るには、いったんネルマへ渡る。そこで南へ進んで、もう一度橋を渡ればニカだ」
「……まわる?」
「そう。橋を使わないと、これだけの人と馬は渡せないから」
フェギスノーラはもう一度、大河へ目を向けた。
対岸は遠く、灰色の霞の向こうにある。
船は行き交える。
だが、人と馬と荷車の列は、橋のある場所まで進まなければならない。
隊列は川に沿って進路を取った。
水の気配を左に感じながら、南へ。
人と馬と荷車が、大河に並んで進み始めた。
◇◇◇
三日間、隊列はセシールに沿って南下した。
やがて、ネルマへ渡る橋が見えてくる。
関所は、その手前にあった。
木と石で組まれた建物には、シュバリエでは見ない意匠が刻まれている。
柱には幾何学模様の浅い彫りが入り、壁には色のついた石片が嵌め込まれていた。
行軍が止まる。
ゴディエが書類を持って前へ出た。
役人は三人。
言葉は共通語だが、耳慣れない抑揚がある。
名前。
人数。
行き先。
積荷。
通行税は金貨三百枚。
ネルマへ入るための税だった。
一つずつ確認されていく。
役人たちは大人数の軍列を前にしても、特に騒がなかった。
旗も、武装も、馬の数も確認する。
ネルマは、東西を結ぶ交易の国だ。
商人も、旅人も、傭兵も、異国の使節も通る。
異なる服を着た者も、異なる言葉を話す者も珍しくない。
よそ者であること自体は、ここでは警戒の理由にならなかった。
通行の許可が下りる。
役人の一人が、フェギスノーラを見た。
珍しいものを見る目だった。
それ以上ではない。
隊列は橋へ進んだ。
馬の蹄が石を叩く音が変わる。
眼下では、大河セシールが広く流れていた。
フェギスノーラが、わずかに首を傾げる。
「……かるい」
エルドウルフが横を見る。
「何が?」
フェギスノーラは答えず、橋の向こうを見た。
馬の蹄が石を叩く音が、一定の間隔で続く。
下にはセシールが流れている。
橋の中央を越えたあたりで、フェギスノーラがもう一度周囲を見た。
風も、水も、人の声もある。
何かが消えたわけではない。
それでも、ずっと身体の外側へ触れていたものが、遠くなっていた。
「……やっぱり、かるい」
「だから、何が?」
フェギスノーラは少し考える。
「……いのり」
エルドウルフの目が動いた。
「少ない?」
「ううん」
フェギスノーラは向こう岸を見る。
「ある。でも、わたしじゃない」
◇◇◇
橋を渡り切る。
そこから先は、ネルマだった。
最初に違ったのは、色だった。
壁には淡い青や緑のタイルが嵌め込まれ、軒先には幾何学模様の布が揺れている。
行き交う者の衣服も、シュバリエやハンサンとは違う。
次に、匂い。
焼いた香辛料。
油。
乾いた果実。
どこか甘い香。
通りには異国の商人が混じり、荷車には見慣れない壺や織物が積まれていた。
それでも、誰も行軍を囲まない。
驚いて立ち止まる者も少ない。
子どもが一人、兵の列を見上げた。
母親に手を引かれ、そのまま市場の中へ消えていく。
フェギスノーラは、その様子を見ていた。
やがて、通りの一角に祈祷所が見えた。
聖教会の聖堂とは形が違う。
尖った屋根も、神像もない。
淡い色の壁と、繰り返し刻まれた模様だけがある。
人々はそこで足を止め、シュバリエとは違う作法で祈っていた。
フェギスノーラの歩みが少し遅くなる。
「……いのってる」
「ああ」
「でも、わたしじゃない」
エルドウルフは祈祷所を見る。
「ここでは、そうだ」
フェギスノーラはしばらく人々を見つめた。
祈りはある。
けれど、それは自分へ向けられたものではない。
「……かるい」
今度は、エルドウルフにも意味が分かった。
◇◇◇
ネルマに渡ってからも、行軍はセシールに沿って南へ進んだ。
街を抜けても、景色はまだネルマのままだった。
道沿いの家々には色のついたタイルが残り、行き交う者の衣も、荷車に積まれた品もシュバリエとは違う。
やがて、前方に長い石橋が見えた。
シュバリエ王国ニカ領へ通じる橋だった。
このあたりのセシールは川幅こそ広いが、流れの中に浅瀬があり、いくつもの中洲が点在している。
大型船を通すには向かない。
一方、中洲を使えば、橋脚を置く場所も確保しやすい。
そして、人が渡りやすい土地は、兵も渡りやすい。
橋の両岸には関所が置かれ、河岸にも見張り台が並んでいた。
槍を持った兵が中洲へ降りる道まで監視している。
隊列が近づくと、先頭が速度を落とした。
ゴディエが王家発行の通行許可証を示す。
役人は封印を確かめ、人数と旗を照合した。
通行税は求められない。
シュバリエ王家の許可を受けた帰還軍だからだ。
橋の向こうを守るニカの兵たちは、すでにこちらへ気づいていた。
旗。
装備。
長い行軍を終えようとしている兵たちの姿。
「……帰還軍だ」
衛兵の一人が小さく言った。
だが、迎えには出てこない。
槍を正し、持ち場を離れず、通過する列へ視線を向けるだけだった。
敬意はある。
労いもある。
それでも、ここで彼らを迎える理由はない。
ニカは今回の同盟軍へ兵を出していない。
王太子の帰還軍であっても、領主の軍ではない。
隊列はそのまま橋へ入った。
馬の蹄が石を打つ。
人と馬と荷車の列が、長い橋の上へ伸びていく。
眼下では、セシールがいくつもの流れに分かれていた。
浅瀬では石の色まで見え、中洲には低い草が揺れている。
その先で流れは再び一つになり、広い水面へ戻っていく。
フェギスノーラは橋の中央で、エルドウルフを仰ぎ見た。
「……戻った?」
「いや」
エルドウルフは前を見たまま答えた。
「まだ、途中だよ」
フェギスノーラは頷いた。
橋を渡り切る。
そこから先は、シュバリエ王国ニカ領だった。
標識の文字も、道の造りも、見慣れたものへ変わる。
それでも、兵たちは足を止めない。
誰も帰ってきたとは言わなかった。
目的地は王都リノン。
行軍は、そのまま街道を進んでいった。
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